立正安国論 @

 御法主日顕上人猊下御講義集

平成十五年度 第一回法華講夏期講習会

(御書234頁〜237頁16行目)


 さて、この主人の言に対して客が第二番目の質問をするのです。ここからが第二問答の始まりで、正に背き災難が起こるということについて経証を示される部分です。 

                 こくちゅう       よ                         みな             らんしつ 
 「客の曰く、天下の災い・国 中の難、余独り嘆くのみに非ず、衆皆悲しめり。 今蘭室に入りて
      ほう し  うけたまわ     しんせい                               いず
 初めて芳詞を 承 るに、神聖去り辞し、災難並び起こるとは何れの経に出でたるや。 其の証

拠を聞かん」
 これはつまり先ほどの主人の「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ・・・」との答えを聞いて客が驚きました。そこで、天下の災いや国中の難は、自分のみでなく、みんなが嘆いておると前置きして次の質問に移ります。

 「今蘭室に入りてはじめて芳詞を承るに」。この「蘭室」というのは『孔子家語』に、「善人と居るは芝蘭(しらん)の室に入るが如し」とあるように、蘭の香りのする清らかな部屋ということで、その部屋の住人であるあなたが立派な方であるということを称える言葉であります。

 今、蘭室に入って初めてあなたの芳(かんば)しい言葉を承ったが、しかしながら神聖が去り辞し、それによって災難が並び起こるということは何れの経文に出ているのでしょうか、その証拠を聞きたいという質問であります。

 これに対し、主人がその経証を示されるのが第二問答における答えです。

               はんた               ぐはく
 「主人の曰く、其の文繁多にして其の証弘博なり
 ここにも「文」と「証」ということが対句になっております。その「文」は非常にたくさん繁くあり、それから「証」とは証拠であり、それが「弘博」である。つまり広く存在しておると言われるのです。

 この「文」と「証」すなわち文証は、皆さん方もご承知のとおり、仏法上の確固たる勝劣判定の基準としての道理・文証・現証の三つのうちのひとつです。この文証が仏法の正理を示す上に大事なことで、これがたくさんあると言われるのです。

 この後に挙げられてくるのが四経の文でありまして、いわゆる金光明経、大集経、仁王経、薬師経ですが、仁王経と大集経の各文はさらに重ねて挙げられ、全体としては七文の形となっております。

 第一が金光明経で、その中の『四天王護国品』の一節を引かれます。 この場所は、お釈迦様が護国のことについてお話になったことに対して、今度は四天王がその御説法を聞いて、自分らが考えたことを仏様に向かって申し上げる、その部分なのです。これは一往、四天王の言葉ですけれども、お釈迦様の言葉を承って、そのとおりであるという意味において、その趣意に基づいて四天王がお釈迦様に護国のことに関して申し上げておりますから、したがってこれはそのまま仏様の御言葉の趣意と拝してよいのであります。

 こんこうみょう             そ                            いえど        かつ                  しゃり 
 「金光明経に云はく其の国土に於て此の経有りと 雖 も未だ曾て流布せしめず、捨離の心
      ちょうもん          ねが       また      そんじゅう さんだん          しぶ        じきょう   にん
 を生じて聴聞せんことを楽はず、亦供養し尊重 し讃歎 せず。 四部の衆、持経の人を見る
   またまた     ないし         あた
 も、亦復尊重し乃至供養すること能はず」
 これは、ここの部分には国王という言葉が見当たらないけれども、要は国王が「此の経」、つまり仏の尊い教えを軽視すること、あるいは侮蔑することが非常に大きな災難につながるということを言っておるのです。

 国王が仏教に対して「捨離の心を生じて」。この場合の「捨離」の「離」は、文字どおり「はなれる」という意味で、捨て去る心を生じてということです。 それで仏教を聴聞しようとも思わない、また供養もしない、尊重もしない、讃歎もしない。

 「四部の衆、持経の人を見るも、亦復尊重し乃至供養すること能はず」。 この「四部の衆」とは、仏教を持つところの比丘・比丘尼と、在家信者の善男・善女を言うわけです。 それを見てもうとましく思って讃歎する気持ちがないということです。

 そういう状態になると、次に、
     われら          けんぞく                         じんじん                                 あじ 
 「遂に我等及び余の眷属、無量の諸天をして此の甚深の妙法を聞くことを得ず、甘露の味は
     
 ひに背き正法の流れを失ひて」
                                         だいじこくてんのう  だいびしゃもんてんのう 
 この「我等」というのは、大聖人様が御本尊様にお示しになっておる大持国天王、大毘沙門天王、
だいこうもくてんのう だいぞうちょうてんのう 
大広目天王、大増 長 天王の四天王であります。 「余の眷属」というのは、その四天王の眷属。

それから「無量の諸天」とは、その他の様々な諸天です。
 結局、この諸天善神が仏教の正しい妙法を聞くことができない、また甘露のごとき最上の勝れた法味を受けることができないために、正法の功徳の流れを滅失する。その結果として、
     および せいりき
 「威光及以勢力有ること無からしむ」
 四天王として国を守るその王の命が、どんどん衰えてその力がなくなってくるというのです。

  あくしゅ   ぞうちょ    にんでん 
 「悪趣を増長し、人天を損滅して」
 「悪趣を増長し」とは、地獄・餓鬼・畜生等の不幸な命が増えてくるということです。 「人」というのは、
 「平らかなる人なり」(御書 647)
ということで安穏でありますから、六道の中の地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣から比べれば、因縁の上からも勝れておるのです。 それから「天」は、さらにその上の清浄な禅定による歓びと安楽の境界であります。

 しかるに守護の善神の衰えにより、そのような功徳がなくなってくるということです。
 次に、
  しょうじ        お            みち  そむ 
 「生死の河に堕ちて涅槃の路に乖かん」
とは、「生死」すなわち、徒(いたずら)に生き徒に死す、正しい目的観がなく救われようのない迷いと堕落の中に落ち込んで、正しい悟りの幸福に至る道に空しく背くようになるというのです。

         しおう          もろもろ           やしゃ      か          じ                           おうご
 「世尊、我等四王並びに 諸 の眷属及び薬又等、斯くの如き事を見て、其の国土を捨てゝ擁護
                ただ          こ          しゃき
 の心無けん。 但我等のみ是の王を捨棄するに非ず、必ず無量の国土を守護する諸大善神有
         ことごとく しゃこ        すで         お 
 らんも皆 悉 く捨去せん。 既に捨離し已はりなば」
 すなわち我ら四天王その他無量の善神も、仏教を信じない国王の治める国に対しては、その国土を捨て去り、助け護る心もなくなってしまうであろう。そうすると、どういうことになるかと言うと、その次に種々の災禍が起こってくるということです。すなわち、
       まさ         さいか              そうしつ 
 「其の国当に種々の災禍有りて国位を喪失すべし」
 この「国位」とは、国王の位という意味で、それを喪失するに至ると言うのです。
 それで次に、
              みな 
 「一切の人衆皆善心無く」
 人々には善い心がなくなって悪いことばかりを考えるようになり、
   けばく   せつがい しんじょう 
 「唯繁縛・殺害・瞋諍のみ有って」
 「繁縛」というのは、人々を召し捕って牢獄へつなぐことです。つまり牢獄へつないで自由を束縛する。 次に「殺害」とは、殺すこと。 「瞋諍」は瞋りによる争いで、そういう地獄のような苦しみだけがあって、
      あい ざんてん
 「互ひに相讒諂して」
 「讒」とは、他人の善を憎んで謗り傷つけること。 それから「諂」は、権力者などの力の強い者に諂(へつら)うことを言うわけであります。 そういう不道徳なことを行っていくことによって、多くの罪のない人が罪を受けるようになる。それが、
  ま      つみ 
 「枉げて辜無きに及ばん」
という文です。これは今の世界にも多く見られます。日本のような法治国家でも往々にしてあることです。

 この間のイラクという国では、本当にこのようなひどい姿があったようです。 これは皆さん方も、新聞紙上等でよくご存じと思いますが、為政者が間違ってくると、こういうことが起こってくるのです。

  
 「疫病流行し」
 これは人災に属します。
 そして次の、
     しばしば                        はくしょく つね     こくびゃく  に こう ふ しょう
 「彗星 数 出で、両の日並び現じ、薄 蝕 恒無く、黒白の二虹不祥の相を表はし、星流れ」
というところまでが天変になります。
 それから、
 
 「地動き、井の内に声を発し」
 これが地夭。
 
 「暴雨悪風時節に依らず」
また、これは天変になる。そして、
     ききん    あ     みょうじつ みの     
 「常に飢饉に遭ひて 苗 実成らず」
 これは、また地夭であります。
         おんぞく             しんりょう           もろもろ                            しょらく  ところ 
 「多く他方の怨賊有りて国内を侵掠せば、人民 諸 の苦悩を受けて、土地として所楽の処有

 ること無けん已上
 つまり他方の怨賊が侵掠して、国内を攻めるということです。
 これが先ほども言いましたように、『立正安国論』の、自界叛逆・他国侵逼の二難の両方を示しておるわけです。 これは第九番目の問答の答えのところに、このことがもう一辺はっきりと述べられております。

 そして、民衆の生活において苦しみが充満し、楽しい場所は少しもなくなってしまうという苦難を述べております。
 
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 次に、第二の文証として大集経を挙げられます。
                じつ  おんもつ    しゅほっそう                 もうしつ 
 「大集経に云はく仏法実に隠没せば鬚髪爪皆長く、諸法も亦忘失せん」
 この「大集経」は、大集月蔵経という経典で、これはその第十巻『法滅尽品』の偈の文で、仏の言葉であります。
 「仏法実に隠没せば」、つまり仏法の心が廃れてしまうと、僧侶の「鬚髪爪」、すなわち「ひげ」とか「かみ」と「つめ」でありますが、それが皆長くなるというのです。

 つまりこれは仏法は護るところの僧侶について、僧侶は本来、髪や髭、爪等は短くなければならないのだけれども、それが長くなるということです。
 今、他宗の僧侶の中には、髪の毛を長くしているのがいますね。あれはやはり仏法本来の僧侶の姿ではないということであります。

 したがって、あらゆる法、正しい仏法が忘れられてしまうということです。

           こ くう        おお                                 あまね               すいじょうりん 
 「時に当たって虚空の中に大いなる声ありて地を震ひ、一切皆 遍 く動ぜんこと猶水 上 輪の如くならん」
 この「時に当たって」以下は、仏法隠没によるところの災難の相を示すわけです。

              おく う     ひ しゃく                                  つ 
 「城壁破れ落ち下り屋宇悉くa 拆 し、樹林の根・枝・葉・華葉・果・薬尽きん」

 これは、ありとあらゆる天地の災難であります。 これを三世にわたるグローバルな形で見ていくと、今、世界の中には、かつてはそこに立派な都市や国があって大勢の人民がいたけれども、今は何もなくなってしまっているという所がたくさんあるのです。これはやはりその時代時代において、種々の因縁によって民族や国家がどんどんと滅んでいく姿であります。
 ですからこの御文は、そういう一つの姿から見て、三世を達観する上からの仏様の御言葉と拝していただければ結構だと思います。
 そのような形でまず災難が起こってくると、それによって国土が滅亡していくいろいろな形が現れてくるのであります。

    じょう ご てん                                 しょう け                                  げ だつ 
 「唯 浄 居天を除きて欲界一切処の七味・三 精 気損減して、余り有ること無けん。解脱の諸
    とき
の善論時に当たって一切尽きん」
 
 「浄居天」というのは、欲界・色界・無色界の三界の天があるのですが、その色界の天が十
                   ご な ごんてん
八天あるうちの、上部に位する五那含天のことであります。これは非常に勝れた境界の天であ
      む ぼん  む ねつ  ぜんけん  ぜんげん  しき くきょう
りまして、無煩天、無熱天、善見天、善現天、色究竟天という五つの天であります。
 この浄居天は雲上の高所に在って、大地を遠く離れる故に、ここの所までは地上の災いが及ばないのですが、それより下の天は、やはりいろいろな意味の災いが及んでいくということであります。特に欲界である我々の社会などは、大変な災いが現れてくるのであります。
                              しおから 
 そこで、「七味」すなわち甘い、辛い、酢い、苦い、 鹹 い、渋い、淡いも損減し、そして「三精気」すなわち大地精気、衆生精気、正法精気という三つの精気が損減してしまうということです。

 それから「解脱の諸の善論」といって、いわゆるいろいろな正しい善い論がなくなってくるということであります。
 現今も本当に、本質的な意味の善い論は少ないと思います。大きな本屋へ行くと、どうしてこんなに本があるのかと思うくらいたくさんの本が並んでありますね。いろいろと善いことも書いてあるのだけれども、結局、仏法の上からは次元の低い内容と思われます。

 仏教で言う善悪の深さという意味からの内容のものを説いてあるものは、ほとんどありません。善悪を論じてはいるのだけれども、低い次元で論じているから結局、本当に徹底していないということを、つくづく感じるのであります。

 そういう意味では、とにかく善論はなくなってきているという意味があります。

                        きしょう         うま           しょう   せいせんち         こかつ 
 「生ずる所の華菓の味はひ希少にして亦美からず。 諸有の井泉地一切尽く枯涸し、
       かんろ     てきれつ    くけん
 土地悉く鹹鹵し、剔裂して丘モニならん」
 これは、やはり災難の相であります。先ほども言ったように、昔、盛んであった王国のような所、大勢の人民が楽しんで生活していたような所が、今は砂漠になってしまったという例はあちらこちらにあるのです。

 このようになった経過というのを考えてみれば、その始めに「諸有の井泉地一切尽く枯涸し、土地悉く鹹鹵し、剔裂して丘モニ成らん」、つまり土地が乾燥しきって、そこに谷が出来、丘が出来、様々な土地が割れてくるというような形が出てくるということです。

     みな しょうねん                くだ 
 「諸山皆 E 燃して天竜も雨を降さず」
 これは、「噴火」であります。今、日本も富士山の噴火とか、東海大地震とかが盛んに言われておるけれども、少しも出てこない。やはりこれは御戒壇様の大功徳であります。私はそう思っています。他の所では地震が起きているけれども、この辺は大丈夫なんです。来年だ、再来年だなんて言っている人もいるようだけれども、今のところ、とにかくないようですね。

 すなわち、仏法の存在がやはり大きな功徳を生じておることが考えられるのです。


 みょうけ みな か   し                 か   つ      よそう                    ふ       こんあん
 「苗稼皆枯れ死し、生ずる者皆死れ尽くして余草更に生ぜず。土を雨らし皆昏闇にして日月も
 みょう                   こうかん   しばしば もろもろ                    ごうどう   とんじんち
 明を現ぜず。四方皆亢早し、 数 諸 の悪瑞を現じ、十不善業道・貪瞋癡倍増して、衆生の父母に
                        しょう ろく 
 於ける、之を観ること F 鹿の如くならん」
 この「諸の悪瑞を現じ」というところまでは、今も言ったような様々な形の天変地夭、その他のあらゆる災難が起こってきておるということを述べる経文です。

 その後の「十不善業道」以下の文は、衆生の悪道が増して悪法を感ずる姿を述べられるのです。すなわち衆生の生活において「十不善業道」と「貪瞋癡」が倍増する相が示されています。
                               
                               せっしょう  ちゅうとう   じゃいん 
 この「十不善業道」というのは、身に三つの悪で、 殺生、 偸盗、 邪淫。 それから口に四つ
        もう ご    き ご   あっ く   りょうぜつ                            とんよく   しん に   ぐ ち
の悪、これは妄語、 綺語、 悪口、 両舌。 それから意に三つの悪で、貧欲、 瞋恚、 愚癡であり
ます。

 「貧欲」とは貪りで、貪り過ぎるとやはりいろいろなことにおいてよくないですね。世の中には食物を貪る人がかなりいますね。 皆さん方は大丈夫でしょうけれども、食べ物を貪り過ぎると、必ず身体を悪くするか、無闇に太ってしまうことになります。 あんまり太ると健康によくないのです。 その他、眼、耳、舌、身、意の六根についていろいろな貪りがありますが、必ず悪い報いがくるのです。

 それから「瞋恚」は瞋りです。 この瞋りがとく他人から、広くは国と国との殺人や戦争を引き起こします。

 それから「愚癡」。愚癡は因縁の道理が判らないから嘆くわけです。 因縁の道理が判らない、「どうしてこんなことになるのだろう」というのは、みんな愚癡なのです。「どうして自分にこんな災難がくるんだ」と思うけれども、よく考えてみると、これはやはりある深い因縁のもとに、私にはそのような原因があったということに思い至ります。

 因縁ということが判ってくれば、愚癡がなくなってくるのです。ですから仏教では愚癡を言う人には、因縁というものを観ぜさせよと示してあります。 物事には原因と結果があり、また因と縁によって必ずあらゆるものが出てきているということを教えてあげれば、わけが判らずに悩み苦しむことはなくなるのです。

 この「十不善業道」、すなわち十の不善の業として、殺生、偸盗、邪淫、悪口、両舌、妄語、綺語、貪、瞋、癡、があると、死んだ後、再び生れてくるときに、それぞれについて二つの報いを受けると言われています。

 まず「殺生」というのは、生き物を殺すことです。 特に人を殺す罪は重く、前世に人を殺した罪があると、これは今世において短命の果報と、それから病気が多いという果報を受けるのです。 ですから、今世に非常に病気の多い人は、前世に殺生の罪があるはずだということを観じ、罪障を消滅する心を持つことがいいのです。 それがやはり因縁を観ずることなのです。 しかしその罪障も、妙法を唱えることによって大きな功徳を得て消滅することができるのです。

 次の「偸盗」というのは盗むことであります。 この偸盗の今世における二報は、貧窮、貧乏になること。それから、しょっちゅう財を失う、人から騙されたりするのです。

 「邪淫」は、今世において、一に妻が不貞である。 あるいは夫が不貞である。 それから二に眷属が不良であるというのが二報であります。

 次は「妄語」の二報は、人から誹謗をされ、また人から誑惑(おうわく)される。誑(たぶら)かされるということです。

 「悪口」の二報は、常に自分に対して悪声を聞き、あるいはいろいろな争訟を起こされるという果報です。

 次に「両舌」の二報は、眷属が背いていくということ。それから友人に背かれるというような在り方を受けるのです。

 それから「綺語」の二報は、一に人から信用されないこと。 二に言葉が不明瞭であるということです。 話をしていて何を言っているのか判らない人がおりますね。 けれども、これも御題目を唱えて罪障が消滅すれば治っていきます。

 それから「貧欲」の二報は、足ることを知らない貪りの命になる。 それから欲が深いということです。

 「瞋恚」の二報は、人から短所を伺われ、また人から殺害されるということがあるのです。

 「愚癡」の二報は、邪見を持つ命と生れる。それから愚かな家に生まれて、頭脳が薄弱であるというような意味があります。

 この十不善業道が増えていくということが、その人にとっても、社会にとっても、社会にとっても非常に不幸なことであります。

 そこで衆生の善業が減少した結果、「衆生の父母に於ける、之を観ることF鹿の如くならん」という状態となる。 この「F鹿」というのは、小さな鹿のことでありまして、この鹿は危険を感ずると親を捨て、自分だけ逃げてしまう。 つまりこのように衆生が親のことを少しも構わない、自分のことしか考えず、親の恩も忘れておるというような、不道徳の世になるということです。

           しきりき いらく げん 
 「衆生及び寿命色力威楽減じ」
 すなわち衆生の肉体の力、精神の力、それから寿命や人としての果報によるところの威光とか、快楽とかというようなものが失われてくるのであります。

         おん り
 「人天の楽を遠離し、皆悉く悪道に堕せん」
 これは、人と天の衆生のそれぞれの果報による安楽な状態から遠く離れ、地獄、餓鬼、畜生等の苦しみの中に堕ちるということになるとあります。

ここまでが衆生の悪業です。

次に
        ふぜんごう                       しょうぼう  き え           どう
 「是の如き不善業の悪王・悪比丘、我が正法を毀壊し、天人の道を損減し、諸天善神・王
            ひみん             じょくあく
 の衆生を悲愍する者、此の濁悪の国を棄てゝ皆悉く余方に向かはん已上
 これは、仏法の滅することによって善神が国を捨て、その結果において、亡国となっていくという因果の道をここに示されております。

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次に、
  にんのう 
 「仁王経に云はく」
 これは仁王経の『護国品』であります。

      みだ          ま
 「『国土乱れん時は先づ鬼神乱る。 鬼神乱るゝが故に万民乱る」
 国土が乱れるときはその原因としてまず、前に鬼神が乱れるのであり、さらにこの鬼神の乱れる原因は、先ほどもきちんとおっしゃっておるわけです。

 つまり国家が乱れるときには、その国土に住する善神がいなくなるから、したがってその後へ魔鬼が入ってくるのです。この鬼神は、世の中を乱すことをもって命としているわけですから、その鬼神が乱れ、怪しい活動をする故に、今度は多くの人々の心が非常に人倫を離れた、殺人や争いを好む怪しい心になっていくということなのです。

 つまり人の心が様々なことで無責任であったり、自分さえよければいいとか、あるいは無気力であって何もやる気がないとか、あるいは人を騙すとか、様々な悪いことをしていくというような、そういう怪しい心、曲がった心になっていくのが、すべて鬼神の仕業であると言えるのです。

            おびや    ひゃくせい もうしつ 
 「賊来たりて国を劫かし、百 姓亡喪し、臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん」
 そのような衆生の果報があると、今度はそこに賊が来てさらに禍を増し、上より下までの人々が互いに是非の争いを起こして世が乱れるというのであります。

     け い          しゅく せいどう      とき
 「天地怪異し二十八宿・星道・日月時を失ひ度を失ひ、多く賊の起こること有らんと」
 これは、人間の社会国家の乱れの上に、さらに天変地夭が起こることを言うのです。
 「二十八宿」というのは、古来インドにおいて存在した天文学上の分類、天のそれぞれ四方における星を言うのであります。 つまり東西南北の四方にそれぞれ七つずつ星がありますから二十八宿と言います。

       かく  こう  てい ぼう  しん  び  き 
 まず東に、角、亢、A、房、心、尾、箕という七つの星がある。これも一つの星ではなく星団 
 なんですね。固まった形の上からの星の位置をもって言うわけであります。
           けい  ろう ぼう ぼう  ひつ  し  さん 
 それから、西に、奎、婁、冐、昴、畢、觜、参という七つの星がある。この四番目の「昴」は
「すばる」と言います。 この昴ということを最近よく耳にしますね。
          せい  き  りゅう せい ちょう よく  しん                  と  ぎゅう にょ 
 それから南が、井、鬼、柳、星、張、翼、軫の七つの星。それから北が、斗、牛、女、
 こ  き  しつ へき
虚、危、室、壁の七つの星で、これを合わせると二十八宿になります。
 それらも皆、仏法の壊乱によって法界の調和が狂い、星道が乱れてくるということを意味します。

    
 「亦云はく」
 これも同じく仁王経の文で、その中の『受持品』であります。
 先ほどの『護国品』も『受持品』も共に、当時、釈尊を信奉して教えを受けた舎衛城(しゃえじょう)の波斯匿王(はしのくおう)という王様に対しての説法です。

つまり国王に対しての教誡ですから、国を本当に正しく幸せにしていくためには、どういうことを考えなければならないかということを述べておるのが仁王経のこの品であります。

     いま                                                                               つか
 我今五眼をもって明らかに三世を見るに、一切の国王は皆過去の世に五百の仏に侍へし
     よ                 な                       もっ              らかん しか  ため                   らい
 に由って帝王の主と為ることを得たり。是を為て一切の聖人羅漢而も為に彼の国土の中に来
 しょう        り やく 
 生して大利益を作さん」
 国王になるには、非常に大きな徳を過去において積んでおると示されています。 特に仏法の眼から見れば、仏道における徳を積んでおるのであります。それによって帝王となることができた。したがって、帝王のその徳によって多くの善神・聖人がその国に集まって国王を助け、その国を盛んにしていくという態勢が出てくるのです。

                          しゃこ  せ
 「若し王の福尽きん時は一切の聖人皆捨去為ん」
 しかしながら、王が功徳を積まずに悪事をなして、その福が尽きるときは、一切の聖人がその国を捨て去ってしまうことになるのです。

                          
 「若し一切の聖人去らん時は七難必ず起こらん已上」
 このときには、必ず七難が起こるのであるという因縁と、その果報が説かれております。
 ここに「七難」とあるこの文を受けて、この次に薬師経が挙げられ、その後にまた仁王経が出てきます。これらの経文は全部、七難の具体相を示されておるのです。

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  次の、
  
 「薬師経に云はく」
 この薬師経の文は、七難をごく簡潔にまとめており、そういう意味でまずここに挙げられておると思います。

 これは救脱菩薩という人が、やはり仏様の教えを受けてそれを聞き、そしてこれを述べたのであり、したがってその趣意は、やはり仏の言葉として拝していいのであります。

   も   せっていり  かんじょうおう                       
 若し刹帝利・灌 頂 王等の災難起こらん時」
 この「刹帝利」は、インド四姓のうちの第二番目の王族を言います。
 「灌頂王」というのは国王のことであります。「灌頂」というのは、インドにおける古代からの習慣として、」国王即位のときに四大海の水を持ってきて、それを頂、すなわち頭に注ぐという儀式のことです。「灌」は「注ぐ」という意ですから、それで灌頂と言います。

 その王について災難が起こるときは、どういう難が起こるかと言うと、
     にんじゅしつえき  
 「所謂人衆疾疫の難」
 これは疫病の難で、流行病とその蔓延です。
 次に、
  た こくしんぴつ      じ かいほんぎゃく                       
 「他国侵逼の難・自界叛 逆 の難」
と、ここに二つの兵乱が挙げられています。これが種々の経文をずっと引かれるところの眼目の難です。つまり日本がこのように正に背く故に、種々の災難が起こっておるならば、今後必ず「他国侵逼」と「自界叛逆」の難も起こるという意味であります。またそれが現実に、文永九(1272)年より交々起こってきたわけです。
 これはまた最後のところにも、このことを述べられております。

 それから、
  せいしゅくへんげ        にちがつはくしょく                       
 「星 宿 変化の難・日月薄 蝕 の難」
 これらは天変であります。

                        
 「非時風雨の難・過時不雨の難あらん已上」
 これも天変による地上の災難が含まれております。この経文は、こういう七難の相を示されているのです。

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次に、
                    
 仁王経に云はく
 これは前のところと同じ『受持品』です。前のところに七難が起こると言われた文を受けて、今度は具体的にその相を挙げられておるのです。

          いま                   しゅ み                               し てん げ           なんえん
 大王、吾が今化する所の百億の須弥、百億の日月、一々に須弥に四天下有り、其の南閻
 ぶ だい                             じっせん                                     おそ
 浮提に十六の大国・五百の中国・十千の小国有り。其の国土の中に七つの畏るべき難有り、
               な             い か 
 一切の国王是を難と為すが故に。云何なるを難と為す」
 ここからが、七難を一つずつ挙げられておる文であります。
 この「百億の須弥」以下は、仏法におけるところの広大な世界観を述べるわけですが、仏法をよく拝してみると、望遠鏡もないのに、よく法界全体、何百万光年の向こうというようなところの実相までをも、よく見ておると思いますね。やはりそういうところに一切の世界があるということを『寿量品』の五百塵点劫の御法門でも拝感できます。

 その「一々の須弥に四天下有り」、そういうことが全部、共通して存在しておるという意味です。
 そして具体的に言えば、この我々の住んでおるところは「南閻浮提」であります。

                        きょう さ ら     しゃ え    ま か だ    は ら な    か び ら え
 「十六の大国」。これは当時インドに、 C 薩羅国・舎衛国・摩竭陀国・波羅奈国・迦毘羅衛
    く し な
 国・鳩尸那国等、その他たくさんの国がありましたが、それが十六あったことを言うわけです。
 さらに細分すれば「五百の中国・十千の小国」等があったのです。その世界の中に七つの畏るべき難があるという誡めです。

 その第一の難は、
     ど             はんぎゃく       しゃくじつ                                ひ い
 「日月度を失ひ時節反逆し、或は 赤 日出で、黒日出で、二三四五の日出で、或は日蝕して
 
 光無く、或は日輪一重二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり」
 これは、日月が運行の度を失う難であり、天変であります。
 
                                           ちょうせい なんじゅ  ほくと  ごちん
 「二十八宿度を失ひ、金星・彗星・輪生・鬼星・火星・水星・風星・G星・南斗・北斗・五鎮の
                                    おのおの へんげん
 大星・一切の国主星・三公星・百官星、是くの如き諸星各々変現するを二の難と為すなり」
 これは、星宿変怪の難であります。はじめの「金星」、これは判りますね。明けの明星で有名な太白星です。次の「彗星」は「ほうき星」で、大聖人様の当時には、、大変大きなものが現れたのです。現在では「ほうき星」と言うけれども、ずいぶん遠くのほうで出ることが多いようですから、大望遠鏡で見てようやく見えるようなものばかりで、我々の肉眼で見えるようなものはあまり現れてきませんね。ですから、やはり因縁果報の姿の上から様々な天の姿も現れてくるわけであります。

 それから「輪生」というのは「土星」のことです。それから「鬼星」というのは、二十八宿の中の南方七宿の一つを言うのです。それから「火星」「水星」はご承知のとおりです。「風星」というのは、二十八宿の中のもう一つの箕星です。これは風を好む星と言われております。「G星」、これはちょっと難しい意味があるので省略しましょう。「南斗」「北斗」は七星のことであり、「斗」は「ます」ということで、柄をつけた升に似ていることからこのように言われます。「五鎮の大星」というのは、木火土金水等の星であります。「一切の国主星」、これは北斗の北にある星で、天帝の住所と言います。『天文志』という書に、

「紫宮垣十五星、其の西蕃七つ、東蕃八つ、北斗の北にあり」
とあり、その中心が北極星で動かざる故に天子の座と言われます。

 次に「三公星」の「三公」とは、昔中国の周の時代の官職で、最高の位たる大師、太傅、太保のごとき像を造るというような意味で、そのような形において星が存在しておるということです。それから「百官星」というのは、たくさんの官職を司る星という意味であります。

 「是くの如き諸星各々変現するをニの難と為すなり」天体すなわち宇宙法界は、やはり地水火風空のうちの「空」の中に存在しておるわけですから、その中に様々な現象として現れてくるのです。この「空」はやはり地水火風と密接な関係がある。むしろ地水火風の四つは「空」によって現れてきているわけであります。

 「空」の中の様々な変幻の姿は、今盛んに天文学や原子物理学、その他のところでも研究しているようですけれども、人智が未だ到達しきれない様々な不思議な現象が存在します。この無限な時間と空間における現象の中の変化として、仏様が仏智をもって御覧になった意味で、天変地夭をこのようにお示しになっておるということであります。

  たいか              しょうじん                                      じんか
 「大火国を焼き万姓焼尽せん、或は鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん。
        へんげ
 是くの如く変怪するを三の難と為すなり」
 これは大火が起こって国を焼き、多くの人々が焼け尽きるというような形で、その中に様々な悪火の現象のあることをお示しであります。

 次が、水の難です。
         ひょうもつ                                      とうじ         へきれき           ひょうそう
 「大水百姓を没し、時節返逆して冬雨ふり、夏雪ふり、冬時に雷電霹Hし、六月に 氷 霜
 ばく  ふ      しゃくすい         しょう すい             せん   しゃくせん         しゃ  りゃく しゃく
 雹を雨らし、赤 水 ・黒水・ 青 水を雨らし、土山・ 石 山を雨らし、沙・礫・石を雨らす。
    さか   
 江河逆しまに流れ、山を浮かべ石を流す。是くの如く変ずる時を四の難と為すなり」
 これら暴水がいろいろな形において、その時々に起こり、多くの災害を起こすことは、皆さん方もよくご存じであると思います。
 「江河逆しまに流れ」というように、川が逆さまに流れるということもあるのです。昔、津波によって海水が逆流し、その結果、水が引いたら山の上に舟が乗っかっていたことなどもありました。また、アマゾン川が一年に一度くらい逆流するのは、一つの自然現象ですけれども、要するに様々な水の難があることを広大な眼識で説明されているのです。

                                めつもつ    ひ じ
 「大風万姓を吹き殺し、国土山河樹木一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風
 
 ・地風・火風・水風あらん、是くの如く変ずるを五の難と為すなり」
 これは風の難で、これも台風や竜巻、大火災による火風等、ありとあらゆる形で現れております。

        こうよう         どうねん          こうかん        みの           かくねん
 「天地国土亢陽し、炎火洞燃として百草亢早し、五穀登らず、土地赫燃して万姓滅尽せん。
 
 是くの如く変ずる時を六の難と為すなり」
 これは地の難です。地が亢陽して、火がどこまでも燃え盛るという姿。今日の地球上にも様々な原因により、地域が恐ろしい変化を起こすことが広く観ぜられます。日照りになって五穀実らなくなるというようなこともあります。
 要するに、地水火風空の五大の変化から見るとき、星宿変化、日月薄蝕等の難は、「空」の中の難と言えます。その次が、火の難、水の難、風の難、それから地の難と、すなわち地水火風空の難であることが判ります。

 宇宙や世界も地水火風空で成立し、その中での調和が破られると、かかる災難が続出するのです。しかしまた、皆さん方の命も、地水火風空によって成り立っているのです。つまり「火」は我々の体温で、体温がなければ死んでしまう。次に、皆さん方が呼吸している空気の出入りは、つまり「風」です。そして「水」は血液です。それから骨や肉体は「地」なのです。すべて地水火風空の因縁が和合してあらゆる万象があり、我々が存在しているのです。

 このように、我々の存在は法界全体の地水火風空と密接な関連があることを知らねばなりません。故に衆生の因縁と国土の因縁は、身土不二の原則により、その善悪の果報にはっきり現れるのであります。

        
 「四方の賊来たりて国を侵し、内外の賊起こり、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて百姓荒乱し、
 とうひょう こうき                   け          しち
 刀 兵 劫起せん。是くの如く怪する時を七の難と為すなりと」
 これが最後の賊の難であります。この「四方の賊来たりて国を侵し」ということは、大聖人様がこの『安国論』の最後のところで、自界叛逆、他国侵逼の二難の必ず来たるべきをお示しになっております。

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次が、水の難です。
             も                む りょうせ         せ かい え
 大集経に云はく『若し国王有りて、無 量 世に於て施戒慧を修すとも、我が法の滅せんを
        おう ご                     う                              めっしつ            まさ
 見て捨てゝ擁護せずんば、是の如く種うる所の無量の善根悉く皆滅失して、其の国当に
 
 三つの不祥の事有るべし」
 これは大集経の『虚空目分護法品』の文です。皆さん方は、摩竭陀国の頻婆娑羅王という人の名は聞いたことがあるでしょう。この人は阿闍世王の父ですが、提婆達多に賺された息子の阿闍世王に幽閉されて殺されてしまうのです。この方は生前、非常に仏法に帰依した方でありまして、この大集経の文は、その頻婆娑羅王に対する説法なのです。

 ですから、やはり国王としての心構えを述べられております。「若し国王有りて、無量世に於て施戒慧を修すとも」、どんなに仏法を信じていても、その法の滅せんを見て擁護しなければ、かくのごとく種えるところの無量の善根も皆ことごとく滅失して、三つの不祥の事が起こってくるということです。

      こっき           ひょうかく 
 「一には穀貴、ニには兵革、三には疫病なり」
 一の「穀貴」とは、食物や物価が騰貴して、民衆が経済的に大いに苦しむことです。今の日本社会も、形は変わっても経済の混乱による人々の不安と苦しみは同じであります。
 次の「兵革」とは、戦いが起こるということで、これはこの後にもお示しになっておられます。
 三の「疫病」とは、あらゆる流行病、伝染病から、得たいの知れない種々の病ですが、すべて衆生の悪業によるのです。

                しゃり                           ずいじゅう
 「一切の善神悉く之を捨離せば、其の王教令すとも人随 従 せず」
 善神が国土より離れれば、国王の命令に対して民衆が随従しないという結果になる。そこで、

            しんにょう
 「常に隣国の為に侵 I せられん」
 内憂が外冦に発展して、他国より侵し乱されるということになるのです。

  ぼうか よこ
 「暴火横しまに起こり、悪風雨多く、暴水増長して」
 つまり暴火がほしいままに起こり、風や雨が暴れ狂うこと。これは前にも述べてきたような災難であります。こうして、

      すいひょう       ないげ                  む ほん
 「人民を水 せば、内外の親戚其れ共に謀叛せん」
と。風水が人民を漂わせるような災難に加えて、今度はまた内外の親戚が共に謀叛をして、国土に災禍を及ぼすということで、つまり自界叛逆の難であります。

                                あ     じゅじゅう
 「其の王久しからずして当に重病に遇ひ、寿 終 の後大地獄の中に生ずべし」
 この文に至って現当二世という意味が述べられておるのです。「現」は現在、この世のことであり、「当」は、死んだ後の未来のことなのです。

 皆さん方も何れ死なねばなりません。そこで、死んだ後に地獄へ行くか、餓鬼へ行くか、畜生として生れるか。あるいは天人に成るのか、仏の境界に常に住するのか。つまり「現当」の「当」の問題こそ大切なのです。それをここで、その王に対する戒めとして「其の王久しからずして当に重病に遇ひ、寿終の後大地獄の中に生ずべし」、すなわち悪業によって地獄に堕ちるという果報が述べられているのです。

それと同時に、

            ぶじん                     ちゅうし       さいかん  またまた
 「乃至王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡守・宰官も亦復是くの如くならん已上」
 付き従っておる家来、手下等も、すべてが同じように地獄に堕ちるということです。すなわち一連托生で因縁が同じ場合、その強きに牽かれて、すべてが同じ結果を生ずるのであります。

 以上、四経の文を七つにわたって挙げられてきましたが、その結論の部分が次の御文です
 それ       もん あき               たれ
 「夫四経の文朗らかなり、万人誰か疑はん」
 このような、明らかにはっきりとした文証をもって考えるとき、仏法を擁護しない、あるいは仏法に背くという形から様々な災難が起こってくるということは疑いないことであるということをここにお示しであります。

       もうこ                   みだ    じゃせつ        しょうきょう   わきま
 「而るに盲瞽の輩、迷惑の人、妄りに邪説を信じて正 教 を 弁 へず」
 「盲瞽」というのは、「盲」も「瞽」も目の不自由な人という意味で、ここでは物事の筋道・道理が判らない人。それから「迷惑」というのは、煩悩の惑に迷う人です。この人々が、浅はかにも邪な説をそのまま信じており、したがって正しい教えを全く知らないでいるとの指摘です。

 この段階では、まだ邪説が何であるかということは、はっきりとおっしゃっていません。けれども一往、ここで「邪説」とはっきり言われる理由があり、これは問答が進むにしたがって明らかとなります。

 その邪説を信じることが誤りであるにもかかわらず、空しく「邪」を取って「正」を捨てておるということを仰せられるのです。

         せじょう     しゅきょう           しゃり              おうご   こころざし
 「故に天下世上諸仏衆 経 に於て、捨離の心を生じて擁護の 志 無し」
 「天下世上」とは、世の中の多くの人々ということ。それから「諸仏衆経」は、尊い諸仏とその述べたところの正しい様々な教えということです。つまり多くの大乗経典の中には、権実相対の上から方便に属しても、やはり勝れた教えがたくさんある。ここに挙げられておる仁王経、大集経、金光明経、薬師経等もそれに当たります。

 要するに、これらを説かれた仏や、その教法に対して、捨離の心、捨て去る心を生じて、これを擁護する心がないと指摘されるのです。

 この段階では、広く小乗に対する大乗の広範な教えを一往、正法として述べられております。この諸仏衆経に対して擁護の志がないために、次の、

  よ           しょうにん     
 「仍って善神聖人国を捨て所を去る」
 ということになるのであります。この善神・聖人が国を捨てることによって、さらに次に、

  ここ                  さい            いた
 「是を以て悪鬼外道災を成し難を致すなり」
と仰せのごとく、悪鬼外道による災いが起こると示されております。
 「悪鬼」というのは幽界の命とも言えます。目に見えるものしか信じない人も多いけれども、世の中の存在には、目に見えない種々の界があるのです。すなわち別在の十界を信ずべきであり、そこには地獄界も餓鬼界もあり、あらゆる悪霊も存するのです。

 例えば、通力のある人は、山の中の稲荷の後などを歩くと、そこに長い間住んでいた狐の魂などを感ずることがあるのです。

 この種々の実例はあえて述べませんが、幽界というものはあるのです。幽界の中には、様々な悪鬼・悪魔もいるわけで、そういう悪鬼・外道が来たって災いを起こし、難を起こすのであると仰せであります。

 ここをもって、今日拝読したところの御文の説明を終わる次第です。この後は、また客がこの言葉を受けてさらに疑問を生じて、次の問答が開かれてくるのであります。


 さて、今日拝読した最後のところに「邪説を信じて正教を弁へず」という文がありますが、この「正教」とは一体何かと言うと、最初に申し上げましたように、これは権実相対・本迹相対・種脱相対の三重秘伝による上からの、大聖人様が不自借身命の御振る舞いをもって御弘通あそばされた三大秘法であります。この三大秘法でなければ、この末法の現代において本当の意味で一切衆生の心身を正しくし、仏性を現すことはできないのです。

 今、本屋などに行けば、様々な宗教、哲学、道徳において、善悪のことやいろいろな考え方を書いた本がたくさんありますが、要は法界の全体を含む大聖人様の広大な教えのうちのほんの一部分が説いてあるに過ぎません。

 結局のところは、大聖人様が命をかけてお顕しになった本門の三大秘法を本当に真剣に受持するところに、はじめて国家も社会も個人も御本仏大聖人様の正しい教えの功徳により、根本的な立正安国の道がはっきりと現れてくることを確信するものであります。

 さらに『安国論』の最後には、

 「唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ」(御書 250)

という御文があります。自分が正しい信心をするのみでなく、他の誤りをも誡めて共々に、他をも救っていかなければなりません。それをいたしてまいりますということが、この『安国論』の最後のの結論であります。

 今、宗門においては「『立正安国論』正義顕揚七百五十年」に向かって進んでおりますが、我々僧俗が共に御題目をしっかり唱えると同時に自行化他に精進していく、そこに大事な自他を救う道があるということを申し上げまして、本日の講義を終わる次第であります。

 大変、ご苦労様でした。
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