モーやんの回歓録
黄金のマワシ第1号・輪島との思い出
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揺れに揺れた大相撲名古屋場所は横綱・白鵬が史上初の3場所連続15戦全勝優勝。優勝回数も尊敬する元横綱輪島の14を抜き15回とし、連勝記録も史上3位の47に伸ばした。表彰式では天皇賜杯の授与が野球賭博の余波で見送られたことに「もらえるものをもらえないのはつらい。力士は賜杯をいただくことを目標に頑張っているのに、こんなに悲しいことはない」と人目もはばからず大粒の涙を流した。
そんな白鵬にうれしい知らせが届いた。3日、天皇陛下からねぎらいとお祝いを伝える書簡をいただいたのだ。陛下は「困難な状況にありながら、連日精励奮闘して幕内全勝優勝を果たしたのみならず、大鵬関を超え、歴代3位の連勝記録を達成した」と讃え「今後とも元気に活躍するよう願っている」と激励した。白鵬は「これ以上のものはありません。心から喜んでいます。光栄でございます」と感謝のコメント。千代の富士の53、双葉山の69連勝への挑戦に向け最高のプレゼントになるだろう。
秋場所では、決意も新たに秋場所は封印した黄金のマワシで土俵に上がることだろう。そこで黄金のマワシ第1号の輪島のことである。日大在学中の1970年(昭和45年)初場所、幕下付け出しで初土俵を踏んだ輪島は3年後の73年(同48年)春場所後に学生出身として初めて綱を締めた。左下手を引いての強烈な投げと、黄金のマワシをもじって“黄金の左”と称せられ北の湖とともに輪湖時代を築いた。
私が相撲担当になった時、彼はすでに横綱。新人記者には雲に上の存在だったが、年齢が近いこともあってか気が合った。朝稽古の取材に行けば「ちゃんこを食っていけ」と、一緒に鍋を囲み与太話で盛り上がった。原稿がなくて困っていると、他社の記者が引き揚げるのを待って「ちょっとこっちに来い」と私とカメラマンを連れて部屋の前の道路に出て、何をするのかと思いきや、竹箒でイチョウの落ち葉を掃きながら「オレも年かなあ。相撲に粘りがなくなったよ」と独りごちたあと「“輪島引退か。行く秋を知る”。どうだ。これで写真も記事もバッチリだろう」。ニヤリと笑って見せたりもした。
忘れられないのは最後の土俵となった1981年(昭和56年)の大阪場所直前の出来事だ。綱を張って9年目。33歳にもかかわらず重圧から精神的、肉体的にも限界に達していたのだろう。稽古を終え、お茶を飲もうということになり、近くの喫茶店に入ると、いつもは冗談が先にたつ男がマジ顔で「今場所だめだったら引退を覚悟している」と衝撃発言。
続けて「そこで頼みがあるんだ。後援者や知り合いに今の心境を伝えたんだが、100人を超える人に電話を掛けるのは大変なので、オレの気持ちを記事にしてくれないか。それを関係者の送るので:」と頼んできた。聞けば、前年の九州場所で14回目の優勝を果たしたが、初場所は序盤で千代の富士、朝潮、琴風の若手三羽ガラスに敗れたことがショックで、その時点で引退も考えたが、場所後に花籠親方の長女との結婚式が控えていたので思い止まったという。だが「横綱として最低でも10、11勝はなんとか続けたいけど、やっぱりしんどい。8、9勝だったら辞める。引き際だけは立派にしたい」と告白。引退後に備え日OBらアマ相撲関係者に新弟子を紹介してくれるように、すでに手紙を出していると言う。
そんな輪島の現状と将来の思いを語った私の記事が「まるで親方・輪島」「春場所目前なのに心は早くも部屋作り」の見出しで掲載されたのが3月3日発行号。それを読んだ輪島が「金を払うので100部ほど部屋に届けてくれないか」。さっそく大阪スポーツの販売部に連絡を入れると、ふたつ返事でOK。代金も販売部長の「オマエさんの立場もあるだろうし、横綱から金をもらおうなんて思ってないよ」で200部プレゼント。これには輪島も「ありがとさん。部長によろしくいっといてくれ」と喜んでくれた。そして春場所2日目に琴風に敗れた翌日、引退を発表した。
引退後は花籠部屋を継承したがトラブルで年寄株を返上し角界との縁は切れたが、破天荒で爽やかな横綱だった。黄金のマワシを継承した白鵬には、相撲界に垂れ込める暗雲を吹き払う名横綱になってもらいたい。輪島の思いも一緒だと思う。
そんな白鵬にうれしい知らせが届いた。3日、天皇陛下からねぎらいとお祝いを伝える書簡をいただいたのだ。陛下は「困難な状況にありながら、連日精励奮闘して幕内全勝優勝を果たしたのみならず、大鵬関を超え、歴代3位の連勝記録を達成した」と讃え「今後とも元気に活躍するよう願っている」と激励した。白鵬は「これ以上のものはありません。心から喜んでいます。光栄でございます」と感謝のコメント。千代の富士の53、双葉山の69連勝への挑戦に向け最高のプレゼントになるだろう。
秋場所では、決意も新たに秋場所は封印した黄金のマワシで土俵に上がることだろう。そこで黄金のマワシ第1号の輪島のことである。日大在学中の1970年(昭和45年)初場所、幕下付け出しで初土俵を踏んだ輪島は3年後の73年(同48年)春場所後に学生出身として初めて綱を締めた。左下手を引いての強烈な投げと、黄金のマワシをもじって“黄金の左”と称せられ北の湖とともに輪湖時代を築いた。
私が相撲担当になった時、彼はすでに横綱。新人記者には雲に上の存在だったが、年齢が近いこともあってか気が合った。朝稽古の取材に行けば「ちゃんこを食っていけ」と、一緒に鍋を囲み与太話で盛り上がった。原稿がなくて困っていると、他社の記者が引き揚げるのを待って「ちょっとこっちに来い」と私とカメラマンを連れて部屋の前の道路に出て、何をするのかと思いきや、竹箒でイチョウの落ち葉を掃きながら「オレも年かなあ。相撲に粘りがなくなったよ」と独りごちたあと「“輪島引退か。行く秋を知る”。どうだ。これで写真も記事もバッチリだろう」。ニヤリと笑って見せたりもした。
忘れられないのは最後の土俵となった1981年(昭和56年)の大阪場所直前の出来事だ。綱を張って9年目。33歳にもかかわらず重圧から精神的、肉体的にも限界に達していたのだろう。稽古を終え、お茶を飲もうということになり、近くの喫茶店に入ると、いつもは冗談が先にたつ男がマジ顔で「今場所だめだったら引退を覚悟している」と衝撃発言。
続けて「そこで頼みがあるんだ。後援者や知り合いに今の心境を伝えたんだが、100人を超える人に電話を掛けるのは大変なので、オレの気持ちを記事にしてくれないか。それを関係者の送るので:」と頼んできた。聞けば、前年の九州場所で14回目の優勝を果たしたが、初場所は序盤で千代の富士、朝潮、琴風の若手三羽ガラスに敗れたことがショックで、その時点で引退も考えたが、場所後に花籠親方の長女との結婚式が控えていたので思い止まったという。だが「横綱として最低でも10、11勝はなんとか続けたいけど、やっぱりしんどい。8、9勝だったら辞める。引き際だけは立派にしたい」と告白。引退後に備え日OBらアマ相撲関係者に新弟子を紹介してくれるように、すでに手紙を出していると言う。
そんな輪島の現状と将来の思いを語った私の記事が「まるで親方・輪島」「春場所目前なのに心は早くも部屋作り」の見出しで掲載されたのが3月3日発行号。それを読んだ輪島が「金を払うので100部ほど部屋に届けてくれないか」。さっそく大阪スポーツの販売部に連絡を入れると、ふたつ返事でOK。代金も販売部長の「オマエさんの立場もあるだろうし、横綱から金をもらおうなんて思ってないよ」で200部プレゼント。これには輪島も「ありがとさん。部長によろしくいっといてくれ」と喜んでくれた。そして春場所2日目に琴風に敗れた翌日、引退を発表した。
引退後は花籠部屋を継承したがトラブルで年寄株を返上し角界との縁は切れたが、破天荒で爽やかな横綱だった。黄金のマワシを継承した白鵬には、相撲界に垂れ込める暗雲を吹き払う名横綱になってもらいたい。輪島の思いも一緒だと思う。
本日の見出し
エンゼルス松井戦力外 今月中トレードも
- iモード月額:290円(税込)
- au月額:290円(税込)
- softBank月額:294円(税込)