「日韓併合100年」謝罪問題(参)
在日の犯罪まで謝罪した日本政府
前回までの「日韓併合100年」問題はこちら→(壱)→(弐)
日本と韓国の関係とは常に日本側が贖罪意識を持ち続け、対して韓国側は日本人を責め続けて来た。この歴史観が変わらない限り本当の意味での両国の友好親善関係など有り得ないだろう。
古い話で申し訳ないが、今でも私が鮮明に思い出す両国の歪んだ関係を象徴する事件がありました。
1974年(昭和49年)8月15日、韓国の大統領であった朴正熙氏が狙撃され、大統領夫人の陸英修氏と女子高生が被弾して死亡した。この時に韓国政府はこの犯人は日本人であるとして、日本大使館に通報した。
連絡を受けた日本大使館の当時の大使は、犯人の氏名なども確認せずに狼狽して「大変遺憾なことである」とする謝罪を表明した。
この日本外交官の深層心理の中には、どうしても韓国人に対する負い目と言うか、そのような「罪の潜在意識」が習性化していたと見るべきでしょう。
その後、この狙撃犯人が日本人ではなく、在日韓国人・文世光であったと知るや、政府や外務省には安堵感が広がったという。この時に外務省は猛烈に韓国に抗議すべきであったし、本来であればこの大使は辞職すべきであったくらいの失態を演じた。
韓国政府はこの在日韓国人が朝鮮総連の工作員であり、韓国政府の国家転覆を謀ったテロリズムという見解を明らかにしたが、実はこの後韓国内では驚くべき動きとなっていった。
それは北朝鮮に対する抗議運動ではなく、大々的な反日暴動へと発展したのです。では何故に反日暴動となってしまったのか?
それはこの日本と韓国という歪んだ関係を象徴する上で、忘れられない事件であり、また絶対に忘れてはいけない事でもあると思って来ました。
当初から北朝鮮や朝鮮総連の関与が指摘されていたにも関わらず、そのターゲットは日本に向けられてしまった。この経緯こそ今まで続く日本側の曖昧模糊とした朝鮮半島問題に関する対応の結果だったと思わない訳にはいきません。
韓国内における反日の動きは、犯人が日本で生まれ生活していた在日韓国人であったことから、最初は穏やかな道義的な責任を追及するものだったが、それが突然にして様変わりを見せた。
彼ら韓国人は文世光を育てたのは日本社会であり、日本社会こそその犯罪の元凶だと思い始めていた。更に文世光による陸女史殺害を19世紀末の「閔姫暗殺」になぞらえて見るような社会現象が起きた。
不穏な社会情勢の中で反日気運だけが醸成され、ついに木村俊夫外相の「北朝鮮の脅威はない」という誤った発言で、事態は一気に弾みがついた。日本大使館に暴徒が多数乱入し日の丸が引き裂かれた。この反日暴動には100万人以上の韓国民が参加したとされています。
韓国民の怒りは日本政府が朝鮮半島の厳しい認識を共有していなかったことに起因していた。当時韓国は北朝鮮の脅威に直面しており、それを安直に考えていたということでしょう。
この問題の解決には米国が乗り出すことになる。米国の仲介で訪韓した当時の自民党副総裁の椎名悦三郎氏は、朝鮮総連への監視と規制を朴大統領に約束したとされ、それは「椎名メモ」と呼ばれた。
歴史とは責任を負う気のない者の言辞は一切がデタラメであり意味をなさない。
私はこの時に韓国民に約束した、朝鮮総連への徹底した監視と規制を強め、壊滅作戦を敢行していれば、その後の日韓関係はまた違ったものになっていたのではないかと考えます。
仮にその後、北朝鮮と韓国の融和が進もうが、日本は北朝鮮・朝鮮総連に対しては、毅然たる態度で臨むことになり、それはその後も続いた朝鮮総連などの暗躍を阻止することになった事でしょう。
更には韓国人からも在日からも舐められることはなかったと思います。日本の左翼は在日韓国人2世の文世光を韓国民主化のヒーローとして扱ってきたが、このような考えが韓国人のより強い反日感情に繋がったとも言えるのではないか。
日韓問題とは朝鮮半島における韓国と北朝鮮という国家対立をどのように理解・分析するかも重要な視点となっています。その意味では北朝鮮人脈と深く関わる菅直人政権がつくり出す「韓国併合100年」談話の内容如何によっては、思わぬ波紋が広がる危険性もあるということを我々は肝に銘じておかねばなりません。