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いま正義について考えることの意味

AERA8月 9日(月) 11時34分配信 / 国内 - 社会
──正しい行いとは何か。この問いがなぜ現代に必要なのか。
「ハーバード白熱教室」(NHK)のマイケル・サンデル教授に同大で話を聞いた。──

「1人殺せば5人が助かる状況だったら、君ならその1人を殺すか」
「日々の君の行いは正しいのか、正しくないのか」
 ハーバード大学教授のマイケル・サンデル(57)は問う。現代人が真剣に考えなくなった問いだ。
 サンデルがこの「Justice(正義)」と名づけた講義を始めたのは、30年前の1980年。同大の学生が哲学と道徳の問題に興味を持ち、政治に積極的にかかわる市民に育つように、という思いからだった。
 授業の様子はたとえばこんな感じだ。
サンデル「(バスケットボール選手の)マイケル・ジョーダンはある年に7800万ドルを稼いだ。国家の介入を最小限にしようとする自由意志主義(リバタリアニズム)の哲学者ロバート・ノージックは、政府が富裕層から貧困層に富を再配分するのは弾圧だという。ジョーダンに高率課税するのは正当か、不当か」
学生ジョー「僕が100枚のスケートボードを持っていて、それが多すぎるといって99枚取られたら、それは盗みだ。ジョーダンが税金をたくさん取られるのは不当だ」
サンデル「不当は許されるのか」
ジョー「現代では必要だから、高率課税は大目にみられているんです」

■威圧的だった政治哲学

「正義」講義は、静かな緊張と興奮に満ちている。19世紀に建築された半円形の大講堂を千人超の学生が埋め尽くす。サンデルの問いは、学生がぎりぎりのジレンマを抱えながら答えなくてはならないものばかりだ。その答えから、さらに大きな道徳的問題に広がる。教授と他学生が納得する答えを瞬時に見出さなくてはならないプレッシャー。宗教、人種の違いによって対立する学生たちの議論。
「正義」は80年からほぼ1年おきに開かれ、延べ1万4千人超の学生が聴講。対話形式で知的刺激にあふれるソクラテス方式授業の人気ぶりに同大は創立以来初めて、講義の一般公開に踏み切り、米公共放送PBSと提携して録画・放送した。
学生ラウル「(ジョーダンへの)課税は、僕らが選んだ代表からなる政府が決めたことだから正しい」
学生ジョン「多数の人が選んだり、決めたからといって、正しいとは限らない」
サンデル「ちょっと待て。君は多数決という民主主義の原則を信じていないのか?」
 サンデル自身は大学1年生で政治哲学を専攻し、「全く意味がわからなかった」という。実際の政治とはほとんど疎遠にみえ、難解で、威圧的でさえあった。「自分が受けたい授業はこれではない」。それが後に「正義」講義をデザインするきっかけとなった。哲学者が考察し、記したことを、現代の日々の生活にある倫理的なジレンマに置き換えて学生に質問し、哲学者は「過去」に属するものではない、と訴える手法だ。

■哲学者が批判の対象

 ではなぜ「正義」がテーマなのか。小中学校で習う「道徳」とどう違うのか。サンデルはこう話す。
「道徳は必要なものだが、正義はさらに、社会的な生活に直接つながる道徳の一つで、人々が互いにどう生きていくのか倫理上の決断をしていくこと」
 つまり、正義とは道徳的な生活に必要な判断力で、誰もが必要とする能力だという。
サンデル「ジョーダンが稼いだ金を税金で取られる再配分から守る権利は、言論や宗教の自由を守るのと同じレベルの権利か」
学生アンナ「言論や宗教の自由は個人的なもので、ほかの人に影響を及ぼさないけれど、私が貧しかったら、盗みや殺人をするかもしれないから、経済的な資産は他人に影響を与える。資産を守るという自由は、言論や宗教の自由のレベルとは違う」
学生ビクトリア「自由意志主義者は、人間は自らの所有者だから、資産を守るべきというけれど、社会で生活している限り、私たちは自らの所有者ではないかもしれない」
サンデル「いいね」
 こうしてアリストテレス、カントといったとっつきにくい哲学者たちが、学生の支持、批判の対象に変貌する。

■GDPを超える価値

 サンデルは講義でも、著書『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』(早川書房刊)でも、あまり自らの意見を語らない。
「授業中のサスペンスや興奮がなくなってしまうから」
 というが、学生とのやり取りのちょっとした言葉に、彼の主張が浮き出てくる。
 例えば、「正義が存在する社会は、必ずしも国内総生産(GDP)が高い国ではない」という主張だ。前出の著書『これから〜』では、1968年に民主党の大統領候補指名を目指し、暗殺されたロバート・F・ケネディに触れている。彼の68年3月の演説を引用し、彼が生きていれば、「道徳性豊かな政治」が実現していたと予想する。
「GNP(ママ)には子供の健康、教育の質、遊びの喜びの向上は関係しない。(中略)われわれの機知も勇気も、知恵も学識も、思いやりも国への献身も、評価されない。要するに、GNPが評価するのは、生き甲斐のある人生をつくるもの以外のすべてだ」(演説から)
 サンデルは言う。
「彼にとって、正義は国民総生産の規模と分配以上のものを含んでいた。より高い道徳目的にも関連していたのだ」
 サンデルにとって、健全な民主主義政治とは、道徳が生かされた政治ということになる。それが「正義」講義の原動力だ。
「私は、学生にGDPを超えたところにある『価値』について考えてほしい。日本でも、米国でも、欧州でも政治家や政党に対する欲求不満が募っているのは、私たちが真に大切だと思っている社会的な正義について話し合っていないからだ」
 多くの民主主義国家の企業トップが莫大なボーナスをもらう一方で、なぜ貧富の差がこれほど広がっているのか。繁栄から得られる利得をどうやったら分配できるのか。

■オバマ大統領に注目

 その中で、オバマ大統領には、故ケネディ以来の政治家として着目している。
「大統領選挙の間は、政治と、それを超える価値や意味を結びつける能力がある政治家として、有権者を感動させた。大統領就任後は、道徳的な声を潜めているが、市民の理想を政治にもたらす方法を彼はよく知っている」
 無保険者の救済を主眼にし、約100年ぶりに実現にこぎつけた医療保険制度改革は、オバマ大統領個人の思想と、米国独特の個人主義や政治不信の衝突だった。
「病気にかかったときの負担を、みなの責任としてシェアすべきかどうか。これは、根本的に倫理上の問題であり、誰もが考えるべきなのに、米国の伝統的な個人主義は、誰がその金を負担するべきかという議論に持っていってしまった。政府は社会的な責任をシェアするという思想を実現するツールという位置づけになるべきなのに」
 授業の様子は日本でもNHK教育テレビで放映され、授業内容などをまとめた前出の著書もベストセラーになった。
 8月25日、東京大学・安田講堂で「ハーバード白熱教室in JAPAN」と題した特別講義を行う。ハーバード大のキャンパスを出て、日本の市民との「対話」が新たに始まる。
「私のゴールは、市民として、倫理的な政治観を持つ大人を育てること。私の講義をモデルとしてほかの国でも広がってくれればと願っている」
 日本では「正義」という言葉は古臭くも聞こえるが、混迷する政治の世界を再考するきっかけがサンデルの講義にはある。日本で「正義」に新しい衣を与えられるだろうか。(文中敬称略)
ジャーナリスト 津山恵子(ニューヨーク)
(8月16日号)
  • 最終更新:8月 9日(月) 11時34分
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