杉山市平氏
武井武夫氏
終戦直前に広島へ投下された兵器の正体を、国内でいち早く「原子爆弾」と訳し、政府に報告したのは、埼玉県川越市で海外放送を傍受した通信社だった――。戦後65年の今年、そんな裏面史を検証する調査が進んでいる。大本営は結局、しばらくは「新型爆弾」としか発表せず、放射能の脅威が知らされないまま2次被爆の拡大につながったと指摘する専門家もいる。
「トルーマン(米)大統領が原子爆弾で広島を攻撃した旨発表した」
財団法人通信社史刊行会(現・新聞通信調査会)から1958年に発行された「通信社史」によると、こんな海外放送を傍受したのは、共同通信社や時事通信社の前身だった同盟通信社の川越分室。45年8月7日午前1時半ごろだった。前日の広島の惨禍に関する重大情報で、日本語に訳され、直ちに東郷茂徳外相らに伝達されたという。
しかし、この記述を検証できる史料は乏しい。川越市史には「同盟通信社が疎開して外国電波をキャッチしていた」とだけ記されている。
外電の傍受活動について調べている元共同通信記者の鳥居英晴氏(61)と、郷土史を探究する市内の作家龍神由美さん(52)が別々に検証作業を始めたところ、昨年から今年にかけて、市内の同じ「生き証人」にたどり着いた。分室の記者だった故・杉山市平氏の妻昭子(てるこ)さん(83)だ。
昭子さんは夫から生前、こう聞いていた。「今までにない爆弾が落ち、どうやって訳すかを考え、『原子爆弾』という名を付けた」。翻訳は、同僚の故・武井武夫記者との共同作業だったという。
昭子さんによると、分室は現在の市立博物館の場所で、当時の市立工業学校を使っていた。傍受にあたる逓信省の技術者や英文をタイプする日系人も出入りしていた。昭子さんは「知られていないけど大変な歴史なんです」と話す。