夕暮れ時、少年は友人宅からの帰途にある。
学校が終わると、家に携帯用ゲーム機を取りに一度帰り、それから近所の友人の家に向かった。昨年から習っている剣道の練習は、この日は休みであり、そんな日はこのようにして過ごすのが通例である。
そして、帰宅したら夕飯を食べながら大人気のアニメ番組を見て、それから風呂に入り、インターネットを見ながら眠くなれば寝る。
それが、彼が幾百度と繰り返してきた、平凡だがそれなりに楽しい日常であり、この日もまたありきたりの1頁が彼の人生に綴られる筈だった。
その内、見通しのあまり良くない三叉路に面すると、彼はカーブミラーで車が来ていないことを確認しながら右へ曲がった。住宅街の袋小路近くの道路であり、一日を通じてもさほど車は通らない場所であるが、彼が生まれる前に飛び出し事故があったため、母親からは必ずカーブミラーを見るように口を酸っぱくして言われていた。
だから、彼はこの日もそれを忠実に守り、ばっちり安全確認してから曲がった。すると、彼の鼻先には、身長よりも高い楕円形の光が浮かんでいた。
「これ……何ぞ?」
先週コンビニで立ち読みした漫画内の台詞を、彼はつい口にしていた。漫画・アニメ超大国の育ちらしい、それなりに豊富なサブカル知識から、眼前の物体が何か想像してみる。その推測は、
「ひょっとして、異世界への扉とか?」
彼がこれまで見た作品のいくつかに、こういう展開があった。突然光る穴が生じて、主人公を吸い込み、現代日本とは掛け離れたファンタジー世界へと導く話が。
光の横に回りこむと、それは鏡くらいの厚さしかないようだった。その後方には、日頃通り慣れた道が茜色に染め上げられ続いている。
とりあえず、携帯電話を取り出して正面、横、背後から1枚ずつ写メールで撮影すると、彼は路傍の石を拾って正面から放り込んだ。
その石は、彼の予想、期待を裏切ることなく、鏡面のような輝きに吸い込まれて消えた。
「うおっ! 消えたぞ! もういっちょ入れてみよっ!」
石の消滅に感激した彼は、小石を数個拾って次々と投げ入れる。それらは、最初のものと同様に光の中へと消える。
ますます興奮した少年は、三叉路を少し引き返して自動販売機の横にある空き缶篭を引き摺って来た。加速をつけて篭ごと放り入れようとした彼は、転げ出たスチール缶に足の裏を滑らせてバランスを崩し――つんのめってしまった。
「わっ? ちょっ!? ストッ、うわぁぁぁぁぁぁ!!!」
他に転げ出た幾つかの空き缶を道連れにして、少年は頭から光の中へとダイブし、電撃のような全身ショックの後気を失った。
目を覚ますと、最初に目に入ったのは美少女だった。
「あんた誰?」
幾分幼さを感じさせる第一声は、当然と言えば当然の内容。何せ初対面なのだから。しかし、少年は、少女の容姿に視線と全神経を奪われて返事を返せないでいた。
桃色がかったブロンドのロングヘアーはゆったりとしたウェーブが掛かっており、青空の下に降り注ぐ陽光を受けて反射と色艶を交互に映し出す。白い肌は透き通るようでさえあり、日差しに傷め付けられるのではと見ていて心配になるほど。鳶色のくりっとした双眸は、不満ぽい色を湛えてもなお美しかった。
理想的なまでの白人の美少女だが、白いブラウスとグレーのプリーツスカートはともかく、肩から羽織る黒マントは、現代人の少年から見れば、たとえここが欧米だったとしても、違和感を感じざるを得ないような服飾センスに思えた。
「言葉が分からないの? あんたは誰かって聞いてるのよ」
腕組みをして苛立ちを顕にする少女に、彼は慌てて答えた。
「僕、平賀才人だよ。お姉ちゃんは何て名前? そんでここはどこの国?」
脳裏に次々と浮かぶ質問にも関わらず、少年は自分が思ったほど動揺していないことを自覚する。異世界召喚もののファンタジー作品を見ていたお蔭なのか、どこか客観的にこの状況を見つめている自分がいるのだが、その視点についての意識は無い。
周囲一帯に広がる草原と、自分達を一定の距離を置いて取り巻く人垣、そして遠くに見える石垣造りの城を視野に収めながら、才人は年上と思しき少女の返答を待つ。
「私はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。ここはトリステインが誇る高名な魔法学院よ」
「どこですか、そこわ?」
首を傾げる才人に、ルイズは形の良い眉を顰めて詰め寄る。見慣れない顔立ちと服装だが、トリステインを知らないなんて、この子供はどこの田舎モンなんだろうか。
「あんた、どこの出身なの?」
「東京。日本の首都だけど、分かるよね?」
腑に落ちないと顰めっ面で表しながら、今度はルイズが首を傾げる番。互いに知っていて当然と思い込んでいる国名の紹介は、共に空振りに終わってしまった様子。
「何で東京も日本も知らないの!? お姉ちゃん、どこの人!? 白人さんなんだよね!?」
「ハクジンって何よ、それ? あんたこそ、ハルケギニアに住んでてトリステインも知らないなんて、どこの辺境の育ちよ!? お子様だからって、無知にも程があるでしょ!」
「無知はお姉ちゃんの方だよ! 世界有数の経済国と、その首都の大都市なんだよ! 学校に行ってなくても知ってそうなもんだよ!」
「な、何ですって~! このガキんちょ~!」
小柄なルイズが、自分よりも更に頭一つ近く小さな才人の両頬を引っ張った。ぷよぷよとしたほっぺが、餅のように伸びながら林檎のような血色に満ちていく。
「いひゃい、いひゃい、ひゃひぇてひょ~」
何だか分からないけど、才人はただ謝りたかった。謝って早くこの苦痛から逃れたいとだけ思った。そんな彼等に、周囲から一斉に声が飛び始める。
「おいおい、ルイズ。人間呼び出しただけでもおかしいってのに、ましてそんなちびっ子と喧嘩して虐めるなんて、喜劇でもやらないぞ」
「魔法だけじゃなくて、寛容さもゼロだな」
ルイズ達を遠巻きに囲む人垣に、爆笑が波濤のように広がっていく。怒りの対象を、今抓っている少年から周囲へと切り替えると、ルイズは人垣のある方向に向けて怒鳴った。
「ミスタ・コルベール!」
その方向の人垣が割れ、頭頂部から半分ほど禿げ上がった中年の男性が姿を現した。大きな木の杖を手にし、肩から下の全てを隠す黒いローブを纏った男性は、声を荒げる女生徒に対して落ち着いた声で返す。
「なんだね、ミス・ヴァリエール」
「あの! もう一回召喚させてください!」
黒いローブのコルベールは、首を横に振る。
「それはダメだ。ミス・ヴァリエール」
「どうしてですか!」
必死になって懇願するルイズに、コルベールは淡々と諭す。
「決まりだよ。二年生に進級する際、君達は『使い魔』を召喚する。召喚された『使い魔』によって、今後の属性を固定し、その後専門課程へと進むんだ。春の使い魔召喚は神聖なる儀式、好むと好まざるに関わらず、彼を使い魔にするしかない」
「そ、そんな……」
肩を落とすルイズ。それを傍らで聞いていた才人は、『使い魔』という単語から連想して背筋に冷水を流し込まれた気がした。
彼が漫画やゲームから得た『使い魔』についての知識は、吸血鬼が使役する蝙蝠等の動物達についてのものだった。その視点を当てはめると、ルイズの美貌も、この場の全員が羽織っている黒マントも、急におどろおどろしいものに思えてくる。
諦めたような表情で振り向いたルイズが、自分の方へ歩を進めて来ると、才人はそれに呼応して後ずさる。
「仕方がないから、あんたみたいなちびっ子でも使い魔にしてあげるわ。感謝しなさいよね」
「い、嫌だ」
まさかの拒絶。ルイズのこめかみに井桁が浮かび上がる。
「今、何て言ったの?」
「き、吸血鬼の使い魔なんて、ごめんだよ。お姉ちゃん達は吸血鬼なんだろ? 僕をさらって来てしもべにするつもりだったんだ」
「はぁ? あんた、何口走ってんのよ?」
ルイズは頭が痛くなってきた。何度も失敗した末にようやく呼び出せたかと思いきや、それはどこぞの辺境の子供で、しかもさっきから意味不明の単語を連発し、挙句にこちらを吸血鬼呼ばわり。周囲の阿呆共は、当然のようにいつも以上に自分を笑い者にしている。
い、怒りで血管が切れそうだわ。
「よ~く聞きなさい、アホの子。この美しく高貴なルイズお姉様が、あんたみたいな田舎モンに、キ、キキキ、キスしてあげるってーのよ。感謝感激こそされ、拒絶するなど身の程知……」
「たぁすけ~て~!」
擬音にすればバビュンというのが相応しかろう勢いで、アホの子は駆け出していた。
華奢な肩を震わすこと二秒、ルイズはそれ以上の勢いで追跡を開始した。
才人は子供の割には速かった。しかし、本気モードのルイズはそれ以上に速かった。
小鹿と女豹のチェイシングよりもあっさりと、才人は捕獲されてしまった。ラガーマンの如く見事なルイズのタックルによって。
「やだぁぁぁぁ!! 血を吸われて『URYYYYY!』とか言うようになって、最後は太陽の光を浴びて塵になるなんてやだぁぁぁぁ!! 誰か助けに来てぇぇぇ!!」
「まだ言うか! このガキャ!」
ごちんと音がする程豪快な拳骨を受け、才人は頭を両手で抱えて地面に丸まる。見かねた金髪縦巻きロールの女生徒が、人垣から進み出てルイズに物申した。
「ルイズ、さっきから貴女乱暴過ぎるわよ。こんな小さい子を虐待するなんて、貴族としての誇りは無いの?」
「うっさいわね、モンモランシー! こいつが訳分かんないことばっか言うからよ! 外野が知った風なこと言わないでよ!」
ふんだんに呆れを帯びた視線で見下ろす、ひょろっと縦に長いモンモランシーの背後に、飛び起きた才人は駆け込んで隠れた。
背中に震えを感じたモンモランシーは、気の毒になって少年の頭を撫でながら振り返る。
「僕、確かにあのお姉さんは乱暴者だけど、ここには吸血鬼なんて一人もいないわ。皆、普通の人間だから。心配しなくて大丈夫」
その言葉を聞いてきょとんとした才人だったが、すぐにこの世界で初めての元気な笑顔を見せた。モンモランシーも釣られて微笑み返す様子を、苦虫を噛み潰したような顔でルイズが見ていたが、いつの間にか傍まで来ていたコルベールの苦言に、表情を改める。
「ミス・ヴァリエール。相手は君より随分年下の子だろう。そんなに乱暴したり怒鳴りつけたりしては、怯えさせるだけで心を開かないよ。貴族だの平民だのに関わらず、年長者の懐の深さをもって接しなさい」
返す言葉も無かった。
自分には全く懐かない少年は、今外野からしゃしゃり出たモンモランシーの優しい言葉と態度に、あっさりと手懐けられている。
全くもって面白くない。しかし、色々な意味でこのままでは終われない。
ミスタ・コルベールの言葉もご尤もだ。ならば、やることは一つ。まずは深呼吸して。
「サイト。乱暴しないから、こっちにいらっしゃい」
波浪警報の出ていた心の水面を静めて、ルイズは穏やかに呼び掛けた。才人は、意外にあっさりと呼び声に応じて近寄って来た。
「あんたは、この私の使い魔、分かり易く言えば召使いみたいなものにこれからなるの。ちょっと熱いけど、男の子だから我慢出来るわよね」
「熱いって、どのくらい?」
不安と緊張を交えた表情の才人に、ルイズは包み隠さず情報を伝える。
「使い魔に聞いたことなんてないから分かんないわ。でも、その代わり、先に私とキス出来るわよ」
才人は真っ赤になって、上目遣いにルイズを見上げては足元に視線を落とすのを繰り返した。その様子に、子供相手ながらもようやく手懐けたことへの満足感に、ルイズは初めて笑顔を浮かべた。
貴族の令嬢が醸し出す優雅さに、才人がぼうっとなっていると、ルイズは目を閉じて、小さな杖を才人の前で振り、呪文の詠唱を開始した。
「我が名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。五つの力を司るペンタゴン。この者に祝福を与え、我の使い魔となせ」
杖を才人の額に置くと、ルイズの端整な顔がゆっくりと近付いて来る。
「あ……」
綺麗だな。
才人は見惚れて動けなくなった。そのまま、柔らかい唇の感触を受けると、彼も自然と目を瞑った。
数秒か、数十秒か、認識出来ないくらいの時間の後、二つの唇は離れた。ぼうっと上気した才人だったが、急に体が熱くなると、膝を着いて前のめりになって身悶えた。
「あちちちちちちちっ!!」
「我慢なさい。すぐ終わるわ」
「水掛けて! 火傷して死んじゃうよ!」
しかし、火傷が生じる前に、熱さは消えていた。
尻餅を付いた姿勢の才人に、コルベールが近寄ってその左手の甲を見つめる。そこには、蛇がのたくったような、彼も見たことのないような模様が浮かんでいた。
「珍しいルーンだな。まあ、無事『契約』出来て何よりだ。じゃあ、皆教室に戻るぞ」
コルベールが踵を返して空中に浮上すると、ルイズ以外の生徒達も一斉に宙に浮いた。一同は、遠くに見える石造りの建物に向けてスムーズに飛んで行った。その際、眼下のルイズに対して嘲りの言葉を残していく生徒達もおり、才人にはその意味が良く分からなかったが、肩をわなわなと震わせているルイズの様から、彼女が馬鹿にされているようなのは何となく分かった。
「私達も戻るわよ」
才人の方を見るでもなく、ルイズは歩き出す。
声を掛け辛い空気を漂わせる彼女に、才人は何も言うことが出来ず、するとこの時点で初めて、最も基本的で重大な事柄に意識が回った。
どうすれば、家に帰れるんだろう?