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手元にある石内都さんの写真集『ひろしま』(集英社)に忘れがたい1枚がある。即死だったのだろう、遺骨も見つからなかった女生徒の上着だ。ぼろぼろになって橋にひっかかっていたそうだ。縫いつけた名前が、生きた証しのようにはっきり読み取れる▼母親が和服を仕立て直した服だという。13歳だったから存命なら78歳になる。人生の盛夏から実りの秋を過ぎ、静かな小春の日々だろうか。断ち切られた幾多の人生を弔い、祈る、きょう広島原爆の日である▼悲願の核廃絶には新しい風が吹きつつある。米国のオバマ大統領は去年、核を使用した自国の道義的責任を語り、「核なき世界」を訴えた。それを機に、涸(か)れていた核軍縮の泉がわき出し、川となって流れ始めた▼さらなる水流となるのだろうか、広島での平和記念式にルース駐日米大使が出席する。65年をへて初めての大使出席になる。とはいえ米国では今なお、原爆投下を正当化する考えが常識だ。政権にとって楽な決断ではなかっただろう▼大使の出席には米国内の反応を見る「瀬踏み」の意味もあろう。大統領の被爆地訪問をぜひ実現させてもらいたい。スウェーデンの故パルメ首相を思い出す。かつて広島を訪ね、「核戦争は抽象的な概念になりがちだが、初めてそれが残虐な現実だと肌で知った」と衝撃を語っていた▼13歳の体からはがれて爆風にちぎれた服に、おとしめられた人間の姿に、何を思うか聡明(そうめい)な大統領に聞いてみたい。正当化しえない「絶対悪」だという認識を、核大国に伝えるためにも。