65年前の日本への原爆投下後、米駐日大使が初めて広島での平和記念式典に参加する。米大使はこれまで式典への参加を拒んできたが、今年は違う。オバマ大統領が、高いレベルの敬意をもって式典を受け入れることを決めたのだ。クローリー米国務次官補が説明したように、ルース駐日大使は第2次世界大戦のすべての犠牲者に敬意を示すため、式典に参列する。
広島に原爆を投下した爆撃機のパイロット、ポール・ティベッツ准将の息子、ジーン・ティベッツ氏はオバマ政権の決定を「暗黙の謝罪」と呼ぶ。それが真実であろうがなかろうが、クローリー氏の「すべての犠牲者」との発言により、米国は道徳的相対(moral equivalence)の問題を提起した。これは第2次世界大戦の間の出来事の善悪を判断する際に現れ、年月を重ねるにつれて悪化してきた問題だ。
米軍の原爆投下により、12万人の日本人が瞬時に死亡し、その後、ほぼ同程度の数の国民が放射能中毒に倒れた(正確な人数が明らかになることはないだろう)。トルーマン大統領は、原爆投下の代替策として日本の侵略を検討したことがある。この場合、米国側の犠牲者は100万人、日本側の死者は少なくとも200万人に達する、とアドバイザーは推測した。奇妙な戦争の計算式に基づけば、原爆は実際、日本人の命を救ったことになる。
オバマ政権が式典をめぐる摩擦の軽減や、謝罪を望むのであれば、恐らく日本政府にとっても第2次世界大戦について国民と誠実に向かい合う良い時期なのかもしれない。
1945年以来、日本人にとっての戦争は、原爆とその犠牲者としての役回りがほぼすべてだ。これに対し、中国と満州、朝鮮、香港、フィリピン、インドシナ、ビルマ、ニューギニアへの侵略や、真珠湾攻撃については扱いが軽い。日本の子供は南京事件や、戦争中の日本軍による1700万人にも及ぶアジア人の殺害について学ぶ機会はほとんどない。
さらに、戦争は日本が始めたとの不都合な事実もある。日本軍が国内にとどまっていれば、37~45年までの太平洋における戦いはなかっただろう。
原爆に焦点を置けば、日本人は犠牲者だ。一方、日本人は同盟を組んだドイツ人と同様、世界の支配や、自ら編み出した奇妙な人種理論に適合しない国民を攻撃することに夢中になった。日本人の広島と長崎の重視は、日本軍に蹂躙されたアジアの隣人にとっては不満の種だ。
指導者よりも一般国民の方が歴史をより良く認識しているということはままある。オバマ氏は広島と長崎に近づくにあたり、25年前に起きた関連する出来事を知っておくべきだ。1985年5月5日、レーガン大統領はドイツ人兵士の墓に花輪をささげるためビットブルク近郊の墓地を訪れ、失態を演じた。
盟友であったドイツのコール首相を支援するのが大統領の墓地訪問の理由だった。米独両国がともに手を取り合って進むのを許容するのに十分な時間が経過したと大統領は考えていた。しかし、この墓地に一般のドイツ兵のみならず、ナチス親衛隊も埋葬されていることが分かった時、問題が起こった。強い抗議にもかかわらず、大統領は自らの意見に固執し、墓地内のレンガ塔に花輪を置いた。
抗議の背景に、人々が前進を拒んだり、戦後の米独間の関係が軟弱だったりした事実があったわけではない。大統領の行動により、米兵はナチ親衛隊と何ら変わりはないとの暗黙の理解が生まれ、怒りが湧き起こったのだ。しかし、米軍は解放者で、ナチ親衛隊は殺人者だ。
われわれの社会やメディア、世界を席巻した道徳的相対や差別・偏見の排除(political correctness)といった概念により、今日の若者はこの点を理解するのに悪戦苦闘するかもしれない。こうした概念の下で、あらゆる国は善と悪の双方の要素を内包していると子供は教えられる。この教えはあまりに力強くなり、第2次世界大戦は確かに恐ろしいと考える一方で、あらゆる側面が責めを共有していると今日の若者が信じるのは、決して異常なことではなくなっている。
広島での式典参列について米国務省は「今この時期に、なすべき正しいことであるとわれわれは確信した」との見解を示した。実際、米日両国がこの出来事を共有するのに正しい時期なのだろう。しかし、第2次世界大戦のあらゆる関係者を暗に同じカテゴリーに含めることにより、将来の世代が本当の邪悪を特定する能力をわれわれは損ねているのだ。
(コザック氏は、日本の焦土化作戦の指揮をとったカーチス・ルメイ将軍の生涯を描いた"LeMay: The Life and Wars of General Curtis LeMay" の著者)