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[20920] 【習作】妖怪夜遊び夜去らず(中編予定・オリジナル)
Name: えす◆89cc5119 ID:d3c8c61f
Date: 2010/08/06 21:26
※息抜き、及び三人称の練習も兼ねた作品です。
※中編程度なので、すらすらと終わらせる予定です。
※ご意見ご感想、お待ちしております。
※文体等、直した方が良いところのご指摘も、お待ちしております。





――プロローグ――



夏の日の、午前零時のことであった。
都会の夜はいくら深まろうとも蒸し暑く、寝苦しい日々が続く、その最中での出来事だった。
閑静な住宅街の一角、完全に寝静まり、喧騒も何も聞こえない街の隅っこで、彼らは出会ってしまった。
それは運命的であると言え、必然であるとも言える、印象的な出会いだった。
少年と少女が相対して立っている。互いに無言のままだ。
それは言葉を探しているが故の無言ではなく、驚倒したため声が出ない、という状況が生み出した、無音でしかない。
少年は呆けたまま棒立ちしている。いや、その表情が果たして本当に呆けているのかどうか、判別すらできないが。
少女は大口を開けて固まっている。いや、大口過ぎて、人間でさえもそのまま丸呑みしかねない勢いだが。
向かい合っての膠着状態は長く続いた。
五秒、十秒、三十秒と時間は経ち、その間、彼らの表情はめまぐるしく変遷する。
そしてそろそろ一分が経とうとした頃、彼らの顔面に浮かんだ共通の感情は、恐怖だった。

「ぎゃあああああああああああああ!」
「キャアアアアアアアアアアアアア!」

二人分の悲鳴が街中に轟いた。羽虫の囁きはぴたりと止み、夜の静けさは一瞬にして打ち破られる。
それから彼らは、反発する磁石のように、全力で逆走し始めた。
どちらも、大変なものを見てしまったと言わんばかりの様相で、狭く入り組んだ街路を疾駆し、ひたすらに逃げていく。
途中で転びそうになりながら、ぜえぜえと荒い息を吐きながら、冷汗を大量にかきながら、ただただ逃げていく。
傍から見ればそれは異様な光景だっただろうが、もしも二人の容貌を確認することができたなら、彼らの行動もまた理解できるのかもしれない。
それとも、理解うんぬんの前に、恐怖で腰を抜かしてしまうのだろうか。
少年は「のっぺらぼう」であった。
カジュアルな服装はともかくとして、首から上の真っ平らな顔が、心胆を縮み上がらせるほどに恐ろしい。
少女は「口裂け女」であった。
手に持った裁縫用の大きなハサミはともかくとして、真っ二つに裂けた口は、そんな可愛らしささえ完全に払拭してしまうほどに恐ろしい。
そんな「妖怪」二人組が、互いの容姿に恐怖して、滑稽に逃げ惑っていた。
静かな夜の中を、うるさい足音がどたどたと通り過ぎていく。
かくして、のっぺらぼうと口裂け女の初対面は、互いに互いを恐怖することで、おひらきと相成ったのである。
そして夏の夜が始まりを告げる。長いようで短い、物語の始まりを。





[20920] ――第一話――
Name: えす◆89cc5119 ID:d3c8c61f
Date: 2010/08/06 21:24
面無平太(おもなしへいた)の朝は遅い。
アウトローを自称する彼にとって、朝方、定刻通りに登校するなんて所業は、到底出来ることではないからだ。
もともと彼は夜型の体質であるし、早起きは三文の徳なんて諺に、何の価値も見出せないタイプの人間だ。
故に、連日遅刻の状況に陥るのは当然のことであり、彼の態度もまた堂々たるもので、遅刻したくらいがなんだ。お前たちに迷惑をかけているわけじゃないだろうが、とでも言わんばかりだ。
ここ一ヶ月間においては、その不埒な生活態度にはさらに磨きがかかり、遅刻どころか丸一日サボってしまう日さえも増える一方となっていた。
それもこれも、連日徹夜に近い日々が続いているのが原因なのだが。
そうして平太は、今日も今日とて盛大に寝坊をかまし、盛大に遅刻をかますのだった。

「うぃーす」

間延びした挨拶の言葉とともに、平太は教室の扉を開いた。割と筋肉質な平太の巨躯が、黒板の前をゆっくりと通り過ぎる。
桜麻学園二年一組のクラスメイト達。その白い目が一斉に平太を射抜く。当然だ。今は四時間目、もちろん授業の最中なのである。
しかし、平太はそんな非難の目線をものともせず、鷹揚な動作で自らの席まで歩み寄ると、そこにどっしりと腰を下ろした。

「……えー、面無くん?」
「よおジジイ。本日はお日柄もよくって感じだな。俺には構わず、どうぞ勝手に授業を進めてくれや。俺は寝るから」

声を上げた老教師に対して、平太は言いたいことを一行にまとめて述べ、そのまま机に突っ伏してしまった。
大遅刻の上に授業放棄。これでは、まったくもって学園に登校してきた意味が無い。
しかし今の平太は非常に眠く、またその眠気を自制するつもりなど毛頭なかった。
だから眠る。ただ眠る。惰眠を貪る。彼はそう決め込んだ。

「お、面無くん? 今、来たばかりで寝るというのは……」
「春眠暁をなんとやらってやつだ。寝させろ、ジジイ」
「今は夏なのですが……」
「知るか。授業妨害するわけじゃねえんだ。いいから寝させろ、ジジイ……ふあぁ」
「た、担任教師に対して、ジジイと言うのは……」

哀れ、老教師の突っ込みは平太の耳まで届かず、逆に彼の寝息によって黙殺されてしまった。
クラス内の雰囲気は最悪だ。平太の乱入により授業時間は蹂躙され、最早皆の怒りと呆れは頂点にまで達するほどだった。
そんな中、国語担当の老教師だけが、流れる汗をハンカチで拭きながら授業を再開しようとする。

「え、えー、次は百十二ページの……」

蝉の声が静かに響く、初夏の一日だった。





間抜けなチャイムの音が授業の終わりを告げる。四時間目が終了したということは、後に待っているのは昼休みだ。
平太はチャイムの音に合わせてさっと起き上った。それから、夢遊病患者のようにふらふらと席から立ち、財布をポケットに入れて歩き始める。
寝起きであるため、普段ですら強面である平太の目つきは異常に鋭く、これから殴りこみにでも行く人間かと見紛うほどの鬼面となっていた。
途中ですれ違った女子生徒から小さな悲鳴が聞こえたりもしたが、平太はそれを別段咎めることもせずに、目的の場所へと向かう。
鼻歌を口ずさみながら廊下を渡り歩き、二組、三組と教室の前を通り過ぎ、やがて購買部の陣取るスポットに到着した。
そこに佇んでいる生徒の数はまばらだ。人気のある菓子パンなどは、ほとんど午前中に売り切れてしまうため、昼休みになってから購買に出向く生徒はあまりいないからだ。
しかし今日の平太は重役出勤。もちろん朝からパンを確保などしていたはずがないので、人気のない商品の中から選ぶしかなかった。
ガラスケースの中をのぞく。残っている商品の中では、サンドイッチとカレーパンとアンパンくらいしか、めぼしいものはない。ちなみにサンドイッチは一つしか残っていない。
それらの隣に、多種多様な清涼飲料が立ち並んでいる
。こちらも人気のあるものは姿を消しており、残されているのは、野菜ジュースと豆乳とスポーツドリンクと、何やら得体の知れぬ名称のジュースが数種類。
当たり前の事実に平太はため息をつく。仕方ないと思い直し、ガラスケースの中を指さしながら、当番である購買部の生徒に命令口調で声をかけた。

「おい、サンドイッチとカレーパンと、あと野菜ジュースよこせ」
「すいません、サンドイッチとそらまめジュースを……」

横から聞こえてきた不穏な商品名に、平太ははっとして振り向いた。

「あっ……」

透き通るようなソプラノボイスが響く。
背の低い少女がそこにいた。
同学年だろうか。肩までかかる艶やかな黒髪が印象的である。手にはピンク色の財布を持っており、ぽかんと口を開けて目を瞬かせている。
良く見ればなかなか可愛らしい顔立ちの女生徒だった。
なんとまあ、ベタな展開もあるものだなあ、と平太が思っていると、その女生徒は急に顔色を変え、あたふたとし始めた。

「お、面無くん……」
「うむ。いかにも。面無っつったら俺だ」

無意識の内に相手を威圧する、平太の尖った容貌に、女生徒はひっと息を詰まらせた。
当の本人である平太は無自覚であるが故、なぜ目の前の女子がそこまで怖がるのか、まったく理解できていない。

「お、面無くん、その、サ、サンドイッチ……」
「ん? おお、そうか。そうだな」

ガラスケースの中に一つだけ、ちょこなんと残っているサンドイッチ。
平太はそれに特にこだわりがあるわけでもないし、可愛らしい女子を突っぱねてまでそれを確保する気もなかった。
であるから、サンドイッチは断念して譲る気でいたのだが、それ以前に平太が気になっているのは、目の前の彼女の注文内容だ。
サンドイッチとそらまめジュース。
そう、そらまめジュースである。
その面妖な飲料は一体どのような味なのか、平太には解りかねた。試しに注文する気さえも起きなかった。

「そもそも、そらまめとサンドイッチは合うのか? どうなんだ? 未知だな」

知らず知らずこぼれていた平太の呟きを聞いて、女生徒は思い切りどもりながら返答する。

「ご、ご、ごめんなさいっ! ですよねそうですよね! 合わないですよね! 合わないですよねごめんなさい!」
「あ、いや、解らんぞ。ただ俺としては合うのかどうか疑問に思えるだけで」
「いいえ! 合わないで合ってます! 合ってるんで合わないんです! あ、あれ? 合ってなくて、合ってて、アレ?」

自分の発した言葉自体に狼狽する様子を見て、平太はどうにもむず痒い気持ちに襲われた。
これが俗に言う天然キャラなのだろうか、と下らないことを考えてみたりもした。

「と、とにかくごめんなさいっ! ヤッパリ合わないので、サ、サンドイッチは、お、お譲りしますっ!」
「何? いいのか? 前言撤回は無しだぞ?」
「かまいませんっ!」

威勢良く言い放ち、それでも涙目のまま、少女は一人取り残されていた購買部員へと向き直った。

「そらまめジュースと、カニみそジュースと、アルファルファジュースくださいっ!」
「うおぉ……」

凄絶な商品名の羅列に、平太は思わず冷汗を浮かべた。
購買部員でさえ、どこか呆れたような表情でジュースのパックを手渡している。そんな注文をする生徒など、眼前の少女くらいしか存在しないのだろう。
そして気になるのはカニみそだ。それは最早ジュースというより、ペーストになっているのではないだろうか。

「それじゃ、し、失礼しましたあっ!」

女生徒は平太に向かって思い切り頭を下げ、目を回し、頬を朱に染まらせて、ふらりふらりと二年二組の教室へと戻っていった。その後ろ姿を、平太はぼんやりと見送る。
おかしな少女であった、と平太は思う。結果的には昼食を確保できたので良しとするが、できることなら、もう少し彼女の奇行を見守っていたかったような気もする。
そんな一抹の名残惜しさを感じつつ、平太はサンドイッチとカレーパンと野菜ジュースを、滞りなく購入した。

「それよりも」

ふと声を出し、一呼吸置いて、平太は頭に疑問符を浮かべる。

「何でアイツは、俺の名前を知ってたんだろうな」

自らが校内では不良生徒として意外と有名であることを、平太は全く知らなかった。





午後の授業を爆睡することでやり過ごし、平太はそのまま帰路についた。
アウトローを自称する彼にとって、部活動は自らを束縛する枷でしかない。帰宅部所属だと言ってお茶を濁すこともない。彼は無所属を貫き通しているのだ。
一年生の頃はガタイの良さを買われて、様々な運動部からお誘いの声がかかったものだったが、平太はそれらをことごとく無視した。
それを見た文化系の部活動からもいくつか勧誘はあったが、にべもなく断った。呆れた徹底ぶりである。
とにかく、部活動によって時間を縛られることもなく、登下校に要する移動距離も、さほど長くない平太だ。十数分もぶらぶらと歩けば、やがては自宅に辿り着いてしまう。
平太の自宅は一軒家だ。辺りに点在する冷たいマンションとは違い、どこか温かみを感じさせる、少し古びた家。
平太はその家の鍵を開け、ゆっくりと玄関に上がり、独り言のように呟いた。

「ただいまさんっ……と」

返事はない。当然の帰結だ。
平太は天涯孤独の身である。
幼いころ、事故で両親を亡くしてからというもの、長らく一人身の生活を営んできた。
正確に言えば、叔父や叔母などに面倒を見てもらっていた時期もあるが、高校へ進学してからは、昔々に両親と暮らしていた一軒家に、自分だけ身を移したのだ。
思い入れがあったからかもしれないが、それだけではない、と平太は考える。
思い入れがどうこうと論じる前に、彼はもっと切羽詰まった問題を抱えていたからだ。
靴を脱ぎ、制服を着替え、平太は広いソファに深く沈んだ。
しばらく呆けて何もせずにいたが、やがておもむろにテレビのリモコンを手にして、ザッピングを始める。
特に面白くもなさそうなバラエティー番組にチャンネルを合わせ、平太はそれをただ眺めた。

「ぎゃはははは」

笑ってみる。平太のそれは嘲笑とも取れるものだった。

「虚しい……」

夜が深くならない限り、平太が本当に望んでいる「暇潰し」は為し得ない。
このままソファの上で時間をつぶすことも不可能ではないが、それまで、一体どれほど退屈な時間を過ごさなくてはならないのだろうか。
平太は居間の時計にちらりと目をやった。時刻は午後五時を少しだけ回ったところだ。

「あと五時間……!」

愕然とする。午後十時まで、あと五時間。何をすりゃいいんだ畜生、と平太は嘆き、さらに深くソファに沈んだ。
しかしそこで、彼のもとに天啓が舞い降りた。
平太はソファから躍然と身を起こし、テーブルの上に置いてある携帯電話を手に取った。
下衆な笑みを浮かべながら、ボタンをプッシュする。一回、二回と呼び出し音が鳴り響いた後、相手方が電話に出た。

「おう、オレだ。……オイてめえ、ペー太と呼ぶなコラ。何度言ったら解る、この牝牛が…………
 あー、そうだ。バイトをやらせろ。臨時収入をよこせ。……ンだと? いつでもオッケーとか朗らかにのたまってやがったのは、どこのどいつだと…………
 おーそうだ、よーっし、良く解ってんじゃねえか。……うむ。じゃあ六時に行く。待ってろ」

平太は電話越しの相手に対し、一方的に捲し立てると、そのまま電話を切ってしまった。
それから自室へと赴き、制服姿からラフな格好へと着替え、身支度を整える。
そう。臨時収入のため、バイト先へと出向くのである。





「ギャハハハハ!」

暗く狭い夜の路地に、平太は高らかな笑い声を響かせた。
彼の手には、これ見よがしに五千円札が握られている。与えられた給料。バイトによって得た報酬である。

「しっかし、チョロイ仕事だ。写真一枚につき、報酬五百円だもんなあ!」

知り合いの女性から頼まれた仕事。被写体となって数枚の写真を撮られるだけで賃金が貰える、モデルのまねごとのようなバイトである。
楽な仕事ではあるが、労力と給与とが釣り合っていないな、と平太は思った。もちろん、こちらにとって都合がいいのは確かなので、文句はなかったが。
しかし、自分のような野郎の顔写真なんぞに、一体どれだけの価値があるんだか、と平太は心底思う。
それぐらいなら、自分のもう一つの「顔」を撮らせた方がよっぽど金になるだろうに。
そんなことをつらつらと考えながら歩き、平太はやがて帰宅した。時刻は午後九時を少し回ったところだった。
夕食はバイト先で賄ってもらった平太だが、健全な高校生男児である分、夜中に小腹が減るのは仕方のないことだった。
平太は戸棚の奥からカップラーメンを取り出し、湯を沸騰させて、注ぎ、暫し待った。

午後九時二十分。

出来あがったカップラーメンを完食し、一息ついた平太は、特に何をするでもなく、ソファにごろりと寝転んだ。

午後九時四十分。

平太は起き上がり、テレビの電源をつける。興味の引かれる番組など一つもないことは百も承知の上だった。

午後九時五十分。

ようやく目が冴えてきた、などと平太は独り言をのたまい、テレビの電源を消した。

午後九時五十五分。

どくん、と平太の心音が一際高まった。いつになってもこの感覚には慣れない、とひとりごちる。
平太は徐々に徐々に、瞳を閉じた。瞼の裏側に映るものは何もない。ただ、蛍光灯の淡い光だけが、皮膚を通り抜けて眼球に刺激を与えている。
心臓が早鐘を打っているのを、平太は確かな感覚として受け止めていた。もう後五分、四分、三分が、随分と長いもののように感じられた。
夜が深まる。そして今、午後十時。どこか遠くから、風の鳴る音が聞こえた。

「…………」

平太はゆっくりと目を開けた。いや、開けたのかどうかは、傍から見れば判別できない。少なくとも彼自身は「目を開いた」と実感していた。

「……ぎゃははっ」

嘲笑う。マンガやドラマに登場する悪役のような、謀略を企てている人間の笑いだ。
しかしその笑いすらも、傍から見れば判別できない。
それは部屋が暗いから顔が見えない、なんて次元の問題ではなかった。

「ギャハハハハッ!」

平太は笑う。ただ笑いながら、自らの望む「暇つぶし」を実行するために、玄関先へと急いで向かい歩くのだった。








朽崎霧枝(くちさききりえ)の夜は、今日に限って遅かった。
優等生である彼女は、基本的に夜更かしはしないと、心の中で取り決めている。低血圧気味な分、寝不足になると授業をおろそかにしてしまう場合があるからだ。
一度だけ、彼女も授業中に居眠りをやらかしたことがあるが、それももう、何年も昔のことである。
中学校に入学してからは、一度たりとも居眠りはしていない。それは高校生になってからも続いており、彼女にとっては神聖な約束事だった。
さて、そんな彼女ではあるが、今日に限って、何故だか夜更かしをしていた。
時刻は午前零時半過ぎ。彼女が住む街、陽海市の一角、その限りなく暗い隘路で、彼女は尾行を行っていたのである。
黒く長いコートに、大きなマスクをつけた顔面という出で立ち。何もかもが、普段の彼女の恰好からかけ離れているようだった。
そんな怪しい風体を、夜の街路に潜ませて、霧枝はただ、一人の少女を尾行している。

「…………うぅ」

落ち着かないなあ、と霧枝は思った。
前方を歩く少女を凝視しながら、緊張で震える足を精一杯押しとどめる。それから顔を上げ、再び尾行相手の後ろ姿を凝視する。
長い茶髪が揺れる、長身の女だった。大学生かと見紛うほどのスタイルだが、霧枝は彼女が間違いなく高校生であることを理解していた。
同じ高校に通う、しかも同級生の女子だ。美人だということで、男子の間では評判が良い女生徒だ。と、そのように霧枝は認知していた。

「今……えっと」

霧枝は腕時計に目をやって、深く深く、ため息をついた
こんな夜遅くに、外を出歩く不良女子高生が二人も! しかもそのうち一人は自分自身で、その自分はまさか尾行の真っ最中だなんて!
少しずつ、自らの優等生像が崩れていく様を想像する霧枝だったが、ここまで来てしまったのだ。後戻りは許されない、と改めて自らを鼓舞した。
そう。これは大きな正義のための小さな悪事なのだ。我が身は、汚され辱められた友人のためにある、正義の鉄槌なのだ。
強く拳を握り、胸に当てる。

「待っててね、美鶴ちゃん。私、絶対にあのヒトを、ギャフンと言わせてやるんだから!」

伏せていた目を上げ、決意も新たに、霧枝は尾行を再開しようとした。
しかし、前方を歩いていたはずの女性の姿は、どこにも見当たらない。

「あ、あれ?」

軽く自分の世界にトリップしていた際に、見失ってしまったのだろう。
霧枝は天然だった。ド天然だった。ド天然でうっかり属性持ちだった。それは彼女が通う桜麻学園においても、周知の事実であった。

「ど、ど、どうしよ……」

頭を抱え、その場にうずくまる。
昔から良くあることだった。霧枝の周囲の人間は、うっかり屋なところも魅力の一つだなんて言ってくれるが、霧枝にとっては、そんなスキルは邪魔なものでしかなかった。
ああ、自分が恨めしい。せっかく気を張って、ここまで後をつけてきたというのに、見失ってしまっては意味がない。
嘆き、悲しみ、後悔をして、霧枝は目の縁に涙を溜めたまま、鼻水をすすった。
ぐずぐずしていても仕方がない。速やかに体制を立て直して、あの女をもう一度、見つけ出さなくては。
何度もチャンスがあるわけじゃない。今日実行しなかったら、次はいつできるのか、解ったものではない。
霧枝がそう思い立ち、震える膝を叱咤激励し、立ち上がったその時だった。

「……っ! 今っ!」

霧枝が佇む路地の壁、その向こう側から、女性の者と思わしき悲鳴が届いた。
高く長いその叫び声は、静かな夜の街に反響し、だんだんと遠くなっていく。
霧枝の頬を、一筋の汗が流れた。
どうする。どうすればいい。
今の悲鳴は、恐らくではあるが、自分が追っていた女生徒のものではないだろう。だがしかし、誰か別の女性が襲われたということは紛れもない事実だ。
とくとくと、霧枝の心臓は異常な速度で脈動していた。
悲鳴は近かった。そして遠くなっていった。と言うことはつまり、ここに近い地点で誰かが襲われ、悲鳴を上げて逃げていったのだろう。
いや、それよりも重要なのは、その女性を襲った誰かは、今どこでどうしているのかということだ。
逃げ行く女性を追いかけているのか。それとも、この場に留まっているのか。
霧枝はひっ、としゃっくりを上げた。
恐怖で身がすくむ。家に帰って布団にくるまっていたいという欲求が、心の底からじわりじわりと染み出してきた。
その欲求はまるで湧水のように霧枝の心に浸潤し、結果的に、彼女をその場に縛り付けて動けなくしていた。
どうしよう。逃げるのか。どうすれば。向かうのか。どこに向かうのだ。
霧枝は重たい頭を強く振った。混乱している。冷静になれ、と自分自身に言い聞かせた。そして、震える腕をがしっと抑えつけ、わたわたと動き始めた。

「ハ、ハ、ハサミ、ハサミッ!」

切羽詰まった状況が彼女突き動かしたのだろうか。霧枝は持参していたポーチの中から、裁縫などに使う大きめのハサミを取り出した。
もともとは、彼女の果たすべき目的のために用意された代物だったが、今この状況下では、護身用にこれを使わない手はない、と思われた。

「……い、い、行かなきゃっ!」

生唾を嚥下し、少しの逡巡の末、彼女は一歩を踏み出した。次の瞬間には、微速ではあるが駆け出している。
夏の夜風が、霧枝の頬を軽くかすめた。





息を弾ませながら、霧枝は足を前へ前へと運んでいた。

「はっ、はっ、はっ」

勉強は割とできるが運動は昔から苦手な霧枝は、特に持久走などの競技が苦手で、スポーツテストの時はいつも恥をさらしてきた。
いや、実のところ、短距離でも長距離でも、もっと早く走りぬけることはできるのだが、霧枝はそれらの競技でどうしても手を抜いてしまうのだ。
それは昔からのクセだ。過去のトラウマによって彼女が作り出してしまった癖だ。
そんなことをぼんやりと思い出しながら、霧枝は走り続ける。緊張のせいもあるだろうが、そのスピードはやはり随分と遅い。
入り組んだ道路を走り抜け、先ほどいた場所と、道を一本挟んで反対側の地点にまで到達する。
心臓が煩わしく感じるほどに鳴り響いている。その理由は、曲がり角の向こう側から感じられる「気配」にあった。
いる。絶対にいる。その曲がり角の向こうには誰かが、何かが、絶対にいる。
根拠のない確信を胸に抱きつつ、霧枝はゆっくりと深呼吸をした。
気配は動く様子を見せない。向こうもこちらの気配を感じ取っているのだろうか。だから待ち伏せのつもりで、微動だにしないのだろうか。
だとしたら、逆に立ち向かってしまえ、と霧枝は心を決めた。大きなハサミを左手に持ち替えて、霧枝はマスクを外した。

「……ふぅ……ふぅ……」

果たして、マスクの下から現れた霧枝の素顔は、「化け物」そのものであった。
真っ二つに裂けた口。その傷口は耳の付け根にまで到達しており、白く健康的な歯が、そこから覗いていた。
口裂け女だ。
数十年も昔に、都市伝説として流行した、架空の怪物。その実物とも言える存在が、霧枝だった。
彼女は確かに口裂け女として、そこに存在しているのだ。
この暗闇の中、誰か彼女の姿を見た者がいたとするなら、その者は確実に失神してしまうだろう。
たとえ、本物の口裂け女が、目が覚めるような可愛いらしい女子高生であったとしても、異形の怪物であることに変わりはないのだから。

「ふぅ……ヨシッ!」

意を決して、霧枝は足を踏み出した。
そうすると決めればやり遂げる直情型人間。それが霧枝だ。
友人の敵討にしたってそうであるし、今のことだってそうだ。
怖がりで、天然で、うっかり屋ではあるが、やはり意思が強い少女なのだ。
乱れた呼吸をなんとかして正しながら、霧枝は曲がり角へと近づいていく。
一歩、五歩、十歩。そしてもう後一歩飛びだせば、そこで待ち受けているであろう者と相対することになるのだ。
来てしまった。もう、飛び出すしかない。半ばやけくそになりつつも、霧枝は曲がり角の向こう側へと躍り出た。
そして、そこにいる人物の顔を直視する。

「……」
「……」

無言になった。霧枝も、相手も。
凝視すること数十秒。霧枝は脳味噌を最大限まで回転させ、必死に今の状況を理解しようとする。
まず、相手の恰好。これは普通だ。普通の若者らしい、普通の恰好だ。
次に体格。がっしりとしている。そう言えば、今日の昼休みに購買で出会った、あの名物不良生徒も、割と筋肉質だったなあと思い返した。
最後に顔。ここがおかしい。
鼻も口も耳も何も、ついていない。つまりは、言ってしまえば、のっぺらぼうだ。
それを理解してしまった瞬間、霧枝の恐怖は上限値をあっという間に飛び越えた。
それは恐らく、目の前の「妖怪」にしても、同じことだったに違いない。

「ぎゃあああああああああああああ!」
「キャアアアアアアアアアアアアア!」

甲高い悲鳴を上げて、霧枝はその場から一目散に逃げ出した。
頭の中は真っ白で、何も考えられなくなっていた。ただこの場から逃げなくてはという思いだけが先立っていた。
そのため、相対していた妖怪の方も、彼女の容貌に恐怖して逃げ出したという事実には、気がつけなかったのである。
普段の霧枝からは想像もつかないほどのスピード、あるいは乗用車さえ追い越してしまえそうな速度で、霧枝はただ逃げ続けた。
羽虫達が、申し合わせたように鳴き声を上げ始める。
二人分の足音が、夜の闇に掻き消された。





解錠する音がけたたましく鳴り響いた。
直後には、扉は勢いよく開け放たれ、平太の身体は自宅の廊下に転がっていた。

「み、み、見ちまった……」

青ざめた顔で、肩をぶるぶると震わせながら平太は呟く。見てしまった。口裂け女を、見てしまった。
恐怖と言う感情が液状化して、喉から溢れてきそうだ、と平太は思った。震える膝に活を入れ、なんとか立ち上がり、息をつく。

「れ、冷静になれよ、オイ……らしくないぜ、オレ」

自らに語りかけることで、緊張と恐怖はだんだんと緩和されていくものなのだということを、平太は良く知っていた。
落ち着け、落ち着け、と幾度も独白しつつ、平太は深呼吸をする。
体中の空気を入れ替え、汚いものを吐き出してしまうイメージで、深く息を吸い込み、そして吐く。
その行為を五分ほど続けたころには、平太は早くも平常心を取り戻していた。未だに若干の恐怖は残っているが、それはもう致し方のないことだろう。

「ふー……あー……びびった、マジでびびった」

ずるずると壁に背を預け、平太は額に浮かぶ汗を拭った。冷却された脳で、再度考えをまとめようと試みる。
アレは何だったのだろうか。決まっている。口裂け女だ。
随分と背が低かった上に、装着しているロングコートも驚くほど不釣り合いだったが、あの大きく裂けた傷口は、確かに口裂け女のものだった。
口裂け女。まさかそんなふざけた存在に遭うとは、と平太は思った。
しかし次の瞬間にはふと考えなおす。そう言えば、自分も同じようなものではないかと。
そう思うと、心に堆積していた恐怖も、だんだんと下らないもののように思えてくるのだ。

「……ギャハハハッ」

力無いが、いつも通りの嘲笑を、平太は浮かべた。
これはもしかしたら、ラッキーなのかもしれない、と平太は思った。
自分と似たような存在。もし、先程出会った口裂け女も、自分のような特異体質の持ち主だったならば。

「……チッ」

ふと脳裏に浮かんだ、幼いころの記憶に、平太は思わず舌打ちをした。
それは排斥されていた頃の記憶だ。
小学生の頃はうそつき呼ばわりされ、中学生の頃は、夜遊び不可能と言うだけで不良仲間には入れてもらえなかった。
十時過ぎたら俺はお化けになる、と言っても信じてもらえるわけがなかった。自分で設定した門限が九時半ならば、昨今の不良中学生に仲間入りすることは不可能だった。
どれもこれも、この意味不明な体質のせいだ、と平太は息巻いた。
午後十時を過ぎると、いわゆる「のっぺらぼう」になってしまうという、突飛過ぎてわけのわからない、特異体質。
平太は長らくこの体質に悩まされてきたのだ。
例えば、これのせいで夜遊びは出来ない。
口が付いていないから夜食も食べられないし、鏡を見たらゲシュタルト崩壊を起こしてしまいそうになる。
だが逆に言えば、それ以外の点では、特に不便なことはなかった。
原理は解らないが、口や鼻がなくても呼吸はできる。耳がなくても音が聞こえ、目がなくても風景を見ることができる。
重ねて言うが、平太にそれの原理は説明できない。ただ、そうなのである、としか言いようがないのだ。
それはさておき、と平太は真っ平らな自らの顔に手を当てた。
もしも本当に、あの口裂け女が自分と同じ境遇にあるのだとしたら、どうなのだろうか。
馬鹿らしいことだが、相互に仲間意識でも芽生えたりするのだろうか。いや、排斥されていた過去の記憶が、それさえも拒むのだろうか。
平太には解らなかった。が、彼女の存在について解りたいとは思っていた。

「それに」

平太は、口裂け女の正体について、若干の心当たりがあった。
あの怪物じみた口元は確かに恐ろしかったが、あの背の低さ、艶やかな黒髪、そして彼女が上げた悲鳴に、覚えがあったのだ。
昼休みに購買で出会った女生徒だ。あの奇怪な行動をとった、天然と形容できる女生徒だ。
名前は知らないが、同学年で、しかも隣のクラスに在籍しているということは解っている。
そうだとしたら、どうするのだ。いや、決まっている。
平太は立ち上がり、それから大きく欠伸をした。

「今日はもう……寝るか。よし、寝よう。寝ちまおう」

そして明日は、購買で出会った少女に、口裂け女に、もう一度話しかけるのだ。
平太はそう決心し、布団をかぶって眠りこけるために、ふらふらと自室へと向かうのだった。





[20920] ――第二話――
Name: えす◆89cc5119 ID:d3c8c61f
Date: 2010/08/07 17:49
それは、遠い遠い昔の記憶だ。
平太はまだ小学生だった。近所では活発な男児として、学校では悪戯小僧として、日々の生活を楽しむ、ただの小学生だった。
そんな中で起きた、忌わしい事故。
飛行機の墜落事故だった、と平太は記憶している。
結婚記念日に二人きりで旅行と称して、機上の人だった彼の両親は、平太が「おかえり」の言葉も言えぬ内に、帰らぬ人となってしまった。
当時は大きなニュースとして取り上げられていたかもしれないが、最早そんな事情もすべて、平太にとっては忘却の彼方にあった。
ただ残っているのは、とてつもない喪失感だけだ。
それから先の日々は、苦行の連続だったと言える。
まずは平太の身体に異変が起きた。そう、夜中になるとのっぺらぼう成り変ってしまうという、迷惑極まりない特異体質を身につけてしまったのだ。
しかし幼い彼は、それを自分だけの特別なモノとして受け入れてしまった。
それは、もしかしたら両親の死による喪失感と引き換えに、充足感がほしかったからこその行動だったのかもしれない。
平太は自慢した。子供たちに向かって、俺はのっぺらぼうになれるんだ、なんてことを自慢げに話した。
当然、信じてもらえるわけがなかった。
証拠を見せろと言われても、普通の小学生が夜中まで活動できるはずもなく、もとより友人の少なかった平太は、友人同士でお泊まり会などを計画することすら叶わなかったので、のっぺらぼうになった素顔を見せるのは苦難であった。
そして結局、平太の身に降りかかったのは、いじめであった。
子供は残酷だ。残酷故に歯止めが利かない。
そして好きなだけ、飽きるまで、排斥と差別を繰り返すだけ。

「嘘つき平太!」
「お前なんかと遊んでやらねー!」
「帰れ、バーカ!」
「親無しっ子!」

特に、最後の言葉は良く浴びせられた。
そしてその言葉こそが、平太にとってはもっとも辛い仕打ちとなっていたのだ。
いじめられ続け、仲間はずれにされ続けた小学生時代。
それからだった。
平太が自ら、不良になることを望んだのは。





はっとして起き上る。
シャツはびしょ濡れで、呼吸は荒い。朝っぱらから嫌なモノを見てしまった、と平太は息をついた。
あんな過去、今さら思い出したくもないというのに。昨日のイレギュラーのせいで、随分と感傷的になってしまっているようだ。

「……くそがっ」

乱れた呼吸のまま、平太は拳を強く握った。
時刻は午前七時半。
平太にとっては、あり得ないほどの早起きであった。





二年一組の生徒たちは、担任教師も含めて、信じられないと言わんばかりの表情で驚倒していた。
いつもいつも遅刻ばかりで、欠席日数も増えるばかりだった不良生徒の、面無平太。
その平太が、朝のホームルームに出席しているという事態が、あまりに異常だったからである。

「オイ、ジジイ。さっさと始めなくていいのか?」

無音の教室の中、誰も動き出そうとしない中で、平太が口を開き暴言を吐いた。声を当てられた老教師は、はっとして取り繕い始める。

「え、えー。面無くん、そのですな。君が態度を改めてくれたようで、なにより……」
「ほざけ、ジジイ。いいから出欠取れよ。一時間目始まんだろうが」
「そ、そうですな」

平太の言葉に辟易としながら、老教師は出欠確認を取り始める。
彼の持つ出席簿、その上部にある面無平太という名前の横に、随分と久しぶりにチェックマークがついた。
老教師が内心で嘆息していると、再び平太から声が飛んできた。

「なあ、ジジイ」
「な、なんですかな?」
「一時間目の授業、何だったっけか?」

そして平太は、一時間目の体育の授業を、制服姿のまま受けるという、飛んでもない無茶をやらかすのだった。





四時間目の終わりを告げ、昼休みの始まりも同時に告げるチャイム。平太はそれに合わせて、すぐさま教室から抜け出した。
奇特なものを見るようなクラスメイトの視線が、平太の背中にじくじくと刺さったが、彼は気にも留めずに隣の教室へと向かう。
二年二組だ。そこが恐らく、口裂け女の在籍するクラスなのだから。
平太は教室の扉を開け、一歩だけ中に踏み入った。
二年二組の教室内に緊張が走る。突然、不良生徒が乱入してきたのだ。誰しもが気を張ってしまうのは当たり前だろう。
平太は教室内をぐるりと見渡して、目的の人物を視認した。黒髪で小柄な女生徒だ。
彼女は、先日購買の前で出会ったときと同じように、ピンク色の財布を片手に、教室の外へ向かうために歩く途中だった。
心なしか顔色が悪いように見える。昨晩の邂逅を今日まで引きずっているのかもしれなかった。

「おい、そこのお前」

平太の良く通る声が、少女を射抜いた。
ぴたりと動きが止まり、機械人形を思わせる動作で、ゆっくりと平太に顔を合わせる。

「ちょっと来い。大事な話だ」

有無を言わさぬ平太の迫力に、少女は思わず頷いてしまっていた。
ちなみに、二人が去った後の教室内は、不良生徒が美少女優等生を連れ去ったということで、大荒れになっていた模様である。





柔らかい風が吹き抜ける屋上に、二人は立っていた。平太の考えが正しいならば、少女との対面はこれが三度目である。

「あ、あ、あ、あの、面無くん? さん? えっと、あの」
「呼び捨てでも構わねえよ。とにかく、無理に連れてきて悪かったな。とか謝ってみるが俺じゃ似合わねえか? どうだ?」
「い、いえいえいえいえいえ、いえいえ!」

ぶんぶんと首を振り続ける霧枝を見て、平太は、やはり人違いだったのだろうか、などと思い始めていた。
いや、しかし昨夜見た姿は、今眼前に佇む少女と確かに一致しているのだ。脳裏に浮かんだ疑念を打ち払い、平太は再び口を開いた。

「なあ、お前さ、口裂け女だろ?」

風が一際強く吹いた。
突発的な上に、ストレート過ぎる一言。
少女の顔がみるみる青くなっていく。そしてやがては赤くなり、続いてまた青くなり、最後には目を潤ませていた。

「ちっ、ちっ、ちっ、ちっ、ちがっ、ちがっ!」
「あーあー、解った。やっぱりお前だな。うん」
「ちがっ、違いますううぅぅぅ……」

ずびずびと鼻水を流し弁明する少女を見て、何だか解らんが台無しだ、と平太は思った。
ため息も漏れれば、苛立ちも募る。

「ええい、泣くな小娘! まるで俺が苛めっ子みたいな構図じゃねえか、コラ!」
「苛めっ子じゃないですかああぁぁぁ……見た目もおおぉぉぉ……」
「産まれてこのかた、いじめに加担したことだけはないのが自慢の俺様に向かって何を言う、このアマ!」
「ひっ!」

泣きやんだのは良いが、今度は随分と怯えさせてしまったようだ。
扱いに困る。これだから女子などいう奇妙な存在との会話は成り立たないのだ、と平太は内心で嘆いた。

「よし。取りあえずは話を聞け。泣くな怯えるな帰るな聞け、いいな? オイコラ」
「ご、語尾に物騒な一言付け加えないで……」

少女の小言を、平太は思い切り無視した。

「いいか? まずは先に言うが、俺は昨日、てめえと会ったのっぺらぼうだ」
「……えっ?」
「なんだよその、ウソでしょ!?、ってな反応は。普通解るだろ。ここまでの展開で読めるだろ。いや、お前の反応が正しいのかこの場合。解らんぞ。くそう。ふざけんな阿呆」
「ひ、一人で怒らないで……」

少女の小言を、平太は思い切り無視した。

「まあいい。ともかく、お前を呼んだのは昨日のことに関して、色々話しとくかな、なんて思ったからだ」
「だ、だから私は口裂け女じゃなくて……」
「カマトトぶるなよ。いくら口がぱっくり裂けてようが、目元とか背丈とかで判断できるだろ?」
「……そですね」

諦めたように、少女は呟いた。幾分か呼吸も整ってきたようで、普通に会話が成り立つくらいには、動揺からも立ち直ったように見える。
平太はそんな彼女の様子に満足して頷き、改めて向かい合った。

「そんじゃ、アレだ、アレ。こーゆー時はどうすんだ? 解らん。おい貴様、教えろ」
「へ? えー、えと、じ、自己紹介など、ど、どうでしょうか?」
「面無平太だ」
「あ、知ってます」
「なんで知ってんだよコラ。てめえアレか、ストーカーか。だから夜中に出歩いてたのか。つーことは俺を追ってたのか。ふざけやがって殴るぞ、いや待て女は殴れねえ」
「ち、違くて、ホラ、面無くんって、有名だから……」

有名、という少女の言葉に、平太は首を傾げた。
どのような点で有名なのだろうか。やはり、不良生徒として校内では名を馳せているのだろうか。
だとしたら、少し誇らしいかもしれない。平太はそんなことを考えて頬を緩ませた。頭の中もいくらか緩んでいるようだった。

「ま、誤解は解けた。で、お前の名前は?」
「あ、わ、私は……朽崎霧枝、です」

くちさききりえ、と平太は少女の、霧枝の名を幾度か反芻した。よし覚えた、と頷いてから、平太は改めて少女の顔をまじまじと観察する。
先日の印象と比べて、特に変わるところはない。随分とヘタレな性格以外は、人形のような容姿を持つ少女だ、というのが平太の感想だった。
この少女の口元が渓谷のように割れて、口裂け女が顕現するのだとは、どうにも信じられない。
だがしかし、事実なのだ。
ギャップというやつだ。大人しそうな女子は、大抵が多重人格だったりサイコパスだったりするのがお約束なのだ、と平太は適当にこじつけてから、改めて霧枝に話しかけた。

「まず確認だ。俺はな、夜中になると顔が、こう、真っ平らになっちまう体質なんだ」

包み隠さず話す。平太には、自らの秘密を今さら隠ぺいするつもりなど毛頭なかった。
そんな平太の台詞に、霧枝は一瞬だけ固まってから、その場を糊塗するように喋り始めた。

「あっと、えと、はい! わ、私もそうなんです。夜中になると口がぱっくり……」

そこまで言葉を紡いでから、霧枝は瞳からぶわりと涙を溢れさせた。

「う、うぇっ、わ、私だけじゃ、な、ながっだんでずねっ、ぐずっ」
「おい泣くなヤメレ。さっき言ったじゃねえかよぉ。何だよもう、何がイヤなんだ、おい!」
「これは、う、うれじなみだでず……ずびびっ」
「鼻をすするなっ!」

それからおよそ二分間、平太は霧枝を泣きやませるために罵詈雑言をまき散らすことになる。
その尽力によりなんとか霧枝は泣きやんだが、未だ聞いていないことが多いことに気付いた平太は、再び彼女に向き直った。

「じゃあさらに色々聞くぜ。お前さ、何で昨日の夜は出歩いてたんだ?」
「そ、それは……面無くんも、同じことでは……」

いくらか柔らかい口調で話せるようになった霧枝だが、相変わらず語尾は尻切れトンボになってしまうままだ。

「俺か? 俺はな、暇つぶしってやつだ」
「暇つぶし?」
「そうだ。随分長い間、この体質に苦しんできたんだ。たまにはパーッと盛大に、誰かを脅かしてやろうって思ってな!」
「じ、じゃあ昨日の悲鳴は……」
「俺が脅かした女だろうな。ありゃ多分、不良中学生ってとこだな。ギャハハハハッ!」

平太の独白に対し、若干引いたような態度を見せる霧枝。霧枝の中での平太像は、人を脅かすのっぺらぼうの不良男児として、固定されてしまったようだった。

「でよ、ここ一か月ほどそれにハマっててさぁ……ってオイ、俺のこたあ、どうだっていいんだ。お前が出歩いてた理由が聞きたいんだっつの」
「え、あ、う、い、えっと、うんと」
「ハキハキ喋ろうぜ?」
「うぅ……そのぉ、非常に話しにくく……けど……もし……えっと……できれば……」

苛立ちを隠そうともせずに貧乏ゆすりを始める平太。そんな彼の様子に気付かないまま、霧枝は熟考を続けていた。
やがて平太のフラストレーションも限界まで溜まり、そろそろ怒鳴りつけてやろうかと思ったその時。

「お、お願いがあるんですっ!」

一際大きな声に、平太はぐっと息を詰まらせるのだった。





霧枝の言う「お願い」と、それに関するあらかたの事情を聞き終えた平太は、胸の前で腕を組み、鷹揚に頷いて見せた。

「つまり? てめえの友人が根拠のない噂のせいでイジめに合ってると」
「は、はい! ……すごく良いコなのに、皆から悪女って呼ばれるようになっちゃって……」
「んで、ソイツを助けて、根拠のない噂を流したであろう女も懲らしめたい。だから昨日は、その女を尾行してたと」
「……はいぃ」
「……その手助けを俺にやって欲しいってか? お願いってのはそれか?」

平太の脅すような声色に、霧枝はびくりと身を震わせた。その様子に、どこか居心地の悪さを感じつつ、平太は頭を掻き毟りながら返答する。

「まず言おう。俺は人に縛られたり、何かを強制されるのが嫌いだ。だがな、昔の経験とかもあって、イジめやらなにやらはもっと嫌いだ」
「じ、じゃあ!」
「まあ待て。まずはお前の言う被害者と加害者とに会わせろ。それで判断する。面倒だと思ったらやめる。それでいいな。っつか、俺ってかなり親切じゃねえか。こう、根は優しいヤクザみたいな。どうよ?」
「ど、どうと言われましても……」

煮え切らない霧枝の言葉に、平太は舌打ちで返した。

「ひっ! ……えと、それじゃあ、今から直ぐに、行くんですか?」
「だな。早くしねえと休み時間、終わっちまうぜ」

平太は霧枝の言葉に小さく頷き返し、二人は連れだって立ち去った。屋上には、相変わらず生温かい風が吹き荒んでいた。

平太と霧枝の二人は、傍から見れば仲の良い男女一組といった様子で、二年二組の教室へと至る廊下を歩いていた。
昼休みが終わるまで、残り二十分ほど。そう言えば、昼飯も食ってなかったな、と平太は思い返した。

「おい、あーっと、朽崎。昼飯はどうすんだよ。お前のダチの話聞いてたら、時間なくなるぜ」
「ひあっ! あ、わ、忘れてました……」

素っ頓狂な声を上げ、たちまち萎むように小さく言葉を漏らす霧枝に、平太は呆れたような声をかけた。

「……ま、仕方ねえ。昨日はサンドイッチ譲ってもらったしな、特別に許す。よかったな、俺が義理堅くて。滅茶苦茶ありがたく思っていいぞ」
「あ、ありがとうございまふっ!? か、噛んだ……いひゃい……」

相変わらずのダメダメっぷりを見せつける霧枝。もうコイツはコレでいいのかもしれない、なんてことも、平太はそろそろ思い始めていた。
それからは二人とも終始無言のまま、ただ並んで歩く。
やがて二年二組の教室まで行き着くと、先導する霧枝がしずしずと扉を開け、中に入る。平太もその後に続く。
先を行く霧枝は、淀みのない足取りで、一人の女生徒が座る席へと向かっていった。

「か、彼女がそうです」

霧枝の声に瞳を上げ、平太は目前に座る女生徒を見た。
「どうしたの、霧枝? それにそこの人、面無くん?」

首を傾げ、平太の名を口にする。
髪の短い少女だった。ハスキーな声質に、平太ほどではないにしろ、すらっと伸びた背丈。霧枝とは対極の位置にいる者を思わせる姿だった。
幾度か瞬きをしつつ、こちらを見上げてくる少女に向かって、平太は口を開いた。

「お前が朽崎のツレか? 俺は……っていうか、お前も俺の名前、知ってんのか」
「うん。割と有名だからね。遅刻常習犯の不良生徒ってことでさ」
校内では近づき難い人物として認知されている平太に向かって、短髪の少女は快活そうな笑みを浮かべ、そう言い放った。
人付き合いが上手そうな少女だ。物怖じぬ態度も好感が持てる。本当に霧枝とは正反対だ、と平太は思った。

「あ、えと、私が紹介しますね」

ふいに霧枝が声を上げ、少女の方を指さしつつ、しどろもどろになりながらも紹介を始めた。

「その、こ、こちら、星倉美鶴(ほしくらみつる)ちゃん、です」
「ん。よろしく、面無くん」

そう言って、手を差し出してくる美鶴。だが平太はふんと鼻を鳴らし、握手を拒否した。

「あらら、こういうの苦手かな?」
「知るか」

そっぽを向いてつん、と肘を張る平太。その様子がおかしかったのか、美鶴は口元に手を当てて、くすくすと笑い声をもらした。

「み、み、美鶴っ!」
「くふふっ……なあに、霧枝。そんなに怖がっちゃって」

おろおろとする霧枝に向かって、美鶴は諭すような口調で話しかける。

「ねえ、面無くん、霧枝もたいがい、心配性だと思わない?」
「ああ、それに関しちゃ、同意見だ」
「ふ、二人とも……そんな、私、別に……」

蚊の鳴くような声は、生憎と二人の耳には届かなかったようである。

「それで、霧枝? アナタが私のところに来るのはわかるけど、どうして面無くんまで同伴してるの?」
「そ、それは……」

言葉に詰まる霧枝を差し置いて、平太は一歩前に出た。霧枝から切り出すことができないのなら、依頼された側である自分がさっさと事情説明をするべきだろうと考えたのだ。

「おい、あー、星倉。お前は、なんだ、いじめられてるのか?」

瞬間的に、周囲の空気が凍りついたかのように思われた。

「……霧枝?」
「ひ、ひゃいっ!」

美鶴の低い声が、二人の間を通り過ぎていく。それに反応して、霧枝は直立不動の体勢をとった。

「ねえ霧枝? 面無くんの言ったコトが、彼が今ココにいる理由?」
「ご、ごめんね、美鶴ちゃん。でも私……」

霧枝の弁明をろくに聞かぬまま、美鶴は小さくため息をついた。それから平太に向き直り、にこやかな表情を浮かべたまま台詞を紡ぐ。

「面無くん、その話、断ってくれる?」
「んあ?」

予想だにしていなかった一言に、平太は間抜けな声で返した。

「だから、霧枝に持ちかけられたんでしょ? 私がいじめられてるから、助けてやって欲しいって」
「まあ、そうだな。うん」

美鶴の様子になにやらただならぬものを感じつつも、平太は首肯した。

「あのね、この問題は、私が自分で解決するべきなの。だからあまり他人には……」
「オイちょっと待て。つーことは、いじめられてるのは事実なのか?」
「うん」

事も無げに言う。その様子に、平太は若干の違和感を覚えた。感情を内にしまい込み、自らを騙して糊塗しているように見えるのだ。
しかし、美鶴の態度からそんなことを読み取れたとしても、それでどうこうできるわけもない。彼女が何故、頑なになっているのかも、結局は解らないのだから。

「み、美鶴ちゃん、あんまり失礼なこと言うのは……」
「霧枝、アナタも同じだよ。私、この件については自分でなんとかしたいの」

強い口調に、霧枝はたじろぐ様子を見せたこりゃ無理か、彼女の意思は最早変わらない、と平太は見切りをつけ、早々に教室内から立ち去ろうとしたその時だった。

「こんにちは、星倉さん」

新たな人物の登場である。平太は一切興味を持っていないような表情を見せつつも、ゆっくりと霧枝たちの方へ身体を戻した。

「つ、月下さん……」

そして吃驚した。よわよわしい語調で言葉を発したのは、霧枝ではなく、美鶴だったのだから。
月下と呼ばれた女生徒は、柔和な微笑みを張りつけたまま、余裕を持った動作で美鶴の座る席へと身体を寄せた。
一口で言えば、その少女は美人であった。長い茶髪はよく手入れされているように透き通っており、目元や口元や鼻の形も、すっきりと整っていた。
男子から人気があったりするんだろうな、と平太は他人事のように感想を浮かべた。

「あら、朽崎さんもいたのね。こんにちわ」
「……こんにちわ」

そして平太はまた、信じられぬものを見たという表情で愕然とする。
月下と呼ばれた少女の挨拶に対して、臆病で人見知りであるはずの霧枝が、なんとも無愛想な返答を寄越したのである。
彼女と霧枝の間に、何か確執でもあるのだろうか、とそこまで考えた直後、平太ははっとして膝を打った。
そうだ。あの女生徒が恐らく、美鶴に無実の罪を着せたという、いじめの元凶なのだ。
そう考えれば納得がいく。説明が付けられる。美鶴が悪女であるという噂を流した、本当の意味での悪女。それが月下という少女なのか。
そんなことをつらつら考える平太の元に、当の彼女から声が届いた。

「ねえ、アナタ、面無くん?」
「……ああ。んで? てめえは?」
「あ、ごめんなさい。先に自己紹介すべきよね。私は月下優美子(つきしたゆみこ)。よろしく」

見るものが見れば、非常に可愛らしいとでも言うであろう微笑を浮かべつつ、月下優美子はぺこりと頭を下げた。
温室育ちの令嬢のような、そんな印象を与える仕草だが、平太がそれに関して際立った感想を持つことはなかった。

「それで、面無くんは何故二組にいるの?」
「野暮用だ。詮索すんなよ、アマ」

平太の粗暴な言葉に、優美子は眉尻を一瞬だけ釣りあげた。しかしそれも直後には戻り、嘘のような微笑みがまた張り付けられた。
そのやりとりだけで平太との会話は打ち切ることにしたのか、優美子は再び美鶴に声をかけた。

「それはそうと、星倉さん」
「な、何?」
「クラスの皆と和解できたの? 最近はピリピリした雰囲気も感じなくなったけど……ホラ、まだぎこちないように見えるのよ」
「だ、大丈夫だよ。ありがとう」

先程までの明朗快活な星倉美鶴はどこへ行ったのだろう。
屈伏しているわけでも従属しているわけでもないが、その態度は、ただ自らの気持ちを誤魔化しているだけにしか見えない。
逃げか、と平太は思った。
それに呼応するように、平太の古い記憶は蘇る。
仲間はずれ。嘘つき呼ばわり。悪い子と言われ、ダメな子と言われ、中途半端なま、両親には先立たれ、仲間なんていなかった幼年期。
けれど逃げるのだけは嫌だった。従属するのも束縛されるのも、たまらなく嫌だったあの頃。
だから平太は孤高を貫くと決心したのだ。そしてあの頃、自分を排他していた者たちとは違う存在になれるように、身の置き方についても考えてきたのだ。
だからだろうか。平太は目の前で喋る美鶴の姿に幾許かの苛立ちを覚えていた。

「まあ、星倉さんが平気と言うのなら良いわ。何かあったら、頼ってくれていいから」
「う、うん。ありがとうね、月下さん」

しばらく思考にのめり込んでいたせいか、平太が気付いた時には、彼女らの会話はすでに終わっていた。

「それじゃあね、星倉さん、朽崎さん。あと……面無くんも」

スカートを翻し、その場から去ろうとする優美子。しかし途中で足を止め、こちら側を向いて口を開いた。

「星倉さん、言い忘れてたけど」

一時の間を挟んでから、告げる。

「透くんと、仲直りした方がいいわ」

その言葉に対して過剰なまでの反応を見せたのは、先程まで終始無言を貫徹していた、霧枝だった。

「つ、つ、月下さんっ!」

相変わらず、つっかえながらの言葉ではあったが、それは高らかに打ち出された糾弾の叫びだった。
優美子が振り向く。そしてその際に一瞬だけ見せた表情を、平太は見逃さなかった。
冷たい、石ころを見るような冷たい瞳だった。平太は確信する。ああ、やっぱりコイツがそうだ。

「なあに、朽崎さん?」
「あ、あ、ああああ、あ、アナナナ、アタナッ! アナッ!」

最早言葉になっていないが、それは霧枝にとっても、精一杯の抗議だったのだろう。
そんな霧枝に対して、優美子は優しげな声色で言葉を発した。

「朽崎さん、貴方は私に対して、何らか思うところがあるみたいね」

文面だけ見れば、優美子が霧枝に叛意を持っているかのように思われる台詞だ。
けれどその台詞を発する優美子の表情は、気味が悪いほどに穏やかであった。

「そ、そ、そんなことっ、ありますっ、じゃなくてっ」
「ふふふっ。いいのよ。いずれは貴方とも仲良くできると思うから。それじゃあ」

片手をひらひらと振って、今度こそ優美子はその場を後にする。そして教室の隅で固まる女子の輪に入り込み、楽しそうに談笑を始めた。
平太はその様子を横目で確認してから、二人の方へ視線を戻した。

「……」

美鶴は黙っていた、目つきがどこか物憂げなのは、当たり前のことだろう。
霧枝の態度や言動から、優美子がいじめの元凶であるとするならば、内心穏やかであるはずがないのだ。
一方の霧枝は、落ち込んでいた。それはもう、平太が見ていられないと思うくらいには落ち込んでいた。
おおかた、どうしても優美子に対して強い態度で臨めなかった自分が恨めしいのだろう。平太はそのように当たりをつけた。
それからちらりと掛け時計を盗み見る。昼休みが終わるまで、後五分ほどしかない。
平太の場合、このままサボったとしてもいつも通りなのだが、せっかく定刻通りに登校したということで、最後まで出席しようという気持ちはあった。

「おい、朽崎。とりあえず、俺は戻ってもいいか?」
「……あ、面無くん……そ、その、ごめんなさい」
「阿呆か。何で謝んだよ。阿呆か」
「……重ねて言わないで下さいよう。どうせ阿呆ですよう」

うじうじと言葉をもらす霧枝を後にして、平太は自分の教室へ戻るため、くるりと身体を反転させた。

「あっ、あっ、ま、待ってくださいっ!」

呼びとめる霧枝の声に振り向くことなく、平太は声を出す。

「協力断るとは、言ってねえだろ。ただ今は教室に戻るだけだっつの」
「えと、その、それじゃなくてですね、えと」

それ以外に自分が待たされる理由がどこにあるのだ、と平太が叫ぼうとした直後である。
教室の扉が開き、一人の男子生徒が入室してきた。

「……あっ」

平太の背後で漏れる声。それは霧枝のものではなく、他ならぬ美鶴の声だった。
その声に対して、眼前の男子生徒は露骨に眉をひそめ、舌打ちをして、その場から歩き去ろうとする。
だがそれは叶わなかった。彼の行く先を平太が遮ったからである。

「……どいて、くれないか」
「うるせえ。貴様、オレに向かってガン飛ばしたな。やんのかコラ、おいコラシメるぞ」
「君に目を向けたわけじゃないんだけど」
「知るか。どっちにしろ気分が悪くなった。ふざけやがって」
「……面無くんだったかな。あまり粗暴な言動は、慎んだ方がいい」
「な、ん、だ、と? 殴るぞ?」

にらみ合う二人の間を取り持つように、霧枝が身を滑り込ませた。

「お、お、面無くんっ!」
「なんだよ朽崎。ケンカじゃねえよ? ケンカはしねえよ? 殴りもしねえよ? アレだよ、これは形だけってやつだ。ホラ、一応不良生徒なわけだし、示しが付かねえだろうが」
「そ、そうじゃなくって」

下らない言い訳を並べる平太の腕を、霧枝の細く小さな手が強引に引っ張った。
平太は男子生徒と対峙していた位置から引きはがされ、霧枝の方に正面を向いて立つ体勢となった。

「き、聞いてください」
「んだよ。手短にしろよ」
「あ、あの人がそうなんです」
「ああ? あのいけすかねえ奴がなんだよ」
「だ、だから、美鶴ちゃんの恋人の、戸張透(とばりとおる)くんですっ」

そこまで言われて、平太はようやく合点がいった。事前に霧枝から聞いていた話と、綺麗に噛みあったからだ。

「じゃあ何だ? アイツが、星倉にこっぴどくフラれた上に、プライド踏みにじられたってガキか?」
「美鶴ちゃんはそんなことしてませんっ! それはただの噂ですっ! 月下さんが流したんですっ!」

強くはっきりと否定する。その信頼は一体どこからくるものなのか、と平太は思った。
それから、改めて男子生徒、戸張透のことを眺める。
部活動にでも所属しているのか、随分と体格は良く、また顔立ちも良い男子だ。こちらも女子に人気があるのだろうな、と平太は思った。特に嫉妬心は芽生えてこなかったが。

「……だとしたら、あのアマ……月下は、なんでそんな噂を流したんだ?」
「だから多分……透くんが、原因、です」

霧枝は背後を確かめるように振りかえり、悲しげに瞳を細めた。平太もそれに倣って後ろを向く。そしてその光景を視認する。
楽しげに談笑する、優美子と戸張透の姿を垣間見た。その後ろで、誰にも相手にされぬまま、悲しげな表情を隠そうともしない美鶴の姿を垣間見た。
がやがやと、美鶴に関して非難するような声が、群衆の端々から漏れ出るように聞こえてきた。カクテルパーティー効果だ。

「星倉さんがフッた」
「あの人は悪女だって」
「直ぐに別の男と」
「戸張くんは気持ち悪いって」
「とっかえひっかえ」
「やりたい放題」

平太は激しい頭痛を感じた。交わされる会話の内容は、断片的ではあるが、聞いていて気持ちの良いものではない。
その時、学校中に気の抜けたチャイムの音が鳴り響いた。
平太は面倒くさそうな顔を見せてから、頭を抱えたまますっと立ち上がり、霧枝の手を振り払った。

「あっ!」
「取りあえず、話は後だ。放課後にもう一回来るから、その後だ。いいな?」

きっぱりと告げる平太に、霧枝はぷるぷると身体を震わせながらも、首を縦に振るのだった。
そして平太は二年二組の教室から出ていく。去り際に、教室内をちらりとのぞいた。
戸張透と月下優美子が笑っている。ただ、前者の笑みと後者のそれとでは、何らかの違いがあるようにも思えた。
星倉美鶴は無表情だった。彼女は、自らに関して囁かれている言葉たちを、聞いてしまっているのだろうか。
平太は舌打ちをしてから、携帯電話を取り出して、「いつもの連絡先」の番号をプッシュした。
まさか俺がここまでやる気になっているとは、などと自分の行動に驚嘆しつつ、平太は携帯電話を耳に当てた。
何故か募る苛立ちを、不思議に思いながら。




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