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2009/11/10
第37回 株式会社星野リゾート 星野佳路 2
日本を世界に名だたる観光大国に引き上げること。
リゾート運営の達人である私たちに課せられた使命
経常利益20%、自社で定めた顧客満足度数値2.50ポイント(3点満点)、NPOグリーン購入ネットワークが定めた環境負荷数値24.3ポイント(25点満点)。これがリゾートビジネス界のカリスマ、星野佳路氏が率いる「リゾート運営の達人」になるべく星野リゾートが企業として目指している3つの数値目標である。現場にどんどん裁量権を与えるフラットな組織体制。少人数で構成されたグループユニットの責任者であるディレクターは立候補と全スタッフの投票で決定。定例会議はアルバイト、パートタイマーまで参加可能という徹底した情報公開。「社員が主人公」を信念に置き、自社施設の経営はもちろん、経営破たんした大型リゾート施設、老舗温泉旅館などの再生・運営活動にも奔走している。これから星野氏が目指すもの。それは観光後進国といわれる日本を、世界に伍していける観光大国に引き上げることであるという。そして、今、彼がそのためのカギであると考えているツールが、「スキー」と「温泉旅館」だ。これからの星野氏の活躍に期待したい。今回はそんな星野氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<星野佳路をつくったルーツ.1>
祖父母と出かけた2週間のアフリカ旅行。この時、「跡継ぎである自分」を強く実感
当社は1904年に軽井沢の開発に着手し始め、その10年後に星野温泉旅館を開業。これが星野リゾートの始まりで、私で四代目になるんですね。当然、私が生まれたのも軽井沢。3つ歳下の弟と二人兄弟です。小さな頃はそれほど意識してはいなかったのですが、ただ周囲の方々は僕が次の経営者になるものと決めていたように思います。その意識が少しずつ変わっていったのが小学校の高学年になった頃でしょうか。小学4年生の時に祖父母に連れられてアフリカ旅行に出かけたのです。僕が9歳か10歳だったので、1970年ですか。祖母は軽井沢が無医村の頃から、医者をしていましてね。祖母の友人の山崎さんという医師がザンビアに渡って病院を開業したのです。しかし、医療機器も薬も足りない。祖母は何とかしてほしいという手紙を受け取った。それで、2週間ほど祖父母と旅行をすることになったのです。物資を手渡すということが一番の目的でした。
ちなみに祖父は、野鳥の森をつくったり、軽井沢のゴルフ場建設にひとりで反対したり、当時から自然や環境問題にうるさい、ちょっと変わった人でした(笑)。そもそも日本野鳥の会を創設した中西悟堂(なかにしごどう)さんという方が星野リゾート内に別荘を持っていまして、その方から影響を受けて環境保護活動を始めたのだそうです。それで趣味が鳥を見ることになった。祖父はこのアフリカ旅行のついでに、ぜひともケニアのナクル湖に行きたいと。フラミンゴがたくさん住んでいる湖で、いれば湖面がピンクになり、飛び立てば空がピンクになるという、そんな湖です。僕も連れて行ってもらったのですが、それは壮観でしたね。この時の何がきっかけになったという訳ではないんですが、ただ、星野リゾートを守ってきたふたりの話をたくさん聞いたのです。この時は旅館経営をというよりも、自然保護の活動を将来は自分が継ぐべきなのだろうなと。そんな雰囲気が漂っていた2週間の旅行だったことを覚えています。
非常によくしゃべる、うるさい子どもだったようで、弟が静かなタイプですから、余計目立ったのでしょう。「あなたがしゃべり過ぎるから弟がしゃべれない。少し大人しくしていなさい」ってよく怒られていた記憶があります。小学校の頃にはまったものといえば、場所柄なのでしょうがスピードスケートですね。ちなみに、中学からは東京の慶応高校へ進みました。母が「スポーツを極めるなら一貫高校のほうがいい。受かれば後はずっとスポーツをやっていてかまわない」と急に言い出しましてね。自分も、それはいいと(笑)。何とか頑張って勉強して、入学することができたのです。
<星野佳路をつくったルーツ.1>
中学から大学卒業までアイスホッケー三昧。ホテル経営を学ぶため、米国コーネル大学へ
中学からはアイスホッケーを始めました。中学では全国大会で優勝していて、中学2年から高校2年の夏は毎年、アイスホッケーのサマーキャンプに参加するためにカナダに短期留学していました。当時の日本では、アイスホッケーは今よりもずっとマイナースポーツでしたから、本場で学んでみたいと思ったんですね。高校では国体にも出たりしていましたが、この年代からはやはり北海道勢が強くなって、タイトルは取っていません。当然、大学でも体育会のアイスホッケー部へ。しかし、明治大学や法政大学が良い選手をたくさんスカウトしますからやはり強い。優勝は無理でした。慶応大学は1部リーグと2部リーグを行ったり来たりでしたが、僕が主将を務めた4年次には何とか1部リーグに返り咲くことができました。そんな青春時代でしたから、中学からはもうアイスホッケーしかやっていなかったような気がしています(笑)。
大学卒業を目前にして、全く勉強していない自分に気づくわけです。この頃は、星野リゾートを継ぐつもりになっていましたから、さすがに少しは業界の勉強をしなくてはまずいだろうと。それでコーネル大学のホテル経営大学院を目指したのですが、本当に中学受験以来ですね、あれほど勉強したのは(笑)。TOEFLやGMATなどの受験勉強は当然ですが、コーネルの大学院に行くためには、実社会経験も必要となります。そこで、コーネル大学卒業生でもある当時のホテルオークラ総支配人、山崎五郎さんにお願いして、オークラで働かせてもらった。推薦状をいただき、受験勉強を終えるまで約1年間を費やしました。
そして2年間コーネル大学で学び、1986年に修士課程を修了しています。入学してから半年くらいは、ネイティブの英語になかなか付いていけず、授業を理解するために1日2、3時間睡眠で四苦八苦。2学期に入った頃から、やっと少し楽になりましたね。コーネルの大学院で学べたことですか? 20年前の当時、コーネルで学んだものが、今、実際の経営に使えているかというと難しいですよ。しかし、ホテル経営に対する考え方の基礎を学べたこと、様々な才能と出会えたことが、自分の視野を広げてくれたということは間違いありません。そして、アメリカでの生活のすべてが素晴らしい経験でした。旅行産業を目指していましたから、あちこち見て回ることができましたし。車で全米一周の旅に出かけたことも、とてもいい思い出であり、得がたい経験ですね。