赤瀬川原平さん
写真左:南伸坊さん/写真右:松田哲夫さん
宮武外骨
毒について考えてみたい。毒舌、毒気、毒づく、の毒だ。
人間、誰にだって多少の毒ぐらいあるだろう。ここでは表現によって権力や権威に立ち向かう毒のことを考えてみる。
「奇人」と呼ばれたジャーナリストの話から始めよう。
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今では宮武外骨(みやたけ・がいこつ)といっても知る人は少ないが、毎年8月の初めに東京・駒込の染井霊園で、外骨忌が開かれている。
芥川賞作家の赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい)(73)や名編集者の松田哲夫(まつだ・てつお)(62)、イラストレーターの南伸坊(みなみ・しんぼう)(63)らが常連。英文学者の中野好夫(なかの・よしお)も以前、顔を見せた。
赤瀬川が外骨を知るのは、1960年代の後半。前衛芸術家として注目されていた頃で、古本屋で手にした明治時代の薄っぺらな雑誌がきっかけだ。
表紙に「教育画報ハート」と書かれ、発行所は滑稽(こっけい)新聞社。ペラペラめくると、「蛸(たこ)の食道楽」というナンセンスな絵が載っているかと思えば、幽霊の科学的な種明かしみたいな絵がもっともらしく載っている。
どこか人を食ったようで怪しげだが、レイアウトも丁寧で、編集センスもよかった。
収集癖のある赤瀬川が買って帰ると、当時、自宅に出入りしていた大学生の松田も「変な本ですねえ」と首をかしげた。
今度は松田が、別の古本屋で似たような感触の雑誌を見つけた。誌名は「スコブル」。編集後記を読んで、あぜんとした。
「スコブル記者はスコブルといふ雑誌をスコブル念入りに編輯(へんしゅう)してスコブル多く売りたいとスコブル苦心して居るが……」
短い文章の中で誌名を30回も連呼し、その文字だけ太い活字にする凝りよう。
表紙に「宮武外骨主筆」と印刷されてある。2人は顔を見合わせた。外骨、いったい誰? 調べていくと、何とも奇想天外な人物だった。
明治から大正にかけ、30種類以上の新聞・雑誌を個人発行。経営から編集までほとんど独りで手がけ、「ハート」も彼の手によるもの。共通するのが鋭いユーモアと遊びの精神だった。
その代表が明治後期に大阪で創刊の「滑稽新聞」。最後は秩序壊乱で発行禁止処分となり廃刊したが、月2回の発行で8年続き最盛期に8万部も出た。
「過激にして愛嬌(あいきょう)あり」の編集方針を掲げ、風刺を武器に権力・権威を笑いのめす。
その毒たるや痛快無比。例えば日露戦争開戦直後、当局の言論弾圧を皮肉り、伏せ字だらけの、こんな論説を載せた。
「今の○○軍○○事○当○○局○○○者は○○○○つ○ま○ら○ぬ○○事までも秘密○○秘密○○○と○○○云(い)ふ○○て○○○○新聞に○○○書○か○さぬ○○事に○して○○居るから○○○新聞屋○○は○○○○聴いた○○○事を○○○載せ○○○○られ○○得ず○○して○○丸々○○○づくし○の記事なども○○○○多い……」
伏せ字を外せばふつうの文章となる洒落(しゃれ)っ気。毒にこそ芸がいる。赤瀬川も松田も、そのセンスにしびれた。
赤瀬川は語る。「権力批判が理屈ではなく、一番根源的な感覚のところで行われている。すごい人がいたもんだ」
70年から教えた東京・神田の美学校では、授業でも取り上げた。南は、その時の学生の一人。「滑稽新聞」の絵師黒坊(くろぼう)にちなんで「伸坊」と名乗るなど大きな影響を受けている。
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それから15年後。赤瀬川は、筑摩書房に入った松田と、再編集して全6冊にまとめた「滑稽新聞」を同社から出し、外骨の存在を改めて世に問うている。
外骨に編集者としてのセンスを学び、「老人力」などベストセラーを手がけた松田は言う。
「外骨が生きた時代は、時代が時代だから、覚悟を決めないと何もできない。実際、筆禍で4回も入獄。それでいて、ユーモアと遊びの精神が少しもぶれていない。我々は外骨を超えられていない感じがする」
毒が時代のバロメーターになる時がある。もう少し、外骨を追ってみる。
(このシリーズは文を加藤明、写真をフリー大北寛が担当します。文中敬称略)