<国連事務総長>84歳在日韓国人被爆者、初対話に感激
8月5日13時26分配信 毎日新聞
在日韓国人被爆者の権舜琴さん(左)と握手を交わす潘基文・国連事務総長(右)=長崎市の原爆資料館で2010年8月5日午前11時13分、金澤稔撮影 |
【対談の様子】国連事務総長:長崎で核廃絶訴え 被爆者と対談
潘事務総長と直接対話した被爆者の中には、在日韓国人の権舜琴(クォン・スングム)さん(84)の姿もあった。権さんは事務総長の来日が決まってから、そのことを報じる新聞記事をずっと持ち歩いている。「韓国大統領も来たことがない長崎に、世界のリーダーとなった韓国人が来るんですから」
権さんは韓国・安東市生まれ。4歳の時、母に連れられ、日本に渡っていた父が住む京都市へ。「当時は貧しかった。米が買えずおにぎりが作れないんで、遠足には行かなかった」
学校で本名を使うと「朝鮮人」と指をさされた。だから、雨の日、学校の帰り道で傘を持って権さんを迎えに行ったチマ・チョゴリ姿の母を見て、避けて遠回りした。「帰って謝ると怒られました。母の悲しい顔、胸が張り裂けそうでした」
長崎に来たのは、権さんが15歳の時だった。朝鮮半島からの労働者が寝泊まりする宿舎の経営を父が始めたからだった。
権さんは、この町で朝鮮人の夫と結婚した。18歳だった。
被爆したのは結婚の翌年。爆心地から1.8キロの職場だった。「夫と一緒に働いていました。パーッと光が部屋に入ってきた。外に出たら、入道雲のような雲が空に広がっていた」。夫は、爆心地近くにあった宿舎に行き、同胞を捜し歩いたが、見つからず、2人で自宅に帰った。「家の前では、人がぞろぞろ歩いていた。(熱線を浴び)だらっと皮膚が垂れている人もいました」
戦後の混乱の中、生きるために夫と必死で働いた。63年、市内に空き店舗を見つけ焼き肉屋を開いた。「この商売を始めて、やっと満足に自分の口へ食べ物が入るようになった」。その店が長崎市の老舗焼き肉店「アリラン亭」だ。苦楽を共にした夫は83年、膵臓(すいぞう)がんなどで死亡した。
長崎市などによると、原爆投下時、県内には約7万人の朝鮮人が暮らし、約2万人が被爆、約1万人が死亡したとされる。中には強制連行されてきた労働者もいた。
権さんは「人間と人間が殺し合うなんて哀れなこと。会って話せば分かるはずです」と話し、ほとんど毎年、チマ・チョゴリを着て平和祈念式典に参列し、献花する。「ここに眠るほとんどの人の家族はもうお参りに来られないでしょう。せめて同胞が『安らかに』と祈らなくては」
長崎の在日外国人被爆者代表として潘事務総長と会った後、権さんは「『核兵器廃絶に一生懸命取り組む』と言ってくれました」。同じ韓国人である潘事務総長の言葉をかみしめていた。【蒲原明佳】
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最終更新:8月5日14時10分
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