狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

ソ連の北海道占領計画を知らしめた久間発言

2007-07-17 07:47:09 | 歴史

「久間発言」があぶりだす結果となった知られざる日本の現代史。

原爆投下と米ソの確執に関する興味深い記事を、愛読するメルマガの丸ごと引用で紹介します。

                     ◇

 

◆■■■■国際派時事コラム「商社マンに技あり!」■■■■◆
            http://www.f5.dion.ne.jp/~t-izumi/


       昭和20年、北海道の命運をきめたもの

■■■■■第201号■■平成19年7月17日発行■■■■◆

 


 久間章生(きゅうま・ふみお)前防衛大臣の原爆発言に関連し
て、昭和20年夏の北海道を論じた名コラムがあるのでご紹介する。

 静岡県立大学国際関係学部教授の大礒正美さん。
 
 辛口コラム集
『大礒正美の よむ地球きる世界 <日本はどうなる編>』
はコラム子も企画に加わったおすすめの本なので、この夏の緑陰
の友としてぜひどうぞ↓

(出版社のホームページ)
http://homepage2.nifty.com/sai/mart/


 きょうの配信の後半は、これに関連するコラム子の一文。
 大礒コラムとあわせてお読みください。

 

◆◆ 平成19年7月1日 ◆◆

    ソ連の北海道占領計画を知らしめた久間発言

          ◆◆ 大礒正美(おおいそ・まさみ)◆◆        


 久間章生防衛相が6月30日、終戦時の原爆投下に関して不正
確な発言をし、また余計な反響を拡げている。

 久間氏はいわゆる防衛族議員であり、2度目の防衛庁長官から
省に昇格した防衛省の初代大臣に継続就任した専門家である。

 その人でさえ事実関係がよくわかっていないようなので、ここ
では発言の意図などを論じることなく、事実だけを3点、指摘し
ておくことにする。


 第1に、米首脳の原爆使用の意図が何であれ、それがソ連の対
日参戦を防ぐことには繋がらなかった。

 ソ連の中立条約破棄(対日宣戦布告)は、ヒロシマとナガサキ
の中間に、急いで実行されている。

 すなわち

1945年7月26日 ポツダム宣言(ソ連抜き)、
8月6日 広島原爆投下、
8月8日 ソ連の対日参戦、
8月9日 長崎原爆投下、
8月14日 ポツダム宣言受諾と続いて、

8月15日に天皇の終戦宣言で戦争は終わったことになっている。

 これだけ見ても、原爆使用はソ連の対日攻撃を阻止するどころ
か、むしろ準備万端直前のスターリンを激怒させ、ためらうこと
なく開戦に踏み切らせたことが窺(うかが)える。

 ポツダム会談中の7月24日に、スターリンはトルーマンから
原爆実験成功を知らされたあと、宣言(米英中)からも外された。

 この二重の恨みが、かねてからの北海道占領の意志を固めさせ
たのだろうと推測される。


 第2の事実は、米軍が8月15日正午をもって戦闘を終結した
のに対し、ソ連は同18日に

「9月1日までに北海道の北半分(留萌市と釧路市を結ぶ線から
北)とクリル(千島)列島南部を占領する」

よう命令を発していることである。 

 これは、8月16日にスターリンがトルーマンに対し

「千島列島と北海道の北半分を占領したい」

と要求し、厳しくハネつけられたことへのお返しであった。

 すなわち、ソ連の北海道占領要求は8月15日の終戦の翌日で
あって、その要求が原爆使用によって阻止されたわけではない。

 久間防衛相がそういうように誤解しているとすれば、訂正して
おかなければならない。

 
 第3の事実は、ソ連軍の北海道上陸作戦は実行に移され、実戦
部隊を乗せた艦船が留萌(るもい)の沖合にまで迫ったことであ
る。

 国際政治学者の舛添要一参院議員は久間発言にコメントして、

「ソ連軍が北海道を確実に占領したかは分からず、間違った歴史
解釈だ」

と批判したが(東京新聞、7/1)、そんな曖昧な事態だったのでは
ない。

 実際に、ソ連軍の上陸が目前に迫っていたのであって、
もしスターリンの気が変わらなかったら、即応する米軍はいなか
ったのだから、どうすることもできなかったはずである。


 しかし、何ごとかが起きて、上陸寸前のソ連軍は8月22日、
突然、転進命令を受け、23日未明までに全部隊が北海道の北を
回って南千島の占領に向かった。

 そして同じ23日、ポツダム宣言で日本帰還を約束されていた
満州の日本軍捕虜60万以上を、シベリアに移送して労働に使役
する命令が発せられた。

 この2つの方針転換が相関していることは疑うべくもない。


 スターリンを土壇場で変心させた決定的要因は何だったのか、
未だに謎のままである。

 一旦はトルーマンの拒絶を無視したほど強気だったスターリン
(「鉄の男」というあだ名の持ち主)が、北海道を断念する代償
として日本軍捕虜の使役で満足したのだろうか?

 「北半分」といっても天然の境界はない。

 スターリンの本音は北海道の全部であり、その野心を実現した
暁には、北海道の住民を全部シベリアに拉致し、代わりにロシア
人を大量に移住させるつもりだったに違いない。

 それが、ロシア的思考というものである。

 ソ連の対日軍事行動は、結局9月5日まで続けられ、北海道の
属島である(千島列島に含まれない)色丹島、歯舞諸島まで占領
して、ようやく終わった。 

(Copyright 大礒正美 2007)◆


===


 昭和20年8月22日、北海道に上陸せんばかりのソ連軍が、
南千島へ転進したウラには、米国とソ連のあいだに取引があった
はずで、その辺が「謎」ということなのだが、

 やはり無視してならないのは千島列島を防衛した日本軍の獅子
奮迅の活躍ぶりだろう。

 これこそ映画にしたら列島の数千万人が涙する。
 ほんとうの意味の祖国防衛戦。

 8月18日から22日まで日本軍第六方面軍が北千島でソ連軍
と戦い、戦闘では勝ち続けた。
 満洲の関東軍とは大違いだったのだ。

 北千島でのソ連軍の苦戦、というか、予想外の大敗北がモスク
ワに伝えられて、

 「これではそう簡単に北海道はかすめ取れぬかもしれぬ……」

と気持ちが揺らいだスターリンが、米国との正面対決を回避し、
安全パイをねらって「千島列島確保」と「関東軍捕虜抑留」へと
軸足を移した、と考えるのが素直だろう。

 7年ちかく前、ホームページを開設してすぐに書いたコラムを
ご紹介したい。

 

◆◆ 平成12年10月9日 ◆◆

        北 千 島 の 第 六 方 面 軍

                   ◆◆ 泉 幸男 ◆◆


 日本にとっての第2次世界大戦は、昭和20年8月15日に終
わったと思われている。終戦の詔書(しょうしょ)が発せられた
日、だからである。

 あの混乱の時期に、詔書を占領地の隅々にまで徹底させたのは、
みごとというしかない。

 しかし、「8月15日」に幻惑されて、その後に始まった本当
の意味の「祖国防衛戦争」を忘れてはいけないと思う。

 8月18日から22日まで北千島で続いた戦争がこれだ。


 北海道占領を目指して、ソ連軍が千島列島の北の端から攻めて
きた。8月18日午前1時半のこと。

 そのあとどうなったかは、
佐治芳彦著『現代史への挑戦』(平成9年、KKベストセラーズ刊)
に詳しい。

 「なにが日本を分割の悪夢から救ったのか」(45〜55ページ)に、
淡々と書いてある。


 第一報を札幌で受けるや、「自衛戦闘」を指示した樋口季一郎
(ひぐち・きいちろう)中将。

 これに応えて、ソ連軍に猛烈な逆襲を繰り出した池田戦車連隊。

 この戦車隊は、当時の精鋭部隊だったそうで、よくもまあ、昭
和20年8月に虎の子を残しておいてくれたものだ。


 戦車隊の戦闘は、大勝利だったのである。

 
 この守備隊が頑張って時間稼ぎをしてくれたおかげで、北海道
本島の占領は辛くも免れた、というべきだろう。

 さもなくば、どうなっていたことか。


 北海道はさしずめ「アイヌ社会主義共和国」とでも名を変えて、
ソ連の傀儡(かいらい)政権が支配したことであろう。

 青森県は日米の軍事基地で埋め尽くされたであろう。

 …と想像をたくましうすればキリがないが、この大変な国民的
英雄のはずの樋口中将や池田連隊長のことを、佐治氏の著を読む
まで知らずにいた。

 いや、そもそも8月15日以降に日本の領土において戦争が継
続していたこと自体、知らずにいた。


 8月15日に靖国神社を首相が公式参拝するか否かが、毎年政
治の1アイテムとなるのであるが、思い切って8月22日に公式
参拝することにしてはどうか。

 「なぜ8月22日なのか」を首相が語り、国民がこれを聞けば、
日本人はずいぶん変わるのではないだろうか。


 

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