日中勘違い:「支那」という言葉について考える(4)

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  これまでに、◆支那という言葉は中国で作られた漢訳仏典で登場したこと◆日本では江戸時代、欧州各国が中国のことを「チーナ」系統の言葉で呼んでいることを知り、「支那」という表記を使うようになった――などとご紹介しました。今回は、明治期になり日本についた中国人が、「支那」という名称を盛んに使った、場合によっては好んで使ったことを記します。

孫文も、自らの国を「支那」と表記

  明治維新以降、清国人が日本に留学するようになりました。彼らは日本人が自国を「支那」と呼んでいることを知ると、自らもこの国名を盛んに使うようになりました。清国打倒の運動に失敗して日本にのがれた中国人も、「支那」という国名を使いました。

  彼らが、日本に来るまでは見慣れなかった「支那」という名称を使ったことには、理由があります。当時は清朝末期でしたが、「清」とは王朝名、言い換えれば政体を示す名称で、純粋に「領土」を示す名称、あるいは時代を通じて使われる「国名」ではなかったのです。特に、革命思想を持つ中国人にとって「清」とは打倒すべき対象でした。繰り返しますが、当初「中国」という呼称は一般的でありませんでした。

  例えば、クーデターに失敗して1904年に日本に亡命した大物革命家の宋教仁は、東京で「二十世紀之支那」という機関誌を発行しました。孫文は中華民国成立後の1914年、首相の大隈重信にあてた中国語の書簡で、単独の「支那」を29回、「支那革命」を1回、「支那国民」を2回、「支那人」を1回と、「支那」を計34回使っています。

  この手紙は中国のインターネットでも話題になり、「孫中山(孫文)は日本に支援してもらったので、媚(こび)を売ったのだ」などとする意見が多く出されました。しかし、「媚」とまで言うのは考えすぎ。たとえ積極的に使ったのではないと仮定しても、「日本でそう呼んでいるのだから、よかろう」ぐらいの意識だったとみるのが自然です。

戦前の日本政府は「中華民国」の国名に反発

  その後、孫文も「支那」との国名は使わなくなりました。日本政府は当初、「中華民国」は尊大な自称だと反発し「支那共和国」などと呼んでいました。その後、中国では逆に日本での「支那」という呼称に対する反発が発生。「正式な国名を使え」というわけです。1930年代になり、日本は正式な外交文書では「支那」を使わないようになりましたが、実際には「支那」の呼称が広く使われていました。

  第二次世界大戦後、戦勝国になった中華民国政府は改めて、日本に「中華民国」の呼称を使うよう要求。「支那」の呼称は、報道などからも消えることになりました。

  清国人から支那人、中国人へと自称が変化したことは、中国人の国家に対する意識の形成と連動しています。ここでいう「近代国家」とは、「住民(国民)全体が、国を自らの『共有財産』と考え、恩恵を享受する権利と同時に、保全の義務を当然とみなす国家形態」と考えてください。

  今となっては当たり前の国家観ですが、かつては違いました。江戸時代に、武士階級以外の人々は、「領土を守る」ことにまったく無関心でした。中国ではアヘン戦争に負けた結果、「皇帝を守る」ため、比較的簡単に香港という「国土」を手放しています。国土は支配者の財産であり、国民の財産ではありませんでした。

日本から刺激受けて成立した「近代中国」

  「近代国家」の意識は、日本では明治維新で形づくられ、日清戦争ごろまでに意識面でもほぼ定着したと考えてよいのですが、中国は遅れました。このことに、日本に留学した中国人は、大きな衝撃を受けました。欧米列強だけならまだしも、同じアジアの国である日本が、強固な統一体である近代国家に変貌しており、小国であるにも関わらず、日清戦争に勝利した。清朝を滅亡に追い込む中国の大変動は、近代日本に接したことが極めて大きな要因になったと言うことができます。

  日本に留学した周恩来の日記(※)を見ても、「靖国神社の大祭を見て、はなはだ大きな感慨」(1918年5月1日)などと記述しています。もちろん、「A級戦犯の合祀問題」などが発生するはるか以前のことです。周恩来の日記には、祖国を憂う心情がしばしば書き連ねられており、日本では国のために命を落とした軍人・軍属に、国民がこぞって敬意をあらわすことに感銘したと考えてよいでしょう。当時の中国では、ほとんど考えられない光景でした。

  中国人読者の猛反発を承知で書きますが、◆中国人は明治期の日本に多くのものを学んだ◆その中には「アジア人も欧米に準じた近代国家を作らねばならない」という認識も含まれる◆近代国家では、国のために命を落とした軍人が、きちんと称賛される◆日本に留学した中国人も、そのことを知った――ということを総合すると、北京の天安門広場にある人民英雄記念碑(紀念碑)が作られた背景にも、靖国神社の影響があると考えられます。

  両者とも、戦争で命を落とした軍人(烈士)への哀悼ではなく、英雄(英霊)として称賛することを本来的な目的としている点で、非常によく似た性格を持っています。ちなみに、同碑の裏面には、「犠牲になった英雄たちは、永遠不滅だ」などとする、周恩来の文字があります。もちろん、そこで称えられている軍人が命を落とした戦争の性格そのものは、別の話です。

  なお、日本で近代国家が比較的スムーズに成功し、中国で遅れたことで、両民族の優劣を論じることができません。外的要因としては、欧米列強がまず狙ったのは「中国」で、欧州からより遠く市場としても小さい日本は後回しになったことがありました。

  また、中国では皇帝を頂点とする前近代的な中央集権国家の完成度があまりにも高く、近代国家を築く上でかえって障害になったことも見逃せません。日本では歴史上、中国にならった中央集権の試みが何度かありましたが、結局は実現しませんでした。幕藩体制では、各藩の武士階級が、みずからの国(藩)は父祖が血と命で勝ち取った共有財産だとの考えがありました。つまり、歴史を通じて「公(おおやけ)」の概念が発達していたわけです。

  その概念の対象を、ひとつの藩だけでなく全国規模に拡大すれば統一日本という国家を形成することになりますし、四民平等という縦方向の延長で、全国民が権利と義務を持つ国づくりをすることになります。また、中国とは異なり「万世一系」とされる天皇の存在を強力な軸として、国民をまとめることもできました。近代国家への脱皮は中国よりも容易だったと考えます。
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※周恩来『十九歳の東京日記』(矢吹晋・編/鈴木博・訳―小学館文庫)

※これまでの掲載について「キャセイ航空の『キャセイ』も、チーナ系統の言葉か」との問い合わせがありました。「キャセイ」の語源は、10世紀から12世紀初頭まで「遼」の国号で中国北部を支配した民族、「契丹(キタン)」が語源とされています。モンゴル人が中国全般を「カタイ」などと呼び(現代モンゴル語では発音も変化し、元来は複数形だった「ヒャタッド」と呼んでいます)、ロシア語でも中国を「キタイ」と称するようになりました。「キタイ」系統の言葉はその後、英語などで中国を指す雅語の「キャセイ」になりました。(編集担当:鈴木秀明)

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