高齢の孤独死なのか、とにかく連絡はおろか生死すら分からないということが、急に話題になっている。しかしマスメディアが騒ぐので行政がすこし動いているフリをしているだけで、これはもっと根深く、かなり前からある問題なのだ。
一般的には都会の孤独とされているが、老人しかいない田舎の過疎地帯や限界集落では「老人しか」いなくなってしまい、地域コニュティがいかに強くても社会そのものが瓦解しており、老人同士だけでの「見守り」はほぼ不可能になっている。都会でも古い団地の独居老人は死後かなりのあいだ放置されたままである。
100歳以上が4万人を越す現状で、それさえも安否確認が難しいのに、もはや80、90の孤独死は見向きもされないだろう。
さまざまな人生観がある。だからこれから極めて個人的な見解を述べる。
自分を含めて老人は無用である。したがってある年齢を超えたら「殺処分」することがのぞましい。
若いときなら実現しなくても「夢」がある。でも老いた先にあるのは病気と死しかない。どんなひとでもだんだん不健康になっていくだけで決して快楽には向かわない。普通だんだん醜くなり、知力、体力が弱まり、病気で苦しむ。苦しんで苦しんで気が遠くなって無念のおもいのなかで死ぬことしかこの先待ってはいないのだ。気休めの宗教も哲学もせいぜい多宝塔を買わされるだけの経済循環しかない(笑)。基本的に老人の存在は社会に貢献しない。貢献しないどころか国家財政を破綻に導くだけである。
ヒューマニズムとか言う概念は老人には適用されない虚構である。昔のニホンには姥捨て山という「高度な文化」があった。これをバーバリズムや悪しき因習というひともいる。そういう擬似インテリがいつか社会を破綻させるのである。持続可能な社会にも限界があり、21世紀後半になると構造的矛盾が飽和状態になるであろう。それでも擬似インテリヒューマニストは「老人の公的殺処分」を否定し、人類を破滅させるだろう。
犯罪者(冤罪、思想犯もふくめて)には死刑という公的殺処分が許され、動物にも殺処分が下される。なのに、なぜ老人は公的殺処分されないのだろうか。
そういう自分も老人であるが、弱くて自殺する勇気がない、だから是非殺処分してもらいたいと念願する。それとも国家には殺処分しないで、すべての老人になるべく長く生き地獄を経験させる権限があるのだろうか。
存在そのものを抹消する必要もあるのだ。善も悪もない。宮崎県で殺処分された牛や豚は決して悪ではなかったはずだ。治山治水だけでなく公民の生命を「調整」するのも政治の責任であると思う。
したがって老大国成熟社会に成長戦略というのは陰謀ではないかと思う。経済成長に特別枠の予算をだすということは、例えれば老人に霜降り肉を食べさせても筋肉が成長することはなく、かえってコレステロールが増え、死期をはやめるだけということである。
それが「殺処分」の遠大な構想?ならそれでいいが、、、。