西暦 | 邦暦など | 事 柄 | 参照 |
625 | 頃 | 現 草津八幡宮(宇佐津八幡宮) 勧請。(中世には力箭(りきや)八幡宮と称した) ・社殿は現在の場所ではなく、海浜にあったと伝えられている。 ・厳島神社とほぼ時を同じくして多紀理姫命(たぎりひめのみこと)を海路の守護神として祀ったのが創祀といわれる。 ・草津の旧名を「軍津浦(いくさつうら)」という伝承もある。 ・草津、古江の地は 神武(じんむ)天皇、神功(じんぐう)皇后の伝説を残している | *5 |
625 | 推古33年 | 久曾津地方を厳島神領とした。 | |
835 | 承和2年 | 鈴ヶ峰観音寺 前身創立。 | |
933 | 承平3年 | 荒神社再建。 | |
960 | 天徳4年 | 鷺森(さぎもり)神社 勧請(かんじょう) | *3,*10 |
1288 | 正応元年 | 住吉神社、龍宮神社創建。 | *10 |
1372 | 建徳3年秋 | 幸福稲荷神社 勧請。村内に火事が多発、建立してお祈りしたところ新たな火事が発生しなかった。(所在地:草津本町) | *6 |
1394 | 応永年間 1394年〜1434年 | 海蔵寺(かいぞうじ) 創建 | *4 |
1395 | 応永2年 | 現 草津八幡宮に大般若経6百巻並びに経函2櫃奉納(市指定文化財) | *5 |
1448 | 文安4年 | 慈光寺前身 莵山へ創建。 | |
1456 | 室町時代 | 武田信賢が草津城を攻め落とし改築して城の形が整ったと言われている。 (その後、新里式部小輔(大内氏(おおうち)) -> 羽仁有繁(陶氏(すえ)) -> 児玉周防守就方(毛利氏(もうり)) -> 児玉就英 -> 児玉元昌 と城主が代わった。) | *2 |
1495 | 明応2年 | 豊野神社創建。 | *10 |
1504 /1505 | 永世元年/2年 | 胡子神社創建。勧請。 | ,*10 |
1531 | 天文元年 | 新里式部小輔 草津城主となる | *10 |
1554 | 天文23年 | 草津城主 羽仁越前(有繁)を毛利家臣 福原就房が破り、草津城将となる。 | |
1554 | 1554年〜1600年 | 児玉氏草津城主時代 幸福稲荷神社は吉和屋(草津の長者)の所有となった | *6 |
1555 | 弘治元年 | 海蔵寺 厳島合戦で、毛利方の陣所に用いられる。 | *4 |
1566 | 永禄10年 | 教専寺 創立。 | *10 |
1566 | 永禄10年 | 西楽寺一世 松蔭坊永頓 松蔭坊屋敷に来住した。 | |
1576 | 天正4年 | 草津湊より兵糧米3000石を石山本願寺城(大坂)へ送る。 その時、親鸞上人から「梶掛の御名号」を贈られた(もと草津城主の子孫、児玉家蔵(東京)) | |
1586 | 天正14年 | 草津城主 児玉周防守就方 74才で死亡 -> その子 就英が城主となる。 | *2 |
1588 | 天正16年7月 | 毛利輝元公上京で海蔵寺に宿泊し、草津より出航。 | *4 |
1589 | 天正17年 | 4月15日 広島城(毛利輝元公) 鍬初め | |
1592 | 文禄元年 | 浄教寺 創立(鈴ヶ峰観音寺を移す) | *10 |
1592 | 文禄元年 | 豊臣秀吉 寄港(文禄の役で九州への途中) | |
1600 | 頃 | 福島正則(広島城主)により草津城の下山陽道に大門をつくり、草津城をこわしたと言われている。 | *2 |
1613 | 慶長16年 | 西楽寺 設立 (松蔭坊信了 来村) | *10 |
1619 | 元和5年 | 検地後、草津と田方が一緒となり、草津後田村と呼ばれるようになった | |
1632 | 寛永9年 | 草津が三次藩の領地となった | |
1635 | 寛永12年 | 鰯網漁法が伊予や紀州より伝わった | |
1652 | 承応元年 | 牡蛎灰製造 始まる | |
1664 | 寛文4年 | 佐西郡草津後田村が佐伯郡草津後田村となった。 | |
1672 | 延宝元年 | 小西屋五郎八、人工蛎養殖法を始める | |
1678 | 延宝6年 | 三次浅野支藩の御茶屋敷が建てられる。幸福稲荷神社は境内の鎮守 | *6 |
1679 | 延宝7年 | 殿新開工事始まる。1680年完成。 | *11 |
1714 | 正徳4年 | 鷺森神社 神殿、拝殿再建 | *3 |
1719 | 享保4年 | 三次藩の絶藩。草津は広島藩領地となった。 | |
1719 | 享保4年 | 三次浅野支藩の御茶屋敷廃止。その後 幸福稲荷神社は村内の信仰が高まる。 | *6 |
1740 | 元文5年2月 | 草津八幡宮 神輿3基を新調。 | |
1759 | 宝暦9年 | 宝暦の大火、延焼238戸。 | |
1772 | 安永元年 | 大野屋という魚問屋ができた。 古地新開(草津本町の一部)で各地漁師が持ち寄る魚を買い取り、問屋を始めた。 | |
1781 | 天明元年 | 作兵衛火事、延焼326戸。 | |
1790 | 寛政2年 | 大公、延焼309戸。 | |
1810 | 文化7年 | 中閣火事(勘兵衛火事とも言う)、延焼270戸。 | |
1811 | 文化8年 | 中新開 (現 草津小学校あたり) | |
1814 | 文化11年 | おたご火事 | |
1817 | 文化14年 | 槌田新開 (草津橋より東側,草津東町の一部) | *11 |
1818 | 頃 | 草津蒲鉾 誕生。 包丁で魚肉を取り、塩を加えて錬ったものを竹べらで経木に盛り、炭火で加熱して焼き上げたもの。 「おれんかまぼこ」と銘付け、商品として市場に出して販売し、残漁の始末をするようになった。 それまでは、残漁は塩干しか肥料となっていた。 (2006年のノロウィルスの風評被害までは町内に60軒位蒲鉾屋があり、栄えた。) | *11 |
1820 | 文政3年 | 東新地 (草津本町の一部 ) | *12 |
1822 | 文政5年 | 本固新開 (旧 草津港あたり,草津浜町の一部 ) | *11 |
1822 | 文政5年 | 南新地 (草津南町の一部 ) | *12 |
1823 | 文政6年 | 旧草津港完成 文政4年着工。草津町民の力で住吉堤防と四連の波止めを築設。 | |
1839 | 天保10年 | 魚問屋7軒が特権商人となった。 大野屋に続き天明6年(1786)頃に井口屋、天明9年(1789)頃に山口屋が出来、3軒は「株」という特権を持って第3者の開業を許さなかった。 しかし、50年後には特権意識が薄れ、資本のあるものは魚問屋を始めることができるようになった。 (明治12年頃には許可制が廃止され、草津中町で賑わっていたそうである。) | |
1839 | 天保10年 | 干鰯屋の組合ができた。 | |
1848 | 嘉永元年 | 草津、江波干潟について海面境界の争いが数年に亘り、その結果役所の調停成立 | |
1859 | 安政6年 | 鷺森神社 拝殿再建 | *3 |
1864 | 元治元年6月 |
「蛤御門(禁門)の変」が起き、広島藩の仲裁により幕府と長州の談判が海蔵寺で開かれる。 | *4 |
1866 | 慶応2年 | 草津、江波争いが起こる | |
1868 | 明治元年 | 割庄屋 小泉甚右衛門が庚午新開を発起。干拓して農耕地を増やす目的。 (明治元年から3年間の全国的飢餓が背景か?)役人 竹田頼太郎が申し出。 | *1 |
1870 | 明治3年 | 2月7日 庚午新開着工。明治3年は干支(十干二支)が庚午(こうご)にあたる。見聞役 平山靖彦。 水利で己斐川上流の村々の庄屋や観音新開の庄屋の反対があった。 | *1 |
1870 | 明治3年 | 鷺森神社 神殿再建 | *3 |
1871 | 明治4年5月 | 庚午新開(150町歩,約45万坪,約150万m2) 完成。 小泉甚右衛門が買受け。 後に竹田庄兵衛・桑原儀三郎 持分を小泉家が買受け、大半を所有となる。 予算2万両が4万8、9千両掛かった。これは飢渇衰弱の流民を使役したため。 この為、庚午新開は「おかゆ新開」とも呼ばれた。 | *1 |
1871 | 明治4年 | 魚市場ができた。 | |
1873 | 明治6年 | 3月9日 海蔵寺内を借り「立基館」(寺小屋)設立(草津小学校の始まり)。 初代校長 頼 元啓 | *14 |
1873 | 明治6年 | 古江村田方の一部と草津村の一部を交換した。 | |
1875 | 明治8年 | 新地 完成。旧草津港の東と南。(草津浜町の一部) | |
1878 | 明治11年 | 沼田郡庚午新開を佐伯郡草津村に入れた。 | |
1884 | 明治17年6月 | 草津小学校 新築(本町5番新開とあるが御番新開の事か?) | *14 |
1884 | 明治17年 | 国道 廿日市−大竹 完成。 | |
1885 | 明治18年 | 明治天皇が山口・広島・岡山を巡られた時に小泉家で休息された。 後にこれを記念して鳳輦の碑を建てた。 | *8 |
1886 | 明治19年 | 4月1日 草津簡易小学校と校名改称 | *14 |
(1887) | 明治20年頃 | ハワイや米本土に移民が多く、庚午新開は荒地がみられた。 小作人の召集で、明治40以降は荒地が無くなる。 (ハワイ移民求人票には「砂糖きびの栽培と製糖工場勤務」家族同伴、単身の男子、1日10時間、工場は12時間、1ヶ月26日間、3年間の労働義務がある... それでも渡航期間を延長する人や再渡航を繰り返した人が多くあったということは、国内での労働がそれ以上に過酷だったという事に考えを置かなければならない。) | *1,*9 |
1888 | 明治21年 | 4月1日 草津4尋常小学校と校名改称 | *14 |
1889 | 明治22年 | 4月1日 市制・町村制 施行。 佐伯郡草津村、庚午新開 -> 草津村 古江村、山田村 -> 吉田村 | |
1890 | 明治23年 | 宇品港 完成 | |
1890 | 明治23年 | 明山新開 完成(草津浜町の一部) | |
1894 | 明治27年 | 山陽鉄道が広島まで開通 | |
1894 | 明治27年 | 昭憲皇太子が宮島に参拝された時に小泉家で休息された。 後にこれを記念して鳳輦の碑を建てた。 | *8 |
-1894 | 〜明治27年 | 小泉家は庚午新開で、自作経営で甘蔗(さとうきび)を栽培。 砂糖工場を起こすが、収支合わず明治27年廃絶。 | *1 |
1894 | 明治27年 | 9月13日 大本営を広島に移す。 (同年8月1日「日清戦争」起こる。翌年4月17日「日清講和条約調印」、4月23日「三国干渉」) | *14 |
1895 | 明治28年 | 鷺森神社 山陽本線敷設に伴い現在地に移転。 | *3 |
1898 | 明治31年 | 草津城山は現 JR山陽本線の開通により2分された。 | |
1899 | 明治32年4月 | 佐伯郡草津村立草津尋常小学校と校名改称 | *14 |
1904 | 明治37年 | 草津本町に新しい魚市場ができた。 | |
1904 | 明治37年 | 2月10日 「日露戦争」始まる。翌年9月5日「ポーツマス条約調印」、42年8月20日戦勝記念碑除幕式(小学校?) | *14 |
1909 | 明治42年 | 2月1日 草津村 -> 草津町 初代高木町長 (812戸 5809人) | |
1910 | 明治43年 | 5月17日 草津町に大火起こる、全焼42、半焼12。 小学校は大火のため3時間授業 | *14 |
1918 | 大正7年 | 11月2〜17日 スペイン風邪のため小学校は臨時休校 | *14 |
1921 | 大正10年 | 荒手埋立 宮島電鉄による。 | *12 |
1921 | 大正10年頃 | 草津に最初の硬式野球チーム「御幸倶楽部」(全草津の母体)誕生。 | *13 |
1923 | 大正12年 | 草津城山は現 広島電鉄 宮島線の開通により3分された。 | |
1923 | 大正12年 | 県の水産試験場 草津支場が出来た。 | |
1924 | 大正13年 | 草津八幡宮 神輿を作る。(1740年以降幾度も新調や改装が行われた) | |
1924 | 大正13年 | 7月1日 メートル法実施 | *14 |
1926 | 大正15年 | 土石流により海蔵寺 本堂半壊。 修復の浄財に感謝するため寄付者名を刻んだ大数珠をつくり、「観音様縁日」に数珠繰りをしている。 | *4 |
1926 | 昭和元年 | 水産試験場により牡蠣の「簡易垂下養殖法」が開発され、広島湾一帯で広く行われるようになっていた。 また、「筏式垂下養殖法」も開発された。これは戦後、広島湾内の海面使用制限が解除となった昭和20〜30年代に盛んとなった。 | |
1927 | 昭和2年 | 鷺森神社 拝殿 修繕 | *3 |
1929 | 昭和4年 | 4月1日 草津町 -> 広島市(広島市と合併) 広島市立草津尋常小学校と校名改称 | *14 |
1929 | 昭和4年 | 上水道 完成。 | |
1929 | 昭和4年 | 草津南町に魚市場が移転した。 | |
1930 | 昭和5年 | 軟式野球チーム「全草津」結成。 戦争により、昭和10年頃から選手が兵役に。休止になる。 | *13 |
1931 | 昭和6年 | 草津八幡宮 近郷六箇村の氏子により境内地の造成と共に総ての社殿が再建造営。 | *5 |
1931 | 昭和6年 | 9月18日「満州事変」起こる | *14 |
1932 | 昭和7年 | 1月28日「上海事変」起こる、5月15日「5.15事件」起こる | *14 |
1933 | 昭和8年 | 本町(旧称:本町,上町,中町,問屋ノ町)、 東町(旧称:川ベタ, 御番新開, 殿新開, 中新開, 槌田新開)、 南町(旧称:南町, 荒手, 大門, 原が尻, 大蔭, 城山)、 浜町(旧称:浜町, 大星, 本講, 明山新開)、 庚午町(旧称:庚午新開)になる。 | |
1933 | 昭和8年 | 7月26日 草津小学校新築(現在地(中新開)へ移転)、11月16日校舎改築落成祝賀式 | *14 |
1934 | 昭和9年頃 | 西氏功徳碑(西氏の功績や徳をたたえる碑)を草津町と吉田町の境から草津本町小川邸の西隣に移転。 西氏は代々医者。慈善家、「草津牡蠣養殖」や「牡蠣舟営業」の育ての親とも言われている。 | *7 |
1935 | 昭和10年 | 7月1日草津青年学校設立(同年4月1日 青年学校令公布) | *14 |
1939 | 昭和14年 | 太田川改修第1回目漁業補償金支払い協定が成立。 福島川と山手川を合流、移設して作った太田川放水路工事により、大量の水と泥土砂が漁場に流れ、大きな影響を与えていた。 (これや後の埋立事業により、草津の漁業環境は衰退方向へ大きく変ることとなる。) | |
1939 | 昭和14年 | 9月3日「第2次世界大戦」起こる | *14 |
1941 | 昭和16年 | 4月1日 広島市立草津国民学校と校名改称(国民学校令施行) | *14 |
1942 | 昭和17年 | 1月15日 学校付近火災 職員児童必死に消火につとめ、類焼を免れる | *14 |
1942 | 昭和17年 | 大津波。庚午新開堤防を破る。流出38戸。 | |
1942 | 昭和17年 | 観光道路(国道2号 宮島街道)開通。 | |
1942 | 昭和17年 | 古川埋立(現 広島電鉄 宮島線より山側 草津南〜井口駅の間) | *12 |
1945 | 昭和20年 | 5月12日 第1回学童疎開実施 児童109名 引率教員6名で、世羅郡小国村・吉川村・上出村に出発。 7月26 日第2回学童疎開実施 児童82名 引率教員6名 7月26 ポツダム宣言発表 | *14 |
1945 | 昭和20年 | 8月6日 8:15 原子爆弾 炸裂 小網町付近の建物疎開に出動していた高等科の167人は観音町土手付近で全員被爆し、約71人の生徒が重軽傷を負った。他に引率外の2人が即死した。 小学校校舎(爆心地から約4.07km)は小破。被爆者収容所として開放された。推定3000人以上の患者が収容された。9月末までの約2ヶ月間に校庭で207体の火葬を行った。(広島原爆戦災誌第4巻P271の情報) | *14 |
1945 | 昭和20年 |
8月 7日 小学校に市罹災者救護所開設(7日 治療者約600名) 8月 8日 ソ連 対日宣戦布告 8月 9日 11:02 長崎で原子爆弾 炸裂 8月10日 午後2時 昭和天皇は、ポツダム宣言の即時受諾による日本の降伏を決断。(8月14日という情報もある) 8月15日 正午 ラジオで天皇「戦争終結」の詔書を放送(玉音放送) 8月15日 小学校の市救護所を廃し、県救護所設置 8月18日 満州国解消 8月18日 ソ連軍 千島列島へ侵攻 9月 2日 ミズーリ号上で降伏文書調印 9月 2日 ソ連軍 国後島占領 9月 3日 ソ連軍 歯舞群島占領 9月14日 集団疎開児童帰校式 9月26日 小学校で草津連合町内会の合同葬 10月 小学校の県救護所を広島県病院としての指定を受ける 12月20日 小学校 父兄会 12月 小学校 児童調査 | *14,他 |
1945 | 昭和20年 | 御幸川氾濫、田方津波。 | |
1946 | 昭和21年 |
1月26日 小学校 二部授業始まる 3月26日 初等科58回、高等科47回の修了書授与式の挙行 5月15日 文部省 男女共学実施指示 11月3日 日本国憲法公布 | *14 |
1947 | 昭和22年 |
4月 1日 広島市立草津小学校と校名改称 4月 1日 広島市立第七中学校発足(現 庚午中学校創立,草津小学校校舎 借用) 3月22日 小学校 高等科48回の修了書授与式の挙行(高等科の最終授与) 5月 3日 日本国憲法施行 7月15日 小学校 8月25日まで食料休暇始まる | *14 |
1947 | 昭和22年8月 | 「草津壮年連盟」結成 町内の改善(暴力追放,魚市場の建設,電話の架設)、野球チーム「全草津」の復興 などに貢献。 その後のスポーツ振興にも貢献。 | *13 |
1947 | 昭和22年 | 11月2日 第1回 町民運動会(第1回草津町民体育大会) 開催 賞品の庚午で採れた大根は喜ばれた。 | *13,*14 |
1949 | 昭和24年 | 9月16日 庚午中学校 現在地に新築移転(校名変更 第7中学校->庚午中学校) | |
1949 | 昭和24年 | 旧港埋立組合地を作る | |
1950 | 昭和25年 | 6月25日 「朝鮮戦争」起こる 12月1日 「広島市教育委員会」発足 | *14 |
1951 | 昭和26年 | 5月17日 小学校「薪小屋」火災のため消失 | *14 |
1954 | 昭和29年5月 | 太田川改修第二次漁業補償協定成立。 | |
1958 | 昭和33年 | 4月26日 小学校 「広島復興博覧会」見学 | *14 |
1959 | 昭和34年3月 | 「太田川改修反対既成同盟」解散 昭和27年頃結成。魚市場設置問題と共に交渉した。 | |
1960 | 昭和35年 | 7月9日 草津小学校 プール落成 10月1日 草津小学校図書館完成(木造平屋建て) | *14 |
1964 | 昭和39年 | 10月10日 第18回 東京オリンピック大会始まる | *14 |
1966 | 昭和41年 | 12月21日 陸橋竣工式(小学校講堂) | *14 |
1968 | 昭和43年 | 5月5日 「県立広島交通公園」開園 10月24日 「西広島バイパス」起工式 | *14 |
1969 | 昭和44年 | 3月31日 草津小学校 新校舎 鉄筋教室 第1期工事 8教室 延1013平方m | *14 |
1970 | 昭和45年 | 2月5日 草津小学校 新校舎 鉄筋教室 第2期工事 8教室 延713平方m | *14 |
1970 | 昭和45年 | 庚午小学校創立(草津・古田小学校分離) | |
1971 | 昭和46年 | 広島市西部開発事業 埋立着工。約10年間かけて完成 昭和39年に計画案->昭和57年完成。946億円、328万平方mを造成。 過去最大の埋立で大きな漁場を喪失、草津漁業は衰退することとなった。その保障問題の解決には、大変な労力が払われた(簡単には書けないですね)。 | |
1971 | 昭和46年 | 庚午新開百年祭にともない豊野神社を庚午神社と改名 | |
1971 | 昭和46年 | 4月1日 草津小学校 新校舎 鉄筋教室 第3期工事 12教室 延1069.2平方m | *14 |
1973 | 昭和48年 | 3月9日 草津小学校 創立100周年 | *14 |
1976 | 昭和51年 | 5月10日 草津公民館 開館(庚午中学校エリア) | |
1980 | 昭和55年 | 4月1日 広島市 -> 広島市西区 | |
1982 | 昭和57年 | 鷺森神社 拝殿 修繕。原爆被害と老朽化による。 | *3 |
1982 | 昭和57年 | 「新草津音頭」草津小学校創立110周年を記念して、草津小学校教育振興会によって製作された。 草津小学校運動会、町民運動会で、音頭に合わせて踊られる。 | |
1998 | 平成10年 | 4月末 「大石餅」閉店。 江戸時代の文政年間(1818〜1830)に播磨屋惣衛門(はりまやそうえもん)とお国が始めたといわれる。 草津の西の海岸ばたに大石があり、その石のそばの茶店で餅を作り「大石餅」として売っていた。 (西国街道は大門のあった所を通り、西の大石の所へ出ていた。この「大石餅」のある茶屋あたりからの西のながめは格別であったという。) 大石餅は「オイシイ餅」にかかり、三代目の卯助になって、材料をよく吟味し一生懸命つくったので、品質佳良、風味高尚として広く知れわたり草津の名物として有名になった。 (今田三哲氏 草津歴史講座第2章より) 6月21日に「草津のまちを愛する会」主催によるイベントが行われた。 その後「草津まちづくりの会」が発足し、毎年9月に行われる「草津まちオープンミュージアム」へ活動が継承となっている。 | |
2003 | 平成15年 | 「草津八幡宮神輿保存会」結成。 3基あった神輿は昭和40年代に1基破損。平成に入り事故が発生し、警察の指導に従い一時行事が中止となっていました。 御神霊をお乗せした神輿は草津町内鷺森神社、住吉神社、胡子神社、龍宮神社を巡行します。多くの人に担がれ、「草津祭音頭」を歌い継ぎながら進みます。 この巡行では神輿同士をぶつけたり、競り合わせたり、組み合わせたりします。「草津かんか祭」「けんか神輿」として広く知られています。 毎年9月最終日曜日 | |
2003 | 平成15年 | 9月15日 草津小学校「パパクルー」結成 俗に言う”おやじの会”の類である。 主な活動は、 昔の遊びを子供達に伝える「草津六虫大会」年2回、「草津小学校校庭側溝の清掃作業」8月、「夜間パトロール」年7回位、「草津・庚午南地区町民大運動会バザー」など そして「親睦会」で、 新町など新しくこの地に入った親と古くからの親との交流の場にもなっている。 モットーは”「出来るときに!出来ることを!出来るだけ!」,「家族」「仕事」を優先する”で、無理をしない活動を目指している。 | |
*1 | 「かくれた広島の小話 第2巻」住田恵保 著 の情報より。 |
*2 | くさつまちづくりの会 「草津城址と児玉周防守就方の墓」説明プレートの情報より |
*3 | 鷺森神社内 碑の情報より。 |
*4 | くさつまちづくりの会 「久遠山 海蔵寺の略縁起」説明プレートの情報より。 |
*5 | 草津八幡宮内 碑の情報より。 |
*6 | くさつまちづくりの会 「幸福稲荷神社 御由緒」説明プレートの情報より。 |
*7 | くさつまちづくりの会 「西氏功徳碑」説明プレートの情報より。 |
*8 | くさつまちづくりの会 「小泉家と記念碑」説明プレートの情報より。 |
*9 | 「ハワイ移民史 第1章 その源流を探る」 仁保島村社会科研究会 著 の情報より。 |
*10 | 草津町役場 大正13年(1924)2月1日発行 「草津案内」の情報より。 |
*11 | 廣島郷土史研究会 発行 「廣島軍浦輪物語」の情報より。 |
*12 | たくみ出版 編集 昭和52年3月3日発行 「西部開発と漁民の思い出」の情報より。 |
*13 | 中国新聞(1981.10.13〜10.28)「草津の軟式野球」全14回 記事情報より。 |
*14 | 広島市立草津小学校創立百年誌の情報より。 |