2010年6月28日


 韓国挺対協から、今年に入って6人目の訃報が届きました。
 本当に毎月のように接しなければならない訃報に、心が掻きむしられます。なぜ私たちは日本政府の真の謝罪と補償が実現できないのでしょうか。折しも日本では参議院選挙真っ只中ですが、被害者の心情を理解していても日本軍「慰安婦」問題の解決を街頭で訴える候補者はほとんどいないというのが、わたしたち日本社会の現状です。そんな現状でも被害者の訃報を受け容れなければならないという現実は、本当に苦痛でしかありません。
 何としてでも一日も早い問題解決を実現させるために、日々努力していきたいと思います。決意を新たにしましょう。

 6月議会では各地で続々と意見書が可決され、韓国でもそのニュースに喜んでいます。
 しかしそのニュースを聞くことがないまま、ハルモニたちは一人二人と亡くなっていきます。

 6月28日、慶尚南道居昌(コチャン)に暮らしていたパク・スニムハルモニが亡くなられました。

 1920年にコチャンで生まれたパク・スニムハルモニは、テグに住んでいた1939年12月に路上で日本警察に連行され、釜山・上海などを経て中国で解放を迎えるまで日本軍「慰安婦」としてつらい日々を送りました。
 終戦後、1年以上中国で暮らし、上海から帰国しました。
 最近まで様々な病気と老衰でコチャン病院に入院していましたが、28日午前8時30分ごろに目を閉じられました。

 ハルモニが寂しくないよう、多くの方々が冥福を祈ってくださるようお願いいたします。


 2010年6月16日
 
 菅新政権誕生を受け、韓国挺対協とハルモニたちが新総理に向け要望書をソウル日本大使館に手渡しました。
 本来であれば水曜デモの時に手渡したかったものの、その時間には大使館職員は一人もいないとのことで、少し早い11時半に、イ・スンドク、キム・ボクトン、キル・ウォノクハルモニの3人が大使館の中に入り、職員に要望書を手渡しました。ハルモニは「私たちの残り時間は短いので、早く解決してくれるようお願いします。いつも要望書を出しても返事をもらうことができませんでした。お返事をいただければうれしいです」と仰っていたそうです。
 


要  望  書
 菅直人 内閣総理大臣 殿
 6月4日、94代総理に菅直人民主党代表が選出され、8日には新たな内閣が誕生しました。私たち韓国挺身隊問題対策協議会は、菅新内閣に日本軍「慰安婦」問題の立法解決を実現するため一層の努力を傾けていただくことを求め、要望書を送ります。

 8ヶ月という短命に終わらざるを得なかった鳩山総理の辞任理由は、大きく沖縄普天間基地問題と政治資金問題にありました。特に、普天間基地問題では、鳩山総理は当初の県外移転という公約を覆し、結局は自民党が主張していた辺野古移転という原案に帰結したことにより、市民からの支持を失いました。このような状況は、私たちを期待させたこれまでの発言や公約が、虚言になるかもしれないとの憂慮を感じさせました。

 2009年の民主党インデックスには、戦後諸課題の取り組みとして、「国会図書館に恒久平和調査局を設置する国立国会図書館法の改正、シベリア抑留者への未払い賃金問題、慰安婦問題等に引き続き取り組みます」と明記されていました。しかし、「慰安婦」問題については何らの進展もなく解決の糸口さえ見えていません。また、民主党を中心として2000年から提出されてきた「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」は今年で提出10周年を迎えましたが、昨年からは国会に上程されることすらありませんでした。

 韓国の日本軍「慰安婦」被害者が名乗りをあげ、日本政府に対し問題解決を要求するようになって20年近くが経ち、13歳の時に連れて行かれ「慰安婦」にさせられた少女は、83歳になりました。70年もの間、苦痛の中で生きてきた被害者への心のこもった謝罪とそれに基づく賠償は、今この時期を逃してはありません。

 2007年に米下院で日本軍「慰安婦」問題解決に関する決議が採択され、各国・国際機関が日本政府に問題解決を求めてきました。また、日本国内でも21都市が、日本政府に日本軍「慰安婦」問題に誠実に対応することを求める意見書などを可決しています。日本軍「慰安婦」問題解決を求める日本国内外の声は、これ以上なく高まっています。先日日本を訪問した国連人権高等弁務官は、日本軍「慰安婦」被害者とも会い、戦時性奴隷被害者に対して謝罪・補償し、最終的な解決を実現するよう日本政府に訴えました。そして、「これまで中途半端な対応が多すぎたため、被害者の満足が得られてこなかった」「新政府は、この悲惨な過去を清算するだけでなく、これを地域の他の国に対して肯定的な模範を示す機会とすることができる」と述べました。国連理事会第14会期でも、女性暴力特別報告官が「女性暴力に対する賠償」報告書の中で、日本軍「慰安婦」問題に対する日本政府の賠償責任を強調しました。
 日本軍「慰安婦」問題は、今やアジアだけでなく世界の人権問題となっています。世界中で沸き起こっている声に耳にを傾け、真の解決をめざして取り組むことが、日本政府の果たすべき役割でしょう。

 今年は韓国併合100年を迎える年です。まさにこの時期に就任した菅総理が、どのようなメッセージをアジアに向けて発信するのか注目されています。1995年に「村山談話」が発表され植民地支配に対する言及がありました。しかし、「引き続き誠実に対応」するという言葉とは裏腹に、「戦後処理」はきわめて不十分な結果に留まってしまいました。今年8月には「村山談話」を超え、首相談話として戦後補償問題解決に対する積極的な発言があることを期待しています。また、次期国会で具体的な政策を提示していただけるようお願いいたします。

 日本軍「慰安婦」問題に対し、徹底した真相究明と公式謝罪、そして法的賠償を一日も早く明確に成し、一人でも多くの被害者が生きているうちに人権および名誉回復がなされなければなりません。何よりも菅新総理が継承すると誓った「東アジア共同体」を確立するためには、まず過去の歴史を清算し正しく解決しなければならないでしょう。この問題の解決は、アジアの人々との真の和解と平和につながります。

 菅新総理が、まさに草の根のように信念を曲げず強い政治を行い、日本軍「慰安婦」問題の真の解決に心血を注いでいただくようお願いいたします。

2010年6月16日

韓国挺身隊問題対策協議会(共同代表 尹美香 韓国琰)
韓国女性団体連合、全国女性連帯、韓国女性民友会、梨花民主同友会、韓国女性ホットライン連合、平和を作る女性会、韓国女子修道会長上連合会、基督女民会、KNCC(韓国基督教協会協議会)、基督教大韓メソジスト会全国女教役者会、大韓イエス教長老会全国女教役者連合会、女性教会、韓国教会女性連合会、韓国基督教長老会女信徒会全国連合会、韓国基督教長老会全国女教役者会、韓国女神学者協議会、韓国挺身隊研究所、大韓メソジスト会女宣教会全国連合会、新しい世界を開く天主教女性共同体
(翻訳:挺対協)
 2010年5月中旬~6月中旬


 5月中旬、ナヴィ・ピレイ国連人権高等弁務官が来日しました。マスコミ報道では、拉致被害者家族との面会ばかりが取りざたされていますが、ピレイ高等弁務官は日本軍「慰安婦」問題にも言及しました。
(以下国連人権高等弁務官事務所記者発表より抜粋/翻訳:戸塚悦朗さん)

 高等弁務官はまた、「慰安婦」問題について、何千と言う戦時性奴隷被害者に対して謝罪し、かつ補償し、最終的な解決を実現するよう日本政府に訴えた。「これまで中途半端な対応が多すぎたため、被害者の満足が得られてこなかった」「新政府は、この悲惨な過去を清算するだけでなく、これを地域の他の国に対して肯定的な模範を示す機会とすることができる」とピレイ高等弁務官は述べた。

 この「中途半端な対応」というのは、明確に国民基金に対して向けられたものです。ここでは国民基金に対する批判は述べませんが、実際問題として被害者が「解決していない」と主張していることを述べるだけでも十分でしょう。
 この件に関して、国際的な人権法律家であり『促進法案』の産みの親の一人でもある戸塚悦朗さんは、こう述べています。
 「人権理事会での日本政府の発言は、国際社会での公式の日本政府による声明です。国内で言えば、国会答弁と同じです。『慰安婦』問題は、東アジアだけでなく、世界の人権問題となっていることを認識する必要があるでしょう。新政府が構成されるまでの間に、官主導で既成事実が作られ、旧政権の政策をそのまま新政権も継承しているかのような印象を世界に発信しているのです。これでは、民主党中心の鳩山内閣、菅内閣の力量が問われることになるでしょう。」

***

 そして国連では5月13日から6月18日まで国連人権理事会が開催されました。
 国連の女性暴力特別報告官は報告書で日本軍「慰安婦」被害者に対して賠償がなされていないのは、女性に対して伝統的に無視を決め込む代表例と、厳しく指摘しました。特に被害者が国民基金を拒否した事に触れ、公式謝罪と国家的責任を認めない経済的な補償を望んでいないと指摘しました。
 これに対し、日本政府はこのように答弁したといいます。
(以下挺対協のアピールより抜粋/翻訳も挺対協)

 「日本軍『慰安婦』問題に対し、日本政府はすでに最大限厳格に調査を行って結果を発表し、談話を通じて多くの女性の名誉を損なったことを明らかにしてお詫びした」
 「政府と日本国民の論議により、『アジア国民基金』を設立して償い金と医療支援などを提供し、総理の手紙を送り被害者にお詫びと遺憾を表した」
 「この問題に対する道徳的責任感を認め、きちんと向き合っている」

 韓国政府が「国連女性差別撤廃委員会(CEDAW)が、最近まで日本軍『慰安婦』問題が解決されていないことを指摘しており、韓国政府は日本政府が速やかにこの問題を解決することを求める」と2度にわたり求めましたが、日本政府は「遺憾と謝罪を表した」と繰り返すだけでした。

 政権交代が行われた今も、いまだに国民基金を引き合いにして、国連に勧告を出されても応じることなく従来通りの答弁を繰り返しています。
 国連の女性暴力特別報告官が指摘するとおり、被害者が望むのは国民基金のような不十分かつ施しのようなものではなく、国家的責任認定に基づく賠償と公式謝罪です。被害者の望む解決が遂行されない以上、それは「道徳的責任感」認めたことにはならないし「謝罪」したことにもなりません。
 このような日本政府の逃げを認めさせず、なんとしてでも日本政府に真の謝罪と補償を実現させましょう。


 2010年5月16日

 5月16日、キム・ゲファハルモニが釜山市の養老病院でお亡くなりになられました。享年89歳でした。
 これで韓国政府に登録された「慰安婦」被害者は84名になりました。

 1921年に慶北・霊徳(ヨンドク)に生まれたハルモニは、17歳の1938年に日本軍「慰安婦」として中国の青島と日本の北海道の「慰安所」に連行されました。解放後は日本にとどまり、1979年に帰国しましたが、母親のお墓を訪ねただけで、家族や親戚を探そうとはせず、一人で暮らしてきました。
 58歳になるまで日本で暮らしておられたハルモニは、なぜそのお年になって帰国を決意されたのでしょうか? そして帰国された後も身寄りもなく一人で……。そのハルモニの孤独な心の傷を思うと、本当に胸が痛みます。そして私たちの責任を痛感せずにはおれません。
 数年前から膀胱癌を煩い、この3年は養老院と病院を往復する日々でした。亡くなられた後は、多くの在日同胞が眠る忠清南道天安市の「望郷の丘」に埋葬されます。

 そう遠くない日に、心のこもった謝罪の声を「望郷の丘」にお届けしたいとおもいます。必ず。


 2010年3月11日


 今年に入って4人目の訃報をお届けします。
 一体私たちはどれだけ被害者の訃報を耳にすればいいのでしょうか?
 日本政府の謝罪と補償、被害者の尊厳回復に向けた私たちの取り組みが実現しない現状の中で、被害者の訃報を受け容れなければならない現実は、本当に苦痛でしかありません。
 何としてでも一日も早い問題解決を実現させるために、日々努力していきたいと思います。決意を新たにしましょう。

 コジェに暮らしていたイ・ドスンハルモニが、3月11日に亡くなられました。9日に急性心筋梗塞で意識不明の状態のまま病院に運ばれたイ・ドスンハルモニは、死闘の末、この世を去られました。
 お葬式は市民社会団体葬として執り行われます。
 ハルモニの冥福をお祈りします。

【故イ・ドスンハルモニ略歴】

1922年 慶尚南道コジェ市で出生。
1939年 17歳で工場に就職させてやるとの言葉にだまされトンヨンから船に乗ってプサンへ行った後、汽車に乗って中国に連行され、6年間苛酷な日本軍「慰安婦」生活を強いられる。
1945年 解放直前に中国から汽車に乗ってプサンに到着。再び船に乗って故郷のコジェ島へ。
1993年 日本軍「慰安婦」被害者として申告。
2004年 水曜デモに参加し日本政府の謝罪と賠償を要求。日本軍「慰安婦」問題解決のため地域で活動する。
2009年 下半身麻痺と持病で療養病院に入院。
2010年3月11日 死去。


 2010年3月2日

 最後の日本軍「慰安婦」裁判といわれていた海南島裁判の最高裁判決が出されました。
 上告棄却――とても悔しくて残念なことですが、これでわたしたちに残された道は立法解決しかなくなりました。

 2審・東京高裁は09年3月、原告が暴力でPTSD(心的外傷後ストレス障害)などを発症していたと被害事実は認めていましたが、「賠償請求権の時効が成立した」「72年の日中共同声明により裁判で賠償を求めることはできなくなった」として請求を棄却しました。
 ここで重要なのは、裁判で被害事実そのものは認められているということです。
 この問題を認めたがらない人たちはあれこれ理屈をこねて、被害者の存在そのものを認めたがりません。しかし現実はそうではありません。これまでの裁判では、結果は敗訴かもしれませんが、「慰安婦」という制度、その被害の事実は公的に認められているのです。

 もちろん、時効や、日中共同声明や日韓条約などの2国間条約を理由に訴えを退ける司法のやりかたを、認めるわけにはいきません。
 これについて、中国外務省の秦報道官は3月5日、「『中日共同声明』は両国政府の間で結ばれた政治文書である。日本の裁判所による一方的な解釈は無効だ」と述べた上で、「慰安婦の強制連行は第二次世界大戦中に、旧日本軍が中国人民を含む侵略された国々の人々に対して行った大きな犯罪で、人類の歴史上、まれに見る人道主義への犯罪でもあり、被害者の体と心を大きく傷つけた。日本は責任感を持って、できるだけ早くこの問題を適切に処理すべきだ」と強調しました。

 時効や2国間条約が、被害者の苦しみや悲しみを超えるものであるはずがありません。なんとしてでも、謝罪と補償を現実のものとするよう、がんばりましょう!

<2審判決はこちら>


 2010年2月10日


 またしても、韓国挺対協より訃報が届いています。
 このところ報告せねばならないのが訃報ばかりというのは、本当に辛いことです。
 なくなられたハルモニのためにも、そして存命中のハルモニのためにも、なんとしてでも解決を現実のものにしなければなりません。

 イクサンに暮らしておられたイ・ジョムネハルモニが2月10日夜10時ごろに亡くなられました。

 故イ・ジョムネハルモニは、1921年にイクサンで生まれ、貧しい家の事情でインチョンに奉公に出ていたところ、1935年ごろ日本軍人によって連行され日本軍「慰安婦」という苦痛を味わいました。
 中国・シンガポールなどで辛い日々を送っているときにひどい肺病にかかり、1941年ごろやっと帰郷することができました。
 当時の軍人の殴打など慰安所生活による様々な病気で、帰国後も辛い日々を送りながらイクサンで暮らしてきました。

 ハルモニを訪問すると元気に笑う姿を見せてくれていましたが、老いのせいで気力をなくし、今週初め脳出血で倒れました。
 再び起き上がることを切に願っていましたが、昨日の夜に目を閉じられました。

 ハルモニがさみしくないよう、皆さんも冥福をお祈りください。

 ハルモニ安らかにお眠りください。


 2010年2月10日

 2月10日、岡田外相が訪韓し日韓外相会談を行うにあたり、「真実と未来・国辱100年事業共同推進委員会」と韓国挺身隊問題対策協議会が、日韓の正しい過去清算を求めるため、記者会見とソウルの日本大使館への書簡伝達を行いました。
 「日本大使館への書簡伝達」といえば、昨年9月の鳩山首相初訪韓時のことを思い出す方も多いと思います。(詳細はこちら)
 韓国挺対協は鳩山訪韓時にも同じように日本大使館への書簡伝達を行いましたが、この時日本大使館は、職員が誰も出てこず、黒塗りのガラス窓越しで対応するというとても酷い対応に終始しました。
 このことは日本でも広く伝わり、市民・女性・国会議員・地方議員など多くの方々が政府・外務省に抗議しました。今回大使館職員に面会し書簡を伝達できたのは、その抗議の成果です。
 とはいえ、入れるのは二人のみ、写真撮影・録音はお断りとの条件付きです。
 キル・ウォノクハルモニとユン・ミヒャン代表が大使館の中に入り、応接室で職員1人と対面して書簡と声明書を渡しました。
 ハルモニが一言話す時間もあり、受け取った職員はキチンと伝達すると答えたそうです。
 伝達を終えて外にでてきたキル・ウォノクハルモニは、「直接渡すことだけでもすっきりした」と感想を述べていました。

 ハルモニたちの書簡は、私たちの心も打たずにはおれません。また被害生存者87名というのは、私たちに残された時間がどれほど少ないか、思い知らされます。しかも同日夜、イ・ジョムネハルモニが亡くなられています。これで86名……本当に時間とのたたかいです。

 


日本軍「慰安婦」問題の早急な解決を求める
日本軍「慰安婦」被害生存者の公開書簡
 岡田克也 外務大臣 殿
 私たちは、日本による植民地化で日本軍人の性奴隷として、人間としては耐えられないほどの惨たらしい生活を強いられた日本軍「慰安婦」被害の生存者です。私たちは、すでに80歳から90歳中盤の高齢者で、残り時間はそう永くはありません。
 しかし、私たちは最後の一つの希望をあきらめず生きています。それは、幼い時に日本軍に踏みにじられ奪われた名誉と人権を取り戻すことです。それは、日本政府が真実を正しく明らかにし、公式謝罪と法的賠償を実現し、再び私たちのような被害者が生まれないよう再発防止措置をとることです。
 私たちは、今日の岡田外務大臣の韓国訪問と日韓外相会談の開催を、期待と希望を持って注目しています。昨年9月に新しく日本の総理になった鳩山総理大臣が韓国を訪問し、「歴史を直視する」と日韓の過去問題への解決の意志を明らかにしました。これに続く日韓外相会談では、鳩山総理の意志に対する具体的な論議がなされることだろうと信じているためです。
 また今年は韓国が日本によって強制的に主権を奪われてから100年になる年です。歴史的な意味を持つ今年は、日本軍「慰安婦」問題が解決される元年になることを心より願っています。
 私たちは、ここ日本大使館前で1992年から毎週水曜日に、日本軍「慰安婦」問題の正しい解決を求め900回を越えるデモを行ってきました。ちょうど水曜日となった外務大臣の訪韓は、私たちの胸を疼かせます。
 再度、心よりお願いします。
 鳩山連立内閣は、被害者が生きているうちに、一日も早い日本軍「慰安婦」問題を解決するための法律を制定し解決して下さい!そのためにも、岡田外務大臣が積極的に努力してくださることをお願いします!
 それこそが、再びこの地で私たちのような傷と痛みを持った被害者を生まないという、日本政府の平和と正義に向かった約束となることでしょう。
2010年2月10日
韓国の日本軍「慰安婦」被害生存者87人
キル・ウォノク、イ・スンドク、キム・スノク、カン・イルチュル、コン・ジョミョプ、クァク・イェナム、クォン・マルレ、キム・ギョンスン、キム・ギョンエ、キム・ゲファ、キム・グンジャ、キム・ダルソン、キム・ボクトン、キム・ボクトゥク、キム・ボクソン、キム・ボクソン、キム・ブニ、キム・ソニ、キム・ヤンジュ、キム・ヨニ、キム・オスン、キム・オックィ、キム・ウェハン、キム・ヨジ、キム・ユンシム、キム・ジョンブン、キム・ジュソク、キム・ファソン、パク・プニ、パク・スニム、パク・スニ、パク・オンニョン、パク・オクソン、パク・ユニョン、パク・ピルグン、ペ・ボンナム、ぺ・チュニ、ソン・ナミ、シン・サンシム、シム・ダリョン、アン・ジョムスン、ヤン・ジェスン、ウ・ヨンジェ、ユ・ヒナム、ユン・グムネ、ユン・スンマン、イ・グィニョ、イ・ギソン、イ・ギジョン、イ・ドゥスン、イ・マクタル、イ・ボクスン、イ・サンヒ、イ・ソノク、イ・スサン、イ・ヤングン、イ・オクソン、イ・オクソン、イ・ヨンニョ、イ・ヨンス、イ・ジョムネ、イ・ヒョスン、イム・ジョンスン、イム・ジョンジャ、チャン・ジョムドル、チョン・マリア、チョン・ボクス、チョン・ユノン、チン・ファスン、チェ・ガプスン、チェ・グムソン、チェ・ドンネ、チェ・ソンスン、チェ・オギ、ハ・サンスク、ハ・スイム、ハ・ジョミョン、ハム・グィラン、ファン・グムジャ、ファン・グムジュ、ファン・ソンスン、パク・ソウン、パク・チャスン、イ・スダン、ノ・スボク、ソン・シンド、キム・ドゥクソン、パク・ユソン


  2010年1月15日


 またしても韓国挺対協より訃報が届いています。
 中国在住のキム・ウィギョンハルモニです。
 異国に置き去りにされた被害者たちの苦難は生涯続きます。ナヌムの家のハルモニたちのように、故郷に帰ってこれたとしても、中国に残してきた家族と引き離されてしまうのですから。
 最後まで帰国できなかったキム・ウィギョンハルモニの無念さはどれほどだったでしょう。
 これで、やっと、魂となって故郷に帰られることでしょう。ご冥福をお祈りします。

 年末年始にかけて悲しいお知らせが続いています。
 故キム・ウィギョンハルモニの訃報をお伝えします。

 キム・ウィギョンハルモニは、中国武漢に暮らしていましが、この間連絡をしても家族がハルモニとの接触を拒否するなどで会うことができませんでした。
 亡くなったのではないかと実態調査を要請していたところ、おととい女性部からハルモニが亡くなったことが確認されたと連絡がありました。

 故キム・ウィギョンハルモニは1918年ソウル生まれ。1938年に日本軍に強制連行され約7年間中国南京などの「慰安所」で苦痛を経験させられました。
 1945年に韓国への帰国を試みましたが、思いどおりにはいかず、中国で暮らすことになりました。
 ハルモニの姿は、ピョン・ヨンジュ監督の映画『ナヌムの家』に収められています。

 キム・ウィギョンハルモニが恨はこの世に残して安らかに眠られるよう、冥福を祈ります。


  2010年1月2日 


 新年だというのに、私たちは辛いニュースで新年を迎えなければなりません。
 韓国挺対協よりまたしても悲しい便りが届きました。韓国政府に申告していた被害女性234名は、これで88名になりました。問題解決されていない現状のまま、もうこれ以上ハルモニたちの訃報には接したくはありません。
 今年こそは、なんとしてでも日本政府の謝罪と補償を実現させることを、ハルモニの死に誓いたいとおもいます。

 韓国では年末年始ものすごい寒波に覆われる中、2010年が開けました。しかし、希望あふれる知らせの前に悲報をお知らせしなければなりません。
 1月2日の朝、慶北キョンサンに暮らすキム・スナクハルモニが亡くなられました。

 キム・スナクハルモニは、1928年に慶北キョンサンで生まれ、1943年、16歳で就職させてやるとの言葉を聞き中国に連行されました。ハルピン、内モンゴルを経て中国で日本軍性奴隷としての生活を強要されました。
 1945年、キム・スナクハルモニが18歳の時に中国で解放を迎え帰国を試みましたが、1年後の46年にアムノク江を越えて北朝鮮に帰国されました。
 その後、ソウル、クンサン、ヨス、トンドゥチョンなどを転々として暮らしてきました。

 ハルモニは、2001年になって日本軍「慰安婦」被害者として申告し、その後挺対協が行う人権キャンプなどに参加もしました。
 日本での証言集会も行い日本軍「慰安婦」の実相を証言され、テグの挺身隊ハルモニとともに行動する市民の会が行う園芸治療プログラムにも続けて参加し園芸作品展示会も開催しました。

 最近、大腸がんが発見された後、手術を成功裏に終え安心していましたが、長い病苦と老衰に苦しんでいたハルモニは結局病魔に勝てず、恨多い世界から旅立たれました。

 ハルモニが寂しくないよう冥福をお祈りください。


<2009年以降はこちら>





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