冨士教学研究会掲示板 42149


「日蓮正宗の神話」「興風」関係

1:独学徒 :

2006/12/06 (Wed) 20:59:08

「日蓮正宗の神話」一昨日届きまして、さらっと眼を通しました。
私はもっと「学会正義」を強調し、日顕上人を口汚く罵っているかと思いましたが、思ったより抑えた内容かなと思いました。

興風談所の出版物も、熱心に読んでいるようですね。
正直、論考の中身はあまり参考になりませんでしたが、大崎系の土俵にいないので、真蹟による詰めが無いことなどは、残念というか、こんなもんかといった感じは残りました。
学会の縛りのもとにいることは、本当にかわいそうなことだなと痛感します。

「富士門流信徒の掲示板」でも紹介しましたが、興風18号・興風叢書10が出ました。
興風18号には、設立25周年記念特集号ということで、川添先生や都守先生の論考も掲載されている上、これまでその全容がベールに包まれていた、保田妙本寺蔵「日叡類聚記」が、翻刻され掲載されています。

興風叢書10は等覚院日全撰「法華問答正義抄」です。
こちらも上代教学を知るうえで、資料的価値は大きいと思います。

等覚院日全撰「法華問答正義抄」は、今回は第11巻から13巻までが収録され、引き続きそれ以外の巻も続巻されるとの事です。

お薦め度は「日蓮正宗の神話」<「興風18号・興風叢書10」です。
内容、資料的価値ともに、断然「興風18号・興風叢書10」の方がはるかに上です。
19:独学徒 :

2006/12/12 (Tue) 21:48:03

犀角独歩さん、彰往考来さん、れんさん、

ご投稿ありがとう御座います。
松岡さんの著作に関しては、皆さんのご意見と同感です。
日蓮正宗最大の神話である、『本門戒壇之大御本尊』について、なんら無批判であること自体が、もはや学会擁護論考以外のなにものでもないと思われても仕方ないところです。
学会にとって都合の悪いところは蓋をするやり方では、真摯な論考ではなく、学会員の財布と、お上の眼を気にした保身の論考との批判は免れないでしょう。

興風の方は、興味深い内容でしたね。
先の投稿にて、「日叡類聚記」と記しましたが、「類集記」の誤りでした。
日興・日目滅後、間もないころの著作に、恵心・檀那の中古天台関連の記述や、「無作三心(身)」の用語が見られるところは、大変興味深いところです。
また「類集記」及びほぼ同年代の著作である、等覚院日全の「法華問答正義抄」の、双方に「本尊問答抄」が引用されていることも注目しました。

「法華問答正義抄」ではさらに、「戒体即身成仏義」の引文があることから、上代のおいて「戒体即身成仏義」が存在していた可能性を示唆しますね。

まだ今日届いたばかりで、読み込んだわけではないのですが、かなり参考になりそうです。
18:れん :

2006/12/12 (Tue) 19:42:56

先程帰宅しましたら「興風第十八号」が届いてました。本書の中、大黒師が“日蓮聖人の成仏義諸型とその受容”と題したご論考の‘おわり’にのなかで「この二、三十年の間に顕正会問題・正信会問題、そして創価学会問題等が継起する中で、その板曼荼羅本尊と法主に対する信仰の根拠のぜい弱さが露顕し、同時にその両信仰に基づく成仏義も砂上の楼閣となりはててしまった。こうなれば、すべてが振り出しである。日蓮聖人の御書そのものに立ち戻り、そこにどんな成仏義が説かれているのか、そしてその中でどれが私たちの今の信仰生活を支えてくれるのか、もう一度あらためて考え直してみようというのが本稿作成の動機である」といわれたところ、私は同感いたしました。
大谷師の“日えい筆「類集記」について”も興味深く読みました。また、付録の類集記の翻刻も、この当時の法門習学の有様が伺え大変興味深い内容でした。
17:れん :

2006/12/12 (Tue) 11:56:17

興風十八号はまだ届いていませんので、今か今かと待っているところです。
私は、先の独学徒さんのご意見と同じで、未知の資料の方に興味があります。松岡氏の労作の「神話」では、結局“石山第一の神話”である彫刻について避けて通ったがために、佐藤さんが噛み付いていた大崎学派の方にすらレベルが及ばない低級なものになったのは残念でした。まぁ、私は学会を脱会しましたから、その意味で何ら縛られませんから、しっかりと真実を見極めていこうと考えております。
16:彰往考来 :

2006/12/11 (Mon) 07:34:45

松岡幹夫氏の『日蓮正宗の神話』(2006年、論創社)を読みました。労作であり参考になるところも多かったのですが、所々気になる点がありました。
まず松岡氏が未検証で「大石寺門徒が信ずべき上行付属の法体とは「本門の本尊」すなわち「本門戒壇の大御本尊」のことである。そして、この戒壇本尊の「分身散体」としての意義をもつ日寛書写の形木本尊が創価学会によって世界中に弘められている」(6頁)としていることです。この本の冒頭からこの調子で最後まで同じということでした。
ここでいう“大石寺門徒”とは誰でしょうか?少なくとも日蓮正宗富士大石寺では創価学会員を大石寺門徒とは認めていませんし(認めているなら登山できるでしょう)、一般の創価学会員に「あなたは大石寺門徒ですか?」と尋ねても答えはノーでしょう。大石寺の信徒であれば信ずべき本尊は「本門戒壇の大御本尊」でしょうが、彼らは創価学会の日寛書写の形木本尊を「ニセ本尊」としていますので、「戒壇本尊の「分身散体」としての意義をもつ日寛書写の形木本尊が創価学会によって世界中に弘められている」とは認めていないわけです。 「この人ホントにこう考えているのかしらん?」と思ってしまいます。『日蓮正宗の神話』6頁の“大石寺門徒”を“創価学会員”に変えるととりあえず意味は通じますが松岡氏の文章のままでは意味不明です。
松岡氏は無条件で「本門戒壇の大御本尊」をホンモノとして扱っています。『日蓮正宗の神話』は「本門戒壇の大御本尊」の真偽がテーマではないといえばそれまでかもしれませんが、そうとはいえないでしょう。なぜなら『日蓮正宗の神話』184頁に、『御本尊七箇相承』に「仏滅度後二千二百三十余年」と書写し奉るとあることから、『御本尊七箇相承』を血脈相伝ととらえ、この内容により平僧が阿部日開師の御本尊写誤を謝罪させたと指摘しているからです。「本門戒壇の大御本尊」には「仏滅後二千二百二十余年」とある(例えば柳澤宏道『石山本尊の研究』平成9年、はちす文庫、38頁)のですから、松岡氏自身が「『御本尊七箇相承』の当条目については、大石寺歴代が実際に書写した曼荼羅本尊との矛盾が問題となる」(252頁)としている点をまず自ら検証して議論に臨むべきでしょう。それをしないで無批判に「本門戒壇の大御本尊」中心の議論を展開しても意味はありません。もちろん松岡氏は「問題の「仏滅度後二千二百三十余年の間」云々という本尊相伝の条目は(中略)成立史的に不明な点が多々ある」(『日蓮正宗の神話』253頁)とされ、『御本尊七箇相承』が後世のものであると示唆されていますが、そうであればこのようなイイカゲンな史料を持ってしたロジックはすでに破綻しているわけで、書写し奉る対象であるべき「本門戒壇の大御本尊」に「仏滅後二千二百二十余年」とあるのに大石寺歴代の貫首は「仏滅度後二千二百三十余年」と書写し奉っているのですから話にならないのです。松岡氏は「筆者の推定を「誤りである」と断言する以上は、早急に確実な史学的根拠を公表すべきである」(『日蓮正宗の神話』290頁)と高橋粛道師に指摘していますが、松岡氏には「「本門戒壇の大御本尊」を「ホンモノである」とする以上は、早急に確実な史学的根拠を公表すべきである」と僭越ながら指摘しておきます。
また松岡氏は導師本尊(日蓮宗では臨終曼荼羅といいます)の類について、「現存する最古のものは1592年に本圀寺が出したもの」(『日蓮正宗の神話』324頁)と指摘しています。この内容は松村壽厳氏の『日蓮宗儀礼史の研究』(平成13年、平楽寺書店、86頁)によるものでしょうが、松岡氏はその旨を記載しておらず研究者としては少々杜撰です。また管見に入った限りでは臨終曼荼羅の最古のものは1552年のもの(『太田区史 資料編 寺社2』昭和58年、東京都大田区、1303頁)です。すでにこのことは『富士門流信徒の掲示板』(http://jbbs.livedoor.jp/study/364/)の「本尊と曼荼羅」スレッド489~494に2005年11月20日に投稿して開示してあります。
以上、少々気になった箇所をご指摘申しあげました。なお、『日蓮正宗の神話』では論文末の注欄にグタグタと文章が書き連られてあり本文を読んでいる際にいつも注欄をひっくり返さねばならず極めて読み難い効率の悪い構成です。いいたいことがあるのなら本文に書くべきでそれが読者から見た視点と思います。
15:犀角独歩:

2006/12/10 (Sun) 20:29:22

独学徒さん、おそれいります。

いずれにしても、今回の松岡さんの出版は、富士門下以外では、『創価学会の神話』を紙背に記したものであると受け止めらることになると思います。

先頃、日蓮宗現宗研で『創価学会批判』が復刊されましたが、その内容の三分の二は「日蓮正宗」批判でした。

それにしても、石山を批判しながら、日寛を担ぐとはご苦労な限りですが、結局、石山の日寛教学、その「本尊」を拝む学会が「日蓮正宗の神話」を書くことは、自分たちの神話を書くことになります。

こんなレトリックは、実は松岡さんは先刻ご承知で、実は暗に学会と池田さんの過去の経緯を、「日蓮正宗」の名を借りてこすっているだけではないのかと、この人の論調を読むとしばしば思うことがあります。
14:独学徒 :

2006/12/08 (Fri) 19:01:46

犀角独歩さん、今晩は。

>お騒がせする形になりましたこと、まずはお詫び申し上げておきます。

とんでも御座いません、お越しいただける事は光栄です。
今後もどうぞご活用の程、お願い申し上げます。

>自己の信仰を肯定化するために、学問を枉げて用いることを卑劣なことと感じます。

私も同感です。
私は、印哲系が優れ、大崎系が劣るとは思いませんので、大崎系の思考方法からしますと、やはり松岡さんの御所論は、いまいち説得力に欠けると思った次第です。

>次作は是非とも、『創価学会と池田大作の神話』を上梓してくれるものと期待しております。

これは絶対に無理です。
宗門と分離後、学会は更に独善的な団体となっています。
したがって、このような論考を書くからには、除名や裁判で被告人になる決意で書かねばなりません。
学会及びその関連団体からの報酬で生計を立てている以上、このようなことはまず無理でしょう。

この点では、かつての松本さんは立派だったと思います。

現在は、池田名誉会長だけでなく、会長をはじめとする最高幹部らを、むやみに批判すると除名になります。
その良い例が、かの「池田先生直結の会」です。
また彫刻の批判も依然タブーのままです。
某聖教職員の処分がそれを物語っています。

学会の中にいては、自由に発言・発表はできないのです。
触れてはならない聖域があるのです。

だから私は冒頭の投稿にて「学会の縛りのもとにいることは、本当にかわいそうなことだなと痛感します。」と書きました。
決して松岡さんに能力が無いのではなく、聖域のあるところで、言論抑制されているところに、その能力を十分に発揮できない原因があると思うからです。

ま、私のようにいてもいなくてもどうでも良い会員の場合、何を言おうが書こうが自由なんですが、とりわけ学会及び学会系の団体から、報酬を得ていれば、自由には行かないでしょうね。

托鉢をする決意で、忍難弘通の精神が無くてはなしえないものだと思います。
13:犀角独歩:

2006/12/08 (Fri) 08:10:09


独学徒さん

お騒がせする形になりましたこと、まずはお詫び申し上げておきます。
わたしは、自己の信仰を肯定化するために、学問を枉げて用いることを卑劣なことと感じます。学問に耐えうる信仰を確立するために、厳正を期すること、それは他を貶すのではなく、耐えざる、自分の信じること、所属団体、指導者を含めた意味での自己反省の上にしか成り立たないと考えます。
この点は、たぶん、同意いただけるかと存じます。
わたしが述べる日蓮、日興、富士門流は、自己の信仰において、第一人称の問題です。そのうえで、それを追究しています。それは過去半世紀の自分史の自己批判であることはいうまでもありません。

松岡さんは他宗の神話など書く暇があったら、自己の信仰と所属集団、指導者を学問から反省してみる必要があると思うわけです。その意味で、次作は是非とも、『創価学会と池田大作の神話』を上梓してくれるものと期待しております。
12:独学徒 :

2006/12/08 (Fri) 00:07:44

佐藤さん、犀角独歩さんは、とても謙虚で純粋な学問をされている方です。
私は著作を拝したり、掲示板で議論したりするだけでなく、何度も直接お会いしていますので、よくわかります。直接会ってお話しすると、とても楽しいですよ。
また色々なご苦労や、多くのご経験をお持ちです。

そして創価学会でも、正信会でも、いまだに公言できない、大石寺彫刻本尊の真偽を解明されました。
私もその学恩によって、眼が覚めた一人です。

今は「富士門流信徒の掲示板」も、こちらの掲示板も、基本的には真蹟現存を持って文証としていくスタンスだと思っています。
これは談所や大崎以上に、厳格に確実性を求めていると思います。
大崎では真蹟曾存も真蹟現存と同等に扱っています。談所ではさらに加えて直弟子写本現存の遺文も、同等に近い扱いをしています。
しかし私どもは、基本的に真蹟現存にこだわります。
確実な日蓮の言を証文としたいのです。
印哲系とはこの点、大いに相違すると思います。
しかし大崎は大崎で、素晴らしい研究は沢山ありますし、談所もまたしかりです。

土俵は異なりますが、有益な情報等は交換し合いたいと思いますので、またお気付きの点等ございましたら、ご投稿下さい。
11:佐藤 :

2006/12/08 (Fri) 00:01:02

独学徒さん、れん氏さん、

お二人には、独歩氏と違って価値中立性を感じました。当掲示板に少しなりとも参加させていただいたことに感謝申し上げるとともに、ますますのご研学をお祈り申し上げます。
10:犀角独歩:

2006/12/07 (Thu) 23:23:51

いやあ、そうですか。わたしは何も興奮していませんけれど。
それにあなたは、何も応えていませんよ。矛盾点も指摘しましたが、捨てぜりふで終わりですか。
判断は、ロムの方に任せるというようなことでもないでしょうが、やりとりを見れば、一目瞭然でしょう。まあ、こんなことで、場所を取っては、独学徒さんに申し訳ないので、回答不能と言うことで判断しておきます。

わたしも毎朝、4時起きなので、そろそろ、休むことにします。
独学徒さん、お邪魔しました。
9:佐藤 :

2006/12/07 (Thu) 23:06:55

まあ、独歩さんも、すぐに感情的になる方ですね。子供のケンカと一緒で、最後に叩いた方が勝ちと考えている人らしい。これだけ、やり取りをすれば、賢明な方は、どちらが正論なのか、判断できるでしょう。

私は、独歩さんと違って、毎日9時に出社しなければならない勤労者です。やたらと興奮して意味のわからない切り返しをする人と、いつまでも付き合うヒマなどありません。これで去ります。

独歩さんには、立正大学以外のきちんとした大学で、もう一度、人文科学研究の方法論をしっかり学んだ方がいいと申し上げておきます。私は哲学系の学科で学びましたが、日蓮宗学者は本当に近代的思考というものがわかっていない。本当の意味での学問的仮説を立てることができないのです。本当にこの人の支離滅裂な論理には呆れました。失礼します。
8:犀角独歩:

2006/12/07 (Thu) 23:03:57


仕様がないですね、書き散らされては。

> 独歩氏の方は100㌫偽書であることを立証しなければならない、と私は言っているのです

ところで、わたしがいつ、何を偽書だと言ったのでしょうか。
なんのことでしょうか。そんなことは言っていないでしょう。
真蹟が遺らないものは、真筆であると断定できない。断定できないと言うのは真偽両方の可能性があるということでしょう。しかし、事実に基づいて考証をするのであれば、確実な証をもってすると言っているだけです。

まず、あなたが、わたしが何を偽書だといったか100%証明してください。
どうでしょうか。
7:独学徒 :

2006/12/07 (Thu) 23:01:26

佐藤さん、いらっしゃいませ。
初学者とは、これまたご謙遜を。
ご投稿拝する限り、ご所持の資料も多かろうと存じます。

佐藤さんは、私とは評価の尺度が違うのですね。
佐藤さんの側からすれば「日蓮正宗の神話」>興風関係、なんでしょうね。

私的には、解釈や宗門の御事よりも、未見の資料の方に魅力を感じ、かつ都守先生は個人的にすごく尊敬していますので、その意味からも私個人としましては、「日蓮正宗の神話」<興風関係、となってしまうんですね。
どうぞこの点を、ご理解くだされますと幸です。

>史料解読を売り物にする興風
これは仰せの通りかも知れません。
しかしやはり、私は未見の資料に魅力を感じます。
もっといえば、真蹟・写本の写真・影印が欲しいのです。より原典に近い資料を望んでいます。
解釈は自分でしたいのですね。
人の解釈も参考にはしますが、あくまでもモノサシは自分ですので、自分が判断し参考になる・ならないを決めています。
その意味では、論考の中身も、談所や大崎系の人の方が、私にとっては参考になります。

しかし「日蓮正宗の神話」も、買って良かったと思います。
6:犀角独歩:

2006/12/07 (Thu) 22:45:50

佐藤さん

あなたの文章は、松岡さん以外の学者を侮蔑的に見ることでしか成り立っていませんね。

> 立正大の学者…「偽書の疑いが強い」というだけで「偽書である」に飛躍す

これは初耳です。
具体例を挙げてください。

> 正統な仏教学者

正当な仏教学者とは誰のことですか。

> ドグマの宗学として細々と存在している

これは創価学会の教学が、ではないでしょうか。

> 学者として致命的なのは、不確定な説にすぎない偽書説を振りかざし、それに反するものを全て否定するという態度の方でしょう。

だれもそんなことをしていないでしょう。誰がしているのですか。

> 独歩さんたちの、あまりに人文科学研究の方法論を知らない言い分は看過できないので、苦言を呈しました。

あなたは、よくご存じだと主張するわけですね。
しかしながら、あなたは書く毎に矛盾があります。
たとえば、昨日、

「大崎系の学者も、だいたいが昭和定本の1,2巻に掲載された遺文は真蹟扱いにしています」と記していたのにもかかわらず、わずか1日後の本日「立正大の学者が、なぜ仏教学の主流の世界でまともに相手にされていないかわかりますか。「偽書の疑いが強い」というだけで「偽書である」に飛躍」するといいます。昨日は立正大の学者は写本も真蹟と扱いといっておきながら、一晩経つと反対に偽書であるというと言います。このように一日でくるくるとまったく逆のことを言い出すことが人文科学の研究の方法なのでしょうか。そうとは思えません。

> もし私の発言を封じたいのなら、勝手に削除して下さい。ただし、それによって独歩氏の議論を拒否する独善、ドグマの体質が一層明らかになるだけです。一般の学問の世界では、絶対に相手にされないでしょう。相手にするのは島田某など、学会をメシの種とする売文屋ぐらいです。

ここは独学徒さんの掲示板ですから、わたしの悪口を書いたぐらいで削除する必要はありませんし、そんなこともなさらないでしょう。
また、突然、何故、島田先生の悪口になるのでしょうか。摩訶不思議です。また、学会をメシの種にするという売文屋とはに誰で、その誰がわたしを相手にするのでしょうか。向学のために具体的に名前を挙げてください。

まあ、こう言っては何ですが、今回の松岡さんの本をアカデミズムという見地で読む外部の人はそういないでしょう。しかし、学会内部では買う人は多くいるのではないでしょうか。そうなると、学会をメシの種にしているのは松岡さんと言うことになりませんか。あと、学会本部職員、聖教新聞社など学会関連会社社員というのは学会をメシの種にしているのではないでしょうか。

> 私は、どこででも発言できるので、他の寛容な掲示板で独歩氏の対応の是非を問おうと思います。

別に、それはあなたのご自由ですよ。
でも、わたしとの異見に関わることですから、わたしと議論をなさったらどうでしょうか。別段、あなたの封じ込めようと、独学徒さんなり、富士門流信徒の掲示板管理人さんなりなさらないでしょうし。
ただ、上述のように、理由も記さず、悪口雑言を記すことは、良識に反します。掲示板の品格が下がりますから、その点は注意もするでしょう。

一点、わたしから注意すれば、あなたの「島田某」という件は、ご当人の名誉を著しく傷つけています。このようなことはおやめになったほうがよろしい。もっとも、あの方は寛大ですから、こんな書き込みを見ても、大笑いして終わりにするだけでしょうが。


まるで建設的な議論とは言い難い。困った方ですね。まあ、こちらにご迷惑になりますから、議論や情報提示以外のことはおやめになるよう忠告しておきます。
5:佐藤 :

2006/12/07 (Thu) 22:36:36

>松岡さんの本では、ちゃんと(○○写本)と断り書きがあり、彼が何もナイーヴに真偽判断を怠っているわけではないことは明らかです。

上の文を下記のごとく訂正します。

松岡さんの本では、ちゃんと(○○写本)と断り書きがあり、それによって引用遺文に真偽問題があることを読者にはっきり伝えています。そのうえで同氏の論を、学問的でないというのなら、独歩氏の方は100㌫偽書であることを立証しなければならない、と私は言っているのです。独歩さんには、人を非難する前に、自分の研究方法を反省することをお勧めします。
4:佐藤 :

2006/12/07 (Thu) 22:12:53

立正大の学者が、なぜ仏教学の主流の世界でまともに相手にされていないかわかりますか。「偽書の疑いが強い」というだけで「偽書である」に飛躍するからです。そのうえ、真にアカデミックな論理的トレーニングを受けていないから、所詮、正統な仏教学者からは相手にされない。ドグマの宗学として細々と存在しているだけです。談所も同じです。

立正の学者の日蓮研究よりも、東大の末木さんの『日蓮入門』の方が高く評価されているのはなぜだかわかりますか。『三大秘法抄』の検討にみられるように、末木さんは論理を重んじて慎重な判断をしているからです。

学者として致命的なのは、不確定な説にすぎない偽書説を振りかざし、それに反するものを全て否定するという態度の方でしょう。

松岡さんの本では、ちゃんと(○○写本)と断り書きがあり、彼が何もナイーヴに真偽判断を怠っているわけではないことは明らかです。そのうえに、「富士門流における信仰の正当性」という土壌に立って内在的理解をしているのですから、富士門流で伝統的に真撰扱いしてきた遺文を但し書き付きで用いる氏の手法は、何ら学問的に非難されるものではありません。他人事ながら、独歩さんたちの、あまりに人文科学研究の方法論を知らない言い分は看過できないので、苦言を呈しました。

もし私の発言を封じたいのなら、勝手に削除して下さい。ただし、それによって独歩氏の議論を拒否する独善、ドグマの体質が一層明らかになるだけです。一般の学問の世界では、絶対に相手にされないでしょう。相手にするのは島田某など、学会をメシの種とする売文屋ぐらいです。

私は、どこででも発言できるので、他の寛容な掲示板で独歩氏の対応の是非を問おうと思います。
3:犀角独歩:

2006/12/07 (Thu) 18:04:13


佐藤さん

犀角独歩です。
あなたは、基本的な誤謬をなさっています。
定本というのは、論議するうえで、基本となる資料ですから、それを真蹟として扱ったものではありません。真・疑・偽書が含まれていることは、共通の認識です。

それ故、近代では、厳正に真蹟のみを載せる『平成新修日蓮聖人遺文集』が高い評価を得、世間一般でも兜木正亨師の『日蓮文集』が定番書となるのでしょう。

松岡さんの在り方は、はっきり言って学者としては、もはや致命的なのであって、神話などと他宗を論じている場合ではありません。真偽の区別も付かないこと事態が神話の住人であるからです。

信仰としての尺度なら鰯の頭でもよいわけです。信仰から学問を見るほど、愚かなことはありません。

石山、学会、顕正会が定本に載っているもの…、正確に言えば、石山、学会版の御書全集なる代物を真偽を分けることなく扱っているから、世間からはまったく相手にされないのです。糞味噌とはこのことで、色が似ていても糞を説いた汁は味噌汁にはなりません。

こちらの掲示板にせよ、富士門流信徒の掲示板にせよ、極めて論究をしているなかで、あなたの発言は暴言に属します。学問に対する冒涜といっても言い過ぎではないでしょう。
2:佐藤 :

2006/12/07 (Thu) 09:52:27

独学徒さん、

はじめまして。昨日から参加させている新参者の佐藤と申します。初学者ですが、どうぞ宜しくお願いします。

『日蓮正宗の神話』、私も買って読み始めたところです。私も最初、宗祖遺文の真蹟検討を怠っている点(一々の遺文に「○○写本」等と表記はされている)が気になりました。

しかし、よく考えてみれば、学会にせよ、正宗にせよ、顕正会にせよ、談所を除く正信会にせよ、また大崎系の学者も、だいたいが昭和定本の1,2巻に掲載された遺文は真蹟扱いにしています。だから、例えば松岡氏が真偽検討なしに「生死一大事血脈抄」を論じていても、そのこと自体が日蓮学上、問題になることはないと思います。

また松岡さんの論考は、日蓮門下教団内の信仰の正統性を追求するものです。門下教団としては、学術的見解がどうであれ、恐らく今後も、伝統を継承して定本1、2巻所載の遺文は、すべて真蹟扱いしていくはずです。そうである以上、教団の信仰を問い直す松岡さんのような論者は、遺文の真偽問題よりも(むろん明らかな偽書は除くべきですが)、その解釈に重きを置くのは当然でしょうね。さらに言えば、『神話』の中に肯定的に引かれる遺文の中で、完全に偽書とされるものはないわけですから、そこに難癖をつけてみても、彼らにとって何の痛痒も感じないでしょう。

それから、史料解読を売り物にする興風と、「教団が教団としていかなる信仰をすべきか」という問題を取り扱った『神話』の論考とを、同列に論ずることはできないと思います。私はそれぞれに面白いアプローチだと受け止めます。『神話』には、大崎系の学者のような、史料を重視するがゆえの論理的飛躍があまりなく、どこから叩かれてもいいような慎重な言い回しが目立ちます。伝統宗学をベースにする我々のような立場も、見習うべき点はあると思った次第です。

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