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「元の木阿弥(もくあみ)」の言葉の由来はこうらしい。戦国の武将筒井順昭が病死したとき、子の順慶はまだ幼く、天下に死を隠す必要があった。そこで声の似ている木阿弥という男を替え玉として寝かせたそうだ▼順慶が成人すると喪を公表した。木阿弥は用済みになり、元の身分に戻ったという。この故事を、東京都の男性最高齢とされていた111歳が、実は32年前に死亡していたという奇談に思い出した。“生存”の根拠だった区役所の住民票は、さしずめ現代の木阿弥ということになろう▼自宅からは本人とおぼしきミイラ化した遺体が見つかった。家族の行動も不可解だが、年金の給付ばかりか「元気高齢者記念品」まで贈っていた足立区は寝覚めが悪かろう。そして事は続くと言うべきか、面妖な事態がもう一つ明るみに出た▼今度は杉並区で、都内最高齢とされていた113歳の女性の所在が分からない。住民票の地番には長女が長く一人で住み、本人には20年以上会っていないという。生死も分からないといい、人の砂漠のどこに消えたか案じられている▼人の世を「砂漠」と呼んで久しいが、近年とみに乾燥が進みつつあるようだ。もともと地域の存在は希薄になっていた。そこへ、かの個人情報保護法などが、人と人のつながりを断ち切る方向にアクセルを踏んだ。絆(きずな)は細り、人は役所のコンピューターの中で事務的に処理されがちだ▼孤立、孤老、孤食……近ごろは「孤育(こそだ)て」なる造語もあるそうだ。「孤」の字がのさばり、はびこるのを許さぬ意思が、社会にほしい。