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天声人語

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2010年8月3日(火)付

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 日本に住む米国人の詩人アーサー・ビナードさんに『ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)という絵本がある。米国の画家、故ベン・シャーンが死の灰を浴びた第五福竜丸を描いた連作に、日本語で詩をつけた▼犠牲になった久保山愛吉さんの墓に参りつつ、詩人は言葉を刻む。〈「久保山さんのことを わすれない」と/ひとびとは いった。/けれど わすれるのを じっと/まっている ひとたちもいる〉。忘却を拒み、風化に抗(あらが)う、固い意志に貫かれた一冊である▼福竜丸の遭遇した水爆は広島型原爆の千倍もあり、島を三つ吹き飛ばした。その閃光(せんこう)をはじめ、冷戦下に米国が67回も核実験を繰り返したのが太平洋のビキニ環礁一帯だった。海底に残る巨大なクレーターは、人類の愚行の刻印である▼そのビキニ環礁がユネスコの世界遺産に登録されるという。紺碧(こんぺき)の海に抱かれた珊瑚礁(さんごしょう)は本来なら美しい自然遺産であろう。しかし文化遺産として登録される。「負の遺産」として狂気の時代を記憶し、伝える役を担うことになる▼遺産とはいえ、話は過去のものではない。現地の島々には病に苦しむヒバクシャも多い。何より人類は核兵器を葬ってはいない。国際世論が細れば、「忘れるのを待っている者たち」がまたぞろ増長しかねない▼〈ペンキはがれ朽木のごとき船体なりされど眠れぬ第五福竜丸〉と先の朝日歌壇にあった。ビキニ環礁とて過去を忘れて眠れまい。広島・長崎から65年。福竜丸から56年。核廃絶の意思を新たにする夏でありたい。

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