宮崎駿さんの選んだ50冊はどれも私がわくわくしながら読んだ傑作ぞろいです。「岩波少年文庫 創刊60周年記念」の今、膨大な宝の山からわずか50冊しか選べないとは、宮崎さんはさぞ悩まれたこととお察しします。私にも選びたい本は
切りなくありますもの。この気持ち、岩波少年文庫ファンの老若男女だれでもおわかりでしょう。私たちが少年文庫のおかげで、どれほどたくさん、古今東西の名作を読んだか、図書館一つ分の質と量はあると思います。
私が最も盛んに読んだ十代のころは、目も頭も疲れ知らずで旺盛な読書エネルギーがあふれていました。消化吸収力もめざましく、読書が血となり肉となり自分が強く逞しく鍛えられるような爽快感に満足したものです。
だからといって立派な人になろうなんて考えはみじんもなく、ただもう面白いので夢中で読みました。『ハイジ』を読んだら次は『海底二万里』次は『イワンのばか』といった具合です。
宮崎少年だって面白くて面白くて目を輝かせて読んだにちがいありません。『床下の小人たち』の様子も手に取るようにわかったのではないかしら。
宮崎さんならではの50冊と共に添えられたコメントは意味深長で、優れたお仕事の秘密のカギは岩波少年文庫にありと私は睨みました。ジブリ作品の底力となった50冊であるのは確かと思います。
さて、強引といわれるのを承知で私の推す『あらしの前』『あらしのあと』(1951年・1952年/ドラ・ド・ヨング作)
『パセリ通りの古い家』(1955年/ベナリイ・イスベルト作)を置かせてください。第二次大戦中の国策「見ザル 言ワザル
聞カザル」が解かれたとき、外国の自分と同じ世代はどうだったかを猛烈に知りたくて読んだ3冊です。勝った国の子どもも負けた国の子どもも決して幸せではありませんでした。普通の人々の生活を通してこそ伝わる戦争の酷さと平和の大切さを私は一生忘れないでしょう。アウシュビッツで殺され煙となって消えたカレル・ポラーチェク、収容所で美しい物語を40篇書き残した『くろんぼのペーター』(1955年)のヴィーヘルトも忘れたくありません。
少年文庫が発刊60年ともなれば読者層は厚く、私のような後期高齢者から文字を覚えたての小学生までさまざまです。50冊のリストに私は感無量、歴史を感じました。今、十代の人たちの感想も聞きたくなります。
私が六年生のとき一年生だった宮崎さんは、少年文庫に囲まれて明るくのびのびと子どもの時代を楽しんだでしょう。
私はといえば義務教育の半分は戦争中の国民学校で残り半分は戦後の小学校と新制中学校、つまり軍国主義と民主主義の二通りを体験しました。
「ほしがりません勝つまでは」の時代、小国民の私にはほしいものが一つだけありました。本です。本があれば親と離れた疎開も転校も苦にならず、その為にも本は命綱ですから、いつも必死で本を探していました。読んで楽しむのが唯一の元気の素でした。
それなのに国民学校は外国の物語を読むのはスパイと決め付けて翻訳本を禁じ、私のアンデルセン童話集は没収されました。それ以来私は用心深くなって、今でも本は一人で隠れて読むのが好きです。
戦後の混沌が治まって入学した中学の図書室で岩波少年文庫の『ふたりのロッテ』(1950年/エーリヒ・ケストナー作)を見つけたときの衝撃は「民主主義は、六・三・三制、男女共学から始まった」の思いと重なって私の頭脳に深くインプットされました。
ケストナーは実に新鮮で誠実で明快でした。石井桃子さんが唱えた、子どもの文学の世界的基準「おもしろく はっきり わかりよく」は私を引き付けました。しかもケストナーは読者と対等に向かい合う作家です。ロッテについても女の子だからと特別扱いはしません。双子でも個性は違い、考えて行動する自立した賢い少女たちは大人顔負けの活躍をします。それまで女の子は女学校、男子は中学校と分かれていたのが女子も中学生になった教育基本法に岩波少年文庫はまさしくぴったりでした。
少年文庫の生みの親である石井桃子さんのお話では、最初の5冊が出版されるや、日本じゅうの新制中学校が買ってくれたので岩波書店は赤字を出さないですみ、その後の出版を続けることができたそうです。とすると、全国の中学生たちが少年文庫の出版に係わったといえるでしょう。
「よい本を作ればよく売れるのはよい時代」というのが石井桃子さんの口癖でした。
岩波少年文庫がこれからもずっと読みつがれますように。宮崎さんの50冊を見逃しては一生の大損です。
そしてあなたの好きな50冊もリストにして並べてみてはいかがですか。
中川李枝子