日蓮正宗には、初めから「法主本仏(ほっすほんぶつ)論・法主絶対論」などはありません。これらはすべて、創価学会が宗門を誹謗(ひぼう)するために捏造(ねつぞう)した理論です。

創価学会は、「日顕(上人)は平成9年(1997年)8月、本山での坊主の集まりで『法主は生身(しょうしん)の釈迦(しゃか)日蓮であるから、誹謗すると地獄に堕(お)ちる』などと述べている」(大白蓮華・平成14年8月号109頁) といって、あたかも日顕上人が「法主本仏論・法主絶対論」を主張したかのように喧伝(けんでん)しています。

しかし、創価学会が日顕上人の発言として取り上げている部分は、平成9年の教師講習会で、法詔寺(ほうしょうじ)日感(にちかん)師が信徒に宛てた書状を日顕上人が紹介し、読み上げられたものであり、日顕上人御自身の御発言として仰(おお)せられたものではないのです。

日感師はその書状の中で、
「大石寺事(こと)は金口(こんく)の相承(そうじょう)と申す事候(そうらい)て、是(こ)の相承を受くる人は学不学によらず、生身の釈迦日蓮と信ずる信の一途(いっと)を以つて、末代の衆生に仏種(ぶっしゅ)を植えしむる事にて御座(ござ)候(そうろう)」(続家中抄・聖典765頁)
と述べています。ここで日感師は、御法主上人の御内証(ごないしょう)には、御本仏日蓮大聖人の法脈(ほうみゃく)がそのまま流れており、その御内証を「生身の釈迦日蓮と信ずる」ことが本宗信仰の肝要(かんよう)であると説いているのです。

この日感師の言葉は、日蓮大聖人の『百六箇抄(ひゃくろっかしょう)』の、
「上首(じょうしゅ)已下(いげ)並びに末弟(まってい)等(ら)異論無く尽未来際(じんみらいさい)に至るまで、予(よ)が存日(そんじつ)の如く、日興が嫡々(ちゃくちゃく)付法(ふほう)の上人を以て総貫首(そうかんず)と仰(あお)ぐべき者なり」(御書1702頁)
との御教示や、『御本尊七箇相承(しちかそうじょう)』の、
「代代の聖人(しょうにん)悉(ことごと)く日蓮なりと申す意(こころ)なり」(聖典379頁)
との御教示にもとづいたものにほかなりません。
創価学会は、御法主上人の御内証に随順(ずいじゅん)するという本宗の教義信仰を、ありもしない「法主本仏」「法主絶対」にこじつけているのです。

また、御内証に「生身の釈迦日蓮」の尊い命が流れている御法主上人を誹謗する者が、無間地獄に堕(お)ちることは当然です。このことを日感師は、
「若(も)し身の能徳(のうとく)を以つて貫首(かんず)と定めば学者を信じ非学者を謗(ぼう)して仏種を植えざるのみならず、謗法(ほうぼう)の咎出来(とがしゅったい)して無間地獄に入り候わんこと云云」(聖典765頁)
と述べているのです。
この日感師の文言(もんごん)のどこが法義的に間違っているというのでしょうか。

日顕上人は、常に日蓮正宗の僧俗に対して、御本仏は日蓮大聖人であり、その御当体にまします本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊への信仰を深めるよう御指南あそばされています。
そもそも、日蓮大聖人の仏法を、代々の御法主上人を経て継承(けいしょう)されたお立場にあられる日顕上人が、血脈根源(けちみゃくこんげん)の師である日蓮大聖人を差し置いて、「自分は本仏である」とか「法主は絶対である」などといわれるはずがないではありませんか。
しかも、このときの講習会において、日顕上人は、
「私はけっして日顕が、日蓮大聖人様だなんて、一遍(いっぺん)も言ったことはない」
と明言されているのです。
むしろ、池田大作を「永遠の指導者」といって、教祖に祭り上げている創価学会こそ、「池田本仏」「池田絶対」を唱える邪教集団というべきなのです。 |