元警察官が語る“被爆地”
元警察官が語る“被爆地” 08/04 19:25

65年前、長崎に原爆が投下された際、被爆地で警察官を務めていた福岡市の男性が、その体験を手記にまとめました。

これまで一切、戦争体験を語らなかった男性を突き動かしたのは、被爆地で起きたある事件に対する悔悟の思いでした。

◆『長崎白暑』より
「強烈な光を浴びた」
「どれくらいの時間が過ぎて行ったのか、何か冷たい物を感じ、身体のあちこちを触ってみると、私は側溝の中に横たわっていることに気づいた」

1945年8月9日、午前11時2分。

長崎に原爆が投下された瞬間が生々しく記されています。

“長崎白暑”です。

●“長崎白暑”の著者・松尾猛さん
「街が真っ白く見えるような暑さのことを白暑というんですね。だから、私は『長崎白暑』と書いたんですけども…。普通の感覚と15日の朝の空気が全然違うんですよ」

手記をまとめたのは現在、福岡市東区に住む松尾猛さん、82歳。

当時、17歳だった松尾さんは、長崎で少年警察官を務めていました。

“長崎白暑”には、自らも被爆した松尾さんが混乱の被爆地で警察官として遺体の収容などにあたった体験が克明に記されています。

◆“長崎白暑”より
「校舎の周囲を捜索すると死体が散乱していた。学生か、男女の区別さえ判らないような黒こげの死体、外壁の金網にはモンペや作業服を乾かしているように、死体が粘土を投げつけたように張り付いていた」
「もう地獄だ!」

松尾さんは当時の体験を、これまで、家族を含めて誰にも話したことがありませんでした。

ある罪の意識が松尾さんを苦しめてきたからです。

●松尾さん
「法に携わる者がしていかんようなことを、何度もしております。悔悟の念がもう、ずーっとつきまとっております」

◆“長崎白暑”より
「日本冷蔵稲佐工場が爆風により半壊状態。徴用工や若者たちが物品を略奪しているから至急行動せよとの指令が出た。数多く運ぶ者、車力やリヤカーで運ぶ者たち。自分たちも喉から手が出るほど欲しいのだが、肩章が邪魔をして仕方がない。『エイ!』とばかりに肩章を外しポケットに突っ込んでからは、取るわ、取るわ、網袋に入った冷凍ミカン、楕円形の大きな鰯の缶詰、相撲取りのまわしのような昆布の束、するめ。夜陰にまぎれ、悟真寺裏の国際墓地に隠した」

●松尾さん
「申し訳ないと、どうお詫びしたらいいのかとね」

Q.長崎に帰ることはある?
「まったくないです。行けんのです、足が向かんのですよ」

原爆症の認定を受けた松尾さん。

体力への不安もあり、終戦から2、3年後に警察官を辞めました。

その後、福岡に移り住み、定年まで銀行で勤めましたが、時間があると続けていることがあります。

●天神・安国寺に詣でる松尾さん
「ええ、神社仏閣ならどこまでも行きます。行きたいなと思ったら。それが私の罪滅ぼしというか、功徳になればと思いましてね」

●岩を撫でる松尾さん
「(これは)子育て地蔵のお母様の墓です。妊婦の方が亡くなって、そのあとお産なさって、夜な夜な天神の飴屋さんに飴をね、買いに来て、そのお子さんを育てたという有名な話があるんです」

Q.お堂ではどんなお参りを?
「お堂はお地蔵さんがたくさんありましたね。私が長崎で荼毘に付した小さな子どもたちに、どうぞ許してくださいと」

悩んだ末の“長崎白暑”の発表には、同じ被爆者でありながら国の認定を受けられない人たちの役に立ちたいという思いもあります。

●松尾さん
「9日の午後、稲佐に行ってから15日まで、長崎市の南側一帯に、私に必ずどこかで会ったという人がおるはずですよ。申請を政府がひとつも受けてくれんという人がおれば、私が証人になってあげたいと思います」

生き残った人の心にも大きな傷を残した原爆。

松尾さんの“長崎白暑”はこう締めくくられています。

◆“長崎白暑”より
「私たち人類の将来の為には核兵器の廃絶が絶対に必要と思う」