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■■ 駿遠線袋井工場物語 ■■
【袋井工場の野武士たち】

《 取材 & まとめ:  》    

客車から気動車・機関車まで、なんでも作ってしまう
素晴らしい技術者・職人の集団
静鉄駿遠線袋井工場の物語です


 駿遠線袋井工場

 静岡鉄道駿遠線の新袋井駅を西向きに発車した列車は、やがて並行する東海道本線と分かれて、進路を変えてグルリと南東に向かいます。この線路が大きくカーブするあたりに引込線があり、その奥に駿遠線袋井工場がありました。今でも線路跡は専用道路として残り、袋井工場跡は駿遠運送の車庫として使用されています。かつてここでは日常的な車両の整備・点検や改造だけでなく、新車の製造も行われていました。しかしこの工場には、大規模な機械装置などがあったわけではありません。跡地を見てもわかるようにその規模は小さく、機械設備も必要最小限で、さらに工場の建物もバッラック同然でした。しかしそこには台枠や台車といった基礎から、客車・機関車・内燃客車(気動車)を製造する能力があり、一時期は新車が続々と誕生して行ったのです。当時あらゆる技術を可能にしたのが、まさに野武士軍団とでも呼ぶべき、腕の良い「現場職員」たちでした。同工場は昭和42年に閉鎖され、その実態は長い年月の彼方に去っていました。しかし幸い、かつてここで仕事をされていた方々に、今回貴重なお話を伺うことができました。

 入社への足取り

 先輩格となるHさんは、大正13年生まれ。戦時中は軍需工場に勤務していましたが、終戦とともにその工場が閉鎖され、小笠郡の実家に帰郷しておられました。そこで人に勧められ、昭和21年に静岡鉄道に入社しました。軍需工場では腕の良い旋盤工をしており、その技術を買われ、駿遠線の袋井工場に配属となったのです。

 共に長く働くことになったMさんは、昭和3年生まれ。当初は運転手として、昭和23年に静岡鉄道に入社しました。しかし当時は車両不足で、運転するべき車両は満身創痍の状態。動けなくなった車両が車庫や工場の奥に放置されていました。このため袋井工場に配転され、偶然Hさんとペアを組むことになりました。

 以来この二人で、昭和42年8月27日の袋井工場閉鎖まで、内燃機関(ディーゼルエンジン)の整備・点検・修理および儀装・換装関係の仕事を全て担当したことになります。Mさんにしてみれば、まさか自分が運転するはずだった車両を整備・点検、改造する立場になるとは。まして機関車や内燃客車(気動車の静岡鉄道での名称)の新車まで製造することになるとは、思ってもいなかったことでしょう。

 お二人の入社当時、社内ではレールカーと呼ばれていた内燃客車は「代燃車」がほとんどでした。戦時中に戦前装備のガソリンエンジンを撤去され、代燃機関に換装された馬力の弱いものばかりだったのです。代燃機関とは、薪や木炭から発生するガスで車両を動かす装置です。ところが当時唯一の交通機関だった駿遠線沿線には、買出し客はじめ無数ともいえる乗客が押し寄せ、食糧をはじめとする物資を買いあさっていました。そこでどの列車も定員をはるかに越える超満員状態になり、列車は無理に無理を重ねて運転されていました。このため故障して動けなくなった車両が多数発生し、それらは修理するための資材や物資もなく、やむを得ず車庫や工場の奥に放置されている状態だったのです。

 たいへんな職場

 当時の職場は、蒸気機関車とレールカーで分けられていました。蒸気機関車は元藤相鉄道と中遠鉄道から引継いだ、古い機関車ばかりでした。しかし戦後の輸送力不足の時期には、2形式が2両ずつ増備されました。最初に転入したC型機関車は大き過ぎて持て余され、やがて使われなくなりました。後から入線したB型機関車は戦後生まれの新製車で、こちらは最後まで使われました。この職場にはみごとな腕を持つ名人級の職員たちが揃っており、内部では互いに鍛冶屋・大工・機械屋などと呼び合っていました。それらの人々は、元々勤めていた軍需工場が閉鎖されたり潰れたりして、いわば浪人をしていました。それを元工場長の人が呼びかけ、優れた腕を持った人々が集まってきました。中には、元海軍兵曹長という人もいました。これらの名人ともいえる職員たちは皆無口でガンコで、いったんヘソを曲げるとテコでも動かなかったけれど、納得して働き出すと信じられないような仕事を成し遂げました。またよく派手にケンカもしていましたが、後はサッパリしており、声をかけられればまた互いに何でも手伝っていました。この職場は規律というより、むしろ家族的な助け合いの精神で結ばれていたようです。

 年配者ばかりだった職場で、二人の若手はかわいがられもしましたがまたコキ使われもしました。仕事は何でもしなければならず、それこそ毎日大変でした。車輪の車軸抜きや、焼きハメ(後述)といった重労働も行いました。車軸抜きは車輪を立て、柄の長い重いハンマーで、手で叩いてはずしていました。車輪は左右があり、立てれば上下になります。作業はこの上側に当てず、下側の特定の場所(部位)だけに、長い重いハンマーを振り下ろさなければならないのです。最初はとても当たらず、若手はヒマさえあれば工場の裏で特訓を受けました。それは地面に杭を打ち、杭の上だけを長い重いハンマーで叩くものでした。先輩が見本を見せれば百発百中でしたが、若手はどこを打つかわからない有様。そのたびに叱声が飛び、腰がフラフラになったということです。

 また車輪に車軸をはめ直す作業も、大型プレス機などない時代。職員総出で、長いテコを使い、号令や気合とともに人力ではめ込んでいました。これもまた大変な重労働でしたが、だれもイヤな顔一つせず、皆懸命に力を合わせて作業に励んでいました。また蒸気機関車の職場でも、ハンマーひとつで煙管を取替えていました。煙管とは火室で焚いた石炭の熱を伝え、水を蒸気に変える重要な管です。これに穴が空いたりすると、たいへんなことになります。そこで不良を発見すると、管1本をすっかり抜いてしまいます。そこに新しい管を入れるのですが、両端を接合しなければなりません。決して漏れが許されない煙管の接合を、ベテラン職員はハンマーひとつで叩いて接合してしまいました。しかも片端は狭い火室に上半身を潜り込ませ、真っ黒になって作業していました。この仕事は蒸気機関車の親方と呼ばれていた、小柄の年配の人が最も得意としていました。

 当時また、鍛冶屋の親方と呼ばれていたかなり年配の、一番腕の良い職員もいました。この人はいつも一番早く出勤して、鋳造・鍛造用の炭火を起こしていました。火の上には大きな手製のヤカンがかけてあって、いつもお湯を沸かしてくれていました。いつでもすぐにお茶が飲めるようにという配慮でしたが、煮えたぎる熱湯にはたまに閉口することもありました。あるときサンマをたくさん買ってきて、この炭火に放り込んだことがあります。サンマはすぐ真っ黒になって焦げてしまいましたが、これを頭からかじると実にウマかったのです。そこでハラワタからシッポまで、一気に全部食べてしまいました。

 ディーゼル化への道

 最初は旋盤工として入社したHさんでしたが、やがて内燃機関に興味を持ちました。折からバス用ディーゼルエンジンが出回り、代燃機関に取って代ろうとしていました。これからはディーゼルエンジンの時代だと確信したHさんでしたが、当時は教科書もマニュアルも何もありません。そこで当時藤枝にあった東海自動車というバス会社に見学に行き、当然何も教えてもらえないので、作業員の仕事を見て盗んできました。これしか方法がなかったのです。そのような苦労や試練を乗越えて、当時若手だったHさんとMさんは二人三脚で、駿遠線のディーゼル化・近代化に貢献することになったのです。

 蒸気機関車は当時良い燃料(石炭)が手に入らず、亜炭や褐炭という質の悪い石炭を使わざるを得ませんでした。これらは燃え殻ばかりたくさん出る割に、蒸気圧は上がらなかったのです。このため超満員の列車は駅で停まるごとに、長時間停車しては蒸気圧を上げ、ようやく発車して何とか止まらないうちに次の駅にたどり着くありさまでした。その石炭も当時は唯一といえるエネルギー源で、鉄道界だけでなく産業界や一般消費者からも需要が多く、会社では価格の高騰に悩まされていました。また蒸気機関車は保守や点検にも手間がかかり、いったん火を落としてしまうと、すぐに走り出すわけには行きませんでした。しかも老朽化した機関車に故障は多く、若い二人はいつも真っ黒になって手伝っていました。その真っ黒になった作業服を洗濯する石鹸すら無く、工場では鍛冶職場で大きなタライを作り、服を炭火にかけてグツグツと煮て汚れを落としていました。

 このまま蒸気機関車を使い続けていれば、大量輸送どころか定時運転も困難、老朽化し疲弊した機関車の修理だけでも大変です。そこでまず手がけたのが、動けなくなって放置されていた代燃レールカーのディーゼル化でした。エンジンやトランスミッション(変速機)などの部品は会社から入手しましたが、もちろん説明書などは一切付いていません。これを何とか工夫し、懸命に車体に取付けました。車輪径や台車が違うと、床下の高さも違います。そこでエンジンは車体中央にステーという金具で吊り、高さを調整すると共に、エンジン振動を吸収できるように工夫しました。変速機(ギア)レバーは車体両端の運転台に取付けるため、長い金棒でシャフトを伸ばし、さらに横張りの金具でギアチェンジがうまくできるよう調整しました。運転台ではギアレバーはもとより、アクセルにあたるスロットルシャフトすら既製品がなく、見よう見まねで自分たちが製造しました。こうして1両、また1両と代燃車がディーゼル化(機関換装)されて行き、駿遠線には再び軽快なレールカー(内燃客車)が頻繁に走れるようになってきました。しかも戦前の危険なガソリンエンジンから、高性能のディーゼルエンジンになっていました。このため戦時中再び主役の座に返り咲いた蒸気機関車も、昭和27年には全車廃止されて行きました。

 蒙古の戦車誕生秘話

 蒙古の戦車と呼ばれたDB60形も、大手工場と袋井工場で製造しました。蒸気機関車廃車による機関車不足を、自社で解消しなければならなかったからです。しかしその実情たるや、会社側からはエンジンや変速機といった部品一式を渡されただけ。大手工場での実績はありましたが、図面も無ければ何の説明も無く、後はそちらの工場で良いようにやってくれと言われただけでした。新製機関車の基礎になるのは、廃車体の蒸気機関車の上回り(ボイラー関係)と下回り(シリンダー関係)をはずし、台枠と車輪(動輪)だけにしたものでした。そこで二人は智恵を絞り、同じ職場の名人級の先輩たちとともに、鉄板1枚。ギア1個から部品を製造して行きました。たとえばエンジン本体を台枠の前側に装備するため、下から潜って穴を空けました。変速機は場所が無いので台枠後部に載せ、両方をシャフトでつなぎました。そして苦肉の策で後輪をチェーン駆動とし、さらに前輪はロッド伝達という方法で、B型のディーゼル機関車を製造したのです。ところで機関車には、ある程度の重量(車重)がなければ牽引力が出せません。このため台枠の隙間という隙間には、重量配分をしたうえで、短く切った古いレールをたくさん積み込みました。

 このときのロッド(主連棒)も手製というか、蒸気機関車のものを再利用しました。当時はたいへん腕の良い鍛冶屋職人がおり、沸かし接ぎ(鍛接)という技法が可能でした。すなわち元のロッドを半分近くで切断し、このとき斜めに切断した面と面をドロドロになるまで熱し、ハンマーなどで叩いて完全に圧着してしまうのです。こうして接合されたロッドは、決して折れることがなかったそうです。また車軸に車輪をはめるのも、神業に近い旋盤工の人がいました。この人はパス(コンパス)と呼ばれた道具1つで、100分の1mm単位の精度で車軸を削り、輪芯をピタッとはめてしまうのでした。現在でもこの作業はたいへん難しく、大手私鉄ではコンピューターを駆使した精密旋盤で実施していますが、それでも誤差が出るそうです。これを勘と経験だけで、精密工具など必要とせず、みごとに仕上げてしまう。このような神業的な職員が袋井工場には揃っていました。

 ボンネットや運転室といった上回りも、機関関係(エンジン・変速機等)を儀装した後に鉄板から製造し、半年かけてどうやら機関車として使用できるものを仕上げました。しかし逆転機というものは支給されませんでした。おそらく会社では最初からコストダウンをはかり、蒸気機関車の転車台で方向転換すれば良いと考えていたのでしょう。このため運転室は一方向きで、その真中にはシャフトが通っていました。またボンネットの通風孔(グリル)も、鉄板を加工して作りました。二人一組で、ハンマーとタガネで鉄板の切断面を打ち抜き、後ろから叩き出して通風孔の立体を仕上げました。当然鉄板はクネクネになりますが、これを丹念に叩き直してから使用しました。運転台のスイッチ類や計器類も全て手製でした。計器類は有り合わせのものを再利用し、鉄道用が無ければ中古のバス用も流用しました。まさに1台1台手造りで、図面など無しのブッツケ本番でした。そしてなんと図面は、後から本社で実寸を測り、向うで起こしたということです。鉄道車両とは最初に図面ありきと思いきや、これが駿遠線の実態だったということです。

 こうした車両新製工事と並行して、日常毎の定期点検や整備、一定期間ごとに車体をジャッキで持ち上げての重点検整備等も実施していました。内燃機関の点検は、軽便鉄道でも国鉄(当時)でも全く変わりなく、厳しい規則で運用されていました。もちろん監督官庁の査察もあって、何より重要な人命を預かる公共輸送機関として、決してミスなど許されなかったのです。また工場まで回送できない故障車両は、実際に現場まで出向いて、設備の無い駅の片隅などで修理することもありました。

 袋井工場快進の日々

 試運転もこの二人が担当し、旧中遠線側をあちこち走り回りました。運転手の資格は、本来なら名古屋まで試験を受けに行く厳しいものですが、すでに実績ありということで与えられたそうです。袋井工場への入出場は、線形の関係から本線の一部を走らなければならず、工場の職員でも運転手の資格を必要としていたからです。

 また深夜の回送運転も担当したことがあります。新三俣駅に停泊した車両の具合が悪く、始発列車に使用できないという連絡が入ると、袋井工場から代わりの車両を回送しなければなりません。これなど最終列車が通った後を走るのですが、それでもスタッフ閉塞は厳しく守らなければなりません。そのため各駅の駅長や駅員は、回送列車が通過するまで起きていて、閉塞操作をしなければならなかったのです。このような状況下で、回送列車はぶっ飛ばしました。営業列車が35km/h制限のところでも、50km/h近くで飛ばしました。このためある駅から次の駅に閉塞通知の電話を入れると、終わらないうちに回送列車がやってきたという笑い話しもあります。

 その一方で物資不足の時代、何でも工夫しました。エンジンのピストンは、普通シャフトにリングを巻きます。これが磨耗して、一定の厚さ以下になったら取替えなければなりません。しかし物資は有りません。そこでブリキのリングを作り、苦労して調整して取付け、けっこうエンジンを長持ちさせたということです。また鉄道車両用の車輪には、線路と接地する部分には「タイヤ」という大きな鉄製リングを巻いています。ここにわずかな勾配がつけてあるため、鉄道車両はカーブでも曲がれるようになっています。しかしこれが磨耗し、直角に近くなってしまうことがあります。そんなときは応急対策として帯板を電気溶接し、規定の寸法に削って使用しました。またタイヤをはめる場合、焼きハメという方法を使います。これは鉄製タイヤを炭火で真っ赤に熱し、膨張を利用してはめ込み、水をかけて冷やしました。こうして焼きハメしたタイヤは、決してはずれることはなかったそうです。この技法は機械化されましたが、現在も鉄道の現場では同じです。

 ほかにもいろいろとありました。あるとき、レールカーが途中の駅で故障してしまい、動けなくなりました。迎えに行く機関車もなく、しかたなく二人で現地に出向き、現場(駅)で修理しました。しかし思いのほか状態がひどく、翌朝の一番列車までに修理を完了しなくてはならないので、徹夜で懸命に修理をしていました。そのうち腹が減ってどうにもならなくなってくると、駅長が「今日は晩飯と明日の朝飯と、2食分弁当を持ってきている。食べるか?」と聞いてくれました。思わずもちろんと答えると、駅長は3人分では足りないからと、近くの畑に菜っ葉を採りに行きました。そして新鮮な菜っ葉入りの「雑炊」にして食べさせてくれたのです。当時は駅の近くには店や食堂などなく、食事もままならない時代でした。二人ともこの時の事は、定年後の今でも心に残っているそうです。

 また当時は、たとえ徹夜で一晩中仕事をしても、残業手当など無い時代でした。それでも、二人とも現場で作業をしていると、血の通った心遣いにずいぶん出会ったそうです。それが軽便鉄道という職場でした。確かに仕事はキツかったけれど、思い出してみれば楽しいことばかりだった。時間に追われず何でもできたし、何でも作ることが許されたと、定年をはるか過ぎた今でもお二人とも述懐しておられました。当時駿遠線は、静岡鉄道の稼ぎ頭でした。戦災を受けた静岡清水線の復興や、清水市内線の延長などにも駿遠線の収入が投資されていました。また駿遠線沿線には自社のバスが平行して路線をもっていましたが、運賃が安いことからお客はいくらでも乗ってくれました。終戦後の買出しラッシュは終り、平和と共に訪れた高度経済成長にともない、朝夕の通勤・通学ラッシュが始まっていました。沿線の人々は軽便鉄道に親しみをもって乗車してくれ、列車本数も多く便利な快速列車も運転され、また工場もみなぎる活気にあふれていました。

 キハD14系の新製

 駿遠線の朝夕ラッシュ輸送が盛んになるにつれ、いつも車両不足に悩まされるようになってきました。この時期、大手私鉄や他の地方鉄道も同様の状態でした。駿遠線では、他の地方で廃止された軽便鉄道から車両を集めてきた時期もありますが、そのうちネタも尽きてきました。そこで自分たちでレールカーを新規製造することになりました。

 すでに客車は新規製造の実績がありました。大工と呼ばれた職員たちにより車体の製造が行われ、鉄のアングルと言われた材料で柱を立て、屋根のカーブもきちんと作り上げていました。車体が完成すると塗装の工程になりますが、これも腕の良い職員がいました。しかし実際の作業は、テープ貼りをしたり新聞紙でマスキングするときなど、職員総出で助け合っていました。窓枠やシートなどの内装品は、大手工場でも製造されていましたが、取付けは無論袋井工場でキッチリと行われました。一方下回りの製造は、鉄骨で組立てられた台枠に、エンジンを装着することから始まりました。すでに実績のある作業で、あとはトランスミッションやクラッチをシャフトで伸ばし、運転台で操作できるようにしました。車体は当時流行の正面2枚窓、いわゆる湘南型とし、すでにあった電車(静岡清水線21形)を参考にしました。塗装も水色とクリーム色のツートンカラーとし、正面塗分けもいわゆる金太郎塗りとしました。こうして工場全員で力を合わせ、約半年がかりで新車が完成しました。この車両は試運転の評判も良く、実に嬉しかったそうです。

 最初に製造したキハD14の変速機は、今までの車両と同じ機械式でした。これは大型バスやトラックと同じで、ギアをチェンジしながら走ります。これを楽にするため、会社では当時開発間もないトルクコンバーターの採用を計画しました。そして袋井工場の二人に、横浜のメーカーへの出張を命じました。たしかに画期的なものではありましたが、当時はまだ油漏れなどの故障が多く、正直使い物にならない気がしました。しかし次のキハD15は、会社の命令通りトルクコンバーターを使用しました。案の定、完成した車両は乗務員(運転手)からの評判は芳しいものではありませんでした。しかしその後トルクコンバーターは改良され、今日では隆盛を見ています。横浜への出張も決して無駄ではなかったと、今では自負しているそうです。

 別の話題になりますが、クラッチもダブルクラッチとシングルクラッチがありました。当初はクラッチ板2組のダブルが主流でしたが、操作しにくく故障も多かったそうです。これをしだいにシングルに交換したところ、故障も少なくなり、乗務員の評判も良くなりました。その後自社製造のレールカーは、大手工場でも造られるようになりました。さらに両工場共同で、大手で車体を作り、袋井で足回りとエンジン関係といった分業を行いました。こうしてキハD14からキハD20までの総勢7両を、3年ばかりで製造してしまいました。これら自社製のキハD14系は乗客の評判も良く、やがて駿遠線の顔(看板車両)となりました。また新車の大量投入により、古い老朽化した内燃客車、小型で効率の悪い車両などを一掃する効果もありました。余談ですが、最後に製造された2両(キハD19・20)には、再びトルクコンバーターが装備されました。これらの車両は駿遠線の最終区間でも最後まで使用され、昭和45年の全線お別れ列車にも使用されました。

 駿遠線落日の日々

 いくらでもお客が乗ってくれる時期はすぐに過ぎました。まず貨物輸送がダメになり、混合列車が廃止されました。バスはますます設備が良くなり、エアコン車も出てきました。しかし軽便鉄道の車両には、扇風機すら取付ける余裕はありませんでした。道路の整備が進むにつれて、しだいに朝夕の定期券以外のお客が減り、駿遠線でも路線の縮小が計画されるようになってきました。そしてついに昭和39年、堀野新田〜新三俣間と、新藤枝〜大手間の大手線が廃止されました。もっとも堀野新田〜新三俣間は廃止されたといっても、旅客列車の運転を止めただけでした。線路はそのままになっていましたが、沿線は無人地帯ともいえる砂丘地帯。大きな踏切も無く、問題にならなかったのでしょう。ここを通って旧中遠線側の車両と、旧藤相線側の車両とがときどき行き来をしていました。しかし行き来とはいっても、中遠線側の状態の良い車両が、みな藤相線側に持っていかれたということです。たしかに乗客数は、圧倒的に藤相線側の方が多かったからです。

 中遠線はもともとバス路線が平行しており、本数や乗り心地で軽便鉄道を圧倒していました。軽便鉄道は定期代が安いのと、渋滞がなくて時間が正確なだけが取得でした。しだいに列車本数が減って、新横須賀〜新三俣間には朝夕しか列車が走らなくなりました。日中この区間を運転しても、だれもお客が乗らなかったからです。この区間の駿遠線は山寄りの場所を走っており、集落に近いバスの方が乗りやすかった面もあります。それ以上に、沿線の人口自体がしだいに減ってきました。大きな工場や人の集まる大規模施設なども無く、どこも農村地帯だけを走っていたのでは、もう仕方なかったのかもしれません。沿線唯一の交通機関として開業し、ラッキョウ軽便と呼ばれてきて以来、長年走りつづけてきた中遠線。いや静岡鉄道駿遠線の全線落日の日々が始まりました。

 この時代には、日本全国でも軽便鉄道や地方鉄道が続々と廃止されています。駿遠線でも、苦労して仕上げた経年の浅い車両が藤相線側に持って行かれたとき、すでに中遠線側の運命は決まっていたのかもしれません。列車本数の削減が続き、ついに昭和42年藤相線側に最後の望みを託し、中遠線側のお別れ列車が走ることになりました。しかしその最後の日まで、袋井工場では整備・点検に手を抜くことはありませんでした。最後の1本、最終の列車が入庫するまで、事故も故障も無しでいてくれ。それだけが職員一同の願いだったのです。最終列車が無事発車した新袋井駅構内では、翌朝の代行バスのために、レールの撤去作業が始められました。こうして駿遠線袋井工場は閉鎖されました。すでに軽便車両の新規製造など行われないと思われましたが、新設の相良工場にその役目は譲られました。ここで日本の軽便鉄道最後の名機関車とうたわれた、あのDD501形が製造されたのですが、すでにバスの職場に移っていたお二人には知る由もありませんでした。

 思えば静岡鉄道駿遠線とは人間の力、人と人との結びつきと信頼関係によって動かされていた鉄道でした。精巧な電子システムなど無くても、鉄道職員としての規律と誇りによって、常に安全運行が保たれていました。職員は皆、どんなに忙しくても明るく親切で、乗客の一人一人に親しく接していました。また工場といっても立派な機械設備など無く、建物もバラック同然でしたが、そこには何でも造り出す活力。エネルギーが満ち溢れていました。それを支えていたのは、まさに一人一人の腕の良い「職員たち」でした。この人たちは物資不足の時代、たとえ資材が無くても何でも作りました。エンジン内部でもどこでも修理し、どんな車両でも整備してみせました。その人たちの姿には、現代人にはすでに失われてしまった、野武士にも似た力強く逞しい生き方が見えてなりません。


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