2008-10-18
誤解
言語と習慣 |
「日本人というのは、まったく失礼な奴らだ」
おっちゃんは、さっきから、えらい勢いで怒っています。
ただですらゴルフ焼けして赤い顔を、怒りでますます赤くしているので、ジッと眺めているわしは「桃太郎に出てくる『赤鬼』っちゅうのは、やっぱり漂着した欧州人ではなかろうか」とのんびり考える。そうすると『青鬼』というのはアフリカ人かの。
「まったく、こんな不愉快なゴルフは初めてだ」
「ひとつ前に4人の日本人がいたんだが、まったく失礼極まる」
「いったい誰が、あんな品のない人間をゲストでプレイさせることにしたのか、この次の例会で追及せんわけにはいかん」
おっちゃんが、あまりにコーフンして卒中でも起こされると面倒なので、わっしは、一応礼儀に則って何があったのか質問してさしあげねばならぬ。
「どうしたんすか」
「いや、きみ。若い友よ。まあ、聞きたまえ。どこかの愚か者が連れてきた日本人たちがゴルフをやるのは良いが、この東洋人たちが、二言目にはお互いに、くそったれ、あほんだら、と言い合いながら笑いこける。わしは、我慢ならん!」
おっちゃんよりはカシコイわっしは、一瞬でことの真相を見破ります。
でもって椅子からややずるっこけながら、笑いくずれる。
「それ、『ああ、そう』って言ってるだけでんがな。確かにアスホールと発音、同じっすけどね。第一、お互いに日本語でずっと話してたんでしょう? それにさっき、どの日本人もカタコトのひでー発音の英語だって言ってだじゃねえすか。そこだけ、そんな上手な発音で言うの、ヘンだとおもわなかったんすか」
おっちゃん、口を小さく開けてポカンとしています。
やっと事態を理解して、今度は大笑いしだした。
実は、この誤解は、よくあるのです。「ああ、そう」という、日本のひとがよく使う日本語は、そのまま「アス・ホール」という、思いっきり汚い罵り言葉と発音がまるきり同じなので、たとえば、むかし、かーちゃんのかーちゃんも同じ誤解に基づいて顔をしかめていることがあった。
賢明なみなさんは気付かれたと思いますが、日本の現首相も英語国民にとっては名前が相当ビミョーである。わっしも頭ではわかっていますが、麻生首相、と聞くたびに、なにがなしモンティ・パイソンのハンガリー人スパイを思い浮かべてしまいます。もちろん、首相の名前は日本では由緒正しい九州の名門であって、そんなことを考えるほうがバカガイジンだが。
スポーツの話、というのは特に初対面のひととよく話題にします。
万国共通の習慣である。わっしは普段、ほうっておくと、全然日本語を話しません。なんとなく照れくさいので知ってる素振りも見せませんが、わっしが日本語を理解するとすでにばれているひとの集まりでは無論 日本語で話します。わっしが自称ニュージーランド人であるものの、ほんとうはしょうもない連合王国人であると聞き及んでいるひとは、わしとの話の手始めにサッカーの話をするひとが多い。
わっしは実はサッカーはルールも知らないのであって、連合王国人として不埒ですが、日本のひとはサッカーが好きなので、こっちの気持ちにはお構いなく、どんどん知識を披瀝します。
いろいろ教えてくれる。
それは、よいが。
「サッカー、サッカー」と言われるのが、ちょっと困るのです。
どういうか、みんなが盛大にスープをすすり上げている狭いレストランにいる感じというか、腰が浮いてしまう。英語では、サッカー、というのは違う意味である。ジーン・ハーローに言われるのなら、まだ良いが。
サッカーというカタカナ語をつくったひとは、きっと何か日本人に恨みがあったのであって、それで、こういう表記にしたのではないか、とわっしはむかしから疑ってます。
あれは、どう考えても「ソッカー」でなければ、不穏である。
ニュージーランドの若い層は日本人のことを「ジャップ」 と言うひとが結構増えた。
あんまりジャップ、ジャップと言うので、「ジャップというのは、蔑称なんだから、あんまり使わない方がいいんだぜ」というとキョトンとしています。
なんで? と言う。
だって、ジャップはジャップでしょうが、他にどう呼ぶの。
連合王国人もそうですが、例えば日本のクルマを普通に「ジャップ・カー」と言う。
特に軽蔑的な意味を持たせているわけではありません。
わしが子供の時には「ノー・ジャップ・カー」という巨大な横断幕を張り巡らした有名なクルマ屋があったくらいで、堂々たるものです。
そういう習慣があるものだから、さっきから目の前で「ジャップ、ジャップ」と連発しているニーチャンの頭のなかでは、「ジャップ」という言葉が単に「ジャップ・インポート」からインポートが落ちただけと意識されているのでしょう。
合衆国では日本の略号はJPNですが英国圏ではJAPであるのも影響しているかもしれません。本人たちは日本のひとがマクドナルドをマックと読んでいるくらいのつもりなのである。
しかし、これを聞く日本のひとたちにとっては、あまり愉快なことでないのは言うまでもない。
もっとビミョーで、もっと深刻な言葉や習慣の行き違いもあります。
テキサスの酒場で、日本の留学生が半殺しにされるまで殴られたことがあった。
この若い日本人は「軽い気持ちで」相手に中指を立てた。
「ファック・ユー」と言って、にやにや笑った。
実は、少しくだけた挨拶くらいのつもりで中指を立てて見せたのだそうです。
このジェスチャが如何に深刻な侮辱であって、「軽い意味」など全くないことを知らなかった。
わっしはロスアンジェルス空港で「ファック・ミー」とでっかく胸に書いた Tシャツを着ている日本の女の子を見たこともある。
あの女のひとは無事に日本に帰れたろうか、といまでも時々思い出して考えることがあります。残念ながら、まったく無事に帰れた可能性は低いと思う。
英語が堪能であるifeelgroovyのシャチョーも、合衆国のレストランで、指を鳴らして、「ヘイ!」とデカイ声でウエイトレスを呼んで、わっしをびびらせたことがある。
「そーゆーことをしては、いけません」と言うと、「えっ?だって映画とかで、やってんじゃん」 と不服そうであった。
シャチョーのビジネス相手であるテキサスのおっちゃんが、それを面白がって、バーベキュー屋で「ヘイ」と言って、ふざけてウエイターを呼んでました。シャチョーは、それを演じてみせるテキサスおっちゃんの、シャチョーに対してはソートーに失礼なテキサス風の茶目っ気も判らないので、ますます悩んでおった。
戦後の日本人BC級戦犯の裁判記録を読んでいると、こういう些細な誤解が時にいかに重大な結果を引き起こすか、よくわかります。
わっしは、「死の行進」で弱りきったアメリカ兵になけなしのキンピラゴボウを分け与えたせいで戦犯として死刑を言い渡された日本兵のところまで読んで活字が涙でにじんで読めなくなる。
その簡単すぎる裁判記録から浮かび上がってくるのは、見るに見かねて敵兵に親切にしようと考えた若い日本兵の緊張と照れからくる強張った顔と突っ慳貪な態度であって、若い弱りきったアメリカ人の胸に突き倒すような勢いで自分の乏しい昼食を押しつける日本の誠実な若者の姿です。
しかし、日本人の「牛蒡」を食べる習慣を想像することも出来ず、そんな怖い顔で親切にするひとびとの習慣を知らないアメリカ兵は、自分が弱りきっているのを嘲笑するために「こともあろうに木の根っこを口に入れる」ことを強要されたのだ、と受け取ったのでした。
彼は、戦時中に受けた屈辱を法廷で晴らしたいと考えた。
結果は残酷で許し難い捕虜虐待であるという判決でした。
この若い日本の兵隊は自分の善意というものを、どれほど呪ったことでしょう。
「日本人をジャップと呼ぶのはやめなよ」とyoutubeで訴えたアメリカ人の女の子はただその「ジャップ」という単語に反応した日本の人たちによって徹底的に罵倒される。使う英語がほぼ意味不明で、しかも明らかにそうした高級レストランの習慣を知らない中年日本人カップルに気持ちよく食事をしてもらうために順番を後回しにして時間をつくってサービスしようとしたアイルランド人のウエイトレスの女の子は、カップルに「マネージャー、マネージャー!」 と言われて連れてきたマネージャーの前で、「人種差別主義者だ。クビにしろ」 と怒鳴り散らされる。
この気持ちのやさしいアイルランド人の女の子は、これが原因で仕事を失うことになります。
昭和天皇がその卑しい性格を嫌いぬいた外務大臣松岡洋右は9年間合衆国に生活したことと流ちょうな英語をたてに、誰よりも合衆国を理解しているということが売り物でしたが、 「アメリカ人は一発なぐられることによってしか相手を友人と認めない」と言う不思議な説をなして、当時コーデル・ハルと野村吉三郎がようやっと押し開いた和平への扉を叩きつぶしてしまいます。
開戦後は「欣喜雀躍」と心境を手紙に書いた。
このひとがアメリカについて述べた言葉をひとつずつ抜き出して眺めていると、その観察が細部にいたるまでことごとく誤解に満ちていることに驚かされます。
あたりまえのことですが、こうした「誤解」は相手に対する興味の欠如からくる。
相手を理解するよりも自分にばかり興味があるひとは、ものを正しく見る努力をするかわりに鏡に映った自分のおもいつきに取り憑かれてしまう。
その瞬間に言葉は伝達という能力をまったく失ってしまうのだと、わっしは思います。
そして言葉を失って互いに切り離されたわれわれは、出口のない憎悪の迷路へはいってゆく。
「孤独」という自分がしつらえた棺のなかで苦しむ。
「お互いを理解する」ということの難しさを考えると、気が遠くなってくるような気がします。