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2010.07.17
問い:何故学ぶのか? → 答え:自由になるため
南北戦争以前のアメリカ合衆国南部では、奴隷に「読み書き」を教えた白人は厳しく罰せられた。
フレデリック・ベイリーは奴隷だった。
1828年、ベイリーは、農園からメリーランド州ボルティモアの街に連れて来られた。
彼の新しい「主人」は、ヒュー・オールドという男だった。
仕事は、野良仕事から内働きに変わった。
周囲の環境も、単調な農園からにぎやかな街へと変わった。
街には、店の名前を記した看板やポスターがあった。
それから、文字を読める人間がいた。
ベイリーはある日、彼の運命を変えるような発見をした。
壁や紙の上に書かれている「模様」と、それ見ている人間の唇の動きに関係があることに気付いたのだ。
そこから、彼がその国の歴史を変えるまでには、まだまだたくさんの時間が必要だった。
しかし、それからは坂を転がり降りるようだった。
苦難や危険がなかった訳ではない。
だがもう、ベイリーは元に戻ることはなかった。
彼は、「文字」と「読むこと」を発見したのだ。
ベイリーは、「主人」の息子トミー・オールドの持っていた『ウェブスター綴字教本』を何度も盗み見た。
どの文字がどの発音と対応しているか、知ろうとしたのだ。
ある日、ベイリーは意を決して、「主人」の妻ソフィア・オールドに、字を教えてくれるよう頼んだ。
ソフィアは、少年の熱意に打たれて、そしておそらくあの禁令をよく知らなかったのだろう、その日からベイリーの「勉強」を見てやった。
3文字の綴りを終えて4文字の綴りに進んだ頃だった(『ウェブスター綴字教本』はそういう構成になっている)。
「主人」のヒュー・オールドがとうとう、ベイリーの「勉強」に気付いたのだ。
ヒュー・オールドは、すぐにやめるようにと、妻ソフィアをどやしつけた。
そして、ベイリーの前で、彼などいないとでもいうように(あるいはベイリーが言葉を理解できないと信じていたのかもしれない)、こう言った。
「黒んぼは、主人に従っていればいいんだ。言われたことだけやっていればいいのだ。
学問というものは、この世の中で一番の黒んぼでもダメにしてしまうものだ。
もし、君があの黒んぼに読み書きを教えるならば、あいつをここに置いておくわけにはいかない。
あいつは、永久に奴隷として使い物にならなくなるだろう」
ベイリーはこのときのヒュー・オールドの言葉を忘れなかった。
でなければ、彼の言葉は、今まで残っていなかっただろう。
それは、当時の白人にとっては月並みな常識に過ぎなかったが、ある真理をついていた。
いや、それどころか、ヒュー・オールドは決して知らせてはならない秘密を、ベイリーに教えてしまったのだ。
ベイリーは後に、こう書き記している。
「その瞬間、黒人を奴隷にしている白人の力が分かったのだ。
……私は、奴隷の身分から自由に至る小道を見つけたのである」
ソフィアはそれ以来、おびえてベイリーに口をきかなくなった。
しかしベイリーは、あらゆる手段を使って、「文字」と「読むこと」を学び続けた。
ある時は、道ばたで子供を引きとめ、教えてもらうこともあった。
「この文字は何と読むの?」「じゃあ、この言葉の意味は何?」
子どもたちは、教えられることにはうんざりしていた。
しかし誰かに教えることは、ずっと新鮮で、ずっと楽しいことだった。
子どもたちは大抵の場合、質問すれば熱心に教えてくれた。
ベイリーはやがて、人に教えられるまでになった。
もちろんベイリーは仲間の奴隷にも、「文字」と「読むこと」を教えた。
ベイリーは後にこう記す。
「彼らは、精神が飢えていた。
彼らは、それまで精神の暗闇の中に閉じ込められていた。
私は彼らに文字の読み方を教えた。それが私の魂の喜びだったからだ」
そしてベイリーは逃亡した。
「読み書き」の知識が大いに役立った。
ベイリーは向かうべき先を知っていた。
「読み書き」のおかげで知ることができたのだ。
ベイリーが向かったのは、ニュー・イングランドだった。
ニュー・イングランドではその時すでに、奴隷制は違法とされていた。
もちろん逃亡は、万事順調だった訳ではない。
「逃亡奴隷」を追いまわす「賞金稼ぎ」がベイリーを狙っていた。
ベイリーは「ダグラス」と名前を変えた。
ウォルター・スコット『湖上の美人』の登場人物からとった名前だ。
フレデリック・ダグラスならば、あなたもご存知だろう。
Frederick Douglass(1818年2月14日 - 1895年2月20日)。メリーランド州出身の元奴隷、作家、演説家、新聞社主宰、そして奴隷制廃止に尽くした政治指導者。
当時、多くの人が黒人に本など書ける訳がないと信じていた。
彼の『フレデリック・ダグラス自叙伝;アメリカの奴隷』(1845年)はベストセラーになった。
1863年には、時の大統領アブラハム・リンカーン、アンドリュー・ジョンソンなどと黒人参政権について協議した。
南北戦争後には、解放奴隷救済銀行の総裁を、その後も、コロンビア特別区(首都ワシントン)の裁判所執行官、駐アメリカ占領下ハイチ共和国合衆国総領事をつとめた。
1872年の大統領選挙では、泡沫政党だった公民権党が勝手に、彼をアメリカ史上最初のアフリカ系アメリカ人の副大統領候補に指名した。ダグラス本人はこのことをまったく知らされなかった。
「Blue-Backed Speller」として親しまれたウェブスターの綴字教本(The Webster Spelling book, 1788)は、1829年に『アメリカ綴字教本(The American Spelling Book)』に、1841年には『初等綴字教本(The Elementary Spelling Book)』に、それぞれ改訂されている。アメリカでは聖書の次の読まれた本だとされており、発行部数は現在まで1億部を超えている(over 100 million copies sold)。
フレデリック・ベイリーは奴隷だった。
1828年、ベイリーは、農園からメリーランド州ボルティモアの街に連れて来られた。
彼の新しい「主人」は、ヒュー・オールドという男だった。
仕事は、野良仕事から内働きに変わった。
周囲の環境も、単調な農園からにぎやかな街へと変わった。
街には、店の名前を記した看板やポスターがあった。
それから、文字を読める人間がいた。
ベイリーはある日、彼の運命を変えるような発見をした。
壁や紙の上に書かれている「模様」と、それ見ている人間の唇の動きに関係があることに気付いたのだ。
そこから、彼がその国の歴史を変えるまでには、まだまだたくさんの時間が必要だった。
しかし、それからは坂を転がり降りるようだった。
苦難や危険がなかった訳ではない。
だがもう、ベイリーは元に戻ることはなかった。
彼は、「文字」と「読むこと」を発見したのだ。
ベイリーは、「主人」の息子トミー・オールドの持っていた『ウェブスター綴字教本』を何度も盗み見た。
どの文字がどの発音と対応しているか、知ろうとしたのだ。
ある日、ベイリーは意を決して、「主人」の妻ソフィア・オールドに、字を教えてくれるよう頼んだ。
ソフィアは、少年の熱意に打たれて、そしておそらくあの禁令をよく知らなかったのだろう、その日からベイリーの「勉強」を見てやった。
3文字の綴りを終えて4文字の綴りに進んだ頃だった(『ウェブスター綴字教本』はそういう構成になっている)。
「主人」のヒュー・オールドがとうとう、ベイリーの「勉強」に気付いたのだ。
ヒュー・オールドは、すぐにやめるようにと、妻ソフィアをどやしつけた。
そして、ベイリーの前で、彼などいないとでもいうように(あるいはベイリーが言葉を理解できないと信じていたのかもしれない)、こう言った。
「黒んぼは、主人に従っていればいいんだ。言われたことだけやっていればいいのだ。
学問というものは、この世の中で一番の黒んぼでもダメにしてしまうものだ。
もし、君があの黒んぼに読み書きを教えるならば、あいつをここに置いておくわけにはいかない。
あいつは、永久に奴隷として使い物にならなくなるだろう」
ベイリーはこのときのヒュー・オールドの言葉を忘れなかった。
でなければ、彼の言葉は、今まで残っていなかっただろう。
それは、当時の白人にとっては月並みな常識に過ぎなかったが、ある真理をついていた。
いや、それどころか、ヒュー・オールドは決して知らせてはならない秘密を、ベイリーに教えてしまったのだ。
ベイリーは後に、こう書き記している。
「その瞬間、黒人を奴隷にしている白人の力が分かったのだ。
……私は、奴隷の身分から自由に至る小道を見つけたのである」
ソフィアはそれ以来、おびえてベイリーに口をきかなくなった。
しかしベイリーは、あらゆる手段を使って、「文字」と「読むこと」を学び続けた。
ある時は、道ばたで子供を引きとめ、教えてもらうこともあった。
「この文字は何と読むの?」「じゃあ、この言葉の意味は何?」
子どもたちは、教えられることにはうんざりしていた。
しかし誰かに教えることは、ずっと新鮮で、ずっと楽しいことだった。
子どもたちは大抵の場合、質問すれば熱心に教えてくれた。
ベイリーはやがて、人に教えられるまでになった。
もちろんベイリーは仲間の奴隷にも、「文字」と「読むこと」を教えた。
ベイリーは後にこう記す。
「彼らは、精神が飢えていた。
彼らは、それまで精神の暗闇の中に閉じ込められていた。
私は彼らに文字の読み方を教えた。それが私の魂の喜びだったからだ」
そしてベイリーは逃亡した。
「読み書き」の知識が大いに役立った。
ベイリーは向かうべき先を知っていた。
「読み書き」のおかげで知ることができたのだ。
ベイリーが向かったのは、ニュー・イングランドだった。
ニュー・イングランドではその時すでに、奴隷制は違法とされていた。
もちろん逃亡は、万事順調だった訳ではない。
「逃亡奴隷」を追いまわす「賞金稼ぎ」がベイリーを狙っていた。
ベイリーは「ダグラス」と名前を変えた。
ウォルター・スコット『湖上の美人』の登場人物からとった名前だ。
フレデリック・ダグラスならば、あなたもご存知だろう。
Frederick Douglass(1818年2月14日 - 1895年2月20日)。メリーランド州出身の元奴隷、作家、演説家、新聞社主宰、そして奴隷制廃止に尽くした政治指導者。
当時、多くの人が黒人に本など書ける訳がないと信じていた。
彼の『フレデリック・ダグラス自叙伝;アメリカの奴隷』(1845年)はベストセラーになった。
1863年には、時の大統領アブラハム・リンカーン、アンドリュー・ジョンソンなどと黒人参政権について協議した。
南北戦争後には、解放奴隷救済銀行の総裁を、その後も、コロンビア特別区(首都ワシントン)の裁判所執行官、駐アメリカ占領下ハイチ共和国合衆国総領事をつとめた。
1872年の大統領選挙では、泡沫政党だった公民権党が勝手に、彼をアメリカ史上最初のアフリカ系アメリカ人の副大統領候補に指名した。ダグラス本人はこのことをまったく知らされなかった。
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watanabe8760
自分の人生が奴隷化しているのに気付けない、気付いていてもそれを打破するだけの実行が伴わない人間がたくさん存在する悲しさは、今もまったく変わらないですね。
http://trwtnb.blogspot.com/2010/07/blog-post_18.html
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問い:何故学ぶのか? → 答え:自由になるため このエントリを読んでちょっと考えてみた。結論から言うと、自分は「自由になりたい」と「知りたい」と欲求が人間が勉強する動力源になってると思う。 ■自由を得るため→知りたいという欲求の順番 確かに勉強は自由にな
拷問読書生活 2010/07/18 Sun 22:02
問い:何故学ぶのか? → 答え:自由になるため 読書猿Classic: between / beyond readers
「数学の証明が解けることが、実生活のなんの役に立つって...
ふァん! 2010/07/19 Mon 16:41
このブログを読んでの思いです。 問い:何故学ぶのか? → 答え:自由になるため 結果的に自由になっただけであって、それは学ぶ事の意義なのでしょうか? じゃあ、そもそもベイリーは何故言葉を学ぼうとしたのでしょうか? 初めから自由が目的だったのでしょか? 私は
relaxteatime 2010/07/24 Sat 22:51
南北戦争以前のアメリカ合衆国南部では、奴隷に「読み書き」を教えた白人は厳しく罰せられました。それはなぜか?「読み書き」こそが、白人が奴隷を支配するための最大のパワーだったからに他なりません。奴隷だったフレデリック・ベイリーは、主人が変わったので、仕事も...
おとこざわ・とおるの「めしのタネ」 2010/08/02 Mon 14:54
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