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2010年8月3日投稿

日本アニメを広めた男 【訃報 ピーター・フェルナンデス】

15日死去。83才。
『スピード・レーサー』こと『マッハGO!GO!GO!』の
主人公スピード、その兄の覆面レーサーXの声など複数を演じた声優。
アメリカ版主題歌の作詞をしたのも彼である。
http://www.youtube.com/watch?v=ALzDcMDhf2o

http://markethack.net/archives/51594426.html
↑この記事によるとこの番組のヒットでアメリカに日本製アニメの
存在が一般化したという。もっとも、この記事のライターは
知らないらしいが、彼が歴史的価値(だけのもの)と言っている
『アストロボーイ(鉄腕アトム)』も『ジャイガンター(鉄人28号)』
も、吹き替えとシナリオ作成はピーター・フェルナンデスがやって
いたのだ!

ラジオのパーソナリティから出発して、子供番組の人気声優として
長年にわたって活躍したフェルナンデスは、ことに日本のアニメを
アメリカに普及させるにあたり、声優、ディレクター、音響監督を
兼任して大きな功績があった。

日本版のシナリオの直訳から英語版の吹き替えシナリオをオコす仕事を
彼は膨大にこなした。まあ、一本当たりの翻案代がたった100ドルだった
というから、膨大にやらざるを得ない。彼はそれまでのスクリプトライター
が日本版のセリフを忠実に英語にしようとしていたのを廃し、絵に合わせて
セリフをいろいろと創作してつめこんだ。それがアメリカ人の感覚に
フィットした。

アニメばかりではない。
『ウルトラマン』『マグマ大使』『モスラ』『南海の大決闘』
といった特撮映画、特撮テレビのアメリカ版台本製作、演出、吹き替えも
一手に引き受けていた。昭和の特撮ブームはこれらの作品が外貨を
稼いでくれるため、という要因が大きかったが、それはフェルナンデス
のように、この分野で才能を発揮し、大量の仕事をした人物がいたからで
ある。われわれ、それで育った人間はみな、フェルナンデスに敬意を
表すべきなのである。アメリカのオタクのサイトには、フェルナンデスの
死をウルトラマンの『怪獣墓場』のシーンを引用して追悼している
ところもあった。
http://magiccarpetburn.blogspot.com/2010/07/peter-fernandez-ultraman.html
単に内容を英語に置き換えるのでなく、フェルナンデスは日本語、
中国語、イタリア語などという各言語の、単語の長さや息継ぎなどの
特性を分析し、それに合わせた英語のセリフを書く、という離れ業を
やり、吹き替えが不自然でないようにした。さらに独自の録音方法
まで工夫して編み出した彼は、アメリカにおける吹き替え業界の最重要
人物になった。韓国のヒーローもの『インフラマン』、クリント・
イーストウッドのマカロニ西部劇なども手がけたという。イーストウッド
と言えば山田康雄だが、フェルナンデスはアニメ『ルパン三世/ルパンVS.
クローン』ではルパンの声を吹き替えている。日本ではこの二人、同じ声
なのだということを彼は知っていただろうか。

アニメ界で“伝説の人”であった彼は実写版『スピード・レーサー』では
アナウンサー役でカメオ出演。
ここらへんをしっかり押さえてくれるのがアメリカのいいところ。
アイドル使ってリメイクすりゃいいと思っている日本、爪の垢でも
煎じて飲んでほしい。
http://video.google.com/videoplay?docid=8268413408084606802#

感謝を込めて、黙祷。

別れを告げに来た男 【訃報 佃公彦】

6月28日死去。80歳。

私は札幌育ちなので、『ほのぼの君』は北海道新聞で読んでいた。
1970年から連載開始だそうで(当初のタイトルは『ちびっこ
紳士』)、私が札幌を離れたのが78年だから、8年間読み続けて
いたことになる。

その8年間、このマンガを面白いと思ったことは“一回も”なかった。
新聞のマンガは面白いことよりも、毎日同じ場所に“ある”ことが
大事とか言われるが、それにしても限度があるのではないかと
思った。そもそも、キャラクター設定がシュルツの『ピーナッツ』
を露骨に模倣した感じがした。出てくる犬のキャラは最初は
片目という設定でアイパッチをしていたが、そのうちなくなって
普通の犬になってしまったと記憶している。

同じくとっていた毎日新聞(うちは店が毎日新聞札幌支社のビル内
にあるのでとらされていた)に1974年、東海林さだおの
『アサッテ君』が連載開始されたときには、比較して読んで、その
あまりの面白さに、いや、四コマというのはこれだろう、と思った
ほどである。現在、『アサッテ君』が若い人の間で“つまらない”
マンガの代名詞になっているが、連載開始当時はあれはひさびさに
見た“面白い新聞四コマ”だったのだ。

当時、面白くない新聞四コマの代表が読売新聞夕刊の『サンワリ君』
だったが、『ほのぼの君』に比べればマシ、というのが私の考えで
あった。なぜなら、『サンワリ君』がつまらないのは“笑わせよう
としてすべっている”からであり、『ほのぼの君』がつまらないのは、
そもそも“笑わせようとしていない”からであったのだ。

で、いつの間にか『ほのぼの君』は見ても意識の端にまったく留めなく
なっていた。“ああ、あるな”という感じであったのだ。で。しばらくして
ふと、久しぶりに『ほのぼの君』を読んでみると、何か感じが違った。
面白くないことはまったく同じ。だが、どこかが違う。何だろう、と
思って気がついたのは、四コマでなくなっていたことだ。三コマの
マンガになっていた。もはやストーリィやギャグという世界にあるもの
ですらなく、ポエムマンガ、として、独自の境地を開いたのだな、と
感じた。亡くなった記事についたコメントには、“ずっとそこにあった”
この作品を惜しむ声が続々と寄せられていた。

作品が面白い、というのは、読者の意識にとり、その作品が異物であり、
感覚をスクラッチするからである。そのスクラッチにより、われわれは
感覚を賦活させられる。だが、面白くない作品は逆にその意識・感覚の
一部になってしまうのである。神経が疲れ、バテたとき、面白い作品は
むしろ荷に感じられる。そういうときには、むしろ、いつもと同じの、
感覚を刺激しない作品の方が、心を安らげる働きをしてくれる。
『ほのぼの君』はそういう意味で、まさに新聞四コマの理想であった
のかもしれない。

で、私にとり、佃公彦の代表作は何と言ってもNHK『みんなのうた』
の中の、『小犬のプルー』のアニメーションの人。
本田路津子の歌声がいいのだが、残念ながらオリジナルはYouTube
上にはもう残されていないようだ。

……別れを体験するたびに、私はこの歌を口ずさむ。
もう歌いたくないと思いながら、また、歌うことになる。
そして、そのたびに脳裏には、佃公彦の絵が浮かぶのである。
佃公彦は自分にとり、“別れの作家”なのだ。

そう言えば2007年3月8日、『ほのぼの君』の最終回の
セリフは“さよならだけが人生さ……ナンチャッテ”であった。

常識を怒った男 【訃報 つかこうへい】

高田馬場の小さな劇場で見た『飛竜伝』。
紀伊国屋ホールで見た『熱海殺人事件』。
それまで見ていた唐や寺山はすでに“教養”であり、時代はいま、
つかこうへいのものなのだな、とはっきり感じさせた舞台だった。

井上ひさしと好子夫人の離婚騒動のとき、山藤章二氏はじめほとんどの
文壇人が井上氏の側についたとき、つか氏は好子夫人についた。
好子夫人の不倫の相手であるこまつ座舞台監督の西館督夫のこともよく
知るつか氏は、相談に来た好子夫人の前で
「ああ〜督夫じゃしょうがねえなあ〜」
と頭を抱えたという。

井上氏は“世間”のモラルを武器に西館氏を責め、世間またそれにならったが、
(少なくとも私の見た範囲では)つか氏だけが、“演劇界”における人間関係
の特殊性を前提とした考え方やものの言い方をしていたと思う。
演劇人だって世間常識に従わねばならぬ、という考え方もあるだろう。
映画人、芸人、テレビタレント等みなしかり。
彼らとてこの世間に生きて暮している限り、その常識に準拠する義務がある。
しかしまた、舞台(銀幕、高座、ブラウン管)の上に立ち、スポットライト
を浴び、おのれの存在をその世間に誇示することで自らのアイデンティティ
を問うている者はみな、どこかの部分で、世間一般の範を超えた、
アンコントローラブルな部分がなければやっていけない。
私はつか氏のエッセイのファンであり、そのほとんどに目を通してきたが、
およそ他のどんな演劇人よりも、その主張が強烈であった。

ある売れっ子役者に対し、
「こいつは米の飯を食うようになってからダメになった」
という表現で批判したのを目にしたことがある。今日びアワやヒエを
食っている役者もおるまいが、つまりは一般社会での栄華を求めるように
なったということだろう。そう言えば、当時流行り始めた“男の料理”にも
つか氏は嫌悪感を表明し、男なら焼肉屋で割り箸をチャッチャッ、と
こすり合わせながら
「おばちゃん、ロースとカルビ二人前ずつね!」
と頼め、と強弁していた。ちなみに、私の家は両親が朝鮮料理嫌いだった
ので、高校生まで私は焼肉屋に入ったことがなかった。つか氏のこの
エッセイを読んで奮い立ち、初めて焼肉屋に足を踏み入れてそれから
大の焼肉ファンになった。……そんなことはどうでもいいが、要は
家庭という小さなワクに(演劇人は)はまるな、と言っていたわけで、
つか氏の当時(直木賞受賞前後)の発言は、全て主語を“演劇人は”に
置き換えて読む必要があったと思う。

最初、直木賞候補になって落選したとき、候補たちの、結果までの
日常をドキュメントしたテレビ番組があった。結局、その時は受賞作なし
だったのだが、他の候補が落選の弁で“賞ってなんだろう”とか、文学論めいた
ものを語っていたとき、彼だけは
「賞取ったら外車買ってやろうと思ってね、販売店行って、“あれがいいん
じゃないか”とか品定めしたりね。こう、さわったりなんかしてね(笑)」
と、徹底して通俗なことを言っていたのも、実に彼らしい“演技”だった。

熊谷直美と離婚したときの、理由を問われての台詞
「嫌いになったから。顔も見たくなくなった」
というあまりにダイレクトな発言も、そのような、世間のワクに
はまりたくないがゆえのものだったろうし、在日系文化人の中では
かなり早期にそのことをカミングアウトした(結婚式を民族衣装で
行なった)のも、多分にパフォーマンスであったと思う。
キリンビールのCMで“このCMに出た以上、私は生涯キリンビールしか
飲みません”と言い切ったのもつか氏らしかった。その後、ある
漫画家が
「ゴルフ場でつかこうへいがサントリービール飲んでた」
とバラしていたが、これは真に受ける方が野暮というもので。

韓国と日本の関係について発言を多くしていたようだが、
つかこうへいという人物を知っていると、あまり本気にとらえては馬鹿
を見るだろうな、と思えてしまい、真面目に見聞きはしていなかった。
その後『娘に語る祖国』を読んだら、国より個人、と書いてあって、
ああ、つかこうへいらしいな、と苦笑はしたが。

そこまで自分を“ツクル”と、日常は大変だろうな、と思う。
家庭では滅多にしゃべらぬ、暗いオトウサンだったらしいが、それも
当然で、エネルギーがそんなに続くものではない。しんどかったろうと
思う。

この人の舞台は基本的に“口立て”である。台本には単に流れが書いて
あるだけ。主要なセリフは稽古をしながらどんどん即興でつけていき、
それが決まれば台本に書き込む。役者が芝居に合わせるのでなく、
芝居の方で役者の個性に合わせていく。だから、舞台は出演俳優の
個性ひとつで成功もし、失敗もする。
「演出家というのは、役者が飛び上がったまま、しばらく宙で静止
できないかと本気で考える人種だ」
とある時言っていた。そんなことすら要求しかねないのだから、
世間の常識のワクの中に役者が収まるなど、許しがたいことだったろう。

嫌煙という世間の常識にも従わず、ヘビースモーカーであり続け、
62歳で早世。自我を押し通したことに関しては満足していたのではないか。
とはいえ、最後の芝居は稽古場の模様を映したビデオを病院で見ながらの
演出だったそうだ。口立ての神様としては、さぞまだるっこしい思いで
あったろう。成仏などせず、この世に迷って出てきて芝居を作ってほしい。
それが最も似合う人なのだから。
黙祷。

さらば愛しき怪プロデューサーよ 【訃報 エリオット・カストナー】

6月30日死去。80歳。
アメリカ生まれ、ヨーロッパで主に仕事をした映画プロデューサー。
児童文学者のエーリッヒ・ケストナーに名前が似ていて、
それで記憶に残ったのが最初だと思うが、そのうち
「おや」
と思い始めた。どうも、私の好みのアクション映画で、やたら
その名前を見かけるのである。

私好みのアクション映画とは何か、というと、それほどの
大スターを使わず、ストーリィもあまり気負わず、ワキの方に
曲者俳優が出ていてその演技を楽しめ、金と体技よりはアイデア
勝負という感じで、そして演出のどこかにニヤリとするシャレっ気が
ある、というヤツである。例えばチャールズ・ブロンソン主演の
『軍用列車』、ロバート・ショー主演の海洋チャンバラ『カリブの嵐』、
ロジャー・ムーア主演の『北海ハイジャック』なんて映画群である。
……そして、上記三作全部、エリオット・カストナープロデュースの
作品なんであった。

ロバート・ショーにチャンバラのヒーローをやらせようという
だけでこのプロデューサー、スキものだとわかるが(ちなみに悪役は
『ヤング・フランケンシュタイン』のピーター・ボイルで、ショー
以上に悪っぽく見せるため、SM趣味で美青年好みのホモ、という
大変な役づくりをボイルはやらせられている。嬉々と、ではあるが)、
とにかくこの人の映画では主役ですら安心して見ていられない。
代表作とされる『荒鷲の要塞』は英軍のリチャード・バートンと
米軍のクリント・イーストウッドが手を組んで、山のてっぺんに
あるドイツ軍要塞に、捕らわれている米軍将校を救出に行くという
いかにも戦争アクション、と一見思える話だが、正統派アクション映画
らしいさまざまな苦労を乗り越えて、やっとのことで目的である将校を
見つけ出した途端、いきなりバートンがイーストウッドに
「この将軍も私もニセモノだ。私はドイツのスパイでお前をだました
のだ、やーいだまされた(大意)」
と言い出す。そのときのイーストウッドの“おっさん、いきなり何を
言い出すんじゃ”という表情が絶品で、さすがのイーストウッドも
気勢を削がれたか、その後バートンに食われっ放し。

これまた日本の映画ファンにやたら評価の高いポール・ニューマンの
『動く標的』も、主人公のルー・ハーパー(リュー・アーチャー)
はしょぼくれた私立探偵で、普通“しょぼくれた”というのは単なる
形容であるのだが、この映画でのニューマンはホントにしょぼくれている。
なにしろ、朝、コーヒーが切れているので、ごみ箱から昨夜使った
ドリップパックを拾い出してもう一回いれるなんてことをする。
女房(ジャネット・リー!)には別居され、本業はおもわしくなく、
やっと旧友の弁護士からもらった仕事も、曲者の関係者たちに
翻弄されっぱなし。ところが、そういう情けない、サエないことを
すればするほどニューマンがカッコよく見える、という、不思議な
映画ではあった。

この“しょぼくれヒーロー”を受けついだロバート・ミッチャムの
『さらば愛しき女よ』も、主人公フィリップ・マーロウを原作より
ずっと年配にして、くたびれきって仕事にも人生にも意欲が失せ、
楽しみはジョー・ディマジオの連続安打記録だけという、何とも
ヒーローらしくないヒーローに仕立てあげた。で、事件は悪女
シャーロット・ランプリングに翻弄されるだけ翻弄されて、何とか
解決した、と思ったとたんに記録がストップ……という泣くに泣けない
ヒーロー像。もちろん、こっちのマーロウ=ミッチャムもカッコいい
のだけれど、何かカストナー先生、ヒーローにうらみでもあんのか?
と思えてしまう。

これが大怪作西部劇『ミズーリ・ブレイク』になるともう、主役の
ジャック・ニコルソンとマーロン・ブランドの両方とも怪演につぐ
怪演(ことにブランドはいくらなんでもやりすぎ)、そして撮影中に
この濃すぎるおっさん二人が何とホモ関係に落ちたという噂まで
流れて、映画を観たあとはさしも怪作好きの私もしばらくゲップが
とまらなかったほどだった。

この怪作趣味は晩年まで変わらず、晩年の代表作である『エンゼル・
ハート』は主人公の私立探偵ミッキー・ロークのモノローグから
始まり、お、ひさびさにハードボイルドものにカストナー戻ったか、
と思いきや何とラストは……という驚愕のオチで、とにかく“まともな
ヒーローを描く気が全くなかったプロデューサー”でくくることが
できるのではあるいまいか、とさえ思われる。それは、これも晩年の
怪作『ブロブ〜宇宙からの不明物体〜』(『マックイーン最大の危機』
のリメイク)で、映画の中盤、さっそうと現われた科学者と政府の
ブロブ対策チームの扱いを見てもよくわかるだろう。

上記の映画、いずれも(『ブロブ』を除きw)私の映画遍歴の中で
ベスト100に入るものではあるが、中で一番好きなのは、と訊かれる
と、地味ではあるが『北海ハイジャック』になるのではなかろうか。
ロジャー・ムーアのヒーローがひげ面のおっさんで厳格な英国上流家庭、
それも母と七人(だったか六人だったか)の姉の中で育てられたので
徹底した女嫌いで猫好きで編み物が趣味という、これまた作り過ぎの
主人公を演じていた。徹底した女嫌いという役を、色好みスパイの
ジェームズ・ボンド役で有名なムーアに演じさせるのもカストナー
らしいおちゃめさ(人質の中に少年体型の女性がいて、これが
ムーアに協力して頑張る。ムーア感心して「少年、よくやった。
さすが男だ」女性「(帽子を脱ぎ捨て)私は女よ!」ムーア唖然、
というシーンは大爆笑)だが、ラストがまた……猫好きなら
絶対見るべき作品である。

怪作好きで、しかも原作を選ぶ目、役者を選ぶ目の確かさをあわせ
もっていたカストナーは、私にとっては映画プロデューサーの理想、
みたいな存在だった。プロデューサーの名前で映画を観に行く、
ということはよほどの映画ファンでなければしないだろう。その、
数少ない経験をさせてくれたエリオット・カストナーと、彼が活躍
していた時代に最も映画を見まくれた、という幸運を感謝したいと
思う。

節を曲げなかった男 【訃報 梅棹忠夫】

7月3日死去。

ご他聞に漏れず『文明の生態史観』を、基礎教養として、脂汗を
流しながら読んだクチである。
和辻哲郎の『風土』には人生観が変わるほどのカルチャー・ショック
を受けたのだが、同じく環境文明論である『文明の生態史観』には
なぜかハマれず、読み終えるだけでえらい精神的重労働だったのを
覚えている。

文体が性に合わなかったのか、それともそこに、高度経済成長下の、
他のアジア諸国と日本は違うんだ、という妙なおごりみたいな意識を
感じ取ったせいか、とにもかくにも、梅棹先生は私にとって鬼門となった。

おまけにこの先生は頑固なローマ字論者だった。
日本が情報社会足り得ないのはタイプライターが使えない言語だからで、
カナタイプはひらがなとカタカナの使い分けができない。
日本語をすべからくローマ字表記にすべし、と論じて倦まなかった。
ワープロ時代になってさすがに節を曲げるかと思いきや、ワープロは
却って耳で聞き取りにくい漢語を使う率が高くなる、やはりタイプライター
でなくんば、と、失明も手伝って、ローマ字化論にかえって拍車が
かかった。2004年という時代にローマ字化推進の本を(編著では
あるが)出版している。

『文明の〜』があれほどもてはやされたのは、敗戦の焼け跡から復興し
経済的にやっと立ち直った日本人に、今度は思想的な“自分たちは正しい”
という裏付けが求められていた、そのニーズに見事に応えたという
ところがあるだろう。そして、その正しさとは何か、というと、
「西欧と同じ文化圏に、アジアでは日本だけがいる」
というものだった。そして、西欧の高度文明圏とさらに並び拮抗して
いくには、西欧と同じ情報社会のツール、すなわちアルファベットを
使用せざるべからず、という論調であった(少なくとも10代の私には
そう読めた)。

ユニクロなど、社内の常用語を英語にする、という会社なども出て
きている現在、その認識は間違っているどころか、先見の明と
言えるものなのかもしれない。また、なんだかんだ言いながらワープロを
ローマ字入力にしている私も、根はすでにローマ字使用者なのかも
しれない。

とはいえ、どこかに、日本という国が日本人のアイデンティティを
背負っている以上、捨ててはいけないものがあるはずと感じている身と
して、梅棹先生の論には賛同し切れぬ、大きな抵抗があることも
また事実なのである。

90歳。
晩年まで精力的に著作を発表していた。
と、いうか60代半ばで失明して、そこから亡くなるまで数十冊の
著作を口述筆記等で刊行している。そのバイタリティにはほとほと感服。
これぞ学者、という人ではあった。
黙祷。

村崎百郎氏、死去

すでにニュース等でご存知の方もいらっしゃると思いますが、
『社会派くんがゆく!』で私とコンビを組んでいた作家、
村崎百郎氏が死去しました。

23日夕、自宅で仕事中にあがりこんできたファンを自称する
男に刃物で胸を20数回、刺されて即死状態だったそうです。
犯人は村崎さんの書いた実践本(『鬼畜のススメ』か?)
に“裏切られた”と言っているとの報道がありました。

やり場のない怒りに身をふるわせるばかりです。
48歳、これから作家としての本領を発揮できる年齢で、と
思うと歯がみしたい思いです。
彼とは10年にわたり、『社会派くんがゆく!』で、猟奇的
事件を扱った対談を続けていました。その当人が、まさか
このような猟奇的事件の被害者になるとは……。

パートナーである森園みるくさんも村崎さん以前からの知り合い
であり、一時は村崎さんが露悪的に二人の熱々ぶりを電話で
話してきかせてくれたりして、いいコンビだと思っていました。
今はかける言葉もみつからない状態です。

一報が入ったとき、最初は頭がその情報を拒否して、何かの
悪い冗談だろう、としか思えませんでした。編集部にかかって
きた相手が某新聞社の名前を名乗ったそうで、悪質ないたずら
ではないか、そうであってほしい、と願いながら、その新聞社
に務める知人に急いで確認の電話をしてみて、真実であると
知りました。

今は多くを語るべき時ではありません。
また、その余裕もありません。
10年コンビを組んでいた人間の突如の異常な死に
まとまった言葉を選べるわけもありません。

ただ、これだけは言いたい。
私の知る限り、村崎さんは最良の文化人の一人でした。
そして、情の深い男でした。
その、自分の教養とセンシティブさを、あのような鬼畜のキャラで
鎧い隠さねば、この世界でやっていけなかったのでしょう。
それが“時代”だと言えば、哀しい時代にわれわれは生きていました。
『社会派くん』対談では、ことに最近は、村崎さんの発言は
鬼畜どころか、むしろ社会の不条理に、被害者の非運に
憤慨する、いち常識人と化していました。
もちろん、それはテープ起こし校正の段階であとかたもなく
消えるわけですが、読んでみれば、露悪的なセリフの間に
にじみ出る、村崎百郎の、人間という存在に対する愛情と
いうものははっきりわかったでしょう。
村崎さんも、読者がそれをちゃんと読み取ってくれるという
信頼の上に、あのキャラクターを作っていたのです。

もし、犯人が言ったという“裏切られた”という言葉が、その、
村崎さんが作ったキャラクターと、現実の彼のギャップを
指すのだとしたら……。
ライターたちにとり、これは恐怖です。

また、犯人はサンケイスポーツの記事によれば、
2ちゃんねるで彼の自宅住所を調べ乗り込んだようです。
人の住所をネット、ことに大多数が悪意を持って見る2ちゃんねる
のような場所にさらす行為というのは、もはや殺人幇助、
いや教唆と言えるのではないかと思います。
いや、思えばネット上にどれだけ、人の命を軽んじる
発言、脅迫としかとれない発言が蔓延しているか。
正常な判断力を持たないものが、そこからの情報をウのみにして
行動に及んだとしたら……。事件後、私にインタビューしてきた
マスコミ各社も、多くはそのことに言及していました。
ことを村崎百郎一人の特異なケースにしてはいけない。
第二、第三の彼を出してはいけない。
そのような思いをただ、反復しながら、今、彼との
10年にわたるつきあいを記憶の底から甦らせています。

彼の、カルチャー界における位置づけなどに関しては、
あらためて、また。
……おっと、あんな連載のコンビです。
少しは不謹慎なことを言っておかないと彼に怒られそうです。
「いいなあ、これでサブカル界のジョン・レノンって呼ばれるぜ!」
…………いいかい、これで?

船をひっくり返した男【訃報 ロナルド・ニーム】

映画監督ロナルド・ニーム、6月16日に死去。99歳。
かの『ポセイドン・アドベンチャー』で一躍名を上げた監督
であるが、それまではこの人の名は主にテレビの洋画劇場で
ときおりかかる、小じゃれたユーモア・アクションで
覚えたものである。ジャームズ・ガーナーがとぼけた
ヒーローを演じる『ダイヤモンド作戦』とか、マイケル・ケイン
とハーバート・ロムの演技対決が面白かった『泥棒貴族』など、
どちらもテーマ曲が素晴らしかったこともあって印象的で、
イギリス出身の監督らしいユーモアが随所に光るところが
お気に入りだった。

そういう作風の監督がどうしてまたパニック映画に抜擢されたのか
わからないが、ニームはヒッチコックのもとでアシスタントカメラマン
として映画界にデビュー、さらにマイケル・パウエルとエメリック・
プレスバーガーのコンビの映画『One of Our Aircraft Is Missing』
では特殊撮影でアカデミー賞候補にまでなっている。上下逆転した
豪華客船の中の彷徨、というカメラアングルの難しいサスペンス、
ということで、撮影に詳しい監督を、とプロデューサーのアーウィン・
アレンが抜擢したのかもしれない。ともかく、これで世界的大ヒット
を飛ばした(公開年の興業成績をコッポラの『ゴッドファーザー』と
分けた)あと、パニック・サスペンスの大御所みたいに扱われる
ようになり、パニックでSF大作『メテオ』、サスペンスで
フレデリック・フォーサイス原作の『オデッサ・ファイル』を
監督したが、正直な話、両者ともどうにも……な出来であった。

あくまでもこの人は小粋なアイデアで観客をニヤニヤさせながら
ひっぱっていくのが得意な監督。『ポセイドン・アドベンチャー』も、
思ってみれば船がひっくり返るパニックよりも、神を信じられなく
なった神父が神を憎むことで神の存在を再認識する、とか、警察署長と
元売春婦の奥さんの凸凹コンビ夫婦とか、そういう人間ドラマの描写の
方が印象的だったのであった。まあ、晩年がちと残念ではあったが
(小粋なアクションを撮る監督というのはジャック・スマイトにしろ
ジョゼフ・サージェントにしろ、何故か途中で大作を手がけて失敗、
才能が鈍化してしまうことが多い)、それでもサーの位を貰ったり、
81歳で離婚して82歳で再婚したり艶福家としても名を馳せ、
幸せな一生ではなかったかと思う。追悼の意味を込めてDVDで
鑑賞を……と思っても、パニック大作以外、作品の評価での代表作
である『ミス・ブロディの青春』を含め、まるでDVD化されて
ないのだな。……再評価の待たれるところである。

頼りにされた男【訃報 池田駿介】

6月11日死去。
『帰ってきたウルトラマン』『キカイダー01』『緊急指令10-4-10-10』
など、東映と円谷プロの二大製作会社を股にかけ、昭和の第二次特撮ブームを
語る際に外せない人だった。『正義のシンボル・コンドールマン』などにまで
セミレギュラー(主人公・三矢一心の兄で新聞記者)で出ていた。

『帰ってきた……』では最後まで団次郎と主役・郷秀樹の役を争ったと
いうが、最終的に脇に回ることになったのは、顔と演技が、あまりに
正義っぽすぎたのが原因ではないだろうか。第二次特撮ブーム初期の特徴は
その前に一世を風靡していた(第一次特撮ブームを駆逐した)スポ根
ドラマを取り入れて、主人公が悩み、成長していく姿を描くことにあった
(『シルバー仮面』しかり『ミラーマン』しかり)。その傾向の最も顕著
であったのが『帰りマン』であるが、池田氏のあまりにさわやかなスポーツ
青年そのものの風貌は、そういう“悩み多き”ヒーローには似合わなかった。

その点、“悩むヒーロー”であるキカイダーから“悩まない”典型的ヒーロー像
にチェンジした『キカイダー01』のイチロー役ははまり役だった。
原作のイチローは良心回路を持たないが故に善悪という認識そのものが
ない単純バカとして描かれていたが、池田氏演じるイチローは、月光仮面
以来の、人間的な弱さ全てを超越したヒーローそのものであった。これは
ドラマ設定がそうなっていた、というより、池田氏個人のキャラクター
が作り上げたものだろう。原作を後になって読んだ池田氏はびっくりして
石ノ森章太郎氏に謝ったというが、石ノ森氏も、池田氏にはあれが似合って
いるんだから、と笑って許したそうである。結局、“悩む”部分は後半にビジンダーという
不完全良心回路を持つキャラの登場で補われることになる。

池田氏は悩む郷秀樹や、悩むジローの頼れる“アニキ”だった。
兄貴という存在は太陽のようなものだ。誰もが太陽をありがたがるが、
しかし、太陽のことを語る人はあまりいない。はるかに暗い、月の
存在感に太陽はかなわない。『帰りマン』では西田健演じる意地悪キャラの
岸田隊員に、『キカイダー01』では志穂美悦子演じるビジンダーに、
話題性をさらわれてしまっていた。しかし、それでもなお、太陽が
なくてはわれわれは生きていけない。池田氏がこれだけ特徴ヒーロー
番組に出演していたのは、その存在の必要性を誰もが認めていたからに
他ならない。

その後、テレビで『水戸黄門』を見ていたら、池田氏が出演していた。
光圀の息子をおだてて黄門を気取らせ、逆に庶民を苦しめている悪家来
という役柄だった。時代劇を見ると、ときどき子供番組のヒーローが
悪役をやっているのに出くわすが、例えば黒部進や坂口祐三郎が悪党
を演じていても、それなりに面白がれるのに、池田氏の場合はちょっと
違和感を覚えた。心の中に、この人だけは正義の味方しか演じない、
という意識があったのかもしれない(『秘密戦隊ゴレンジャー』での
ダイガー仮面の人間体、モモレンジャーの初恋の人役はそれを逆手に
とったキャスティングだった)。

キカイダーに日本人以上に熱狂するハワイでは、池田氏はジロー役の
伴大介氏とならんで英雄あつかいだったそうだ。役者冥利にはつきた
ことだろう。とはいえ、69歳。早すぎる死ではあった。

池田氏に最期までついていた私の知人から聞いたのだが、
私がBSの番組で特撮のことを話しているのを見て、ぜひ一度
お会いして話を聞きたい、とおっしゃっていたそうである。
その機会が持てなかったことを悔やんでも悔やみ切れない。
黙祷。

映画(『地獄の黙示録』)でも私生活でも泥沼だった男【訃報 デニス・ホッパー】

5月29日死去。74歳。
前立腺ガンが骨にまで転移し、余命いくばくもないことは本人も
認識していたようだ。最近はそういう場合は無理に延命をせず、
痛みだけを除去する加療を行なうので、苦しみはなかったものと
信じる。モルヒネ投与だろうか。一時はハリウッドのドラッグ使用者
と言えばホッパーが代名詞みたいなものだった。そこから彼は自力で
立ち直ったわけだが、人生の最期にまたドラッグのお世話になる
というのは皮肉なことだ、と苦笑していたかもしれない。
3月にはハリウッドの星(ハリウッド大通に名前つきのプレートが埋め
込まれる栄誉)が与えられ、ジャック・ニコルソンやデビッド・リンチが
かけつけてお祝いを述べた、という“いい話”が伝えられ、よかったと
思いながらも“この反逆児には似合わねえな、年取って善人になって
しまったかな“と思っていたら、死の床で5人目の妻に離婚訴訟を
起し、泥沼の係争が行われていたと聞いて、
「うん、それでこそホッパーらしい」
とうなづいてしまった。彼の5人の妻の中には歌手のミシェル・
フィリップスもいるが、彼女との結婚期間は8日間だった。

『イージー・ライダー』(69)は残念ながらリアルタイムでは見ておらず、
反逆児の名前だけが一人歩きしており、やっと公開時にリアルで
見たのは『地獄の黙示録』(79)。神話的構造を持ったこの映画の中で
ホッパーはもっとも現実的・世俗的な戦場カメラマンを演じており、
何か彼が出てくるとホッとしたのを覚えている。パンフレットには
”かつての問題児もおとなしくなってしまった“と書かれていた。
ドラッグでこの撮影の時はセリフもろくに覚えられない状態
だったらしい。

このまま身を持ち崩して終わりかな、と思っていたところで大逆転
ヒットを放ったのがデビッド・リンチの『ブルー・ベルベット』(86)
だった。それまでのヒッピー風イメージを一新し、一応きれいな
格好をしながらも、酸素吸入器をスーハー言わせながらイザベラ・
ロッセリーニを犯すその演技はまさに怪演と言ってよく、
『砂の惑星』でミソをつけたリンチと共に、ホッパーもこの映画で
見事復活を果たした。それも、怪優として。

それ以降の活躍はご承知の通り。以前のようにインデペンデント系
映画にも出演する他、金のために『ウォーターワールド』『スーパー
マリオ』といった娯楽作品(大抵はひどい映画)にも出演したが、
しかしホッパーの出演シーンのみは面白く、まあ彼を見られたから
入場料のモトはとったか、と思わせるのだから大したものだった。
そして、そんな作品の中でも『スピード』(94)のような、後の悪役
俳優たちがこれにハリ合うことを要求されるくらい、悪役演技のハードルを
上げてしまった超テンションの傑作があるのだから凄い。

日本ではツムラの入浴剤の”アヒルちゃ〜ん“が有名だが、あれも
かなりギャラが高かったそうだ。彼はそうやって稼いだ金で
趣味の現代アートを買いまくり、そっちの分野でも一家言持つ人物
になった。人間、ドラッグでキャリアの15年を無駄にしても
ちゃんと取り戻すことが出来るという好例である。

冥福はたぶんすまいと思われる人間ではあるが、ともかくも
まだ数年は頑張れる年齢だっただけに残念。
黙祷。

居場所を見つけた男【訃報 ラッシャー木村】

5月24日、死去。腎不全による誤飲性肺炎。
ミクシィニュースでの訃報記事へのコメントの多さに驚いた。
愛されていたんだなあ、と思う。
人間の運命というものはわからない。
もし、木村があのまま国際プロレスのエースのままだったとしたら、
プロレスファン、それも“通”を気取るひねたマイナープロレスファンの
賛辞を受けるくらいで終っていたのではあるまいかと思われる。

その国際プロレスが倒産し、新日本プロレスに拾われ、
猪木のかませ犬として、似合わぬ悪役稼業。
どう考えたってアングルだろ、としか思えない国際軍団の
殴り込み、三対一デスマッチなどの“作られたストーリィ”にも、
当時の猪木についていたカルト信者的なファンは反応し、
木村の家には石が投げられたりし、愛犬家だった木村は犬にまで
被害が及ばないかとかなり心痛したらしい(実際、愛犬は
ストレスで死んだらしい)。

一度、東京駅のレストランで食事をしていたら、目の前に
木村が座ったことがあった。はぐれ国際軍団で新日に殴り込んで
いたころである。巨大な塊、と形容したくなるような体格を駅のレストランの
小さい椅子に押し込め、黙々と定食を食べるその姿の強烈な印象は
いまだに脳裏に明瞭に残っている。
私が立ったあと、その席に座った学生の二人連れは、前の席の木村を
確認したとたん、思わず
「ラッシャーだあ〜」
と口に出して叫んだが、木村は彼らに(もちろん私にも)一瞥も
くれなかった。悪役はファンに媚を売ってはいけない、と
自らを律していたのだろう。
「男は三年に片頬」
というのがモットーだ、と後に雑誌で読んだが、いや、しかし
プロのレスラーとしてそれはどうか、と、その行き方の不器用さに
いささか心配になった。猪木戦を振り返った当時のスポーツ新聞の
記事にも、“不器用な木村を猪木は徹底していたぶった”と書かれていた。

ところがどうして。
その後の木村は不器用どころか、行く先々で個性を発揮し、
存在感を(自分の希望のそれだったかどうかは別に)印象づけていく。
ひょっとして、プロレスラーの生き方としては最も器用だったとさえ
言えるのではあるまいか。
そのきっかけはやはり、親日に殴り込んだときの、リング上での
「こんばんは」
の挨拶だろう。あれくらいアタリマエで、かつあの場において異様な
一言はなかった。普通なら“使えないヒール”として抹殺されてしまったろう。
それが、当時の日本における新感覚ギャグの勃興にぶちあたった。
つまり、お笑いの世界が、それまでの“プロによる作られた笑い”から、
“素人のかもしだすたくまざるユーモア”にトレンドが移行していった
時代だったのだ。『欽ちゃんのドンといってみよう』や『オレたち
ひょうきん族!』などで、コメディアンたちは素人いじりに日々、
精を出していた。そのムーブメントに、木村の“こんばんは”は見事に
ハマったのである。彼もまた、あきらかな“時代の子”だったのだ。

マイク・パフォーマンス・タレントとして有名になったその自分の
アクシデントによる人気を木村は驚いたことにきちんとキャッチし、
『イカ天』のレギュラー審査員の座を得たり、全日に移籍してからは
彼のパフォーマンスがその日の一番の受け、などというときもあった。
「こんばんは」などという、日本人なら誰もが口にする一言で
運命が変わってしまった人間も、木村くらいだろうと思うが、しかし
そのチャンスを逃さなかったのは、流れ者としての悲哀を徹底して
味わった彼が、“印象に残ったものが勝ち”という、ついにリング上で
つかめなかった秘訣を(金網デスマッチはその試合形式が印象に
残ったので、木村自身が印象に残ったのではない)、そこでつかんだ
からだと思うのである。

プロレスの実力は強さだけではない。木村はあのアンドレ・ザ・
ジャイアントを、新人の頃だったとはいえギブ・アップさせた力を持つ。
しかし、しょせんはマイナーなレスラーだった。
力道山時代にわずかに遅れてプロレス入りした(日本プロレスに入った
のが力道山の死去の翌年だった)彼は、すでにスターだった馬場や猪木
の靴を揃えさせられるところからスタートした。彼ら二人は生涯、木村を
格下扱いしたし、木村もそれを当然と思い、その上に行こうとは
思わなかったようだ。上下関係の厳しい角界からプロレス入りした
者の哀しい宿命かもしれない(最初からトップに立った力道山は例外)。
プロレス界で当時ブレイクしたのは長州力の“下克上”だったのだ。
そっちに見事乗ったのは、同じ国際出身のアニマル浜口だった。

人間、どこに居場所を見つけるか、誰にもわからない。
私の知り合いが監督した映画に出演した木村(私もガヤで出演しているので
私と木村は映画で共演したことになる)は、素人っぽさを残しながら
よどみのない見事なセリフ回しで、試写を見た私を感心させた。
すでにタレントとして、馬場や猪木と並ぶ人気者になっていた頃だ。
あの素人っぽさはひょっとして、木村の演出だったのかもしれない
と思う。やっと自分がハマる場所を見つけた木村は、その位置を
努力してたもとうと、真剣に向き合っていたのではないか。
馬場の死去の後、NOAHに移籍し、そこで引退したが、社長の
三沢は“木村さんは終身、NOAHの所属”と言っていた。
居場所がプロレス人生の最後に見つかって、本当によかったと思う。

享年68。早い、とは思うが兄貴の馬場が61歳、鶴田49歳、
国際で一緒だった剛竜馬は51歳、最後に所属したNOAHの社長
三沢も46歳で逝っている。
あの時代のレスラーとしてはまずまず、生きられた方ではあるまいか。
天国で熱い“昭和のプロレス”をくり広げてもらいたい。
黙祷。

同人誌

2010年8月3日投稿

夏コミ新刊出来!

今年の夏コミで販売する新刊が出来上がりました。

まずメインは怪しいモノをとことん愛する俳優・渡辺シヴヲが
その全精力を芝居以上に傾けて(笑)コレクションした怪異グッズ
を一挙公開する写真集
『裏mono語〜ワタナベシヴヲ・コレクション』
B級幽霊画から貴重な本物のオシラサマ、見世物小屋に展示されて
いた河童のミイラのレプリカ、そして生首プラモまで、
その収集の幅の広さには一驚間違いなし!
ヴォルパーティンガーの完全標本など珍品目白押し!

コレクション解説・渡辺シヴヲ
各章解説・唐沢俊一

ゲスト執筆者
渡辺シヴヲについて・木原浩勝
妖怪と博物学についての考察・多田克己
推薦の言葉・京極夏彦

そして
アンドナウの会製作のインタビュー本。

『僕らを育てた本多猪四郎と黒澤明』
『ゴジラ』の故本多猪四郎監督夫人きみさんにインタビュー。
本多監督と黒澤監督との友情、『ゴジラ』製作裏話、
『キングコング対ゴジラ』撮影時のエピソード、
謎のプロデューサー本木荘二郎のこと、
そして本多監督の私生活、晩年等、貴重な証言が満載!
インタビュアー:唐沢俊一

『僕らを育てたウルトラQの時代』

『マンモスフラワー』『甘い蜜の恐怖』等『ウルトラQ』の
初期エピソードの監督にして、『ゴジラ』をはじめ本多猪四郎に
長年右腕としてついた助監督、元東宝テレビ部プロデューサー
梶田興治氏にインタビュー。
『社長シリーズ』、『若大将シリーズ』、本多猪四郎、黒澤明、
エノケン、森繁久彌、東宝のテレビドラマ製作など、当時の作品、
俳優、監督の貴重な裏話が満載。
インタビュアー:開田裕治

例により撤収は早いので(早く打ち上げで飲みたいため)、
お早めにご来訪いただくか、知人・友人に買い上げを頼んで
おくことをお勧めします。

夏コミは15日日曜東地区Oブロック46a『NO&TENKI商会』
に走れ!

日曜東2ホール O−29a『アンドナウの会』でも販売してます!

Copyright 2006 Shunichi Karasawa