池田信夫 blog

Part 2

2007年12月

「丸山眞男をひっぱたきたい」の反響は、単行本が出てようやく世の中に広がってきたようだ。ちょうどDankogai氏からTBが来たので、あらためてこのむずかしい問題を考えてみたい。

Dan氏の表現を私なりに言い換えると、赤木氏の表現はあまりにも否定的で、自分の置かれた状況を肯定するパワーが欠けているということだろうか。たしかに歴史的には、フリーターは「非正規雇用」ではなく、20世紀初頭までは技能をもつ職人が腕一本で職場を転々とするのが当たり前だった。請負契約を蔑視するのも間違いで、これは産業資本主義時代のイギリスでも19世紀の日本でも「正規雇用」だった。しかし第1次大戦後、重工業化にともなって工程が大きな工場に垂直統合され、職工を常勤の労働者として雇用する契約が一般的になった。いわば資本主義の中に計画経済的な組織としての企業ができたのである。

だが今、起こっているのは、この過程の逆転だ。かつては一つの工場の中で完結していた工程が、IT産業ではグローバルに分散し、ほとんどの中間財が世界市場で調達される。かつては一つの「大部屋」で濃密な人間関係によって行なわれた事務処理も、ネットワークで地球の裏側からできるようになった。『不安定雇用という虚像』という調査も示すように、フリーター自身は必ずしも自由な雇用形態を不安定とは思っていない。IT化・グローバル化した現代のビジネスでは、Dan氏のような自由労働者が「正規労働者」で、終身雇用のサラリーマンが「非正規」なのである。

だから赤木氏もいうように、雇用形態による解雇制限の差別を禁止し、すべての労働者を契約ベースの「フリーター」にするぐらいの抜本的な改革が必要だ。年功序列という名の年齢差別も禁止し、年金もポータブルにして退職一時金も廃止し、全労働者を機会均等にすべきだ。同時に職業紹介業も完全自由化し、民間の雇用データベースを充実させる必要がある。このように人的資源を労働市場で再配分することが、OECD諸国で最低レベルに転落した日本の労働生産性を上げるもっとも効果的な手段でもある。

しかし労働市場の改革はむずかしい。資本市場については、少なくとも金融庁は問題の所在を認識しているのに、厚労省は、私に噛みついてきた天下り役人にみられるように、臨時工を正社員に「登用」するパターナリズムを政策目標だと思い込んでいるからだ。彼と同じ政策研究大学院大学(学生より教師の数のほうが多い公務員用ディプロマ・ミル)には、自分の天下りを棚に上げて「若者は我慢を知らない」などと説教する老人もいるが、こういう連中こそ赤木氏と同じ土俵に放り出して、ハローワークで職探しをさせればいい。
2007年12月17日 13:39

古典的自由主義の復権

オンライン・マガジン、reasonの編集者の書いたリバタリアニズムの入門書。副題に"freewheeling history"と書いてあるように、あまり理屈にこだわらず、アメリカの自由主義の歴史を人物中心に追っている。これを読むと、リバタリアニズムは思想や主義というより、アメリカ人のライフスタイルだということがわかる。それが日本で受け入れられない理由でもある。

著者も指摘するように、リバタリアニズムは新しい思想ではなく、合衆国憲法に書かれている古典的自由主義である。ニューディール以後、リベラリズムが政府の介入を求める政治思想をあらわす言葉として使われるようになったため、libertarianismという変な英語(日本語ではいまだに定訳がない)がつくられたが、アメリカの民主党に代表されるイデオロギーは、フェビアニズムの系譜の「社民主義」に近い。

ところが、このアメリカ的な思想に理論的な支柱を与えたのは、オーストリアからやってきたミーゼスとハイエクだった。これは奇妙な組み合わせだが、戦間期のドイツやオーストリアでは全体主義が高まっており、彼らがそれを逃れて英米圏に移住したことと無関係ではないだろう。本書のヒロイン、アイン・ランドもロシアからの移民である。

しかしリバタリアニズムは、なかなか政治の主流にはならなかった。その一つの原因は、それがゴールドウォーターのような南部の保守反動と混同され、戦後の共産圏との「平和共存」を否定し、軍備を増強してソ連との世界大戦をめざす危険思想とみなされたことにある(ちなみに1964年の大統領選で、ヒラリー・クリントンはゴールドウォーターのボランティアだった)。実際にはリバタリアニズムの基本思想は孤立主義であり、自衛以外の目的で他国に出兵することには反対したのだが。

学問的には、1970年代にフリードマンがケインズ政策を理論的に否定し、ハイエクがノーベル賞を受賞したころから流れは変わっていたが、それが初めて政治の世界で認知されたのは、1979年にサッチャー政権が誕生したときだった。このとき彼女がハイエクの『自由の条件』を掲げて「これが私の信じるものだ」と宣言したのは有名なエピソードだ。翌年レーガンが(ほとんどゴールドウォーターと同じ)反ニューディール路線を打ち出して大統領に当選したことで、リバタリアニズムは一挙に主流になった。

本書も指摘するように、リバタリアニズムにはもう一つの源流がある。それは1960年代の対抗文化だ。国家を否定し、自由を求める運動は、もともとアナーキズムとして古くからあり、それはヒッピーが姿を消した後も、アメリカ西海岸の大学で継承された。そして、それが90年代に一挙にグローバルな運動になったのがインターネットである。この意味で、インターネットのユーザーはリバタリアニズムに巻き込まれざるをえない。そのアーキテクチャは、強い個人によるend-to-endのコミュニケーションを原則としているからだ。

いまだに日本では、それを「市場原理主義」などと名づけて拒否する人々が多いが、好むと好まざるとにかかわらず、リバタリアニズム=古典的自由主義は21世紀の基本思想になるだろう。それは個人以外に信じるもののない建国期のアメリカで生まれたことからもわかるように、生産も流通も情報もグローバルに広がり、主権国家が頼りにならない世界で生き延びるには、おそらく唯一の自衛手段だからである。

追記:日本語の手軽なリバタリアニズム入門書としては、森村進『自由はどこまで可能か』をおすすめする。笠井潔『国家民営化論』もおもしろい(絶版だが中古で入手できる)。今年出た蔵研也『リバタリアン宣言』(朝日新書)は、間違いだらけの駄本である。
2007年12月16日 13:56

創造的破壊の条件

一時、日本で流行した「構造改革は清算主義だ」という類の議論のネタ元は、著者の昔の論文だが、本書を読むと、彼の主張はそういう単純な「リフレ派」ではないことがわかる。日本の90年代の長期不況の元凶を「ゾンビ企業」だと指摘したのも、著者なのである。

本書も高度にテクニカルな専門書なので、一般読者にはおすすめできないが、そのテーマであるspecificity(固定性、特殊性)は、日本経済にとっても重要だ。この言葉は、もともと資産特殊性としてWilliamsonによって垂直統合の根拠として指摘され、Beckerによって企業特殊的技能という形で長期雇用の根拠として明らかにされた。こうした資本と労働の固定性が長期的取引の効率を高める一方、ドラスティックな事業再構築を阻み、マクロ的な非効率性を生むというのが本書の主張だ。

固定性を考えない単純なモデルでは、不良債権処理のようなリストラによって企業の効率は上がり、創造的破壊が起こるが、実際のデータでは不況期には起業も減る。それは契約の不完備性による「ホールドアップ」やゾンビ企業への追い貸しなどの固定性によって資金市場が収縮するからだ。したがって不良債権処理で古い企業を退場させると同時に、規制改革などによって固定性を減らし、新しい企業の参入をうながして投資需要を刺激する政策パッケージが必要なのである。

しかし不況期には、既存の企業を守ろうとする政治的圧力が強く働く結果、バラマキ公共事業や資本注入などによってゾンビ企業やゾンビ銀行が延命され、新しい企業の参入が阻害される。これが日本の最大の失敗だった。90年代の日本で、破壊だけが起こって創造が起こらなかったのは、系列関係などの関係的取引による強い固定性が原因だ。こうした古い産業構造を破壊し、まだ生き残っているゾンビを一掃しない限り、日本経済の長期衰退は止まらないだろう。
2007年12月15日 15:29
メディア

匿名ウェブの終焉

Googleがテストを開始したWikipediaに似たサイト、knolが話題を呼んでいる。以前から書いているように、私は現在のWikipediaは「無法者の楽園」に堕していると思うので、競争が起こるのは歓迎だ。特に注目されるのは、このプロジェクトの責任者であるUdi Manber(技術担当副社長)が、knolのコンテンツが署名入りで書かれる点を強調していることだ:
このプロジェクトの鍵となるアイディアは、著者を明記することである。本でもニュースでも学術論文でも、著者がだれであるかは明記されているが、なぜかウェブは著者を明記する強力な標準なしで進化してきた。誰が書いたかを知ることは、読者が内容を判断する上で重要な助けになるとわれわれは信じる。
匿名は、インターネットの原則ではない。初期には、E2Eの原則によってIPアドレスとユーザーは1対1に対応していたし、ネットニュースの投稿も署名入りが基本だった。しかしウェブになるのと同時に、ハンドルネームを使うAOLなどのBBSが大量にインターネットに合流し、ISPのNATでE2Eの対応が崩れたため、匿名が当たり前になってしまったのである。

ウェブの成長期には、匿名性が参加者の心理的な障壁を下げ、規模の拡大に貢献したことは確かだが、今ウェブに必要なのはこれ以上の規模の拡大ではなく、信頼性を上げることだ。Wikipediaから2ちゃんねるに至る匿名サイトが発信する膨大なノイズがウェブ上の言論の質を下げ、「ウェブは怖い」という印象を与えるようになった。その大きな要因は、匿名による誹謗中傷だ。

最近、注目されているFacebookもLinkedInも、実名が原則だ。ブログの成長が減速し、SNSや携帯に移行しているのも、同じ理由だろう。現実には、本当に匿名でないと発言できない重要な情報(内部告発)はほとんどないし、そういう情報はそもそもウェブには出てこない(最近の食品偽造事件のきっかけはほとんど電話による内部通報だ)。匿名で利益を得るのは、質を問わないでアクセスを稼ぎたいサービス提供者だけであり、そのコストは中傷される被害者が負う。

しかし実は、こういう質の低い言説のコストは、サービス提供者も負っているのだ。先日の情報ネットワーク法学会でも指摘されたように、記事の質を保証できないブログには、コンプライアンスにうるさい大企業は広告を出稿しないため、利益が出ない。「バカ」とか「死ね」といった言葉の横に、それに関連する企業として広告が表示されることは、むしろ企業イメージにはマイナスだ。だからmixiは収益を上げているのに、はてなはIPOさえできない。

きのう有罪判決の出た池内ひろ美事件のように、ネット上の脅迫も刑事訴追されるようになり、「犯罪を暗示する表現」を禁じるサイトも増えた。2ちゃんねるのようにアダルトサイトの広告でもうけると割り切らないかぎり、記事の品質管理をしない匿名サイトは市場で淘汰されるだろう。
2007年12月15日 02:04

アルチュセール全哲学

昔、廣松渉のゼミでアルチュセールが話題になると、彼はよく「あんないい加減な読み方を『徴候的』などといって正当化できるなら、文献考証はいらない」と批判していた。アルチュセールのいう「認識論的切断」は、廣松の「疎外論から物象化論へ」という図式と似ていただけに、その読解のずさんさに腹が立ったのだろう。

事実、アルチュセールは晩年(といっても1980年に発狂する直前という意味だが)に書いた「限界の中のマルクス」という未発表の草稿では、初期の議論を撤回する。マルクスの歴史観は、疎外論どころかヘーゲルからも脱却できていない観念論であり、進歩主義的な目的論だと批判し、「自由の国」という透明な共同体としての共産主義はヘーゲルの絶対精神の焼き直しだ――という全面否定に近い評価をマルクスに下すのである。

彼は『資本論』の価値論も(英米の経済学者が指摘するように)論理的な矛盾をはらんでいるとし、その原因をマルクスが「端緒からの疎外」というヘーゲル的な図式を古典派経済学と接合し、主体=実体としての労働に本質を求めた点にあると批判する。さらに国家を単なる「上部構造」とみなすマルクスの国家論も、イデオロギーの本質的な機能を見誤った経済決定論だとした。そして最晩年にはマキャヴェリについての膨大な草稿を遺したまま突然、妻を扼殺し、狂気の闇に沈んだのである(*)

デリダの『マルクスの亡霊たち』は、この晩年のアルチュセールを踏襲している。資本主義の「亡霊性」を明らかにし、国家をイデオロギー装置として「脱構築」したマルクスへの「負債」は認めつつ、その根底にあるヘーゲル的形而上学を否定するアルチュセール=デリダの読解の延長上にしか、21世紀のマルクス理解はありえないだろう。それはマルクスを継承すると同時に清算することでもある。

本書は、1997年に出版された『アルチュセール 認識論的切断』という本の文庫版だが、よくある「構造主義的」なアルチュセール解説ではなく、死後に発見された膨大な未発表の原稿を踏まえ、その思想的な自殺までを追ったドキュメントである。著者も今年、死去したので、これが遺著になった。

(*)晩年のアルチュセールの論文は『マキャヴェリの孤独』に収められている。
2007年12月13日 22:25
科学/文化

Metheny/Mehldau

今年も「ベスト**」の季節だが、Down Beat誌の読者投票の"Jazz Album of the Year"は、"Metheny/Mehldau".メンバーから想像つくとおり、昔のBeyond the Missouri Skyとよく似た、静かなデュエットだ。私は、このごろCDはみんなMP3ファイルにして、仕事をしながらBGMで流しっぱなしにしているので、こういうのがいちばん能率が上がる。

ロックのほうでもいろんなベストが出ているが、私のベストは"In Rainbows"だ(今はもうダウンロードはできないのでCDのみ)。来年はこういう流通面でも、もっと創造的な試みが出てきてほしいものだ。
2007年12月12日 23:14
IT

電波政策の戦略建て直しを

きょう開かれた電波監理審議会では、2.5GHz帯についての諮問(事業者選定)が行なわれるといわれていたが、見送られたようだ。きょう答申の出されたIPモバイルの事件にみられるように、総務省の審査は失敗続きだ。これで空いた2GHz帯も含めて、仕切りなおしてはどうか。

さらに問題なのは、2011年の「アナログ放送終了」にともなって空くことになっているVHF帯と、UHF帯の整理で空く700MHz帯だ。総務省では業者の「研究会」が行なわれており、VHF帯では放送業界が「われわれの帯域だ」と主張してISDB-T(ワンセグ)に割り当てることを主張し、700MHz帯はMediaFLOに割り当てられる方向だ。しかしISDB-Tは世界から孤立した「日の丸規格」であり、MediaFLOについてはKDDIとソフトバンクの足並みが乱れてサービス開始が遅れている。

何より問題なのは、研究会という名目で、水面下の「一本化工作」が行なわれていることだ。公的資産(総額で数兆円規模)の譲渡について、このように談合が行なわれるのは、独禁法にふれる疑いがある。特に700MHz帯は、アメリカでもグーグルなどに割り当てられ、まったく新しい技術が出てくることも予想される。たとえ今、最善の技術を選択したとしても、市場や技術は急速に変化しており、5年先、10年先に何が正解になるかはだれにもわからない。かつてPDCという日の丸規格を選んだ結果、日本の携帯電話業界が世界の孤児になった失敗を繰り返してはならない。

今のように技術が急速に変化しているときは、なるべくオプションを広げることが重要だ。PCやインターネットが出てきたとき、「何に使うのかわからない」といわれたが、それが成功したのは、何にでも使える汎用技術だったからだ。その意味で、アメリカでも日本でも「オープン化」が議論されているのは重要な変化である。サービス層とインフラ層を水平分離し、帯域はインフラ卸としてキャリアに割り当て、サービスはMVNOに自由に参入させることが合理的である。

だから美人コンテストでも技術は審査せず、帯域をどれだけMVNOに開放するかといった技術中立的な基準で審査を行なうべきだ。また将来ほかの技術が有利になった場合には変更できるオプションも与えることが望ましい。もちろん一番いいのは、用途も技術も特定せず、オークションで帯域だけを割り当てる帯域免許である。この場合、電波を転売する二次市場も整備する必要がある。経済財政諮問会議で日本経団連の御手洗会長などが出した意見書でも、「電波の二次取引市場の創設」を提言している。これは当然、一次市場=周波数オークションが前提だ。

失敗続きの電波行政のおかげで、日本の携帯電話メーカーは11社あわせて世界市場シェアの9%と、絶滅の淵に立っている。その危機感は総務省も共有しているようだが、それをICT国際競争力会議という時代錯誤の産業政策で挽回しようとしている。けさの日経新聞にも、それに翼賛するPR特集が出ているが、これは20年前に通産省が犯した失敗の繰り返しになる。行政が技術を選択して「官民の総力を結集」するのではなく、グローバル市場での競争によって最適な技術と企業が選ばれるような制度設計が必要である。

今回、2.5GHz帯の決定を先送りしたのは賢明な選択だ。総務省はこの際、2GHz帯や1.7GHz帯だけでなく、VHF帯や700MHz帯も含めた総合的な戦略を建て直し、オークションを含めた電波政策の抜本的な改革を考えるべきだ。これだけ大幅な電波の再編のチャンスはもう二度と来ない。
2007年12月09日 15:54
IT

ムーアの法則の歴史的帰結

私の新著は、まだ本屋には並んでいないが、アマゾンで先行発売されたようだ。さっそくDankogai氏からTBがついているので、少し補足しておこう。

ムーアの法則による「コスト低下のスピードが遅くなっている」という実感は、彼のようにサイバースペースのど真ん中で仕事をしている人には当然だろう。問題はむしろ、「こちら側」ですらなく、情報産業の「外側」にいる大多数の人々に及ぼす影響だ。拙著(p.93~)でも書いたように、コンピュータは電力のような汎用技術なので、それを利用した応用技術が発達しないと、真のインパクトは見えてこない。アメリカで最初の発電所ができたのは1870年代だが、電力使用量が蒸気機関を上回ったのはその50年後である。

コンピュータの場合、集積回路の発明された1960年から数えても50年たっておらず、すべての本の情報のうちデジタル化されたのは5%にすぎない。狭義の情報産業を超えた影響が出てくるのは、これからだ。その社会的インパクトは電力より大きく、おそらく1450年ごろグーテンベルクが開発した活版印刷に匹敵するだろう。それがどれほど大きく世界史を変えたかは、アイゼンステイン『印刷革命』にも書かれているが、主な影響は次の3つだ:
  • 口語訳聖書が広く民衆に行き渡ることで、それまでカトリック教会に独占されていた知識が信徒にも共有されるようになり、宗教改革が起こった。
      →宗教改革は宗教戦争をもたらし、100年以上にわたって続いた戦争で西欧世界は荒廃し、分裂した。その「休戦協定」としてできたウェストファリア条約(1648年)で近代的な主権国家が成立した。
  • かつては親方から弟子に「秘伝」として口頭で伝えられていた技術的知識が文書として残るようになり、同様に文書化されるようになった科学的知識と融合することで、17世紀の科学革命が起こった。
      →こうした実証的知識の蓄積がイノベーションを促進し、18世紀の産業革命をもたらした。
  • 各地方でばらばらだった言語が、活字によって「国語」として標準化されたため、「想像の共同体」としての近代国家が成立し、ナショナリズムが生まれた。
      →これが対外的な拡張主義となり、産業革命による軍事技術の発達と結びついて、植民地を争奪する帝国主義による大規模な戦争を引き起こした。
・・・というわけで、帝国主義は除外するとしても、活版印刷の影響は300年後の産業革命まで及んでいる。それになぞらえると、現在はルター訳の新約聖書が出版された1522年ぐらいの段階だろう。ここまでは予想のつく展開で、おもしろいのはこれから起こる本当の情報革命だ。それは必ずしもいい方向ばかりではなく、宗教戦争のように破壊的な出来事をもたらすかもしれない。

私の印象では、かつて宗教改革の標的となったカトリック教会に対応するのは、グローバル資本主義の根本原理である所有権のドグマ、特に「知的財産権」という疑わしい権利だと思う。これは国際条約で守られているので、打倒するには世界規模の闘争が必要だが、それはかつての戦争のように物理的な破壊をともなう必要はない。情報を共有することによって富を創造する新しい企業を圧倒的に多くのユーザーが支持し、既得権にぶら下がる古い企業を市場から追い出せば、政治家も官僚も「レジーム転換」せざるをえなくなるだろう。

ただ、このグローバルな政治=経済闘争は容易ではない。旧体制は国際的に結託しているので、それに対抗するには(デリダのいう)「新しいインターナショナル」が必要かもしれないが、そういう組織は今のところ、サミットの開催地でデモをするような幼稚なものしかない。産業革命のころより変化のスピードが上がっていることを勘案しても、今世紀中に決着がつくかどうか。たぶんDan氏も私も、生きているうちに「本当の革命」の結末を見ることはないだろう。
2007年12月08日 23:20

経済変動の進化理論

c96068bf.jpgついでに、最近やっと訳本が出た「非主流派経済学」の古典も紹介しておこう。

本書の原著が出たのは1982年で、「進化経済学」の元祖として読み継がれてきた。ここでは企業は普段はルーティンに従って保守的に行動するが、競争によってその生存が脅かされると、いろいろな試行錯誤を試み、生産性を上げた企業が生き残る。特に重要なのは、イノベーションという「突然変異」である。ここでも企業家精神などの「シュンペーター的競争」の概念が中心的な位置を占め、ナイトやハイエクなどのオーストリア学派が進化経済学の先駆者としてあげられている。

こうした進化経済学は、日本でも学会ができているが、主流にはならなかった。ネルソン=ウィンターの新古典派成長理論に対する批判は正しいのだが、それに匹敵する体系的な理論にはならなかったからだ。イノベーションを成長理論に取り入れる試みも、90年代に内生的成長理論という新古典派を発展させる形で成功したので、進化モデルは忘れられてしまった。

原著から25年もたって訳本が出るのは、これまで主流だった合理主義的な経済学が行き詰まったからだろう。しかし、この種の「複雑系」や「進化」の理論は、これまでにも10年おきぐらいに流行しては消えてゆき、あまり成果が蓄積されていない。そのため、かつて試みられて袋小路に入った話を新理論と思い込んで開陳する人がいるが、「車輪の再発明」をしないためにも、本書ぐらいは読んでおく必要があろう。

ネルソンは「テクノロジーの経済学」の開拓者でもあり、「特許が技術革新を促進する」という通念には批判的だ。彼などの行なった大規模な実証研究では、アメリカのプロ・パテント政策は技術革新を阻害したという結果が出ている。大学に特許権を与えて「産学協同」を推進しようとするバイ=ドール法は、自由な学問的交流を阻害し、訴訟を頻発させた。進化には多様性が大事であり、知識を特許で囲い込むことは「知の外部性」を減殺し、かえって大学の生産性を下げるのだ。今ごろ時代錯誤の「知財立国」を掲げる官僚諸氏には、本書でも読んでもう少し経済学を勉強してほしいものだ。
2007年12月08日 13:24

Imperfect Knowledge Economics

本書はきわめてテクニカルな専門書なので、一般向けではないが、フェルプスの序文だけでも読む価値がある。彼は、一般的には「合理的期待論」の元祖と考えられているが、ルーカスやサージェントなどの超合理主義は、初期条件で決まったとおりに動く全知全能のロボットの動きを記述しているようなもので、資本主義の本質である創造性を無視していると批判し、ナイトやケインズのように人々の認知的な活動を基礎にして経済学を再建すべきだと論じている。

サージェントも認めるように、合理的期待論の出すシャープな定量的予測は、すべてのエージェントが経済全体について永遠の未来までの正確かつ同一の知識を共有しているという特殊な共産主義的モデルに依存しており、人々の予測や効用関数が互いに異なると、何もわからなくなる。現実にも、合理的期待やその最新ファッションとしてのDSGE(動学的一般均衡)モデルでは、実証データをほとんど説明できない。DSGEは「ベンチマーク」であって、それを現実にあわせて修正すればよいという経済学者もいるが、天動説をいくら修正しても地動説にはならない。

本書は、行動経済学にも批判的である。それは効用関数を実験的に検証された「価値関数」で置き換えただけで、人々の行動は事前にすべて決定されている。重要なのは、ハイエクの指摘したように、人々がもつ断片的な知識を市場で修正しながら経済全体で利用する知識の分業(division of knowledge)である。このように人々が不完全な知識しかもたないために市場による情報交換が必要になるのであり、最初からすべての人々が神のような知識をもっていれば、それこそ共産主義でよいのだ。

問題はそういう主観的経済学が、新古典派のような包括的な体系になるかどうかだろう。本書の後半は、外国為替市場の価格変動について合理的期待よりも不完全知識モデルのほうが説明力が高いことを示しているが、それで終わってしまっている。ただ、これまでの合理的期待への批判が観念的なレベルにとどまっていたのに対して、それに代わる定性的なモデルを数学的に導出しているところは一歩前進だ。

超合理主義が行き詰まった今、こうした数理経済学者まで口をそろえて「ナイト、ケインズ、ハイエクに帰れ」といいはじめたのはおもしろい。こういう主観的経済学で学問的な(自然科学のスタイルをまねた)論文を書くことは可能だし、アメリカの研究者はそういう方向に急速にシフトしている。ところが日本では、そういう新しい方法論を教える先生がいないので、大学院生もまだ古臭い神学的理論ばかりやっているようだ。今の日本経済にもっとも必要とされるのが創造性なのに・・・

追記:来週発売の『週刊東洋経済』は経済学の特集で、私も2ページ書いたが、出てくる原稿は行動経済学や進化心理学などの話ばかりだったそうだ。なお私は来春、ハイエクについての本をPHP新書から出す予定。
独立行政法人の整理・合理化をめぐる閣僚折衝は難航しているようだが、けさの新聞に各省庁ごとの回答の一覧が出ている。その中で、あれ?と思ったのは、経産省所管の「他機関と統合」すべき独法のリストに経済産業研究所(RIETI)があり、経産省が「回答保留」していることだ。

RIETIは、もともとは通産研という通産省の一部局で、本流から外れたキャリア官僚の行く「姥捨て山」だった。省庁再編を機にこれを改革し、独立性を高めて霞ヶ関全体に対して政策提言する機関にしようと、当時の青木昌彦所長と松井孝治主任研究官(現・民主党参議院議員)などの努力で2001年に設立されたのがRIETIである。研究員が所内のコンセンサスを得ないと外部に研究発表できない慣例を廃止し、個人の責任で発表するという原則によって、国際的にも高い学問的評価を受けた。

ところが経産省の政策を批判する研究員が出てくると、本省から「黙らせろ」という干渉が行なわれるようになった。特に2003年、私が個人情報保護法に反対する緊急アピールを20名の賛同者とともに発表すると、これが国会で取り上げられ、窮地に陥った経産省は研究所に懲戒処分を求めた。これに対して研究所側は強く反対したが、結局、岡松壯三郎理事長(元通産審議官)・青木所長と私が処分を受けた。このあと、研究員の対外発表はすべて「検閲」を受けるようになり、電子メールも傍受して本省に送られるようになった。

こうした言論弾圧の張本人が、当時の北畑隆生官房長(現・事務次官)である。彼は岡松理事長に圧力をかけ、青木所長を更迭するとともに「青木派」の研究員を追放するよう求めた。結果的に2004年、青木所長は辞任し、同時に彼にまねかれて外部から来た研究員のほとんど(私を含む)が辞めた。この後に残った青木派の研究員も、研究プロジェクトに経費が支給されないなどのいやがらせを受け、ほぼ全員が辞めた。

青木氏の後任には吉富勝氏が着任したが、彼が病に倒れたため、所長不在の状況が続いた。経産省は、いろいろな学者に所長就任を打診したが、RIETIの崩壊は経済学界に広く知れ渡っているため、引き受け手がなく、やっと今年になって現在の藤田昌久所長が兼務の形で就任した。しかし研究所の実権は、本省から出向した理事長と研究部長が握っており、研究員もほとんどが出向になり、昔の姥捨て山に戻ってしまった(「ファカルティ・フェロー」という非常勤研究員で水増ししているが、官僚以外の専任研究員は数人)。

RIETIは当初から、内閣府の経済社会総合研究所(ESRI)、財務省の財務総合政策研究所との重複が問題になっていた。しかし独立行政法人評価委員会の中間評価では、後の二つの研究所が「出向者ばかりで独立性が低い」として評価が低かったのに対し、RIETIは「独立性が高く、霞ヶ関のシンクタンクとしての役割を果たしている」として最高のAランクを得た。だが今では、その実態は残りの二つとほとんど同じで、特にESRIとはどこが違うのかわからない。ESRIには国民経済計算などのマクロ統計をとる重要な業務があるが、RIETIにはそういうコア業務もないので、研究員を整理してESRIに吸収合併するのが妥当だろう。

RIETIは、霞ヶ関を改革する制度設計の「実験」だったが、致命的な失敗は理事長に天下りをすえたことだ。設置法をよく読むと、人事や予算などの最終決定権はすべて理事長が握っており、経産省の省益に反する研究は弾圧できるシステムになっていたのだ。ESRIの初代所長だった浜田宏一氏も「役所の顔色を伺う出向研究員ばかりでは、まともな研究はできない」とあきれて、2年で辞めてしまった。今やRIETIもESRIも実態は役所の下請けなのだから、合併して「研究ゼネコン」とでも改名したらどうか。
2007年12月06日 01:45

ケインズの思想

ケインズは、疑いもなく20世紀のもっとも重要な経済学者だが、現在の経済学界では、その影響はマクロ経済学の入門書以外にはほとんど残っていない。学部でIS-LM図式などを勉強した学生は、大学院ではそれがもう過去の理論だと教えられ、まったく別の「新しい古典派」理論を学ぶ。そこには、非自発的失業も名目賃金の硬直性もない。

しかしケインズの『一般理論』(ウェブで全文が読める)を読んだ人は、ここからどうやってIS-LMが出てきたのか不思議に思うだろう。その翌年、いろいろな批判に答えてケインズが『一般理論』のエッセンスを15ページにまとめた論文では、彼は一貫して不確実性こそ自分の理論のコアであることを強調し、均衡理論的な解釈を拒否している。

投資水準は資金需給の均衡ではなく、予測不可能な未来についての投資家の心理で決まるので、それが完全雇用を実現する保証はない。他方、その資金をもつ資産家は、不確実性を恐れて現金を保有する流動性選好をもつので、この分だけ金利が高くなって過少投資が起こる。行動経済学的にいえば、不況や失業を引き起こすのは、こうした金利生活者の不確実性回避的なバイアスなのである。したがってケインズは、こういう状況では(バイアスから自由な)政府が有効需要を創出する政策が必要だと考えたが、政府にもバラマキを好むバイアスがあるので、最近ではこうした「ケインズ政策」はとられなくなった。

ケインズも財政出動は短期的な対症療法だと考えていたが、では長期的な解決策は何かという問いには明確に答えていない。著者は、それはケインズを超えた「資本政策」だとするが、この内容は弱い。これは私なりに言いなおせば、資本効率と労働生産性を高める政策だろう。リスクは金融工学でヘッジできるが、不確実性はできない。不確実性を減らすために必要なのは、経済の安定や財産権を保護する制度であり、不確実な未来にチャレンジする「アニマル・スピリッツ」を高める資本市場の改革である。

資本主義のエンジンが、リスクをとって利潤を追求する企業家精神だという点では、ケインズもナイトもシュンペーターも(そしてマルクスも)一致している。それが欠けていることが日本経済の最大の問題だが、標準的な経済学はこれに何も答えてくれない。経済学はもう一度、不確実性を分析したケインズの『確率論』あたりから出直したほうがいいのではないか。
私の今年2冊目の本が、アスキー新書から来週出る。序文をそのまま引用しておく:

現代では、だれもコンピュータなしで暮らすことはできない――というと、「私はコンピュータなんかさわったこともない」という人もいるだろう。しかし日本の携帯電話(PHSを含む)の契約数は1億台を突破し、ほぼ1人に1台がもっている。その中には通信などの機能をつかさどるシステムLSI(大規模集積回路)が入っており、これは数センチ角の小さな半導体だが、CPU(中央演算装置)やメモリをそなえた、立派なコンピュータである。
 
この携帯電話用LSIに集積されているトランジスタの数は、最新機種では8800万個にのぼる。これは、1955年にIBMがトランジスタを使って最初に開発した大型コンピュータに使われたトランジスタ数、2200個の4万倍である。かつてはコンピュータ・センターを占拠していた巨大なコンピュータの4万倍の機能が、あなたの持つ携帯電話に入っているわけだ。

このように、ここ半世紀ほどの間にコンピュータ産業で起きた変化は、だれにも予想できない急速なものだった。かつてIBMの創立者トーマス・ワトソンは「コンピュータの世界市場は5台ぐらいだろう」と予想したが、いま世界にあるコンピュータの数は5億台を超えている。携帯電話や家電などに埋め込まれたマイクロチップを含めれば、数百億個のコンピュータが世界中にある。
 
この変化は、1990年代から特に加速したようにみえる。その原因はインターネットの普及である。インターネットそのものは1970年代からあったが、主として大学や研究所のミニコンピュータで使われていた。それが80年代から始まったパソコンの普及とあいまって一般家庭でも使われるようになり、1990年代から急速な広がりを見せ始めたのである。少なくとも先進国では、すべての人がコンピュータとネットワークでつながる時代が、現実になろうとしている。
 
この尋常ではない変化のスピードの原因は何だろうか? 20世紀の重要な発明としては自動車やテレビがあるが、自動車の馬力が何万倍に上がったとか、価格が何万分の1になったという話は聞かない。テレビは、その誕生以来まったく変わっていない。「デジタル放送」が始まっているが、それは後にみるように、情報技術の進化から横道にそれた、袋小路の技術だ。コンピュータだけが、桁外れのスピードで進歩し続け、しかも次々に新しいイノベーションを生み出している。
 
しかし急速に変化するコンピュータの世界で、40年以上変わらない事実がある。「半導体の集積度は18ヶ月で2倍になる」という経験則である。インテルの創業者ゴードン・ムーアが1965年に提唱したこの法則は、もちろん自然法則ではないので、理論的必然性があるわけでもないし、それがいつまでも続く保証はないが、この40年以上、半導体の性能はムーアの予想どおり上がり続けている。
 
このように指数関数的な技術進歩が40年以上も続いたことは、技術の歴史に例をみない。そのもたらす変化は、産業構造や経済システムまで変える深いものだ。それは必ずしも「ユビキタス」とかいうバラ色の未来像ではなく、多くの企業がこの法則を利用して急成長する一方、さらに多くの企業がこの法則の破壊力を見誤って消えていった。

この法則は、あと10~15年は続くと予想され、関連する技術も同じように急速にコストが低下している。あらゆる情報がデジタル化される原因は、ムーアの法則によって情報処理コストが急速に低下しているからだ。したがって、この法則が何をもたらすかを考えれば、予想しにくい情報産業の未来を予想することも不可能ではない。そして情報産業は今や全産業の中核だから、これによって経済がどう変わるかを予測することも、ある程度はできるかもしれない。ムーアの法則は、先の見えない情報社会の未来を映す、たった一つの「水晶球」なのである。
 
本書は、私の博士論文『情報技術と組織のアーキテクチャ』で理論的に論じた問題をやさしく解説し、ムーアの法則からどんな未来像が見えるかを予想してみたものだ。第1章では、この法則が成り立つ技術的な原因を解説しているが、技術的な話に興味のない読者は飛ばしていただいてもよい。第2章は、ムーアの法則がもたらす変化を9項目にわけて予想し、第3章ではそれにどう対応するかを考えた。このデジタル経済の法則を知っておくことは、ビジネスや生活の未来を考える上で何かの役に立つかもしれない。それでは、この水晶球に何が映っているかを見ることにしよう。

目次(詳細な目次

  • 序章 ビッグ・ブラザーの死

  • 第1章 ムーアの法則とは何か
    1. トランジスタからICへ
    2. ゴードン・ムーアの予言
    3. コンピュータという万能機械

  • 第2章 ムーアの法則で何が変わるか
    1. 情報インフラはコモディティ化する
    2. 問題はボトルネックだ
    3. 人間がボトルネックになる
    4. 情報は個人化する
    5. 垂直統合から水平分業へ
    6. 業界の境界はなくなる
    7. 中央集権から自律分散へ
    8. 系列関係から資本の論理へ
    9. 国際化からグローバル化へ

  • 第3章 ムーアの法則にどう対応すべきか
    1. 情報コスト1/100の世界を想定する
    2. 水平分業で生き残るには
    3. ものづくりからサービスへ
    4. 産業政策から資本市場へ

  • 終章 孤独な世界の中で

アメリカの700MHz帯の周波数オークションが締め切られた。何といっても注目されるのは、グーグルが応札したことだ。資金力から考えて、彼らが落札することは確実だが、グーグルがこの帯域で何をしようとしているかは謎だ。FCCに対して「非伝統的な電波利用」も認めろと求めていることからみると、たとえば落札した帯域を免許不要で開放し、Androidを使っていればどんな端末でもOK、といった奇抜なことを考えているのではないか。

周波数オークションは、一昔前の垂直統合型の携帯電話の時代の制度なので、グーグルが提案しているように、端末のオープン化やMVNOによってサービスとインフラを水平分離することは、重要な制度改革である。それに対応したFCCの柔軟性も、立派なものだ。これに比べて、日本では今度、2.5GHz帯で初めて美人コンテストが行なわれるというトホホな状況だが、昔の政治家による「一本化」よりは一歩前進か。

きょう行なったICPFの緊急シンポジウムは、告知から1週間もなく、3社から出席を拒否されて、どうなることかと思ったが、100人以上が参加する大盛況で、この問題への強い関心を実感した。ここでもオークションが話題になったが、専門家にも誤解があるようなので、基本的な事実を確認しておく。

オークションで取られる免許料が「料金に転嫁されてユーザーの負担になる」というのは錯覚である。免許料は、落札の直後に全額、現金で払い込むサンクコストだから、サービス料金には無関係である。料金は限界費用(運用にかかる変動費)と等しいところで決まるので、サンクコストは価格決定の方程式に入ってこないのだ――と書いても、経済学者以外には納得できないと思うので、Klempererの入門書(p.172)に書いてある具体例で考えよう。

オークションで払う免許料は、賃貸マンション業者の買う土地のようなものだ。どんなに高い土地を買っても、その地価が家賃に転嫁されることはありえない。相場より高い家賃をつけても、借り手がつかないだけだ。逆に、その土地を(相続などで)無料で仕入れたら、不動産業者は家賃を安くするだろうか。業者は相場と同じ家賃を取り、地価はまるまる彼の利益になるだろう。つまり料金は市場で決まるので、免許料は業者の利益に影響を与えるだけなのだ。

このように市場が競争的であれば、サンクコストを転嫁することはできないが、現実には携帯電話市場は寡占的なので、業者は談合して転嫁するかもしれない。しかし、これは価格カルテルという違法行為である。実際には、オークションで配分した国と美人コンテストで配分した国とを比べると、前者の料金のほうが安い。オークションによって通信業界と無関係な(今回のグーグルのような)異分子が参入し、談合を無視して低料金を出すからだ。このように新しい企業を参入させて競争を促進することがオークションの最大のメリットである。

莫大な免許料が携帯電話業者の経営を圧迫するという批判もあるが、いやなら応札しなければよい。もうかると思うから応札するのであって、損を覚悟で免許を取得する企業はありえない。もちろん事後的には、2000年の3Gオークションのように「勝者の呪い」によって経営が破綻する業者も出るかもしれないが、その場合には免許を別の業者が(場合によっては企業ごと)買収すればよい。「免許料で損する業者がいるからオークションをやめるべきだ」というのは、「株で損する人がいるから株式市場を廃止すべきだ」というのと同じ論理だ。

周波数オークションに反対する経済学者の議論としては、Eli Noamの「オークションは戦略産業である通信産業に対する巨額の課税だ」という批判があるが、逆にいえば無償で配分することは通信業界への巨額の補助金である。日本でいちばん利益率の高い携帯電話業界に補助金を出す必要があるのだろうか。

以上は、ほとんどの経済学者のコンセンサスである。不幸なことに、霞ヶ関ではこの程度の常識もない人々が電波を配分しているようだが、ミルグロムの本は高級すぎるとしても、せめてKlempererの本ぐらい読んでほしいものだ。

追記:CNETに、このシンポジウムの記事が出ている。松本氏の講演資料議事録もICPFのサイトに載せた。
2007年12月03日 11:47
メディア

視聴者もストライキを

TechCrunchによると、アメリカの脚本家のストライキは泥沼化の様相を見せているようだ。それでも、テレビの脚本の再放送料が1本2万ドルというのはすごい。日本の構成作家は、本放送でもこんなにもらえない。特にひどいのは民放で、下請けや孫請けにピンはねされて、演出料や脚本料は数十万円がいいところだ。前にも紹介した「あるある」のように、スポンサーの払う1億円のうち、孫請けプロダクションには860万円しか渡らないからだ。

最近は、搾取の中心が「下流」のテレビ局から「上流」の芸能事務所に移っている。もしジャニーズ事務所と吉本興業とオフィス北野がストライキをやったら、民放の夜の番組は3割ぐらい消えるだろう。制作能力のなくなった民放が、番組を企画段階から芸能事務所に丸投げしているため、彼らがいないと何もできないのだ。私もかつてオフィス北野に出演交渉をしたことがあるが、「たけしが企画した番組しか出ない」とのことで、断念した。NHKでは、そういう作り方は基本的に許されないからだ。

こうなると内容はすべて芸能事務所が仕切るので、民放は「電波料」をピンはねするだけのゼネコンのような存在になる。特にジャニーズ事務所は「肖像権」の管理にうるさいため、地上波以外の再放送は禁止だ。これはプロデューサーにすべての権利が集中し、彼らが「ウィンドウ管理」を行なって番組を売買する市場が発達しているハリウッド・システムに近づいているともいえる。

しかしアメリカでは、FCCのFin-Syn Rule以来の慣行で、ハリウッドのつくった番組にテレビ局は著作権をもてないのに対し、日本ではウィンドウの一つにすぎないテレビ局が著作権をもっていることが権利処理をややこしくし、番組の市場が成立しない。おまけに彼らが著作権を楯にとって「再送信同意」を行なわないため、IP放送ではいまだに地上波が再送信できない。これは放送局の特権を温存した形で著作権法を中途半端に改正した文化庁の責任だ。

このように流通業者が二重三重にピンはねするゼネコン構造が、クリエイターの報酬を減らすばかりでなく、その創造性を奪い、特定のタレントのキャラクターに極端に依存した番組づくりが横行している。たけしやさんまの番組の台本は、どこにCMが入るかというQシート1枚だけで、構成も演出もない。大阪ローカルの番組に至っては、紙さえない。かつて浜村淳さんと仕事をしたとき、彼はNHKの番組に取材用台本があることに感動して、「大阪のテレビ番組は、芸人が勝手にしゃべるだけのラジオ番組や」といっていた。

民放にいわせれば、こういう安易な番組づくりも「数字が取れるのだから仕方がない」ということになる。そういう番組を見る視聴者が悪い、というわけだが、選択肢がそれしかないように政治家を使って電波利権を独占してきたのは地上波局だ。だから彼らに対抗するには、視聴者が「ストライキ」をやってテレビを拒否し、YouTubeやJoostやGyaoなどを見ればいい(私はテレビはニュース以外は見ない)。万国の視聴者、団結せよ!
2007年12月02日 14:17

音楽と政治

日本には、客観的な音楽批評が成立していない。レコード会社に勤務する友人の話では、営業の大事な仕事は音楽評論家の先生を接待し、ライナーノーツを書いてもらって「原稿料」として多額の賄賂を出し、音楽雑誌でほめてもらうことだという。そもそもライナーを書いた人物が堂々とそのCDの批評を書く音楽雑誌なんて、世界のどこにもない。

その結果、『レコード芸術』などでほめられる指揮者や演奏家は、20年ぐらい前からほとんど変わらない。フルトヴェングラーやベームなどの巨匠の「名盤」がいつまでも推薦される一方、古楽器などの新しいスタイルはほとんど紹介されず、現代音楽は無視に近い。これに対して、海外(特にアメリカ)の批評の特徴は、20世紀の音楽に大きなスペースをさいていることだ。本書は、New Yorkerの批評家が現代音楽をその歴史的背景との関係で論じたもので、「音楽からみた20世紀の歴史」ともいえる。

音楽と政治の関係は、意外に深い。古典派の音楽のほとんどは宮廷音楽としてつくられたものだし、ヒトラーがワグナーやリヒャルト・シュトラウスを政治的に利用したことはよく知られている。スターリンは、ショスタコーヴィッチを「形式主義」として批判し、彼は危うく粛清されるところだった。本書によれば、シェーンベルクなどの「新ウィーン楽派」が調性を否定したのは、ナチに対する抵抗の意味もあったという。戦後のアメリカで現代音楽が現代絵画とともに盛んになったのも、こうした古いヨーロッパ的伝統への反抗だった。

ただ、20世紀後半の音楽の主流になったポピュラー音楽への言及がほとんどないのは、物足りない。ビートルズがシュトックハウゼンの影響を受け、"Sgt. Pepper"のジャケットにその顔が出ているという類の話は、単なるトリヴィアだ。また、ほとんどの人が聞いたことのない現代音楽を案内するディスコグラフィもほしいところだ(*)。私の個人的なベストは
  1. Sch?nberg: Piano Music (Pollini) 廃盤
  2. Stravinsky, Prokofiev etc.: Piano Works (Pollini)
  3. Webern: Complete Works (Boulez) 廃盤
  4. Reich: Different Trains (Kronos Qt. & Pat Metheny)
  5. P?rt: Tabula Rasa (Keith Jarrett etc.)
1は私の「無人島の1枚」だが、一般向けではないので、初めての人には2をおすすめする。3も「全集」と聞いて敬遠する人が多いだろうが、3枚しかなく、意外に聞きやすい。4、5はポピュラー音楽ファンにも、メセニーやジャレットのCDとして聞けるだろう。なおレコードガイドも、日本で出ている「名盤ガイド」の類は、レコード会社のカタログと思ったほうがよい。信頼できる批評を読むなら、Gramophoneのガイドをおすすめする。

(*)注のうしろに1ページだけsuggested listeningがあった。上位は、コメント欄で紹介されている著者のウェブサイトのものと同じ。
2007年12月02日 01:20

オープンビジネスモデル

昔、NTTの人にこんな話を聞いたことがある:1970年ごろ、研究所でデータ通信として2つの方式が実装された。一つはX.25のようなコネクション型で、これが電電公社の「データ通信」になった。もう一つは、コネクションレスのデータグラム(パケット)型だった。TCP/IPが実装されたのは1972年ごろだから、これは世界で初めて実際に動いたパケット通信だった。彼は「せめて両方やらせてほしい」と上司に提案したが、データグラム型の開発は中止された。あのまま進めていれば、NTTがインターネットの生みの親になっていたかもしれない。

NTTに限らず、日本の大企業には「中央研究所」で基礎研究から製品開発までやるところが多いが、本書はそうした「クローズド・イノベーション」の時代は終わったと論じている。その一つの欠陥は、上の例にみられるように、経営者が研究開発をコントロールするため、false positiveに資金を浪費することが少ない一方、将来性のある技術をfalse negativeにしてしまうことだ。世の中を変えるような破壊的イノベーションは、最初はちゃちな技術であることが多い。

こうした中央研究所モデルでは、博士号をとった優秀な人材を囲い込み、自前で最先端の技術を開発し、それを特許で守って独占するproduct out方式がとられるが、これは現代のIT産業では失敗することが多い。特にインターネットで成功するために重要なのは、技術よりもビジネスモデルである。またアメリカでは技術者の移動が容易で、ベンチャーキャピタルなどの外部資金が豊富なので、もっとも優秀な人材は制約の多い大企業の研究所を飛び出して起業することが多い。

成功している「オープン・イノベーション」は、この逆だ。たとえばシスコは、製造技術を自前でもたず、工場ももたない。その代わり世界中ですぐれた技術をもつ企業をさがし、提携や買収によって外部の知識を取り入れる。他方、成果として出てきた技術はIETFなどで公開して世界標準にし、自社の製品が世界中で使えるようにする。特許も積極的にライセンスし、逆に外部から買える技術は自社で開発しない。

しかし日本では、オープン・イノベーションは生まれにくい。今週のEconomist誌の日本特集も指摘するように、外部労働市場や資本市場が発達していないので、企業を飛び出して起業するシステムが機能していないからだ。先月、グーグルの時価総額はトヨタを抜き、この創業から10年もたたない企業の価値が、日本のすべての企業を上回った。このまま日本は沈んで行くのだろうか。

本書は、高く評価されたOPEN INNOVATIONの続編で、重複する話も多い。どっちか1冊読むなら、前著をおすすめする(ただし訳がひどいらしいので、原著をどうぞ)。


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