2010-03-22
ドラッカーから学ぶ今後を生きる人に必要な教育とは何か その1
明治から昭和にかけて日本は『近代』国家を作るために必要な人材を育ててきました。資源に乏しい国が製造業の分野で成功しえたのは、間違いなくその人材のおかげです。しかし、最近ではこの教育システムが歪みを生じ始めてきています。義務教育を終えたにもかかわらず社会に出てから再度育てなおすといった2度手間はなぜ起こるのでしょうか。それは、教育システムが現状に見合っていないからに他なりません。従来の「途上国型教育システム」が機能するのは『豊かになる』という熱意とバイタリティ、つまり『飢え』を要求する時だけです。
『飢え』がない時代に、精神論をいくら唱えてみても誰もついてこないのです。
★現行の教育システムと評価方法
1. 記憶録容量が大きい−記憶を確認する
2. 情報処理速度が速い−制限時間がある
3. ミスが少ない−減点方式
従来の産業においては人材に求められたのは命令されたとおりにすばやく従順に動くロボット型の人間です。教育界もそれに応じて優秀なコンピュータ人間を量産し、優秀なコンピュータ人間を生み出してきました。そして、彼らは自身に変わる優秀なコンピュータを作り出し、その高い生産性を武器に世界に名だたる競争力を身につけてきたのです。
しかし、その労働変換効率はある種のピークを迎えてしまいました。効率化は進み、オートメーション化された産業用ロボットや、PCの能力も格段に上昇しコミュニケーションコストも事務作業は軽減化されてきています。
皮肉にも優秀な人の仕事はコンピュータに取って代わられている。
そうなれば必然的に人間にはロボットにはできないようなオペレートする仕事やクリエイティブな仕事が求められるようになります。言い換えれば求められているのはハードウェア型ではなくソフトウェア型の人材です。ソフトウェアの流通には基本的にほとんどコストがかかりませんので、プラットフォームやオリジナルを作成した者が圧倒的に利益を得る仕組みになります。プラットフォームやオリジナルを作り出すクリエイティブな人材の価値が相対的に高くなり、従来型の優秀な人材の価値が大幅に下落してきているのはある意味必然なのかもしれません。
そういった潮流を教育に反映できないのは教育側の怠慢です。教育界で優秀と認められた人が社会で不適ならば何のために教育しているのか意味がわかりません。人材の評価に対して公教育機関だけでなく市場の評価もとりいれなければ競争力を失って国自体が傾いてしまいます。時代に合った形で教育がシフトしていく仕組みがなければ国家ぐるみで人材を無駄使いしていると言わざるを得ないのだと思います。画一的なカリキュラムを押し付け受動的な秀才と多数の規格外を作り出すシステムを改めなければならないことは間違いありません。
そのような人材は誰も欲していませんから。
その2に続く 今後を生きる人に必要な教育とは何か その2 - keitaro-news
参考文献
ネクスト・ソサエティ ― 歴史が見たことのない未来がはじまる
- 作者: P・F・ドラッカー,上田惇生
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2002/05/24
- メディア: 単行本
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参考記事
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