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ヒグラシの輪唱が降り注ぐ温泉宿で、久しぶりに蚊やりの豚を目にした。かわいい陶器の、蚊取り線香入れである。冷房の部屋では無用の置物だったが、懐かしい香りを一つ思い出した▼夏の朝の匂(にお)いといえば、夜具に染みた蚊やりの煙であった。昭和の半ば、空調も何もない家。夜通し焚(た)いた緑の渦巻きは、この季節を五感で受け止めていた幼き日を連れてくる。淡い面影とともに。〈ちちははと居し日のやうに蚊遣(かやり)焚(た)く〉谷中隆子▼随筆家の故室生朝子(むろう・あさこ)さんが、実家の夏を記している。東京・馬込の家は蚊が多く、父で作家の犀星(さいせい)に客がある時は、2時間前から蚊取り線香を焚いたという。香炉状の器に入れて、戸障子を開け放った家の風上に置く▼〈うす蒼(あお)い煙が立ちゆらぎ、やがて小さい風に乗って、匂いは部屋の中を通り廊下に出て行く……打水(うちみず)した敷石や靴ぬぎ石と、ほのかな香りの残る風通しのよい蚊のいない部屋が、夏の客に対するもてなしのひとつであった〉▼そうした和のもてなしも昔話になった。サッシとエアコンで守りを固め、外気を隔てた部屋で客人を待つのが今風だ。蚊や蒸し暑さと一緒に、季節感も追いやられる。もっとも、昨今は蚊の方も時候にお構いなしとみえ、暖かい地下街などでは冬に刺される人がいる▼〈母恋へば母の風吹く蚊遣香(かやりこう)〉角川春樹。蚊よけに限るまい。立ち上る煙や炎のひと揺れに、生き別れ、あるいは風に姿を変えた人を思う8月である。しのぎ方は変われども、天から客を迎える優しい習わしが、日本の夏をつなぎ留める。