
私の経緯と社会の事象について
私は1972年(昭和47年)の8月11日に生まれました。生まれは仙台です。8月11日と言う日は、8月は北半球では真夏の太陽が照りつける月であり、また11は太陽の黒点の極大期・極小期の半サイクルが丁度11年になります。最近の2年ほどは太陽の無黒点時期が続き、勢いがひどく衰えました。太陽の黒点が衰えると人間活動が低下し、また地球規模で冷却化が起きる説もあるようです。過去の地球における氷河期に関してもそれと密接な関係があるようです。私が生まれてまもなく、1973年に「ノストラダムスの大予言」と言う本が日本訳で出版され日本でベストセラーになりました。ノストラダムスの予言詩でもっとも有名なのは、「1999年7か月、空から恐怖の大王が来るだろう・・・」でしょう。後ほどお話しますが、私は1998年の12月に交通事故で入院しました。入院は一ヶ月でその後退院しました。顎の骨の骨折による手術入院でした。その後、1999年7の月は当時、「グランドクロス」による惑星の十字配列、当時冥王星は惑星とされており、太陽と地球を含めたそれらの惑星が十字を成すのは、8月17日でした。しかしながら、冥王星をのぞいた場合のグランドクロスは8月11日となるそうです。またこれは当時、日食の日でもあったそうです。現在冥王星は惑星では無いとされ除外されております。まず占い的、天文学的なものからお話ししました。
私が生まれた当時、日本には歴代内閣最高の在任期間であった佐藤内閣がありました。佐藤内閣は1964年11月9日から1972年7月7日まで続き、そして私は8月11日に生まれました。1973年には「オイルショック」が発生し、当時「トイレットペーパー騒動」が勃発したそうです。これは私が生まれてまもない時代であり、赤子の私は泣いてばかりいたでしょう。ここで一つの真実を申し上げますと、私が何かの大きなストレスに遭遇したときに、地球は荒れ、また景気等は大きく落ちます。殺伐とした世界になり、平穏な世の中であったのが戦争の様な大事態になり得ます。
1975年からは安定した高度経済成長が続き、そして「バブル景気」があり、1991年にはそれも崩壊しました。これを私の人生に当てはめてみると、1991年はちょうど私が高校が終わり大学に進んだ頃でしょうか?私の世代は「団塊世代」の子供の「団塊Jr世代」です。この世代は団塊と同様に突出して人口が多く、まさに「受験戦争」と言う名前まで生まれた不運な世代です。また当時、高校卒業で就職された方は割と満足な就職が出来たようですが、大学に進学した方々については、人口が多いところに就職氷河期が重なり、就職難民が多く出て、今でもそのままバイト等でやりくりし、ニートの定義からもはずれ、一部は社会から見放された世代です。最近では、その世代を対象にした国家公務員の中途採用試験等で、ほんのわずかながらの救済はありました。
この団塊Jr世代の時期の不況は私の精神状況にあるところで、私が就職についてやはり大きな不安を抱いていたことは当然のことであります。私が精神的にストレスを受ければ、それだけ景気等にも影響が出て悪くなってしまいます。これは世界レベルに影響があり、地球規模の損失になります。私は大学を卒業して地元の自治体に入りましたが、日本社会はすでに私の存在を知っており、ここから「カルト」と呼ばれるものの影響を強く受け、それが後々の今の不幸な社会を作り出す結果になりました。
どうも、日本社会として宗教的な政治が成されていたようで、たとえば「神道政治連盟」なる組織がある様に、日本は第二次世界大戦以前の頃には、天皇陛下は神道における「現人神」と称され、「人」の形をしながら同時に「神」でもあるという生き神の形式をとり、昭和時代は昭和天皇が「国家神道」と呼ばれ神道の最頂点であり、日本は一致団結して赤紙の召集辞令とともに、民は戦地に赴いたそうです。終盤では「神風(かみかぜ)特別攻撃隊」と称し、神道再頂点の天皇の指示の下に、敵の軍艦へ特攻して果てたそうです。そして敗戦とともに米国に全面降伏し、日本は政教分離を求められて同時に昭和天皇は「神」では無く「人間」であるという宣言の下に、そこから天皇陛下は「国民の象徴」であると立場を改正され、今日まで至ります。これについては詳しくは「神道について(現人神とは)」で説明させていただきます。
話が戻りますが「神道政治」と言うのは、神道の家系である子孫を「地鎮め」のために、全国のたとえば渇水がよくある地域や火山の予兆が現れた土地等、その神道の家系の子孫をその地に赴かせたり、またその人物に対して報告して、神道的な力で地鎮めを行うというものです。神道は全国にたくさん配置されている「社(やしろ)」を主体とする「神社神道」の他に、天皇そのものを神として地鎮めを行う手法があるようです。各地には当然伝承の雨乞い祭り等、様々な祭事が残されておりますが、そのような形式的祭事なものだけでは無く、子孫を使いそれで天災等を鎮めようとするのが目的のようです。たとえばつい最近、2008年8月8日に皇太子様が富士登山をされました。実は近年、日本列島は非常に地震活動が活発になっていた時期であり、各地で大きな地震が起こり、専門家も活動期に入ったと明言しておりました。関東大震災、東海地震、南海地震、危機リスクがものすごく顕著になっていた時期であり、特に東海地震はまだ発生していないにもかかわらず既に昔から名前が決まっている地震であり、特に地元としても危機管理には入念を入れていたと思われます。皇太子様が富士登山をされたのは、その地震活動を鎮めるためです。皇太子様は1988年の8月8日にも富士登山をされており、当時は天候が悪く途中で引き返されたそうです。実はその20年前になる当時も富士山の火山性活動が顕著になり、国として監視をはじめた時期でありました。この頃に私も親の提案で家族で富士登山をしたのです。
さて、次は私の自治体の入庁時からの話をしたいと思います。私は平成7年度に宮城県庁に入庁しました。この少し前、平成7年1月17日午前5時46分に戦後最悪の震災である「阪神淡路大震災」が発生しました。当時私はあるバイトをやっていた時期でしょうか?私の地震発動の発生根拠は自分に対する大きなストレスが起因となります。またこの3月に精神安定剤である「リスパダール」の特許が許可されました。のちにこれが絡んできます。後ほどお話しします。
話は戻りまして、当時の知事は浅野史郎宮城県知事であり、「足下に泉あり」と言う名文句を新規採用職員に訓辞したのを覚えております。これは他の方からの引用だそうですが、職員の個々の足下には泉があると言う当時の説明でありましたが、実は他の意味として泉とは私を指しております。私は仙台で生まれ、父親が国家公務員であったため生まれてまもなく東京に転勤で異動しました。そして東京で私が6才弱の時に、1978年6月12日に「宮城県沖地震」が発生しました。当時の都市型地震としては最も被害が顕著なものでした。それ以降、私は必ず夏休み、冬休みの時は今の栗原市に帰省することになりました。私は父親が転勤族でありましたが、早い段階に当時の宮城県泉市(現在の仙台市泉区)での土地開発で分譲地を売り出し、その時に土地のみを両親が購入したようです。のちに仙台市として吸収合併され、また政令都市にもなったので泉区になりました。私は今現在泉区のその土地に居住し現在はこの不景気であり泉のごとくにはなっておりませんが、このような状態でおります。
平成8年時、私は今現在の宮城県大崎市内に勤務しておりました。その年に宮城県大崎市の鬼首を震源とする地震が8月11日に発生しました。その結果、鬼首峠への道は崩れ去り封鎖に陥りました。私は自分の誕生日には思い入れが大きい、その影響もあるでしょう。秋田県へ抜ける鬼首道路完成開通のわずか3日後でした。宮城県庁はこのときに、私がそういう人間であることを知っておりました。当然私自身は自分のことを全く承知しておりませんでした。この平成8年度で行政組織からの私への評価というものが大方決まったと思われます。その後私は平成10年度に大河原に行きました。平成10年が1998年になります。この年に私は先述したように、1998年の12月に交通事故で入院しました。私の仕事はかなり残業が多い仕事で、帰宅も遅く、睡眠が取れない日々が続きました。仙台からの通勤でしたが、ある気を弛めた日の朝に原付に乗った私と車とで衝突事故を起こしました。大河原での3年間は、日本での地震も私のストレスから多く、特に顕著であったのが2000年10月6日の鳥取県西部地震でした。この地震があったことで、私は2001年の平成12年度末に「みんなが迷惑するからやめてくれないか?」と事務所に退職勧告をされました。
この頃にあの自民党森派の森政権があり、2000年5月15日に「神道政治連盟」国会議員懇談会の場において「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞと言うことを国民の皆さんにしっかり承知していただく、そのために我々(=神政連関係議員)が頑張ってきた」との発言がありました。この大河原時代は私がその仕事の多忙さから特にストレスがたまり、色々と荒れた事象が起きていたようで、当時私に対する職場いじめも顕著であり、この時に三塚派を切り森派に変わったようです。使えなくなった人間は切ると言うのが自民党手法であり、特に日本神道は「万物のものに神が宿る」と言う多神教的考え方から、他の神を使うと言う考え方の下に進んだようです。この退職勧告の時に母親の助言があり「辞めるな」と言われ、そのまま仕事は続けることになりました。これが最初の失敗でした。
そして平成13年度に私は仙台の事務所に移り、そこで新規採用の女性職員と同じ島になりました。そこで職場内からの強い冷やかしを受け、職場内のみでは無く地域社会でも色々なうわさが広まり、この時から地域でのうわさがひどく顕著になりました。この年があの「郵政民営化」を目玉とした「キリスト教三位一体の改革」である小泉政権でした。私は一度その女性職員に対しメールを送りましたが、それが次の日にはすべて職場にばれており、それをネタにさらに冷やかされる状態でした。私はそんな職場の空間が嫌でしたので昼休み等には職場を離れ外で息抜きをしておりました。女性は最初の段階でメールは受信拒否をしたのでその時点から女性当人に届くことは物理的にあり得ませんでしたが、それでも周りの冷やかしは延々収まらない。またメールは女性まで届かないのに、途中の中継サーバからでしょうか?全部盗み読みされる日々が続き、そこからメールでの職場批判が始まりました。この批判についてはプライベートの中ですので具体的な記述は控えさせていただきます。
私が平成13年の8月に「キリスト教東北学院大学」の学生とバイクで正面衝突事故が発生し、平成13年9月11日には、あの「同時多発テロ」事件が発生しました。世界貿易センタービルにハイジャックされた航空機が突っ込みツインタワーの双方が崩れ落ちた惨状はなかなか驚嘆するものでした。当時のニュースでは、主犯者はイスラム教原理主義者オサマ・ビン・ラディン氏とされ、この時からテロ対策法やインド洋への自衛隊活動など、防衛庁が活躍することとなりました。実はこの時、私は宗教的な組織からも見られており、たぶん当時の宮城県知事として私を人材としてやはり使えないと判断したのでしょう、中央からの圧力もあったと思います。私を切り捨てる方向に走り、その中で自民党清和会は強くアメリカとつながっているため、その時の判断が強く働いていたはずであり、その絡みからイスラム教としてキリスト教の一国であるアメリカ合衆国を狙ったテロであったようです。のちにイギリスに対してもテロは行っていたようです。その後、私は平成14年度に内部異動をさせられてその女性からは離れた部屋に行きました。その中で、私は前年度にひどく職場に女性がらみで小馬鹿にされておりましたので、一度女性にそれについて問いただそうとしました。そうしましたら私がストーカーだとの事務所からの警告を受け、平成14年6月に父親とともに精神病院へ連れて行かれ、そのまま3ヶ月の病気休暇を言い渡されました。病名は「神経衰弱状態」でした。ここで先述の統合失調症治療薬である「リスパダール」が処方されました。これは厚生労働省が「統合失調症治療薬」としてのみ許認可した薬でした。後ほどわかりましたが、これは最初から職場が仕組んだ罠でした。ここから私は平成20年10月に退職するまで通院を続けさせられ、また病休を毎年の年度末に繰り返しました。この平成14年の6月になんと現村井知事が自民党宮城県連の幹事長に就任しました。私の精神病罹患に丁度合わせてです。またテロにより当時の防衛庁、自衛隊の躍進に合わせてのちに知事選に擁立するための下準備だったのでしょう。またこの年に精神医学学会により「精神分裂病」が「統合失調症」と改名されました。また驚くべきことに当時の総理である小泉純一郎もまた若いときに婦女暴行を起こし、「精神分裂病」と診断され「隔離病棟」に収容されていたらしいです。同時に宮城県では前年度に宮城国体が行われ、また初めて障害者国体もはじまりました。なんと私を障害者にして、その勢いで厚生労働省が障害者政策に力を入れていたのです。そして驚くべきことに事前に平成12年度には「ストーカー規制法」を施行し、うまく私をストーカーに仕立て上げて、私をストーカーだと言わしめ、法の適用自体はしませんがその法の効力を強めたかったようです。さらには、皇太子雅子様において、この方は私の名前「雅典」と同様「雅」の文字を冠しており、私に合わせる考えなのでしょう。この頃からメンタルヘルスに疾病されたとの報道がされ今日に至っております。「愛子」様の名前を仙台市のJR愛子(あやし)駅から採ったことも忘れてはなりません。なんと「カルト」とは私に絡めた不気味な行動でありました。常に絡めるものは可能な限り私に絡めた施策であり、私が平成15年度に大崎市の事務所に行ってから今日までも、「障害者自立支援法」や「障害手帳の刷新」と色々と改革がされました。また私は精神安定剤を飲まされ続け、平成18年ころには少し太ってきました。それに合わせて日本肥満学会の提案で皆さんもご存じの「メタボリックシンドローム」なる検査が導入されました。また、私の自宅近場には整骨院を開業したり、痴呆老人ホームを開業したり、私の近くにある地域なり、また名前なり、ありとあらゆるものを想定し絡めればみんなよくなると言う神道政治なるものの特殊な考え方で歪な社会形成がされて行きました。この経過の中で私はひどい人生を送り続けておりましたので、のちの失われた10年との名前が付いたように、日本の所得が年々減少し、国民の「痛みの改革」などと言う馬鹿げた改革であったことを忘れてはなりません。
この改革の中で、郵便局は国家公務員から公社を経て4社に分社化され、またNTTにおいては50歳以上は全員リストラされ、給料半額で子会社へ出向と言う厳しいものがありました。私は仙台の郵便局の病院で生まれました。また当時のNTT前身の電電公社に親族が多く入り、特にアメリカに繋がっている小泉政権は私の家系を潰しながら民を背信した改革を進めておりました。それで親族の全てはNTT親会社から消えました。その痛みが現時点での世界恐慌を発端としたデフレーションにも陥った二番底のスパイラルの不況です。
今の世界恐慌に端を発した不況について