++++++++++ アリーチェの”映画うたたねの記”・第10回 ++++++++++
シリーズ <女装映画の逆襲> その2
マザコンと映画とシリアルキラー〜エド・ゲインの源流から
 アメリカ映画では、シリアル・キラー(連続殺人鬼)の女装が意外と頻繁に見られる。ヒッチコックの『サイコ』で、ノーマン・ベイツは女装をしてシャワールームに襲いにくるのは有名だし、『悪魔のいけにえ』や『悪魔のいけにえ2』でレザーフェイスは、奇怪な女装をしている。こうした女装の原点にはエド・ゲインという、1950年代のアメリカを震撼させた実在のシリアル・キラーがいるのは有名な話だ。シリアル・キラーとはいえ、確認された殺人は二人。部屋に大量にあった人骨や皮膚は、墓をあばいたものがほとんどだったが、人骨で作った椅子や頭骨の食器などを使って異様な空間に住んでいたことが、シリアル・キラーとしての格を上げる(下げる?)結果となった。

 そのエド・ゲインに直接題材をとった『エド・ゲイン』という映画が公開された。アメリカ史上五本の指に入るというシリアル・キラーを、できるだけ事実に基づいて再現したのが、この映画。この映画は、意外と大人しい印象をわれわれに与える。エド・ゲインは、少し頭は弱いが温厚な人の良い人物として描かれており、シリアル・キラーの凶悪な印象を与えないためだろう。警察に連行されるシーンを映した当時のニュース・フィルムもオープニングに組み込まれているが、そこにも、シリアル・キラーの凶暴な印象はない。フラッシュ・バック[注1]を多用したカット構成で、エド・ゲインの過去が物語られるが、そこには母親に異常な愛情を注ぐ姿が強調される。恰好の精神分析の対象となりそうだ。この映画での彼の女装――といってよいものかどうか、女性の胸部の皮膚をはがしなめして作ったものを身に付けて、缶を叩きながら踊る姿が映し出される――は、母親との一体化を望む願望の表出だと、映画は語る。オナニーも禁じることで、青年エド・ゲインを性的な管理下に置く母親。もちろん、そのような母親になぜマザコン的な欲望を抱いたのかは分からないのだが、この映画はともかくそういうマザコン的な心性を繰り返し見せ付けてくる。フラッシュ・バックで登場していた母親が、現実場面に混在するようになったとき、惨劇が起きるという構成である。少なくとも、この映画の監督チャック・パレロや、主演と製作総指揮のスティーブ・レイルズバックは、そういう部分に興味を抱いているようだ。

 このエド・ゲインという人物は、ほかにも映画作家を刺激しつづけている。先述の通りヒッチコックは、ゲインの逸話をもとに映画史上の傑作『サイコ』を撮りあげた。『サイコ』のノーマン・ベイツは女装をして、有名なシャワーシーンに登場する。『サイコ』は1998年にガス・ヴァン・サント監督によりリメイクされており、ヒッチコック版とほとんど同じショットを積み重ねて公開した。カメラを担当したのが、ウォン・カーウァイ監督と組んで『ブエノスアイレス』などを撮った、カミングアウトしたゲイであるクリストファー・ドイルであり、ガス・ヴァン・サントも『マイ・プライベート・アイダホ』のようなゲイ的な映画でもしられている。しかし、この映画については、全体的に、ヒッチコックをおさらいするかのように、ほとんど同じ構成になっており、したがってヒッチコック版がノーマン・ベイツの女装に同性愛的な意味合いが写りこまないよう作っていたのと同様、こちらにも同性愛的なニュアンスはみられない。

『サイコ』が映画の古典的な怖がらせ方である「見せない」恐怖を徹底したものだとすると、それに対抗するかのように、同じ題材を使いながら「見せる」恐怖を描き出したのが、『悪魔のいけにえ』である。トビー・フーバー監督の『悪魔のいけにえ』のシリアル・キラー、レザーフェイスも奇怪な女装をするが、これもエド・ゲインの影響といわれている。チェーンソーを持って登場するレザーフェイスの顔に微妙に口紅がついていたりする程度なのだが……。ところで、この映画で、最後に夜が明けるとき、なぜか奇妙な爽快感がある。惨劇から逃げおおせた安堵感と、朝の日差しの爽やかさが、長い恐怖のトンネルを抜けたかのような、爽やかな気分を作り出す不思議な映画だ。

さらに、ジョナサン・デミ監督の『羊たちの沈黙』(1990)の皮剥ぎ殺人鬼バッファロー・ビルもエド・ゲインの影響下にあるといわれる。ここに至って、この系統の女装は、同性愛と結びつけられる。映画そのものが、シリアル・キラーのマザコン的女装と同性愛的、あるいはトランスセクシュアル的な欲望を、明確に結びつけることはない。むしろそれを結びつけようとしたのは、ゲイや批評家たちであった。女装をして鏡に向かうときのしぐさ、乳首にピアスをしていることなどについて、ゲイのライフスタイルを模倣している。つまりバッファロー・ビルをゲイとして描いており、そのためゲイが殺人者であるという悪いステレオタイプを広めている、というのだ。ここで問題になるのは、あるライフスタイルを一部分模倣したとき、それが模倣のもとを表象したことになるのかどうかということだろう。たとえば、女装のしぐさを映像化するとき、俳優がドラァグクイーンを研究するというのは大いにありうることだし、それは<女装>を自然ながら、異様な造形をする必要があるこのような例では、まさにそれを――この映画の意図とはまったく違うとはいえ――日々実践しているドラァグクイーンに求めるのは致し方ないことである。そもそも映画には模倣や剽窃が多用されているので、模倣であることだけでは差別にはならないだろう。心情的には、自分たちのカルチャーが、ホラーとして使われたということをよく思わないのも理解できるものの、あまりに過敏な反応はやはりゲイ・カルチャーが抱えていたトラウマが原因だといわざるをえない。

『羊たちの沈黙』は1990年に製作されている。この時期は、80年代後半にやっとのことで、『アナザー・カントリー』などのゲイを肯定する映画が作られるようになり、かつてメジャー映画にゲイが登場するといえば殺人鬼であるか、自殺をするかどちらかだったという長い歴史を、払拭しつつあった時期である。そうした時期に出現したこの映画はゲイ・コミュニティからは、悪しき過去への回帰と捉えられ、過剰な反応を引き起こした。いま考えると、こうした人権意識がやがてゲイ映画を逆説的に束縛するようになっていく、その予兆を示した映画であった。

さてついでながら、『羊たちの沈黙』はしばしば、この映画に10年先行するブライアン・デ・パルマ監督の『殺しのドレス』(1980)などと同時に論じられる。『殺しのドレス』では、二重人格者の人格がそれぞれ男と女で、もともとの性別が男であるシリアル・キラーを表象する。現在であれば、多重人格として描かれるであろう題材が、「性倒錯者」として描かれているのは性の理論が未発達か、少なくとも一般市民には行き渡っておらず、そのような区別すらできていなかったことを示す。映画は売上を伸ばすために、人口に膾炙したステレオタイプな理論か、せいぜいそこから想像される理論を表象するのであり、必ずしも正確な理論を反映するわけではない[注2]。そう思ってみると、この20年間で、私たちは性の現実をいろいろ発見していることを知らされる。それはさまざまなセクシュアリティのありようをする人が、勇気あるカミングアウトをしてきた結果だといえよう。

このように、エド・ゲインという源流から女装をたどっていくと、もともとは同性愛とはまったく関連がなかったはずの、マザコン的女装が、微妙な描き方一つでゲイ・コミュニティの過剰な反応を引き出すようになることもある。今後も本来の意図と、表象するときの造形の関係を仔細に見つめていく必要があるだろう。悪意やフォビアを裏付ける表象には、われわれは断固抵抗する必要があるが、そうした意図が見られない場合の対話のありかたも、一方で必要である。


[注1] 現在を映すカットの中に、過去を示すカットが挿入されること。たとえば、ある人物が、なにかを思い出したとき、その記憶の内容が不意にフィルムのシークエンスに組み込まれてくるような場合が多い。

[注2] 最近、話題になった例としては、スピルバーグが『ジュラシック・パーク』を製作するとき、恐竜研究の権威に相談したところ、一般に考えられているほどにはティラノサウルスは凶暴ではないという見解を得た。ティラノサウスルは手も短くてものをつかめないし、頭も重すぎて歩く姿も映画より不恰好であったはずであり、そのためほとんど生きた動物を捕らえることはできず死肉を食べていたはずだというのである。しかし、一般のイメージにあわせることとアクション映画としての体裁をくずさないようにするために、ティラノサウルスの造形は、凶悪なまま残った。
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