――そこは何もない荒野だった。
草も無い。大気も無い。あるのはただどこまでも続く荒涼とした大地。
それはさながら“出来たての地球のような風景”だった。
死の大地。そう呼ぶのがもっとも正しい世界。
ところどころに、かつて人間が作り出した機械(モノ)の残骸が転がり落ちていた。
見渡す限りが岩と山。
何も無い――ただ、何も無い。
最初からこの世界には誰もいないのだ、と――そんな奇妙な錯覚さえ思い浮かぶ
けれど、確かに此処に人類は存在している。
今もまだ人類は存在しているのだ。
たった二人――そう、たった二人となったけれど。
人類は、戦っていた。
音を凌駕する速度で激突を繰り返している。
最早、人類の眼では負うことも認識することも叶わぬレベルで。
たとえ、どれほど絶望的だったとしても、人類は戦い続けていた。
「ハァァァァ―――ッ!」
蒼い光が疾駆する度に空間が歪み波紋を浮かべる。
激突するは少女。黒い髪。意志の強そうな瞳。自身の輝きを放つでもなくひけらかすでもなく、彼女はただ輝き続ける。
受けて立つは妙齢の美女。闇色に染められた瞳。淡い赤毛。何もかもを飲み込む絶望と悲しみの象徴として、彼女はただ嘆き続ける。
少女が腕を振るい、足を振るい、全身を刃と化して少女が疾走する。
その度に大気に蒼光が出現し妙齢の美女を切り刻んでいく。
対する妙齢の美女は無手である。少女が何度切り刻もうとも妙齢の美女には届かない――深く刻みつけようとする寸前で手足が凍結しようとして、深く攻撃できないでいた。
一見すると互角の勝負。
攻守が均衡し、互いに決め手を欠いた千日手の様子。
けれど――それを果たして互角と言って良いのかどうか。
少女の攻撃は届かない。届いていても深手を与えるには至らない。
妙齢の美女は佇んでいるだけ。それだけで彼女の防御は成立する――行動など起こしていないのに彼女の防御は行われているのだ。
攻守が均衡しているように見えるも、それは妙齢の美女が攻撃を行わないから、そう見えるだけだ。
行動しても攻撃が届かない少女と、行動せずとも防御が成立する美女。
それは如何ともし難い差だ。
そもそも人類はただ二人――彼女と俺しかいない。
つまり、目の前の彼女は、人間ではない。
どれほどに焦がれようとも、どれほどに目に焼き付けた“彼女”と同一であろうとも――美女は人間ではないのだ。
「……さあ、試練を乗り越えて見せなさい」
憂い。嘆き。絶望。
彼女の闇色の瞳に滲む感情はそれだけ――真実それだけだ。
それ以外は無い。
そして、その闇色の感情に引き込まれるように――彼女が歌う災害もまた闇色に引きずり込むモノ。
彼女の周囲が凍結していく。絶対零度の世界を構築し、世界全てを停止させようとする。
「我らは災害――貴方は私たちを超えるために此処にいる。私たちと言う災害を踏み躙る為に此処にいる。だから、乗り越えなさい。乗り越えなければいけないのよ、あなたたちは」
その言葉には力があった。
あらゆる存在を屠らんと凝縮された意志と――そして、あらゆる存在に己を乗り越えさせようとする意志が。
女の右手が高らかと掲げられた。
女の瞳の闇色が色を深くする――悲哀と絶望が滲みだす。
「――圧壊しなさい」
「――跳べッ!!」
少女が叫んだ。
俺も同じく“跳躍”する。
一瞬で視界が純白に染め上がり、世界を悲哀が押し潰す――これで三度目。
三度目の正直とはよく言うが、これはまさにその通り――馬鹿の一つ覚えのように三度も繰り返されれば、いい加減何が起きたのかなど理解している。
雪崩。
世界を揺るがす、どこでにも起きる――そして、何であろうと押し潰し、闇に引きずり込む災害だ。
轟音が鳴り響き、爆流がそれまで俺たちがいた場所を真っ白に染め上げた。
「チッ……!」
舌打ちしつつ、少女が空を飛ぶ――飛翔する。
その事実を俺は正しく理解する。
物理法則を“歪ませている”のだ。
強固であるはずの物理法則は、少女の強力な力による干渉によって、緩く脆くなっていた。
風が頬にぶつかる。
少女と同じく俺も跳ぶ――こちらは飛翔ではなく跳躍。
両足、踵のすぐ下の部分を爆発させた。
眼下に見える彼女の姿が一気に豆粒大に縮小されていく――概算で50m以上の跳躍。それは飛翔と何ら変わりない。
荒涼とした大地が――純白に染め上げられた。
急速に冷やされた大地に向けて、大気が荒れ狂う。
風を切って、着地。足が地面を踏み締める。
「戦いなさい。貴方達は戦って、私たちを踏み躙らなければいけない。それが出来ないのなら、滅びるしかない」
闇を滲ませた瞳のまま、彼女が告げる。
「敗北は滅びではなく始まり。ただ私たちが支配していた時代に立ち返るというだけ――それはきっと悲しいことだけど」
闇色の瞳は何も語らない。語らない――“語らない”。
妙齢の美女が――再び、右手を振り上げた。
瞬間、俺は、彼女に近づいた。
闇に満ちた眼差し。
滲む感情は悲哀と絶望と虚無。そこには何もない。自分が焦がれたモノも、自分が惹かれたモノも、自分が大切にするはずだったモノも。
何もない。
悲しみは湧き上がらない――悲しむことが出来ない自分が、心底恨めしい。
ああ、そうだ。望んでいた。これで良いと望んでいた。
いつか悲しまなければいけない時に、悲しめないことにこそ、自分は悲しむのだと。
分かっていた。理解していた。
けれど――納得など出来るか。
闇の眼差しを、ありったけの憤怒を憤怒を篭めて睨み返した。
怒りがあった。
大切なモノを踏み躙られた怒り。
大切なモノを殺された怒り。
愛すべき仲間たち――愛した女を奪われた怒りが。
「それ以上……」
彼女は何も言わない。
俺では何も出来ないと分かっているからこその余裕なのか。
それとも――それは彼女なりの何らかの俺への意志表示なのか。
そんなことは分からない。分からないけれど、ただ憤怒のままに叫び出した。
「それ以上、その女(ヒト)を汚すんじゃねえええええ!!!」
絶叫と共に全身全霊を篭めて拳を打ち付けた。
彼女の顔面を狙って放った拳は、彼女に届く寸前で蒸気を上げて止められる――右拳が白く霜に覆われていく。
そんなもの関係ないとばかりに更なる“炎”を篭めて、振り抜く。
霜が蒸気と化して、純白を赤朱が染め返す。
彼女が――後退した。俺の炎に押し負けたのだ。
俺と彼女の相性はある意味では最悪であり――ある意味では最良だ。
俺は“炎”、彼女は“雪崩”――いわば氷の化身。
互いの特異性が相反しているのならば、互いが互いを食らい合うという図式しか成り立たない。
即ち力比べ。
炎が雪崩を溶かすのが先か、雪崩が炎を消し去るのが先か。
その図式の勝負はそれ以外にはありえない。
「あああああッ!」
殴る。蹴る。頭を打ち付ける。膝蹴り。肘打ち。
ありとあらゆる思いつくすべての打撃を打ち込んで――彼女には一発たりとも届かない。けれど気にしない。
ただ、馬鹿みたいに戦いだけはやめるものかと殴り続けた。
僅かに――彼女が怯んだ。
「……っ!!」
後方で少女が呼んでいる。
俺の名前を呼んでいる。
だが、それに応じている暇は無い。
まだ、残っているのだ。最後にして最悪の敵が。
彼を完全に封じなければ、俺たちに未来は無い。
「行けっ!……行くんだっ!」
少女が息を呑む気配が伝わってくる。
逡巡している――同時に少女は賢く俺の意志をも汲み取ってくれている。
以心伝心。一言であろうとも、言葉は通じる。
無二の相棒ともいえる少女が頷き、言葉を返してきた。
「……分かった!」
少女が地面を蹴って飛ぶ。最後の者が待つ山へ。
少女は俺を残し、俺を信じて、俺に託した。
「貴方は……っ!」
「行かせないっ!」
組み合った状態のまま、裏拳と掌底を何発か打ち込む――全てが彼女に届く直前で停止の憂き目に遭う。まるで障壁のごとく攻撃を受け止める絶対零度。何もかもを停止させる絶対停止の世界。その中で自在に動けるのは真実彼女だけだろう。
それでも、多少なりとも効果はあるようだった。攻撃を打ち込むことで、彼女の態勢が僅かに崩れて、一歩、二歩、と後退する。
それを見て――もう一度拳を打ち付ける。届いているかどうかなど関係ない。ただ打ち付ける。目の前の彼女に、その奥の彼女に届くと信じて打ち付ける。
組み合おうとし凍結され、殴ろうとして凍結され、蹴ろうとして凍結され、それでもと全身全霊を篭めて繰り出した右拳だけが僅かに絶対零度の停止を突破し、彼女に到達する。
拳は彼女の胸に到達する寸前にその手に受け止められた。構わず振り抜く。
凍結する己の拳。火傷を起こした彼女の掌。
どこまでも対照的な二人の円舞曲が絡み合う。
互いの距離が僅かに開く。
息が荒い。両手両足が痛い――炎を流し込み活性化。凍傷を否定し、健常に戻す。残る僅かな痺れ。決して消えない彼女の手で刻み込まれた傷痕。少しだけそれが嬉しい。
挑発するように手招きを行い、彼女に告げる。
「絶対に彼女を追わせたりはしないぞ……アバ、ランチ」
アバランチと告げる瞬間、胸が軋んだ。
痛みと悲哀と絶望が自分自身を覆い尽くし、涙が毀れそうになる――否、毀れた。
燃え盛る炎が涙を蒸発させる――蒸発した涙は彼女の冷気で氷となって砕け散る。
「絶対にアンタを取り戻す。絶対に、絶対にだ」
右腕に疾走るは炎。
彼女の雪崩という災害の前では、このちっぽけな炎は何の意味も為さないかもしれない。
だが――この炎には彼女の氷には無いモノが込められている。
彼女が氷に篭めているモノはあくまで理由――命の壁となって試練を与えようとする目的。言いかえれば、それは彼女の存在理由だ。彼女は己が存在する意義全てを篭めて、文字通り命がけで戦っている。
――だが、ただ、それだけだ。彼女はただ命を懸けて目的を遂行しようとしているだけに過ぎない。
自分が篭めたモノは信念。
お前には負けない。
お前には負けられない。
そうしてお前から“彼女”を奪い返し、少女を救う。
その為の炎であり、彼女の雪崩とは出自がまるで違う。
この炎には意思がある。信念がある。決して譲れぬ願いが篭められている。
揺らぎ、盛り、天を突く。
赤く染まり、時に白く、時に蒼く。
千変万化し、されど決して消え去ることのない不滅の炎――願いを叶える為ならば、絶対に諦めないと言う意思の炎。
――義務は鎖に、信念は炎に似ている。
白と赤。
重ならない自分達。重なっていたはずの自分達。
その重なりは唐突に消えた。
幸せな――苦しくも、充実した、誇りに満ちた日々は消え去った。
「それが貴方の選択なのね?」
「……ああ、俺はアンタを倒して、“アンタ”を奪い返す」
「愚かなこと。私は使命を果たす為に此処にいる。その為なら貴方を殺すことだって躊躇わないのに」
「それでも、さ」
告げる彼女に返答する。
感情などまるで浮かばない口調。そんなところだけがいつも通りの彼女に見えて、辛い。
この辛さを、弱さを踏み躙る為に――俺は、この絶望と向かい合う。
「それでも――俺は“貴方”を諦める訳にはいかないんだ、マヤ」
それは宣言だ。
取り戻す。災害と成り果てようと、化け物と成り果てようと、きっと必ず絶対に取り戻すと言う宣言。
「馬鹿よ、貴方」
彼女の――冷たい返答。
それに微笑みを返した。
笑って答えを返す。
不敵に、かっこよく、いつか見た映画の主人公のように颯爽と――
「Yippee-ki-yay(あったりめえよ)」
――告げた。
風が吹く。両者共に言葉は無い。
決闘――俺は奪い返す為に、彼女は俺を蹂躙する為に。
馬鹿げた決闘が開始する――大昔のカウボーイの勝負のように高まる緊張感。
動き始めるのはどちらか。
そんな些細なことさえ勝敗を決するのではないかと考えてしまう錯覚。
――動いた。先に動いたのは自分。先手必勝。
走る。絶叫。拳を振り被り――同時に彼女の右手が掲げられた。
雪崩(アバランチ)の発現。
絶叫は咆哮に。
拳は炎へと変化。全てを燃やせとばかりに全身全霊をかけて、その雪崩の全てに真っ向勝負を挑む――
「―――!!!」
何を叫んだのかも何も分からない。
ただ、絶叫して殴りかかって命を懸けた。
彼女に拳が接触する。彼女の雪崩が俺を包み込む。
彼女が/俺が激突する――轟音。爆砕。衝撃。そうして、俺の何もかもが吹き飛んだ。
最後に見えたモノは悲しげな彼女の顔。
「あ」
意識が喪失し、肉体の感覚も喪失する。
虚ろな意識は何も語らない。漠然と死の感触を感じ取る。
淡々と、自分が死ぬと言う事実を思い浮かべ――恐怖も何も湧いてこない。
頭の中にあるのは幾つもの懸念。
俺は、俺たちは不可能を覆せたのだろうか。
精一杯生きられたのだろうか。
何もできなかったし、何も取り戻せなかった。
憂いを断てたのかどうかすら分からない。
今、自分が何をしているのかどうかも、少女が――成功したのかどうかでさえも何も分からない。
――後悔ばかりがあった。悲しめないから、その分も後悔しているのかもしれない。
彼女を――取り戻せなかった。本当にそれだけが心苦しくて、泣き叫びたくなる。
だから、幸せな夢を見ようと思った。
幸せな――本当に幸せだった、ついこの間までの現実を。
辛いことはあった。
やりきれないこともあった。
悔いはあるし、悔しさもある。
けれど、それでも――あれは幸せな時間だった。
大切な仲間がいて、大切な相棒がいて、大切な――愛する人がいて。
涙が出そうなほどに幸せな時間。
手に入るとも思わなかった時間。
虚ろな意識は全身を襲う激痛から逃れるために、そんな幸せな時間に意識を落とし込もうとする。
きっと、この時の俺の心は折れていた。
悔しさも辛さも怒りも全てを置き去りにして、眠りにつこうと。ただそれだけだった。
けれど、声が聞こえた。
「――諦めないで」
誰かが呟いた。
その誰かが誰なのかなんてもう分からない。
「生きて。生きて、お願い」
声は切迫し、焦燥を感じさせる。
それが誰かは――もう、分からない。
膝が折れた。眠い。このまま地面に突っ伏して眠りこみたい。
もう何も考えたくない。
「お願い……っ!!」
倒れそうになった自分を誰かが支える。視力は既に死んで、そこに誰がいるのかなんて分からない。声はノイズ混じりで誰の声かも判別できない――しっかりと聞こえていたとしても、判別できないだろうけど。
もう、何も判別できない程度に脳も心も体も全てが壊れていた。疲れ切っていた。
なのに――
「……生き、て。お願い、生きて……っ!」
胡乱な頭は何も考えさせない。
何かを思うことも出来ない。
心は既に折れている。
身体は既に諦めている。
けれど、
「……っ」
ありったけの力を篭めて、踏ん張った。倒れそうになる身体を、死のうとする命を奮い立たせた。
瞳を向ける。
視界はぼやけて何も見えない。
髪は長い。腕は細い。顔の輪郭は見たことがあるような――抱えているのは自分だけではなかった。
「……あ、う」
「死なせない……絶対に死なせない」
その誰かは俺を含めて、“二人”を抱えていた。
決して力の強そうな腕ではない。
むしろ、か細く簡単に折れてしまいそうなのに――その誰かは俺ともう一人を抱えて、どこかに向かっていく。
見えるものは朱い荒野。血のように紅く、綺麗で、人が生きていくには厳しすぎる世界。
どれだけ歩いているのかすら分からない。
何時間歩いているのかも分からない。時間の感覚は曖昧で、ただ抱える誰かの声だけを頼りに生きていることを確認するような状況。
そうして――“何かに入れられた”。
誰かが近づく。声が聞こえる。吐息が重なり――誰かの、顔が、見えた。
「……生きて、お願い……死なないで」
綺麗な顔。闇色の瞳は怯えと悲哀を重ねて、涙を浮かべて泣いていた。
扉が閉まる。意識が断絶する。
最後に声が聞こえた。
「ギィ君、お願い……おね、がい」
扉が、閉じる――瞬間、
「死なな、いで」
目に焼きついた。
意識は変わらず虚ろ。
何を思っているのかも何を考えているのかも分からない。
ただ、とりあえず――眠かった。何も考えられないほどに眠かった。
だから、今はこの惰眠を貪ろうと思う。
それがどんな結果をもたらすのかなど分からないけれど。
ただ、今は、この瞼の重さに従おう。
そうして、“俺”の意識は閉じて――
私は、ただ願った。
この、最後の願いが、叶うことを。
我儘で、醜い、この馬鹿げた願いが、いつの日か――それがたとえ百年後になろうとも叶うことを願って、私も瞳を閉じた。
ああ、願わくば、次に目覚めた時、私が私でありますように。
――そう祈って、意識は消失していった。