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[20390] LimitOver【エヴォリミットIF再構成マヤルート捏造物】
Name: maps◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/07/18 01:12
この作品はpropeller原作のゲーム、エヴォリミットのSSです。
原作には存在しなかった、マヤ・リンドグレーンルートがあれば、というIF再構成です。
冒頭から原作とは違いますが、基本的には外界への選抜試験後からの分岐です。
お楽しみいただければ幸いです。



[20390] 1.嘆きの荒野
Name: maps◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/07/28 10:46
 ――そこは何もない荒野だった。
 草も無い。大気も無い。あるのはただどこまでも続く荒涼とした大地。
 それはさながら“出来たての地球のような風景”だった。
 死の大地。そう呼ぶのがもっとも正しい世界。
 ところどころに、かつて人間が作り出した機械(モノ)の残骸が転がり落ちていた。
 見渡す限りが岩と山。
 何も無い――ただ、何も無い。
 最初からこの世界には誰もいないのだ、と――そんな奇妙な錯覚さえ思い浮かぶ
 けれど、確かに此処に人類は存在している。
 今もまだ人類は存在しているのだ。
 たった二人――そう、たった二人となったけれど。
 人類は、戦っていた。
 音を凌駕する速度で激突を繰り返している。
 最早、人類の眼では負うことも認識することも叶わぬレベルで。
 たとえ、どれほど絶望的だったとしても、人類は戦い続けていた。

「ハァァァァ―――ッ!」

 蒼い光が疾駆する度に空間が歪み波紋を浮かべる。
 激突するは少女。黒い髪。意志の強そうな瞳。自身の輝きを放つでもなくひけらかすでもなく、彼女はただ輝き続ける。
 受けて立つは妙齢の美女。闇色に染められた瞳。淡い赤毛。何もかもを飲み込む絶望と悲しみの象徴として、彼女はただ嘆き続ける。
 
 少女が腕を振るい、足を振るい、全身を刃と化して少女が疾走する。
 その度に大気に蒼光が出現し妙齢の美女を切り刻んでいく。
 対する妙齢の美女は無手である。少女が何度切り刻もうとも妙齢の美女には届かない――深く刻みつけようとする寸前で手足が凍結しようとして、深く攻撃できないでいた。
 一見すると互角の勝負。
 攻守が均衡し、互いに決め手を欠いた千日手の様子。
 
 けれど――それを果たして互角と言って良いのかどうか。
 少女の攻撃は届かない。届いていても深手を与えるには至らない。
 妙齢の美女は佇んでいるだけ。それだけで彼女の防御は成立する――行動など起こしていないのに彼女の防御は行われているのだ。
 攻守が均衡しているように見えるも、それは妙齢の美女が攻撃を行わないから、そう見えるだけだ。
 行動しても攻撃が届かない少女と、行動せずとも防御が成立する美女。
 それは如何ともし難い差だ。
 そもそも人類はただ二人――彼女と俺しかいない。
 つまり、目の前の彼女は、人間ではない。
 どれほどに焦がれようとも、どれほどに目に焼き付けた“彼女”と同一であろうとも――美女は人間ではないのだ。

「……さあ、試練を乗り越えて見せなさい」

 憂い。嘆き。絶望。
 彼女の闇色の瞳に滲む感情はそれだけ――真実それだけだ。
 それ以外は無い。
 そして、その闇色の感情に引き込まれるように――彼女が歌う災害もまた闇色に引きずり込むモノ。
 彼女の周囲が凍結していく。絶対零度の世界を構築し、世界全てを停止させようとする。

「我らは災害――貴方は私たちを超えるために此処にいる。私たちと言う災害を踏み躙る為に此処にいる。だから、乗り越えなさい。乗り越えなければいけないのよ、あなたたちは」

 その言葉には力があった。
 あらゆる存在を屠らんと凝縮された意志と――そして、あらゆる存在に己を乗り越えさせようとする意志が。
 女の右手が高らかと掲げられた。
 女の瞳の闇色が色を深くする――悲哀と絶望が滲みだす。
「――圧壊しなさい」
「――跳べッ!!」
 少女が叫んだ。
 俺も同じく“跳躍”する。
 一瞬で視界が純白に染め上がり、世界を悲哀が押し潰す――これで三度目。
 三度目の正直とはよく言うが、これはまさにその通り――馬鹿の一つ覚えのように三度も繰り返されれば、いい加減何が起きたのかなど理解している。
 雪崩。
 世界を揺るがす、どこでにも起きる――そして、何であろうと押し潰し、闇に引きずり込む災害だ。
 轟音が鳴り響き、爆流がそれまで俺たちがいた場所を真っ白に染め上げた。
「チッ……!」
 舌打ちしつつ、少女が空を飛ぶ――飛翔する。
 その事実を俺は正しく理解する。
 物理法則を“歪ませている”のだ。
 強固であるはずの物理法則は、少女の強力な力による干渉によって、緩く脆くなっていた。
 風が頬にぶつかる。
 少女と同じく俺も跳ぶ――こちらは飛翔ではなく跳躍。
 両足、踵のすぐ下の部分を爆発させた。
 眼下に見える彼女の姿が一気に豆粒大に縮小されていく――概算で50m以上の跳躍。それは飛翔と何ら変わりない。
 荒涼とした大地が――純白に染め上げられた。
 急速に冷やされた大地に向けて、大気が荒れ狂う。
 風を切って、着地。足が地面を踏み締める。
「戦いなさい。貴方達は戦って、私たちを踏み躙らなければいけない。それが出来ないのなら、滅びるしかない」
 闇を滲ませた瞳のまま、彼女が告げる。
「敗北は滅びではなく始まり。ただ私たちが支配していた時代に立ち返るというだけ――それはきっと悲しいことだけど」
 闇色の瞳は何も語らない。語らない――“語らない”。
 妙齢の美女が――再び、右手を振り上げた。
 瞬間、俺は、彼女に近づいた。
 闇に満ちた眼差し。
 滲む感情は悲哀と絶望と虚無。そこには何もない。自分が焦がれたモノも、自分が惹かれたモノも、自分が大切にするはずだったモノも。
 何もない。
 悲しみは湧き上がらない――悲しむことが出来ない自分が、心底恨めしい。
 ああ、そうだ。望んでいた。これで良いと望んでいた。
 いつか悲しまなければいけない時に、悲しめないことにこそ、自分は悲しむのだと。
 分かっていた。理解していた。
 けれど――納得など出来るか。
 闇の眼差しを、ありったけの憤怒を憤怒を篭めて睨み返した。
 
 怒りがあった。
 大切なモノを踏み躙られた怒り。
 大切なモノを殺された怒り。
 愛すべき仲間たち――愛した女を奪われた怒りが。
「それ以上……」
 彼女は何も言わない。
 俺では何も出来ないと分かっているからこその余裕なのか。
 それとも――それは彼女なりの何らかの俺への意志表示なのか。
 そんなことは分からない。分からないけれど、ただ憤怒のままに叫び出した。
 
「それ以上、その女(ヒト)を汚すんじゃねえええええ!!!」

 絶叫と共に全身全霊を篭めて拳を打ち付けた。
 彼女の顔面を狙って放った拳は、彼女に届く寸前で蒸気を上げて止められる――右拳が白く霜に覆われていく。
 そんなもの関係ないとばかりに更なる“炎”を篭めて、振り抜く。
 霜が蒸気と化して、純白を赤朱が染め返す。
 彼女が――後退した。俺の炎に押し負けたのだ。
 俺と彼女の相性はある意味では最悪であり――ある意味では最良だ。
 俺は“炎”、彼女は“雪崩”――いわば氷の化身。
 互いの特異性が相反しているのならば、互いが互いを食らい合うという図式しか成り立たない。
 即ち力比べ。
 炎が雪崩を溶かすのが先か、雪崩が炎を消し去るのが先か。
 その図式の勝負はそれ以外にはありえない。

「あああああッ!」

 殴る。蹴る。頭を打ち付ける。膝蹴り。肘打ち。
 ありとあらゆる思いつくすべての打撃を打ち込んで――彼女には一発たりとも届かない。けれど気にしない。
 ただ、馬鹿みたいに戦いだけはやめるものかと殴り続けた。
 僅かに――彼女が怯んだ。

「……っ!!」

 後方で少女が呼んでいる。
 俺の名前を呼んでいる。
 だが、それに応じている暇は無い。
 まだ、残っているのだ。最後にして最悪の敵が。
 彼を完全に封じなければ、俺たちに未来は無い。

「行けっ!……行くんだっ!」

 少女が息を呑む気配が伝わってくる。
 逡巡している――同時に少女は賢く俺の意志をも汲み取ってくれている。
 以心伝心。一言であろうとも、言葉は通じる。
 無二の相棒ともいえる少女が頷き、言葉を返してきた。

「……分かった!」

 少女が地面を蹴って飛ぶ。最後の者が待つ山へ。
 少女は俺を残し、俺を信じて、俺に託した。

「貴方は……っ!」
「行かせないっ!」

 組み合った状態のまま、裏拳と掌底を何発か打ち込む――全てが彼女に届く直前で停止の憂き目に遭う。まるで障壁のごとく攻撃を受け止める絶対零度。何もかもを停止させる絶対停止の世界。その中で自在に動けるのは真実彼女だけだろう。
 それでも、多少なりとも効果はあるようだった。攻撃を打ち込むことで、彼女の態勢が僅かに崩れて、一歩、二歩、と後退する。
 それを見て――もう一度拳を打ち付ける。届いているかどうかなど関係ない。ただ打ち付ける。目の前の彼女に、その奥の彼女に届くと信じて打ち付ける。
 組み合おうとし凍結され、殴ろうとして凍結され、蹴ろうとして凍結され、それでもと全身全霊を篭めて繰り出した右拳だけが僅かに絶対零度の停止を突破し、彼女に到達する。
 拳は彼女の胸に到達する寸前にその手に受け止められた。構わず振り抜く。

 凍結する己の拳。火傷を起こした彼女の掌。
 どこまでも対照的な二人の円舞曲が絡み合う。
 互いの距離が僅かに開く。
 息が荒い。両手両足が痛い――炎を流し込み活性化。凍傷を否定し、健常に戻す。残る僅かな痺れ。決して消えない彼女の手で刻み込まれた傷痕。少しだけそれが嬉しい。
 
 挑発するように手招きを行い、彼女に告げる。

「絶対に彼女を追わせたりはしないぞ……アバ、ランチ」

 アバランチと告げる瞬間、胸が軋んだ。
 痛みと悲哀と絶望が自分自身を覆い尽くし、涙が毀れそうになる――否、毀れた。
 燃え盛る炎が涙を蒸発させる――蒸発した涙は彼女の冷気で氷となって砕け散る。
 
「絶対にアンタを取り戻す。絶対に、絶対にだ」

 右腕に疾走るは炎。
 彼女の雪崩という災害の前では、このちっぽけな炎は何の意味も為さないかもしれない。
 だが――この炎には彼女の氷には無いモノが込められている。
 彼女が氷に篭めているモノはあくまで理由――命の壁となって試練を与えようとする目的。言いかえれば、それは彼女の存在理由だ。彼女は己が存在する意義全てを篭めて、文字通り命がけで戦っている。
 ――だが、ただ、それだけだ。彼女はただ命を懸けて目的を遂行しようとしているだけに過ぎない。
 
 自分が篭めたモノは信念。
 お前には負けない。
 お前には負けられない。
 そうしてお前から“彼女”を奪い返し、少女を救う。
 その為の炎であり、彼女の雪崩とは出自がまるで違う。
 
 この炎には意思がある。信念がある。決して譲れぬ願いが篭められている。
 揺らぎ、盛り、天を突く。
 赤く染まり、時に白く、時に蒼く。
 千変万化し、されど決して消え去ることのない不滅の炎――願いを叶える為ならば、絶対に諦めないと言う意思の炎。
 ――義務は鎖に、信念は炎に似ている。
 
 白と赤。
 重ならない自分達。重なっていたはずの自分達。
 その重なりは唐突に消えた。
 幸せな――苦しくも、充実した、誇りに満ちた日々は消え去った。

「それが貴方の選択なのね?」
「……ああ、俺はアンタを倒して、“アンタ”を奪い返す」
「愚かなこと。私は使命を果たす為に此処にいる。その為なら貴方を殺すことだって躊躇わないのに」
「それでも、さ」

 告げる彼女に返答する。
 感情などまるで浮かばない口調。そんなところだけがいつも通りの彼女に見えて、辛い。
 この辛さを、弱さを踏み躙る為に――俺は、この絶望と向かい合う。

「それでも――俺は“貴方”を諦める訳にはいかないんだ、マヤ」

 それは宣言だ。
 取り戻す。災害と成り果てようと、化け物と成り果てようと、きっと必ず絶対に取り戻すと言う宣言。
 
「馬鹿よ、貴方」

 彼女の――冷たい返答。
 それに微笑みを返した。
 笑って答えを返す。
 不敵に、かっこよく、いつか見た映画の主人公のように颯爽と――

「Yippee-ki-yay(あったりめえよ)」

 ――告げた。
 風が吹く。両者共に言葉は無い。
 決闘――俺は奪い返す為に、彼女は俺を蹂躙する為に。
 馬鹿げた決闘が開始する――大昔のカウボーイの勝負のように高まる緊張感。
 動き始めるのはどちらか。
 そんな些細なことさえ勝敗を決するのではないかと考えてしまう錯覚。

 ――動いた。先に動いたのは自分。先手必勝。

 走る。絶叫。拳を振り被り――同時に彼女の右手が掲げられた。
 
 雪崩(アバランチ)の発現。
 絶叫は咆哮に。
 拳は炎へと変化。全てを燃やせとばかりに全身全霊をかけて、その雪崩の全てに真っ向勝負を挑む――

「―――!!!」

 何を叫んだのかも何も分からない。
 ただ、絶叫して殴りかかって命を懸けた。
 彼女に拳が接触する。彼女の雪崩が俺を包み込む。
 彼女が/俺が激突する――轟音。爆砕。衝撃。そうして、俺の何もかもが吹き飛んだ。
 最後に見えたモノは悲しげな彼女の顔。

「あ」

 意識が喪失し、肉体の感覚も喪失する。
 虚ろな意識は何も語らない。漠然と死の感触を感じ取る。
 淡々と、自分が死ぬと言う事実を思い浮かべ――恐怖も何も湧いてこない。
 頭の中にあるのは幾つもの懸念。
 
 俺は、俺たちは不可能を覆せたのだろうか。
 精一杯生きられたのだろうか。
 何もできなかったし、何も取り戻せなかった。
 憂いを断てたのかどうかすら分からない。
 今、自分が何をしているのかどうかも、少女が――成功したのかどうかでさえも何も分からない。
 
 ――後悔ばかりがあった。悲しめないから、その分も後悔しているのかもしれない。
 
 彼女を――取り戻せなかった。本当にそれだけが心苦しくて、泣き叫びたくなる。
 だから、幸せな夢を見ようと思った。
 幸せな――本当に幸せだった、ついこの間までの現実を。
 辛いことはあった。
 やりきれないこともあった。
 悔いはあるし、悔しさもある。
 けれど、それでも――あれは幸せな時間だった。
 
 大切な仲間がいて、大切な相棒がいて、大切な――愛する人がいて。
 涙が出そうなほどに幸せな時間。
 手に入るとも思わなかった時間。
 
 虚ろな意識は全身を襲う激痛から逃れるために、そんな幸せな時間に意識を落とし込もうとする。
 きっと、この時の俺の心は折れていた。
 悔しさも辛さも怒りも全てを置き去りにして、眠りにつこうと。ただそれだけだった。
 
 けれど、声が聞こえた。

「――諦めないで」

 誰かが呟いた。
 その誰かが誰なのかなんてもう分からない。
 
「生きて。生きて、お願い」
 
 声は切迫し、焦燥を感じさせる。
 それが誰かは――もう、分からない。
 膝が折れた。眠い。このまま地面に突っ伏して眠りこみたい。
 もう何も考えたくない。

「お願い……っ!!」
 
 倒れそうになった自分を誰かが支える。視力は既に死んで、そこに誰がいるのかなんて分からない。声はノイズ混じりで誰の声かも判別できない――しっかりと聞こえていたとしても、判別できないだろうけど。
 もう、何も判別できない程度に脳も心も体も全てが壊れていた。疲れ切っていた。
 なのに――

「……生き、て。お願い、生きて……っ!」

 胡乱な頭は何も考えさせない。
 何かを思うことも出来ない。
 心は既に折れている。
 身体は既に諦めている。
 けれど、

「……っ」

 ありったけの力を篭めて、踏ん張った。倒れそうになる身体を、死のうとする命を奮い立たせた。
 瞳を向ける。
 視界はぼやけて何も見えない。
 髪は長い。腕は細い。顔の輪郭は見たことがあるような――抱えているのは自分だけではなかった。

「……あ、う」
「死なせない……絶対に死なせない」

 その誰かは俺を含めて、“二人”を抱えていた。
 決して力の強そうな腕ではない。
 むしろ、か細く簡単に折れてしまいそうなのに――その誰かは俺ともう一人を抱えて、どこかに向かっていく。
 
 見えるものは朱い荒野。血のように紅く、綺麗で、人が生きていくには厳しすぎる世界。
 どれだけ歩いているのかすら分からない。
 何時間歩いているのかも分からない。時間の感覚は曖昧で、ただ抱える誰かの声だけを頼りに生きていることを確認するような状況。
 そうして――“何かに入れられた”。
 誰かが近づく。声が聞こえる。吐息が重なり――誰かの、顔が、見えた。

「……生きて、お願い……死なないで」

 綺麗な顔。闇色の瞳は怯えと悲哀を重ねて、涙を浮かべて泣いていた。
 扉が閉まる。意識が断絶する。
 最後に声が聞こえた。

「ギィ君、お願い……おね、がい」

 扉が、閉じる――瞬間、

「死なな、いで」

 目に焼きついた。
 意識は変わらず虚ろ。
 何を思っているのかも何を考えているのかも分からない。
 ただ、とりあえず――眠かった。何も考えられないほどに眠かった。
 だから、今はこの惰眠を貪ろうと思う。
 それがどんな結果をもたらすのかなど分からないけれど。
 ただ、今は、この瞼の重さに従おう。
 そうして、“俺”の意識は閉じて――


 私は、ただ願った。
 この、最後の願いが、叶うことを。
 我儘で、醜い、この馬鹿げた願いが、いつの日か――それがたとえ百年後になろうとも叶うことを願って、私も瞳を閉じた。
 
 ああ、願わくば、次に目覚めた時、私が私でありますように。
 ――そう祈って、意識は消失していった。



[20390] 2.100年前の回想-1 マヤ・リンドグレーンと不知火義一
Name: maps◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/07/28 10:46
 女は知らなかった幸せを手にすることで悲哀へと落ちていく。
 少年は知らなくてもよかった幸せを手にすることで終わりへと近づいていく。
 少女は彼らが幸せになることを望み――それが終わりを加速させた。
 男は彼らを嘲るでもなく、それらを利用した。心を痛めながら、苦しさを感じながら――決して己の歩みを止めない為に。
 これは、火星に挑んだ人間たちの、あり得たかもしれないもう一つの物語。
 恋に恋して狂った女と、女の為に進化の階段を駆け登る大馬鹿野郎の物語。

Limit Over~Evo Limit Fun Fiction Novel~

 これは不知火一義のあり得たかもしれない過去の一つ。
 マヤ・リンドグレーンとの間にあった、一つの過去。その派生の可能性を紡ぐ物語。



「……まさか、ギィがあの人とねえ」
「いや、俺も驚いてる……正直今でも信じられないよ」

 透き通る世界――部屋の中に存在するのは透き通ったテーブルと椅子。流れるはピアノによって奏でられる音楽。
 ここは不知火義一の心象世界――なのだろうか。よくわからないが幼い頃から気がつけばここにいた。
 そして、ココロ――俺の心臓と出会った。
 俺の心臓は俺のモノではない。見知らぬ誰かから移植されたものだ。
 そして、移植された心臓に残っていた意識――或いは魂か、それともまるで別のものなのか、今でも定かではないし、明かさなければいけないようなものでもないだろうけど、それからはずっと彼女と此処にいる。
 このクリスタルのような透き通った物質で構成されたこの場所に。
 ココロが――不知火義一の“心臓”はクスクスと笑いながらいつも通りのどこか皮肉を交えた調子で言葉を紡いでいく。

「あら、うれしくないの?」
「そりゃ嬉しいさ。予想外ってだけで……好きな人から告白されたんだ。嬉しくない訳が無い」
「そうそう。嬉しい時には素直にそんな顔をしておきなさい、ギィ。大体、信じられないとか相手に失礼でしょう?」

 ココロがほほ笑みながらそう告げた。
 嬉しい時には、か。
 確かにそうだ。信じられないとか驚いてるとかよりも素直に喜びを表に出してニヤけていた方が良いのかもしれない――何しろ“とんでもなく嬉しいのだから”。

「……」

 いかん。思い出した瞬間、頬のニヤケが止まらなくなってきた。

「本当に嬉しかったのね、貴方」
「ま、まあ、そりゃね」

 ココロがニヤニヤと唇を歪めて呟いた。
 嬉しい――嬉しくない筈が無い。
 信じられない――それはそうだ。これが夢だと言われても(実際ここは夢みたいなところだが)、信じてしまいそうなほどだ。
 ――本日未明、不知火義一は、マヤ・リンドグレーンから“告白”を受けた。火星開拓基地で中学生日記みたいな告白を受けるとは思いも寄らなかったが。

 マヤ・リンドグレーン。
 火星開拓基地のカウンセラーであり――俺が守った女性だ。
 きっかけはなんてことは無い、よくある話。
 火星開拓基地なんていう閉鎖空間にずっと居続けると――つまりは溜まるのだ。性欲が。
 そうして暴漢に成り下がったアメリカ組の一人が彼女を襲おうとして、俺が止めに入って返り討ちにあった。身長190cmの巨漢に何も考えずに挑んだのだから、当然の結果だろう。
 そうして、俺が返り討ちにあっている間にマヤはシャノン――火星開拓基地の副リーダーのアメリカ人――とドミトリ――ロシアから来た火星開拓基地のリーダー――を呼びに行き、彼らによって暴漢は取り押さえられた。
 その後、恐怖に震えるマヤを医務室で抱きしめながら――彼女が俺の治療をしてくれた――そうして、俺は元の生活に戻った。

 俺とマヤの間には何もなかった。めくるめく綺麗なお姉さんとの初体験とかそういうピンク色の思い出は無かったし、まさか傷ついた直後の彼女にそんなことをするのはどうかと思うし――いや、期待してなかった訳じゃないですけどね?ほんの少しだけは期待してたし、“誘われたり”もしたけど、古臭い考えかもしれないがそういうことは好きな人とするべきだって、感情があって――結局俺は“誘われて断った”。

 ――初めては好きな人とするべきだよ、マヤ。もっと自分を大事にしなきゃ。

 確かそんなことを言ったような気がする。気が動転していて、何も考えられない状態で、咄嗟に口を吐いて出た言葉だが――今、思えば、ありえない台詞だと思わないでもない。
 何という臭い台詞。その時の台詞を反芻するとそれだけで鳥肌が立ちまくってしまう。

「……あの瞬間のギィは正直、別の誰かに見えたわ」
「も、勿論、かっこよくてだよね?」

 ココロが割と冷たい目でこっちを見ている。

「臭すぎて。酷いものだったのよ、貴方の台詞」
「ですよねー」

 否定のしようが無かった。
 思わず俯いて、溜息なんぞを吐いてしまう俺に、ココロが声をかける。
 クスクスと微笑みながら――彼女も喜んでくれているのかもしれない。それが素直に嬉しくてホっとする。

「けど、それが切っ掛けでマヤさんは貴方のことを好きになったんでしょ?」
「うん、まあ……そうらしい」

 ちょっと頬を染めて告白してきたマヤを思い出す――その後の展開も。

『そ、それじゃ……よ、よろしくお願い、します。』
『こ、こちらこそよろしくお願いします。』

 共に右手を差し出し、握手。どこか政治家と政治家の握手を髣髴とさせる、そのやり取りは地元の壮行会で開かれた握手会を思い出す――告白の後の展開ってこれで合っているんだろうか。

【ち、違うに決まってるでしょう。】

 ココロのツッコミも心なしか上擦っている
 緊張と興奮で胸の鼓動がドクドクと煩い――彼女もきっと緊張しているのだ。
 握り締めた手が暖かい。汗ばんだ自分の掌と彼女の掌が絡み合う。
 彼女と目が合った。闇色の瞳。頬は紅潮し、いつもの冷静な姿はそこには無く、ただ嬉しそうに微笑む彼女の顔が――ドキンと心臓が一際煩く鳴り響く。

『……不知火、君?』
『あ、う、え』

 きょとんとしたマヤ。ドキドキが加速発奮ヤバイ何これ凄い――はにかむ彼女の顔に見惚れてしまっていた。今まで綺麗だとか彼女は絵になるとかそんなことを思っていたけど――今のマヤはそんなレベルじゃなかった。
 嬉しそうに微笑む彼女は物凄く可愛い。出来るならいつまでも見惚れていたいくらいに、この笑顔の為なら何だって出来ると思い込めそうな凄まじき可愛さ。
 ギャップ――これまで自分を含めた全員が知っている冷静な美人という下にはこんな少女のような素顔が隠れていた。

『ど、どうしたの?』

 どこか不安げにマヤがこちらを見上げる。小動物を思わせる動作。コロコロと変わる表情。無邪気な子供のようにすら見えてしまう。
 不安げな顔は変わらない。
 もしかして、やっぱり、断られるのか――そんな風に見えた。
 胸が締め付けられる。そんなことは無い。あり得ない。させるものか。
 ――この時点で、俺の脳味噌も随分と沸騰していたのだろう。

『だ、大丈夫。ちょ、ちょっとマヤが可愛すぎて頭がおかしくなりそうだったから。』
『……え、えええ!? えええ、ええっと、ええっと……か、可愛すぎて、って……っ!?』

 パっと彼女が握り締めていた手を離す。彼女の顔が今でも赤かったのに、更に真っ赤に変わっていく。
 俺はと言えば今しがた自分が呟いた言葉の意味を反芻して、更に顔が紅潮していく。

『あ、い、いや、ええっと……そ、そのままの意味で……』

 意を決して、胸中の気持ちを素直に伝えた。

『ひ、あ、う……か、可愛いって……可愛い、って』

 胸の前で手を組んで――マヤは可愛い可愛いと連呼していた。
 真っ赤な頬。けれど、可愛いと呟く度に彼女の顔のニヤケ具合が加速し――それはもう素晴らしい笑顔でした。

 ヤバイ。これはヤバイ。
 思わず顔を逸らしてしまう。ニヤけたせいで崩れた顔を見せたくないと言う子供みたいな矜持――どれだけ口元に手をやって、つねっても元に戻らない。
 “少女のような美女”――破壊力が抜群すぎて、見ただけでニヤけてしまいそうだった。というかニヤけていた。綻んだ頬が元に戻らない。
 チラリと彼女を見た――同じく彼女も俺を見ていた。
 二人の視線が絡みあう。知らぬ間に互いに一歩近づき――互いに互いの手を握った。
 ドキン、と心臓が再度跳ね上がった。
 とにかく何か話さなければ、と思い、口を開いた。話して居なければこの時間が終わってしまいそうな――夢じゃないのかと不安になってくる。

『ま、マヤは……さ。』
『……は、はい。』

 けれど、声が出てこない。考えてみれば、俺にはこういった経験が皆無だった。
 恋とか愛に関していえば、一度もしたことがない。
 だから――こんな質問をしたんだろう、と思う。どうしてこんなことを口にしたのか、今でもしっかりと覚えていない。

『い、いつから、俺に……?やっぱり、あの時、から?』

 そんな俺の質問にマヤは――

『あ、あの時の不知火君が……そ、その……かっこよくて……』

 それまでで一番の笑顔を浮かべながら――

『……王子様みたいだったから。』

 頬に手をやり、どこかうっとりとした口調で言い放った。
 その言葉を聞いた瞬間、俺の心はノックアウトだった。
 可愛すぎるだろ、この人。

 ――思い返すだけで顔のニヤケが凄いことになっている。
 そんな俺を見ながら、先ほどのニヤニヤとした品の悪い笑みのまま、ココロが呟いた。

「王子様ですものねえ」
「……お願い、繰り返さないでくれ。改めて言われると凄く恥ずかしい」

 王子様――いわゆる白馬の王子様というやつか。セレブっぽい家柄のマヤには似合いの言葉だ。
 だが、自分が王子様みたいと言われて悶絶しない人間など恐らく少数派だろう。ぶっちゃけめちゃくちゃ恥ずかしい。

 くすり、とココロが笑い、温かいコーヒーをカップに入れてを俺に向けて差し出してきた。

「それはそうと――おめでとう。心から祝福するわ、貴方達のこと」
「……ありがとう。君にそういってもらえると俺も嬉しいよ」


 そうして、俺たちはいつも通りに戻って行った。
 マヤとの関係は――少しだけ変化した。
 『ギィ君』、と彼女は俺を呼ぶようになる。
 そうして、幸せな時期が過ぎていく。
 格納庫で手を繋いで彼女と今日一日何をしていたかを話したり、雫やコウにからかわれたり、雫がマヤに教えたマニアックな日本の知識をマヤがおかしな解釈をして騒動が起きたり。

 ドミトリやシャノンにこのことを告げた時、彼らはただ祝福してくれた。彼らにしても、まさか俺とマヤがそういう関係になるとは思いもよらなかったのだろう――呆気にとられた表情のドミトリとシャノンなんていう珍しいものを見れて少しだけ満足した。

 コウは少しだけ悔しげに、「ギィの方が俺より先に恋人作るなんてなあ」と言って――けれど祝福してくれた。

 タイロンに至ってはチャペックに色々とあることないことをマヤに吹き込むように指示をして、逆にチャペックに全て暴露されてマヤに説教されていた。
「おーいおい、俺が一体何したっていうんだ?夫婦の営みについての基礎知識をそれとなくチャペックから吹き込むように指示しただけだぜ?」
『ローププレイとかローションプレイは子供出来る確率が高いとマスターは嫌がる私のデータベースに無理矢理書きこんでいきました。うう、キズものにされちゃった。』
「生みの親を簡単に捨てた挙句に自分は関係ないって顔しちゃってるよ、こいつ!?」
「タイロン、生物学的に見て変態だと思う」
「子供にまで見放された!!」
 何だかんだで楽しそうではあった。

 雫は――本当に祝福してくれた。
 初めは驚いて、次には俺がマヤに――その責任とらなければいけないようなことをしたのだろうと考えて疑って、最後は本当に満面の笑顔で自分のことのように喜んでくれた。
「おめでとう、不知火君、マヤ」
 一番、それが嬉しかったことを覚えている。

 兎にも角にも――そうして、俺たちの生活は流れていく。

 記憶はそこでぷっつりと途切れていた。
 自分が記憶喪失になった原因。
 自分はどうして冷凍睡眠などしていたのかという理由。
 他の皆はどうなったのかという疑問。
 そして――マヤはどうなったのか。その不安。
 どれほどに思い返そうとも、それらは思い起こすことが出来ないでいる。

 今でも瞳を閉じればあの頃の鮮明な思い出が浮かび上がる――仲間たちとの輝かしい思い出。彼女との温かな記憶、雫との大切な記憶。

 あの時、一体何が起こったのか。
 俺には――誰にも、何も分からないでいる。

 答えは誰にもわからない。
 分からないけれど――進むしかなかった。
 それ以外に道など無かったのだから。



[20390] 3.訓練――或いは修業(前編)
Name: maps◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/07/28 10:47
 不知火義一。
 一条雫。
 100年前の火星開拓団――災害の猿たち(カラミティ・モンキーズ)の一員であり、100年間の冷凍睡眠から目覚め、今に至る。
 至る経緯の一つ。パッチの装着による能力の取得。
 不知火義一――能力は炎を生み出す力/特筆する必要のない力。
 一条雫――能力は力場の作成/特筆する必要がある力。

 共に外界の調査を求め、風魔環太郎、アクア・ダンチェッカーとの戦闘による選抜試験を求める。
 外界へ向かう目的――自分たちはどうして冷凍睡眠していたのか。自分たち以外の仲間はどうなったのか。
 彼らの記憶は大部分――家族構成、自分は何者か、どうして火星開拓団になろうとしたのかなどの根幹の情報――は健在だが、“記憶”を失った原因については思い出すことさえ出来ない純然たる空白。
 予想される事態――火星開拓団による同士撃ち。または外部――宇宙人や未確認生物などのそれこそ予想外の――からの襲撃。或いはそれ以外の何か。
 それらを解明する為には絶対に外界へと向かう必要があった。
 自分たちの記憶が蘇らないとすれば、それは仕方ない。だが外部記録による確認だけでもやらなくてはならない。
 それは――半ば死んでいるであろうという確信を推し進める行為ではある。詰まるところ確認したいのだ。確認して、踏ん切りをつけたい。そうでなければ、前に進むことも出来はしない。そんな気持ちの発露。
 100年の眠りと言う非現実から、現実に舞い戻り、実感のない現実に色を塗りつけるような行為。それは生きる為に――未来の為に必要な行為だった。

 不知火義一においては、もう一つ目的がある。こちらは――恐らく、過去の為に。
 悲しむことが出来ずに泣けない不知火義一に出来た生まれた初めての“恋人”。
 悲しむことが出来ないからこそ、恋愛からは離れて――と言いつつ彼は限りなくムッツリスケベではあったが――生きてきた彼にとっては例外中の例外である女性。
 マヤ・リンドグレーン。不知火義一を“王子様”などと世の中の王子様に謝れと言いたくなるような例えを用いて、想いを告げた“妙齢の少女”。
 彼女は一体、どうなったのだろうか、と。不知火義一にとってはそれは至上命題であろう。何故ならば彼には“約束”があった。
 彼女と恋人になることで得た約束――陳腐であり、純粋であり、輝かしいほどに綺麗な約束があった。
 それを語るのはこの場ではない――それを知るのは彼とマヤとココロのみ。それを語るべきはまだ先の物語。

 ――彼らを見つけたアクアやリーティアの話によると、彼らのいた場所には彼ら以外に冷凍睡眠していた人間は存在しなかったとか。
 ならば、彼らは彼ら自身の力だけで冷凍睡眠していたというのだろうか。
 或いは――誰かが彼らをコールドスリープカプセルに押し込んだのか。

 全ては憶測だ。何もかもが曖昧で仮説の域を出ない。
 それを確認する為に――その為に、不知火義一と一条雫は己の有用性を証明せねばならない。
 有用性の証明。
 力の証明。
 ――無力な弱者ではないという証明を。


 環太郎君とアクアさんに挑戦状を叩きつけて――どちらかというと叩きつけていたのは雫だが――から、既に一週間が経過していた。
 試験までは一ヵ月。残りは三週間。時間は――無い。
 訓練自体は滞りなく進んでいった。
 当初、パッチの力を操り切れていなかった俺も今では雫と同程度の運動能力――1000mを全力疾走で3回連続で繰り返す程度のことは出来るようになっていた。
 最もそれは最低ラインの能力とも言えるが――まあ、カズナさんとかリーティアに置いていかれることが無くなったのはちょっと嬉しい。
 今は夜中の訓練だ。
 授業、食事、部活、睡眠。それ以外の全ての時間は訓練に注ぎ込んでいる。どれだけやったところで時間は足りない。だからこそ悔いを残さないようにやれるだけやることにしていた。

「……面白いな。私が想定していたのは剣に近い形だったが、その方が君の戦いに向いてないか?」

 感心したように告げる雫。

 雫と俺の“炎”について話していたところ炎の形を変えることは出来ないのか、と言われ、その結果出来あがったものが自身の右腕から、伸びるモノだった。
 ただ垂れ流すだけの炎を操作し、収束し、一つのカタチを作り上げる。
 そして現れたモノは――鞭。炎の鞭だから炎鞭とでもいうべきか。
 剣のようなイメージを描いたが、入り込んだ雑念によって、無駄に長くダラっとした形――鞭のような姿に変化してしまっていた。
 収束した炎は密度が増して、熱量と勢いを増加させている。
 これなら攻撃にも使えそうだ――そんな想いを抱き、頷く。

「――確かに。俺向きかもしれない」

 そう呟き、軽く振ってみる。 
 腕の振りに従い、炎鞭は唸り、しなり、空気を切り裂き、地面に接触――地面を抉り、痕をつけた。
 威力はそれなり。射程距離も問題ない。炎を操作することで着弾点の操作や本来あり得ない軌道に変化させるなども出来る。使い勝手は申し分が無い。だが――だが、だ。
 “これでは足りない。”
 漠然と――けれど、直感的にそう感じた。

 現状を把握する。
 不知火義一の力は、風魔環太郎とアクア・ダンチェッカーに及ばない。
 絶対に敵わないというレベルではなく、10回戦えば勝てるのは3,4回というところ――けれど今回の戦いは絶対に勝たなければいけない戦いだ。その3,4回を必ず掴み取らなければいけない。
 現在の俺たちとあの二人の差はチーム戦ならば連携や誘導、作戦によって何とか出来るかもしれないが――戦いというものは必ずどこかで個人の能力が必要だ。
 サッカーやバスケ、野球然り。どれほどに卓越したチームワークがあろうとも、個人対個人という状況が発生する。
 その時、俺たちは――俺はその状況を打破することができるのか。

「……どうした?」
「ん……いや、これだけじゃ通用しないんじゃないかってね」
 
 腕を振って炎鞭を消す。
 武器としては申し分が無い――けれど切り札にはなりえない。何かが足りない。そんな漠然としたイメージ。

「状況によると思うが――まあ、私たちが劣っていることは間違いない」

 雫の言葉に頷く。

「俺たちは劣っている。だからこそ連携で補おうとしてるんだけど――」

 まだ、足りない。その言葉を飲み込み、次の言葉を紡ぐ。

「修行、だな」

 雫が頷き自身の修行に戻っていく。
 俺はもう一度右手に火を灯し、炎鞭を空中に向けて、振るい伸ばし――高速で戻す。次いで、右方に向けて伸ばし先端を操作し形状変化、上空へ向けて、更に伸ばす。引き戻しは高速。ブンッと風を切る音を立てて、炎鞭が手元に戻り――再度放つ。
 繰り返す。認識/確認――練習。

 雫も俺も焦りが無いかと言えば――そんなことはまるでない。
 大きな実力差が存在する相手に挑むのだ。勝てる確証など無い。冷静に考えて負ける可能性の方が大きい。

 その差を埋める為の訓練だが、一ヵ月という限定期間ではどうしたって無理がある。
 パッチによる訓練――もはや修行と言った方が正しいかもしれないが――は、100年前に俺たちがやっていたソレとはかなり意味が違ってくる。
鍛えるという行為は、訓練を行うことで能力を上積みしていくことだ。今出来なかったことを訓練を繰り返すことで徐々に徐々に出来る状態に近づけていく。
 だが、パッチを装着した人間はそんな常識を覆す。何しろ身体能力が爆発的に向上する。老若男女を問わず誰もが超人となる。そして――ここからが最も重要なことだが、パッチを装着した人間の訓練はその意味合いを変える。
 訓練を上積みし能力を向上するのではなく、パッチから力を引き出し能力を向上する。以前、リーティアが「脳をぎゅっと絞って――」と言っていたが、実際その感覚さえ掴んでしまえば能力は劇的に向上する。ある一定のラインまでは。
 そのある一定のラインに到達すると、そこからは俺たちが知っている訓練と同じようになる――即ち鍛えた肉体が超回復を起こし、休息を挟んで、成長する、という類に。
 風魔環太郎。アクア・ダンチェッカー。
 この二人はフォーサイスでも有数の実力者だ。当然、その一定のラインになど到達しているだろうし、そこからさらに成長し――その結果として、彼らの今がある。

 雫が何度も斬撃を繰り返し、縦横無尽に丘陵を走り回る――仮想敵を想定しての実践訓練。
 対して俺は――炎鞭を振るい動作を確認しながらも静かに考える。考え続ける。
 大切なのは自分を自覚すること。
 シャノンが以前俺に言ったことだった。

『私が君に教えているコレは相手を倒す方法ではなく、速やかに状況を制圧する為の方法だ。』

 えらく物騒なことを、いつも通りのにこやかな調子で彼は俺の耳元で呟いていた。

『武装も無い、味方もいない、敵は多い。そんな圧倒的不利な状況下でも生き延びる為の“方法”であって戦術などではない。』

 呟きは優しいが、それとは裏腹に“彼に極められかけている首”にかける力は遠慮が無い。
 彼の右腕は俺の首を締めあげようとして、辛うじて俺は右手を挟んで完全に極まることを防いでいる――が、どれだけ力を篭めて、シャノンの腕を外そうとしても外せない。凄い力と言う訳でもないのに、こちらの力が完全に流されているように感じられた。

『大切なのは自分自身を自覚すること。自分がどれだけ弱いのか、或いは強いのかを自覚して、何が出来るかを考えること。』

 呟いて、シャノンの右腕が少しだけ動く。その隙を逃さず首をそこから引き抜こうと渾身の力を篭めて――まるで魔法のようにシャノンのチョークスリーパーは完成していた。
 がっちりと極まった彼の右腕。圧迫が始まり、その力は無駄なく的確に俺の意識を落としにかかる。

『今であれば3分34秒。君が落ちるまでの時間だ。』

 呟きは穏やかに。
 口調は優しく。
 けれど、締める力は遠慮なく――意識が真っ暗闇に落ちる。
 抗おうと思った瞬間には何もかもが遅かった。
 というよりも、抗おうと思ったことが間違いだった。シャノンはそれを待って、“わざと隙を作った”のだから。

 ――思い出したくもないことを思い出して、背筋に鳥肌が立った。懐かしい記憶だけど――自分が落ちる瞬間は思い出したいものでもなかったりする。

 優男という外見に似合わず、シャノンはそういった荒事にも滅法強かった。ついでにえらく遠慮が無かった。少なくとも両手両足の指の数では足りないくらいには落とされたと思う。

 そんなシャノンの言葉。
 自分を自覚すること。自分がどれだけ弱いのか。どれだけ強いのか。その上で何が出来るのかを考えること。

 イメージを変化。手を開き、五指の先からそれぞれ個別の炎鞭が伸びていくイメージ。
 五股の炎鞭が生まれる。炎鞭の操作は個別に行える――その全てが自分自身であり、意志を通すことが出来ている。五股の炎鞭が個別にうねり、くねり、蛇のように絡まり、蠢き、引き戻し――一つの炎鞭に戻す。
 所々がほつれ、力の収束に失敗している炎鞭。威力はそれなり。まずやるべきことは、これらの完全な制御か、と考え精神をそちらの集中に傾ける。漠然とした“不足”を感じつつも、ただ没頭することで焦燥に抗う。

 ――負ける訳にはいかない。絶対に勝って外界に行かなければならない。出来る限り早く、“確認”しなければならない。
 雫も俺もそう思っていた。
 この戦いは絶対に負けられない戦いなのだ。
 負ければ、一年間は外界に出られない。
 それは――絶対に嫌だった。
 そこには強い執着があった。絶対に引き下がれない理由があった。

 ――マヤ・リンドグレーンと言う女性がいた。
 不知火義一にとって、初めての恋人。彼女についての記憶は所々が霞がかかっているように曖昧だった。
 彼女が今どこにいるのか。生きているのか死んでいるのか。
 それは分からないが――仮に彼女が生きているとして、彼女が目覚める時には自分が傍にいなければいけないという焦燥が胸にはある。
 どうして、そんなことを思うのか。
 “肝心”なところはまるで思い浮かばないけれど――多分、きっと、大事なことなのだという確信が焦燥へと変わり、胸を締め付ける。
 雫は変わることなく斬撃の練習とそれに伴い現れる“効果”の理解と習熟。
 俺は――炎鞭を振るい、動く。それだけを繰り返す。
 足りない。
 そんな焦燥は消えずに残り続けていた。



「――まるで必殺技を探してる少年漫画の主人公ね」
「大体合ってるかも」

 呆れ顔のココロ。スプーンでコーヒーをかき混ぜながら、そう呟く。
 少年漫画の主人公――うん、大体そんな感じだろう。違いがあるとすれば――

「けど、正々堂々やれば、勝っても負けても良いなんていうのは無いよ。俺にも雫にも」
「でしょうね。大体、そんな余裕は無いでしょう? 貴方も雫さんも」
「余裕……は、無いな」

 差し出されたコーヒーを口に含みながら、呟く。
 ココロの言う通り、そんな余裕など初めから存在しない。
 何が何でも勝たなければいけない。策を弄しようと、罠にハメようとも、仮に卑怯千万と言われたとしても――結局のところ、勝たなければいけない。勝たなければ何も始まらない。

「あと、三週間」
「思いつめてるわねえ」
「……思いつめるよ、そりゃ」

 椅子の背もたれに体重をかけて、天井を眺める――天井はクリスタルのように透き通っていて、その奥は漆黒の真っ暗闇。何も見えない。
 それは俺の心の不安をそのまま滲ませているような気さえする。
 不安――自分と雫は生きていた。なら、他の皆はどうなったのか。皆は生きているのか。彼女は生きているのか。そんな不安。

「……マヤさんのことが心配?」
「そりゃ………そりゃ、そうだよ」

 マヤ・リンドグレーン。不知火義一が火星に来て、連れ添った“初めての恋人”。
 彼女は――果たして生きているのだろうか。死んでいるのだろうか、と。
 胸の焦りはそれによるところが大きい。
 彼女と恋人になっていなければ、焦りはあったろうが、ここまでの焦りは無かったと思う。諦めもついたかもしれない。こんな風に“悲しめないことを悔やまなかったかもしれない”。
 けれど――俺とマヤは“そういう関係”になってしまった。
 悲しめない俺は、涙を流して、過去を洗い流すことも出来ずに――ただ過去に依存しているだけな気もする。

「……私の言った通りになっちゃったわね」
「そうだ、ね」

 頷く。
 いつか彼女が言った言葉――悲しめないことに貴方いつか後悔する。

 彼女の言う通り、これは後悔だ。
 俺はこの後悔を埋める為に確認したがっている。
 それは悲しめない自分を誤魔化すだけの行為なのかもしれないが――マヤのことを思い浮かべる。
 火星開拓基地での俺と彼女。楽しく語ったり、仕事したり、からかわれたり――あと、まあ色々と人には言えない18禁じみたことをやったりやらなかったり。
 そして、頭痛。
 フラッシュバック。

『ギィ君、お願い……おね、がい。死なな、いで。』

 茫洋として曖昧な誰かの顔。輪郭だけしか認識出来ない。
 声はノイズ混じりでよく分からない。
 何故ならば、俺のことをそんな風に呼ぶのは、世界で彼女ただ一人。だから、これは彼女だ。この“泣いている”声は、マヤ・リンドグレーンの声なのだ。
 記憶を取り戻して、パッチを装着してから聞こえ出した声――その声が焦りを促していく。
 心を急かし、いてもたってもいられないようにしていく。
 黙りこむ自分――ココロがくすりと微笑って、呟く。

「貴方の力は炎を操作する力」
「……ココロ」
「一緒に考えましょう、ギィ。とにかく何がどうなったとしても貴方は勝たなければいけない。そうでしょう?」

 知らず――真一文字に結んでいた唇が綻んだ。
 はあ、と一つ息を吸い、吐く。

「……うん、ありがとう、ココロ」
「気にしないでもいいわよ……それじゃ、まず確認から始めましょうか」
「ああ」

 ココロが俺を真剣に見つめ、始める。

「貴方の力は、炎を生み出し、操作する力――これは間違いないわね?」
「付け加えると、俺には俺自身が炎だって認識も存在してる」
「血液とかも炎って認識しているものね」

 頷く。
 だからこそ、血液は炎だ、と認識することで、眠りにつきたいと願う一瞬で意識を鮮明にすることが出来る。
 認識するまではそうではないと考えているのだから――そうでなくては、知覚するまで眠いなどと思う訳が無い――炎である自分と炎ではない自分が並列している錯覚。
 ココロが続ける。

「威力はそれほどでもない」
「少なくともパッチを持った人間には全く意味が無いね」

 雫は熱がる様子がまるで無かった。
 恐らく誰に対しても俺の炎は損傷を与えるには“足りない”。
 雫も言っていたが――精々が目くらまし程度の意味合い。

「形を変えることは出来る……わね?」
「ああ、鞭に変えることができた」

 先ほどまでの訓練で繰り返し振るい続けた炎鞭を思い出す。
 炎を収束し、一つの形に寄り合わせることで形状を与える――実体のない炎に実体を与える術理。

「それ以外の形には出来ないの?」
「出来る――と思う。けど、どんなモノにでも出来るって訳じゃない。イメージ出来るか出来ないかで全然違ってくると思う」
「ああ、そういえばそうね。あの鞭だって、結局剣の成り損ないだし」
「……まあ、そうなんだけどね。もう少し歯に衣着せてもらえると嬉しいんですけどね、ココロさん?」
「何よ、事実じゃない。それに、そのおかげで分かったこともあるのよ?」
「分かったこと?」
「これはギィに限ったことじゃないと思うけど――多分、相性みたいなものがあるんじゃないかしら」
「相性……形の相性ってこと?」

 頷くココロ。

「正確には、能力との相性ね。ギィの――というか炎は留めておくこと自体難しいんじゃないかしら」
「ああ……そう言われるとそうかも」
「炎っていうのはそういう“現象”じゃないからでしょうね」

 炎には“カタチがない”。
 どんな類の炎であってもそれは変わらず――凍てついた炎にでもならない限り、不定形なことこそが炎の証みたいなものだ。
 それ故に留めておく――つまり、ある形状を作り上げて固定するということは難度が跳ね上がる。元々炎とは“そういう現象”ではないのだから当然のことだ。
 つまり、今の不知火義一が出来る“形状固定”が、鞭ということになるのだろうか。

「ギィ、あの鞭は炎を収束させて作ったのよね?」
「えーと、多分そう」

 原理についてはよくわからない。正直、パッチのおかげだとしか言えないが――あの炎鞭はただ燃え盛るだけだった炎を寄り集めることで作り出したているのだ――と思う。
 寄り集めることで密度を上げ、結果として鞭に似たカタチを得たという、ただそれだけの“現象”だ。

「それなら、それをもっと推し進めて――こういうのはどうかしら?」

 ココロが告げる。
 どこか悪戯を考える子供のような態度。
 子供なのは確かだから、間違ってはいないだろう。

「む。ギィ、何か失礼なことを考えているでしょう?」
「そんなことないよー」
「……まあ、いいわ」

 ココロが言葉を放つ。

「“炎を最大限に放ちながら、圧縮して溜め込む”っていうのはどうかしら?」
「……なんか、矛盾してる気がするんだけど」
「えーと、イメージは……ギィ、風船に空気を入れるとどうなる?」
「そりゃ割れるだろうね……って、ああ、そういうことか」
「察しが良くて助かるわ」

 意志が通じたことにココロが安心したのか、微笑みを浮かべた。
 つまり、どういうことかというと――

「炎を全力で放ち、鞭を作る要領で“収束”させる――そこまですると、もう圧縮だろうね」

 イメージは弾け飛ぶ寸前の風船。全力で収束――圧縮を行い、溜め込んだ炎を一気に解放する。
 確かにそれなら可能だろう。技術的には鞭を作ることと大差無い。
 何せ、それらは全て“出来る”技術だ。
 技術的な難易度は大したことが無いと言って良いだろう――問題なのは、全てを同時に行うということが難しいと言うだけで。

「……出来るかな?」
「分からないわ。けど、何もせずに諦めるよりは良いと思うし、迷っているなら出来ること全部やった方が良いと思う。それに何より――」
「何より?」
「こういう技こそ必殺技っぽいって、そう思わない?」

 楽しげに、どこか皮肉気に彼女はそう言った。
 唇を引くつかせて、苦笑するが――彼女の言う通りに確かに“必殺技っぽい”。
 少年漫画的な展開と言えば、そのまんまだ。
 雫あたりは大喜びするかもしれない――すいません、俺も大好きです。

「それじゃ、そろそろ朝よ、ギィ」
「ああ、もうそんな時間か……ありがとう、ココロ。また来るよ」
「ええ、その間、私も何か考えておくわ」

 そうして、俺は朝を迎える――さあ、一日の始まりだ。



[20390] 4.訓練――或いは修業(中編)
Name: maps◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/07/29 19:05
 前へ進む。
 ひたすら、前だけを見て進み続ける。

 或いは階段を登り続ける。
 先の見えない螺旋階段をひたすら足が千切れそうになっても登り続ける。

 時に不安に振り返り、時に絶望のあまり階段を駆け下りたくなる。落下したくもなる。
 けれど、それをしたら人間としてはおしまいだ。

 故に、俺は歩くしかない。
 ――人間として。
 ――人間の誇りを抱いて。

 見えるモノは炎。そして――“進化の階段”。

 “炎”が真っ赤に燃え盛った。
 憤怒と言う炉に憎悪と言う燃料が投下されたのだ。

 ――“進化の階段”。
 そのフレーズが“酷く憎い”。

 俺たちはそうして進み続けるしかない。人間はそうして生きてきた。
 それが分かっていても尚――それは度し難い憎悪の塊だった。

 ノイズ混じりの声。
 モザイクだらけの映像。
 ツギハギの過去。
 大切なモノが抜け落ちて、大切なモノを奪われて、地に伏した敗者。
 執着があった。
 決して忘れてはならない“執着”。

 残念ながら今の俺には何も分からないけれど――それでも、何かを“奪われた”ことだけは理解している。それがどうしようもなく悔しく怒りに満ちていく。
 悲しみは――無い。悲しみも感じないことに驚きを感じつつ、俺はそれでいいのだ、というか確信がどこかに存在している。

 ――信念は炎に似ているわ。

 少女が俺に告げた言葉。
 ああ、そうだ。信念は炎に似ている――燃え盛り、時に蒼く、時に白く。揺らぎながらも天を衝こうと燃え盛るのだから。
 炎とは、“燃え続けなければいけない”。
 燃え続けることでしか炎は炎として在り続けられない。
 同じように――信念も“磨き続けなければ”、信念として在り続けられない。
 ならば、俺の信念は何だ。

 ――声はノイズ混じり。映像はモザイク混じり。パッチワークのようなツギハギの記憶。

 空っぽの心の中にあっても、消えることのないソノ思い出。
 闇色の瞳。穏やかな横顔。悪夢のように蠢き続ける彼女の涙。

「あ、あ、あ、あ」

 それは――多分、本来の俺とは違う叫び。
 執着が呼び起こす変化。
 憤怒が巻き起こす変化。
 悔恨が巻き起こす変化。
 悲哀――悲哀は無い。
 だから固執する。怒る。悔やむ。
 喜怒哀楽の哀が無くとも、怒があった。ただ、そんな現実は認めないという憤怒が。

「あ、あ、あ、あ」

 手を伸ばす――手を伸ばす。
 どことも知れぬ暗闇の中で、手を伸ばす。
 手には炎――信念が灯っている。朱い信念――絶対に奪い返すという決意の火。

 自分が今何をしているのか、実際のところよくわかってはいない。
 大体、今自分がどこにいるのかも理解していない。
 これが現実なのか、夢なのかどうかすら定かではない。
 ならば何故――答えは明白。単純にして唯一の解答がそこにある。
 “女がそこにいる”。
 氷漬けにされて、その身に白い鎖が巻きつけられ、瞳を閉じて、死んだように眠り続ける“女”がそこにいる。
 その女が誰なのかなんて、“今の俺”には分からない。
 胸にあるのは焦燥だ。


 早く取り戻さなければ何かが終わる――

                    ――それが何かも分かっていないのに胸の焦りは消えない。

 それだけは認めてはならない――

                    ――それが何かも分かっていないのに怒りだけが湧き上がる。

 手を伸ばせ――
                    ――届くかどうかわからないのにそれでも手を伸ばす。

 氷漬けの女が解けていく。炎によって鎖が解けていく。
 捕縛が消える。世界が書き換えられていく。
 絶叫。叫び。咆哮――ただこの信念を燃やし続ける為に、全てが一極同化し、尖鋭化する。

 我は炎。故に■■である彼女とは対極。螺旋模様に絡み合う世界の法則。
 その只中で――例え誰もソレを望んでいないとしても、それでも踏破しなければいけない信念がある。
 それは――それは――それは――。

 手を伸ばす。

「“まだ、早い”」

 言葉と共に伸ばした手が掴まれた。
 黒く長い髪。柔和で穏やかな声。心の底から安堵を覚えさせる声――同時にどうしようもないほどに“信念(ホノオ)”を盛らせる声。
 瞳がぎらつくのを自覚する。奥歯を噛み締め、脳髄の最奥より湧き上がる憤怒悔恨慟哭咆哮歓喜――ありとあらゆる感情を炉にくべたような複雑怪奇極まりない感情。

「まだ、君は“到達”していない――残念ながら、ここまでだ。」

 男が表情を変えないまま、指で暗闇を指す――そこには階段があった。
 朱い螺旋階段。“進化の階段”。

 激昂が全身を震わせた。
 ふざけるな。俺は到達などしない。
 到達して奪われた。到達して失った。到達して壊れていった。
 到達などしない――俺は、そんなふざけた“法則通り”に登らない。

「……それは残念。だが、それでは君はいつまでも彼女には到達出来ないのだよ?」

 それでも――それでもだ。
 俺は“そんな階段など登らずに彼女に到達する”。
 そんな世迷言を叩きつけた。きっと、多分、絶対に――それは在り得ない現象。
 けれど、男はほほ笑んだ。
 本当に子供のように無邪気な顔で――憎しみも、憎悪も全てを掻き消すような笑顔で、

「それは――面白い、な」

 男は呟いた。
 意識が消える。断絶する。暗闇に落ちていた意識は、明るい光の元へ。
 浮かび上がる。
 世界が近づく。
 朝が始まる。全てを忘れて、一日が始まる。

 ――“切り替わる”――

「う…?」

 眼が覚めた。
 寝汗が酷い。心臓がドクドクと蠢いている。
 何も覚えていないのに――きっと何かがあったのだと身体が認識している。
 見えるモノは既に見慣れた天井――右手を顔の前までやり、開く。
 全身の血液が炎だと認識する必要も無く、意識ははっきりしている。
 まるでつい先ほどまで炎を発していたような、そんな錯覚さえ覚えた。

「何が……あるっていうんだ。」

 呟く。得体のしれない状況――脳裏に渦巻くパッチワークの情景。
 涙を流す誰か。氷漬けの誰か。鎖で縛られた誰か。
 それはが、誰なのかは分からない。分からないけれど、確信があった。
 多分、それは“彼女”なのだろう、と。
 胸に渦巻く焦燥――彼女のことばかり考えようとしている自分。
 俺はどうして――そこまで考えて、自己嫌悪に陥りそうになる自分を振り切って、ココロに声を飛ばした。

『……ココロ、何か覚えてる?』
『いいえ……何も分からないわ』

 ココロの声。何も分からない。何も知らない。
 当然だ。俺と彼女の記憶は同一のものである――故に、俺が何も知らなければ、彼女もまた何も知らない。
 だから、互いにこの困惑を理解している。
 目覚めて、記憶を取り戻してからずっと続く現象。
 内容の分からない夢を俺はずっと見続けている。
 誰かに促されるように、誰かに誘われるように――胸には焦燥だけが募っていく。
 ギリっと奥歯を噛み締め、起き上がる。
 ふと、鏡が眼に入った。
 鏡に映る自分は何かに追い詰められたような表情をしていた。
 怯えているようにも、怒っているように、憔悴しているようにも見える――少なくとも楽天的ではない表情だった。


 雫と俺との訓練は日に日にその激しさを増していった。
 急激に伸びていく雫に追いすがるように俺も必死で毎日の訓練に精力を傾けた。
 昼は勉強と諜報部の活動。それが終われば訓練、訓練、また訓練。
 何度も何度も繰り返し続ける。

 大昔――俺にしてみれば数年前まで続いた訓練を思い出す。
 最初はとにかく勉強。
 日本語をしゃべれる程度で火星になど行ける訳がないから、とにかく英語を勉強した。
 最悪でも英語で書かれた論文を読めた上で日常会話を問題無く出来る程度の語学力は必要だった。
 それ以外にも幾つもの課題があった。
 何しろ、火星に行こうと思い立って、ようやくまともに生活が送れるようになったのだ。出遅れているなんてもんじゃない。
 最初からスタートラインが通常よりも大きく後方に引いてあるようなものだった。
 それでも腐らずにひたすら努力した。
 火星に行かなければならない。行かなければいけない。使命感にも近い感情――実際は縋り付いているだけだったが、必死さにおいては同じようなものだった。
 だから、勉強した。
 大きな目標ではなく、目標を一つ設定し乗り越え、次は最初よりも少し目標を大きく設定し乗り越え、その次は更に目標を大きく設定し乗り越え――階段を登るようにして、一つ一つ目標を乗り越え続けた。
 ココロがいたから最初は頑張れた。自分だけならきっとあの時に諦めていた。自由と言う途方もない平原で彼女が生き甲斐をくれたから自分は諦めずに頑張れた。彼女の叱咤と激励と――初恋の女の子にかっこいいところを見せたいと思って頑張れた。
 そして、雫がいたから頑張れた。絶対に他人のことを慮ってはいけない状況で、気にかけるという馬鹿みたいな彼女に救われた――彼女がいなければきっと諦めていた。彼女の背中に追いつきたい。彼女を支えたい。あらんばかりの大事なモノをくれた彼女に何かを与えることが出来れば――そんな想いで頑張れた。

 そして今また同じ二人に助けられて、頑張っている。
 それが少しだけ嬉しく、少しだけ心苦しい。
 申し訳なさが胸にあった。シンプルに物事を考えられないでいる。理由は多分、“彼女”のことで――

(……今考えることじゃない。)

 そう、呟き――目前の“相手”に集中する。
 ここまでに4回ほど負けた相手に眼を向ける。

「準備はいいか?」
「ああ、問題無い。」

 相手――雫は二丁鉈を構え、静かにこちらを見つめている。
 状況――恒例の模擬戦だ。個人訓練とは別にこういった模擬戦をそれこそ何十回も繰り返し、お互いの“全力”で戦う。

「では、行くぞ。」
「ああ、行くぞ、雫……!!」

 互いに踏み込む。
 攻防が開始する。意識を切り替える。

「はぁぁ……ッ!!」

 雫が咆哮をあげて、空間に描かれた蒼い軌跡を斬撃として放つ。
 迫る斬撃。その数、視認できるだけで十。遠間より放たれた斬撃はこちらの間合いの外からの攻撃。
 俺にとっては一足で攻撃出来る距離ではなく――雫にとっては“一歩”で到達できる距離。
 斬撃を煙幕に雫が地を疾駆し、接近、加速。足元に作り出した力場を利用した瞬間移動と見紛うほどの高速移動。
 迫る斬撃は上下左右諸々を埋め尽くすように、俺の逃走方向を全て埋めている。弾くか受ける以外に回避方法は存在しない。
 炎鞭を両の手に形成。振るう。弾く。弾き切れなかった斬撃は全て防御。
 脇を締め、両腕に力を篭め丸まって防御――激痛鈍痛痛みが走り衝撃が視界を揺らす。斬撃の為すがままに後方に吹き飛ばされた。

「っ……!」

 呻きを上げて、前を見れば、既に雫が近づき、二丁鉈を振り上げていた。

「――っ!!」

 一瞬、反応が遅れる。こちらが斬撃を防御している間隙を縫うようにして踏み込まれていた。
 既に自分は彼女の間合いに巻き込まれている――左手から炎鞭を形成。殆ど反射に近い速度で突き出す――手の先から伸びる炎鞭は鞭と言うよりも蛇のような曲線めいた軌道を描き宙空を疾駆。
 雫がその炎鞭を避ける。回避したことで一瞬、動きが乱れた。
 その一瞬を用いて、後方に跳躍、態勢を整え――る暇など無い。雫の辞書に撤退という文字は無いのか、一心不乱にこちらに向けて接近、加速――消失。
 声を上げる暇などない。
 踏み込んだと思えば、既に雫の姿が掻き消えた。
 思考する時間は一瞬にも満たない刹那。
 視界には映らない。前方、左方、右方にはいない。上空にはいない――ならば、いる場所は明白。
 その場から全速前進急速離脱――ぐるり、と地面を転がるようにして旋回、予想通りに“後方”で二丁鉈を振り抜いた雫がそこにいた。

「十撃ち――もう一回だ。」

 何かを確認するような呟きと共に両手の二丁鉈を振るったことによって生まれた青い軌跡を、雫が蹴り抜いた。
 捌く得物は無い。受けることは出来ない。選んだ防御方法は回避――上空に跳躍。一足飛びで15m――脳髄のどこかでまだ“足りない”という漠然としたイメージが舞い降りた/頭痛――見えたモノは白い雪崩とそれを跳躍によって回避する俺と雫――無視/気にしている余裕は無い。
 跳んだ先には既に雫が迫っていた。
 左手を雫に向け、炎を放った。威力はまるで無い単なる目くらまし――雫の右手の鉈の一振りが全てを掻き消した。残る左手の鉈は既に振りかぶられている。
 右手から炎鞭を形成。威力は最大――それくらいの威力でなければ雫の斬撃を止めることは出来ない――全身全霊の力で叩きつける/叩きつけられた。
 炎鞭と蒼鉈の鍔迫り合い――拮抗は一瞬。エネルギーが空間を歪ませ、反発/破裂/爆発――互いに進行方向とは逆に吹き飛ばされ、距離が開く。
 風を切って疾駆――地面が近い。着地。
 息が切れることはない。膝が折れることも無い。
 パッチによってもたらされるエネルギーは“体力切れ”などを起こすようなことは無い。

 ――不知火義一と一条雫の訓練とは基本的に反復と実戦である。
 元々、パッチをつけた状態での戦いとは不思議なモノで――全力を出しながらも手加減が出来るという、ある種矛盾した状態に陥る。
 だからこそ、本来なら命がけになる実戦めいた模擬戦を何度でも繰り返すことが出来る。
 無論それも――互いに手加減をしようとする意識があるから成立するのだが。

「……」
「……」

 互いに無言のまま、にじり寄る――同時に弾け飛ぶように加速。
 一条雫――加速。高速域に到達。
 不知火義一――加速するも単なる疾走。高速域には程遠い。
 移動速度には大きな差がある。
 接触/炎鞭と二丁鉈が絡み合う。

「はぁっ!!」

 雫が右手の鉈を用いて渾身の一撃を放つ――こちらは炎鞭を手に纏わせ、受け止める/手が痺れ感覚が消失。
 下方より迫る雫の蹴り――スパッツを履いただけの下半身が露わに/見られても気にしないんだろうなと無関係な思考が稼働/体重を後方に傾け、倒れ込むように回避。
 そのままぐるりと回転、目の前に迫る雫に向けて殴りかかる/女性だから殴ってはいけないという感覚は生まれない。雫は雫である――火拳を放ち、二丁鉈の一本と激突。弾かれる。返す拳でもう一度殴打――これも同じく二丁鉈の内の一本に弾かれた。
 得物の差――どれほどに超人になろうとも間合いの概念は消えないという真実。
 無手は踏み込み攻撃を放ち、武器使いは間合いを保ち攻撃を放つ。
 或いは無手は攻撃を捌き投げる。武器使いは武器を掴ませて投げる。
 シンプルな事実は変わらない。
 雫が両手の二丁鉈を二本共、右肩に担ぎ薪割りでもするかのごとく振り下ろす――動作が大きく回避するには問題ない/一歩下がり、鉈が目前を過ぎていくのを見定めて、踏み込む――寸前、雫のスカートの中身のスパッツが見えた。

「へ?」

 間抜けな声を上げる。思考が一瞬停止。
 ひらりと舞ったスカート。くるりと回る身体。
 地面に激突するはずだった二丁鉈は“地面を抉りながら”止まることなく、彼女の股を通り後方へ――同時に彼女自身の身体も回転し、天頂より振り下ろされる二本の足。

「う、ぎ……!!」

 おかしなうめき声をあげて、背筋を反り返らせて、更に後退。
 目の前を雫の両足が通り過ぎていく――着地。その時には両手の二丁鉈を今度は交差するように構え、

(やばっ)

 突撃の態勢。至近距離から放たれる斬撃は意識を刈り取りかねない――拳を握り、炎を纏わせ火拳を作り突き出す。
 交差した二丁鉈によって“捌かれた”。
 雫が踏み込み、斬撃を放つ。残る左手を反射的に伸ばし、受け止めようとするも不可能だと悟る。

(だったら――)

 ――今度こそ、という挑戦を敢行する。
 開いた左手に全身の炎を集中/収束/圧縮/朱い輝き/明滅する火球を生成――最大稼働を開始/収束した火球に更に炎を集中し、火球が巨大化/同時に火球を圧縮し大きさを維持しつつ、更に炎を注ぎ込む。
 雫が斬撃を放つ。こちらの準備はまだ出来ていない。どうしても炎を溜めることが必要になるこの技は咄嗟に使うには分が悪い――それを理解していても、これ以外に使える技術が無い。
 吐きだすことと溜め込むことを同時に行う。その結果形成されるのは真っ赤に燃え盛る小型の太陽――とまではいかないが、少なくとも“俺であっても熱を感じる”ほどの炎だ。
 それを作り出すだけで、全身から炎が消えた。脱力感が生まれる――まるで“自分自身を火球に閉じ込めたような錯覚”すら覚える。

(駄目で、元々――ッ!!)

 斬撃に火球を押し当てる――激突する。
 カタチを持つほどに高密度に圧縮された炎が斬撃を受け止めた。

「はぁぁぁっ!!」

 雫が裂帛の気合と共に力を篭めて踏み込む――こちらは火球を突き出し押し込む。
 脂汗が流れていく。全身から脱力感――冷や汗が流れていく。パッチをつけて以来初めて全身に悪寒が走る。
 炎を左手に込めたことによる反作用――この火炎球(ファイヤーボール)を作る際にはいつもなる症状。即ち、全身の炎が消失するという作用。
 必殺技、と言うには未だ程遠いが、これがココロの考えた今の不知火義一が出来るであろう最大威力を引き出すための“技術”である。
 原理は簡単――ただ炎を纏め上げるだけ。炎を掌大に収束し、全身の炎と認識出来る全精力を注ぎ込み、その結果巨大化しようとする炎を圧縮しサイズを留める。
 炎の威力が低いのは単に温度が低いからであり――温度を上げるということは一朝一夕ではどうやってもできなかった。“だから”炎を圧縮することで威力の低さは解消されるのではないかということ。
 その結果として、生まれるこの火炎球(ファイヤーボール)はこれまでと比較することすら馬鹿馬鹿しいほどの超高温を手に入れることになる。
 だが――これは未だ不完全だった。問題があった。駄目で元々と言うのは比喩ではなく本当に“その通り”だから叫んだ訳で、

 ――イメージは破裂する寸前の風船。もしくは噴き上がる間欠泉。或いは、太陽から立ち昇る紅炎(プロミネンス)。

 解放点を探す。圧縮しながら最大出力を維持し、その上で一部分を解放する部分を検索し、放つ。
 けれど――イメージは所詮イメージでしかない。制御に全精力を注ぎ込んでいる以上、そこから更なる変化など行える訳もない。

「く……ぐ……ッ!」

 一瞬でも集中が解かれれば、失敗するという確信。
 制御以外に意識を持っていくことが出来ない。狭窄する視野。世界が狭まり、よく周りが見えない。汗が噴き出る。悪寒が走り抜ける。
 その先に進めない。解放することが出来ない。制御する以外に出来ない。

「足元がお留守だぞ、不知火君!!」

 雫が突然しゃがみ、無防備な足元に水面蹴りを放つ――俺はそれを防御することもできずに後方に転倒し、一瞬集中が途切れる。

「あ」

 火炎球にピシリ、とヒビが入った――解放される出口を見つけた“圧縮された炎”が燃焼し、外部に向けて、唸りを上げる。
 爆ぜる――暴虐が吹き荒れる。
 咄嗟に雫に向かって叫んだ。

「離れろ、雫――ッ!!」
「な、不知火君!?」

 両腕を組んで防御の態勢。火炎球(ファイヤーボール)が爆ぜる――一気に外部を燃焼させようと荒れ狂う。
 爆発。空間が激震し、大気が震え、視界が緋色に染まった。
 衝撃。吹き飛ばされた。為す術無く両手で防御していたからそれほどの痛みは感じないが、それでも凄まじい衝撃だった。威力で言えば、雫の“軌跡”の数倍以上。
 後方を見れば――

「……毎回思うが、凄い威力だな。」

 雫が自身の前方に斬撃の衝撃を停滞させ盾代わりにして衝撃波を防いでいた。
 ほっと胸を撫で下ろす。
 雫だから何とかするだろうとは思っていたが、予想以上の威力で、少し――うん、すいません、ぶっちゃけかなりビビってました。

「あれが、例の必殺技なのか?」
「まあ……さっきから失敗してばっかりだけど。」
 
 黙々と上がる煙を見ながらため息を吐いた。
 右手を開き、火炎球(ファイヤーボール)を作り出す。
 そこまでに必要となる時間は凡そ数秒――全力ではなく五割ほどの圧縮。

「ここまでは楽にできるんだけどなあ……ここからが全然駄目なだけで」
「これで五回目、か?」
「ああ。とりあえず、毎回ここまではうまく行くようにはなってきてるから進歩はしてると思うんだけど……」

 ココロの言った言葉。
 “炎を最大限に放ちながら、圧縮して溜め込む”
 実際そこまでは出来ているのだ。
 一瞬でも集中を切らせば、今のように爆発する。しかも作成した間はそれに集中する為、左手――或いは右手以外の意識が確実におろそかになる。
 元々最大限に出力して圧縮するという矛盾したことを行っているのだから、それは当然のことだが――あまりにも使い勝手が悪い。
 作成する為には高い集中力が求められ、維持する為にも高い集中力が必要となる。
 本当ならば、そこから火炎球(ファイヤーボール)の一部分を壊し、任意の方向に向けて炎圧を解放し火柱を撃ち出すつもりなのだが――現状そこまでを実戦でやれるほど習熟はしていない。というかそこまで出来たことは未だに一度も無い。
 落ち込む俺を尻目に雫は再度鉈をこちらに向けて訪ねてくる。

「もう一戦やるか?」

 恐らくそれは彼女なりの気遣いなのだろう――大昔の侍や英雄のような気遣いは、いかにも雫らしい。

「あー、今日はいいや。今ので結構分かってきた感じはするから、ちょっと復習したい」
「了解だ……しかし、炎というのも色々出来るんだな」

 感心したように呟く雫。

「それでもまだ駄目だ」

 炎を灯し、見つめる。
 ゆらゆらと燃える炎。全身の悪寒は既に消え去り、先ほどまでの不調が嘘のように健常に戻っている――火炎球(ファイヤーボール)の反作用が消えた証拠だ。

「実戦じゃ使えない」

 落胆のまま呟いた。
 ここまでを出来るようになるまでに一週間を必要とした。寝る間を惜しんで練習した結果だが――ここから先がどうしても出来ない。

 出力――炎を生み出す。
 圧縮――炎を小さくする。
 解放――炎を吐きだす。
 その全てを同時に行うことが出来ない。
 全てをやろうとすると必ずどれかが出来なくなる。
 あちらを立てればこちらが立たずというやつだ。

 ならば火炎球(ファイヤーボール)をそのまま相手に向けて投げつければ良いかとも思ったが、投げつけようとした瞬間に爆発した。
 かと言って至近距離で叩きつけて爆発させたとしても自爆にしかならない。
 はあ、とため息を吐いた瞬間、雫が呟いた。

「まあ、まだ時間はあるさ。悩む時間も磨く時間もまだまだ私たちには存在する。そんなに落胆することでもないと思うぞ、私は」

 落ち着いた雫の声。気が抜けたのかストンと地面に腰を落とした。
 噴き出た汗が夜風に晒されて身体を冷やしていく――炎の力を使えるからと言って汗をかかない訳ではない。
 その辺はパッチをつける前と大して変わりは無い。
 雫も腰を下ろし、休んでいる――胡坐をかいて座る姿がえらい似合っている。どこかの戦国武将のようだ。

「……しかし、やはり、楽しいなあ、こういう自分を鍛えている時というのは」
「雫は好きそうだよな、こういうの」
「不知火君も嫌いじゃないだろう?」
「そりゃね。男の子ですから」
「女の子だってこういうのは好きなんだぞ?私とかな」
「いや、雫は女の子とかの前に雫だから」
「……それは褒めているのか?」

 訝しげな雫の視線から眼を逸らし、空に眼をやる。
 素直な気持ちを伝えただけなのだ。
 俺が雫に抱く気持ちは――男女とかそんなの関係無い気持ちなんだから。

「褒めてるよ。雫は雫。男とか女なんて関係ない」
「……まあ、褒められてるならいいか」

 風を感じながら二人して空を眺める――火星の空とはとても思えない星空。
 自分たちが覚えている火星の空はこんな空ではなかった。
 星空こそ変わらないけれど――それでもこんな風に空を見ていられる場所ではなかった。

「雫は、みんなが生きていると思う?」
「さあ、どうだろうな」

 皆が誰を意味しているかは言うまでもない。

「ドミトリ、タイロン、シャノン、マヤ、コウ、ツナミ、チャペック」

 雫が読み上げる名前。
 カラミティ・モンキーズ――火星開拓団で俺たちが一番親しくした仲間たち。
 誰もが仲間だった。
 その中でも特に仲の良かった――俺たちにとって彼らは家族だった。

「冷静に考えれば生きているはずが無い。けれど、私たちと言う例もある」

 上空を見上げたまま、雫が告げた。

「神のみぞ、と言うところだろうさ。」
「……神のみぞ、か。」
「私たちは――私はそれを確認したいのかもしれないな。君は……」

 言い淀む。続きを促すでもなく待つ――言いたいことは分かっている。

「マヤを探したいんだろう?」
「……うん。」

 星空に向けて手を伸ばす――ビジョンが浮かぶ/氷と白い鎖――即座に消えて、即座に忘れた。

「マヤだけじゃない。ドミトリやシャノン、コウ、ツナミ、チャペック……あとタイロンとか」
「皆は生きている、と?」
「……生きてたらいいなあとは思ってる」
「そうか……そうだな」

 雫が起き上がり、背についた芝を払って落とす。

「その為の、残り二週間、か」
「泣いても笑っても――もう、それだけしかないんだよな」
「ふふ、違うな。それは違うぞ、不知火君。」

 肩を竦め、分かっていないなと雫が不敵に笑い告げる。

「磨いて輝かないものなんてない。君もよく知っているはずだ。私たちはそうやってこの星に来たんだ」

 二丁鉈を――振るう。一瞬十連。生まれ落ちた斬撃の軌跡はその場に停滞し、一点で交差し、円を形作る。
 次いで生まれ出でた“軌跡の円”に斬撃を加える。円はその軌跡を維持したまま爆音とともに疾駆し、100mほど進んだところで掻き消えた。

「だから大丈夫だ。二週間もあれば何だって出来るに違いない」
「……雫がそういうと本当にそう思えるから不思議だな」

 胸に安堵が広がる――不思議と雫の言葉には安心する響きがあった。

「足りないなら磨けば良い、か。そうだね、その通りだ」

 時間はまだある。出来る限りのことをやるには十分な時間だ。

「では気を取り直してもう一戦いくか」
「まだやるの!?」
「当然だ。まだまだ私の元気は有り余っているんだぞ?」
「……修業馬鹿がいる」
「……何か言ったか?」
「いえなにも」
「よろしい」

 鋭い視線。一瞬で背筋がぞわっときた。
 何あれ超怖い。
 まあ、言いたいことはよくわかる。
 俺も雫と同じくまだまだ体力には余力がある――もっと追い込んでも良いかなとは思っていた。
 ――存外、俺も修業馬鹿なのかもしれない。

「それじゃ始めるぞ、不知火君!日付が変わるまでにあと10回は戦うぞ――!!」

 ……訂正。雫に比べれば俺はきっと普通だ。

「……おー」

 今日も眠りは深そうだ。
 そんなことを考えて――夜が更けていく。
 空には満天の星空。星々だけが俺たちを照らしていた。


 ――私は罪を犯した。
 それは、決して許されることの無い罪。誰かに断罪されることでしか贖えない大きな罪。

 仲間を殺した。
 家族を殺そうとした。
 夢を壊した。
 世界を壊した。
 積み上げてきた全てを壊した。

 試練を与えるなどと“思い込まされて”――
                            ――その中に誰にも言えない汚らわしい想いを隠した。

 自分がどれだけ最低な女かを棚に上げて――
                            ――気付かれることを恐れて、私は彼に対して“嘘”を吐いた。

 ――私は罪を犯した。この想いを私は隠す。絶対に誰にも分からないように深く深く深淵に放り込む。

 何も知らない無垢な女だと思わせて――この胸の想いを告げることすら一人で出来なくて。
 彼女の力を借りることでしか私は想いを告げることすら出来なくて。

 ああ、それでも――

 馬鹿げた子供じみた夢。
 この檻の中から誰かが私を救ってくれる――きっと王子様が私の手を取って連れ出してくれる。
 そんな馬鹿げた夢を叶えてくれた彼。
 子供のようで、けれど時折見せる表情は酷く大人びていて――彼の腕が、指が、唇が、声が、心が、その全てが私を捕えて離さない。
 どれだけの年月が経とうとも、どんなに洗脳されようとも、きっと――それだけは消えない。
 大粒の涙を流して、子供のように泣き叫んで、みっともなく縋り付いてでも、私は彼と添い遂げたい。
 彼と一緒にいたい。
 氷漬けになって、雪崩と言う業を背負って、人類に仇為すという使命を背負った気になっても――この想いは消えはしない。

 だからこそ、私は罪を犯した――犯し続ける。
 こうやって待ち続けることが既に罪だ。
 こうやって焦がれ続けることこそが既に罪だ。
 私のような最低で極端で意地汚い女よりも、彼にはもっと相応しい“彼女”がいるというのに――“彼女”もきっと彼のことを好いていたはずなのに、私はそれすら裏切って、彼を奪い取って。

「……ギィ、君」

 呼びかけても答えは無い。

「……ギィ、君」

 果たして本当に声を出しているのかどうかすら定かではない。

「……ギィ君……」

 呟くごとに胸が軋み、“私(ココロ)”を壊していく。

 ――悲しむことでしか私はこの長い年月を過ごせない。人間ではどうにも出来ない年月を私は悲しむことで堪え続ける。

「…ギィ、君……!」

 声はどこにも届かない――私は誰にも届かない。

 そうして、女は孤独と罪に打ち震える。
 そうして、女はそこで悲しみに凍え続ける。

 百年前の開拓拠点の一つ。
 エリシウム山脈の麓、座標MP353411地点。
 不知火義一と一条雫の挑戦が始まるまであと二週間。

 物語は、未だ始まらない。


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