2009-08-21
「かわいそう」とコメントする人と「その先」を目指す人の違い
現在、社会において資源は有限であり、最適配分を考え、戦略性的に意思決定することは当たり前に行われています。競争をすれば必ず結果として優劣が出来ます。それを善悪で判断し、感情論を論じたら何かメリットはあるのかといえば疑問符がつきます。
絶対的に医療資源が不足しているところでは、「もう助かりそうにない患者」と「処置したら助かりそうな患者」はカテゴライズして分けて有限の医療資源を配分する、というシステム『トリアージ』というものがあります。助からない人を助けてたら助からない人が増える一方です。少ない資源と時間との戦いです。現場では徹底して合理的な判断が成されます。それが助かる人を最大化するからです。
こういったものに対して『かわいそう』とコメントする人がいます。この人たちに見えている世界は「目の前の最善」です。「全体や組織から見た最適」というものが想像できていません。ですので現実的な対処となると思考停止になります。最善を目指して、『こうでなければならない』といった現実離れした高い理想を抱いていれば、大きな落とし穴が待っています。
問題は感情的に批判していても解決しません。誰かがちゃんとやっていないから悪い。それを指摘しない人が悪い。システムが悪い。それに文句をいえば『誰か』が社会をいい方向にもっていってくれるはずといった期待があります。その『誰か』がどのようにして実現するのかまでは考えていません。現実的な案もないまま、やらなければならないと息巻いている状態です。
しかし、最初に「かわいそう」と感情を覚える人にこそ本気で問題に取り組める可能性を秘めています。「自分の熱い思い」だけが先行して空回りしているのに過ぎません。方向性や目的が合致させてあげれば、受動的ではなく自主的に行動するようになります。しかしそのためには、その「かわいそう」から出発して、その先に考えが進まなければなりません。
「で?どうするの」
「次へ問い」が次に進ませるキーワードです。自分で『どうすればいいか』がもやもやと頭の中で出来上がってくれば、採るべき行動が具体化されていきます。まさに、それが「戦略」というものです。戦略を立てる上で判断をしなければなりません。そこで感情論との葛藤が起こり始めるのです。その葛藤を乗り越えた先には、『かわいそうとコメントする自分からの脱皮』があります。「では、どうすればいいのか」からすべては始まるのです。
この世の中はすべて有限で出来ています。誰もが限定された範囲で行動することになります。そこに善悪はありません。我々にできることは、今そこにある資源をいかにして配分するかだけなのです。配り方が誤まってかわいそうな人が増えてしまって配るものがなくなったとき、自分もかわいそうになってしまいます。そこで初めて、目前の善に囚われていては善の最大化は出来ないと気づくのです。
マザーテレサは本人が意図したのかは別にして戦略的に動いています。持続的に献身を続けるために何が大切かを考え行動しています。ノーベル平和賞受賞の際「世界平和のために私達はどんな事をしたらいいですか」と聞かれて彼女はこう答えています。
『帰って家族を大切にしてあげて下さい。』
理想論を掲げる人の足元を見たすばらしい言葉だと思います。
『あきらめて撤退する』か『やるしかないと踏みとどまる』か判断に迫られた時を想像してください。踏みとどまることが賛美されるなかで、撤退した後の建て直しを考えられているでしょうか。それとも玉砕を覚悟して飛び込むでしょうか。「正しい」かどうかは『その時』は誰にも分かりません。その選択は後から来た人が批評します。『かわいそう』と。
ダメだった。二度とやりませんでは、また同じ事を繰り返します。感情論では何も学べません。なぜそうしたのか。そのときの判断の背景にはなにがあったのかを学ぶことこそ、経験を活かすことにつながります。「かわいそう」とコメントする人と「その先」を目指す人の違いは未来に責任があると自覚しているか否かだと思います。
「かわいそう」から『その先』を目指してみませんか。
参考文献
- 作者: 加藤陽子
- 出版社/メーカー: 朝日出版社
- 発売日: 2009/07/29
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参考記事
http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20090821/1250810684