2010-06-09
教わり続けた人と学び続けた人がたどり着く場所
現代は、既に先人が築いてきた知識、技術、マナー、考え方、ノウハウ等々が沢山存在しています。裏を返せば、それらを利用し、学び取るためには膨大な時間や資源などが必要だということです。そういった教育をたっぷり受ける機会と資源のある人は殆どいません。学びに対する成果を上げるためには『選択』をしなければならないのです。
選択という教育法が学びを支える。
教えることが上手な人を見てみると無理に教えようとはしません。本当に何もしていないように見えます。教えてもらっている人が悪戦苦闘しているにもかかわらず、手を出さない。しかし、実は何も教えていないかと言えばそうではありません。彼は悪戦苦闘から回答を導き出す過程をすっ飛ばして教えても意味がないと知っているからです。そして、自ら選ばせるという選択の重要性を知っているからです。
『見張る』のではなく『見守る』。
正しいことをしたら的確に褒めて成功した印象を植え付ける。間違ったことをしても決して怒らず、自分で反省するように促します。ようは、自ら選択して取り組んだ結果を経験として次に活かすように導いているのです。教えることが上手な人は、そういった自ら学び成長していく過程を支えているのです。学習にとって何より重要なのは自分で歩くという自律した「習慣付け」です。一旦、習慣ができた人は、放っておいても自ら取り組み、試行錯誤を繰り返し、成長軌道に乗っていきます。その過程を支えるだけでいい。つまり、見守るだけでいいのです。
この習慣づけは誰にも強制することは出来ません。例え強制したとしても見ていないところで必ず手を抜きますし、なにしろ長期間に渡って『続き』ません。見張るばかりでは、見ているほうも見られているほうも疲弊して倒れてしまいます。日本では教育というと教える側が教鞭をとり、労力と時間をかけて育てるといった『思い込み』があります。教える側が能動的になり、教わる側が受動的になってしまえば身につけるものも少なくなります。口を空けてエサを待っているものに、獲物を取りにいくという発想や能力は身につくはずがないのです。
これからの時代は、学習する環境が大きく変わってきます。昔とは違い、情報技術が発達してきているので教わる場所も時間も内容も制限が無くなってきています。電子書籍しかり、様々な動画サイト、管理ツール(メール、カレンダー等々)を駆使すれば、教育のコストも劇的に下がります。そんな時代に多額のコストをかけた『公共施設』で『公務員』しかにしかできないものを無料化することなどに何か意味があるのでしょうか。
頼りになるのは自ら学ぶ習慣、そして近くでその習慣を支えてくれる人。
今後は必ず、『誰が何処で何を教えるか』を規制するリスクが上がってきています。本気で学ぶなら教師は学ぶ側が選べるのです。教育を選ぶ権利を制限しているのは教える側の都合だけでしかありません。学位という基準を信じる時代を乗りこえて真に自分に必要なモノを選んでいくのは自分しかいません。
三流は話を聞かない。二流は話を聞く。一流は話を聞いて言われたとおりする。超一流は話を聞いて違うことをする。 羽生善治
参考文献
強育論-The art of teaching without teaching-
- 作者: 宮本哲也
- 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
- 発売日: 2004/03/17
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