2009-06-25
正義の味方は、誰の味方か?
「絶対的な正義」には、よほどのことがない限り出会えません。子供のケンカも「どっちもどっち」がほとんどですし、大人もそれぞれの言い分があり、年齢や立場や環境などもあって「正義VS悪」で割り切れる場合などほとんどありません。もともと「戦い」には「正義」はつきものです。「正義は我にあり」が古くからの戦争の理屈です。お互いがお互いににらみ合いそれぞれの「正義」を賭して戦うのです。そうでなければ士気は上がりませんし、戦うモチベーションが維持できません。
しかし、ここに自己絶対化がつきまとうと「妥協」することなく、泥沼に陥ってしまいます。救いようががありません。「正義」のために不幸な人が続出するはめになります。現在の中東情勢や朝鮮半島を見ればよく分かると思います。けっして「正義」という考え方が間違いなわけではないと思います。「こちらも正義だけど、相手も正義」は許容できますが、自己絶対化が作用している「こちらは正義=相手は悪」という人を見ると怪しく思えてしまうのは私だけではないと思います。
「正義」とか「正義の味方」は、最近の子供達の世界でも死語に近くなっています。絶対正義と絶対悪が戦う戦隊モノよりも、どちらにも正義がある仮面ライダーのほうが「カッコイイ」とされています。程度の差はあるとしても、子どものなかには「正しいかどうか判断する力」は育っている傾向だと思います。
安易な正義をそのまま受け入れて、悪いやつらをやっつけることが正しいと感じることを卒業する時期が早まっているのだと思います。逆に、グレーゾーンにいる者にも悪のレッテルをはって、「正義」を振りかざして「悪」を糾弾する前総務相が稚拙のように思えます。パフォーマンスだとは思いますが、大人がこのような態度をとっている姿を「嘘くさい」と見ている子供たちも多いのではないでしょうか。
「正義」が流される度に、逆に色あせて薄っぺらになっていくような気がしてなりません。「正義」や「正しいこと」が手段として使われているからだと思います。「自分が正しい」=「正しいことが通らないのはおかしい」という論理は、あきらかに自己絶対化が作用している「こちらは正義=相手は悪」と同義です。
オトナなら「正しい(と思われる)」方向に進めるため、説明し議論し努力するし、ときには妥協もします。それもしないで、自分の思っている以外は「不正義」とするのは釈然としないからだと思います。しかも、反対の意見などを「不正義」として切りすてています。切り捨ててはならない部分まで切り捨ててしまうことを無視するのは恐ろしいことです。
過信や自己絶対化→全体主義という危険な罠がひそんでいるからです。賢い民衆でも扇動されたナチスの例もあるぐらいです。センセーショナリズムに乗っかって、マスコミを利用し少数意見や反対意見を封殺することがいかに危険かは我々は学んでいるはずです。
職場や地域で 10人集まれば、10個の主観に基づいた事実認識と判断があります。それを認め議論し妥協しながら、落しどころを探り、結論を導きだすのがオトナの社会です。議論には時間もかかるし、意見の相違もあって正直疲れます。一方「正しいか」、「正しくないか」の二者択一は時間もかからないので楽です。人間として疲れるのは避けたい気持ちがあるのは否定できませんが、思い込みや先入観で判断し、白黒つけてしまっては後で取り返しのつかないことになっても反論できません。『選択しただろ』と一蹴されます。
自己防衛として背後にあるものを疑って考えることは重要です。「正義」だ「友愛」だ「安心」だと表向きの仮面に騙されて、その裏に見え隠れする黒い力を見逃してひどい目にあった人達を私達は知っているはずです。
参考文献
- 作者: 池田清彦,養老孟司
- 出版社/メーカー: 新潮社
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