2009-08-15
フェアネスはゲームを続けるためにある
最近、弱者に擁護したり、強者を引き摺り下ろすような行為が横行しています。それ自体は悪いことではありませんが条件があります。その条件とは『フェア』かどうかです。情緒的に『持たざる人』の味方をし、『持てる人』を引きずりおろすのは多大なリスクがあります。『フェア』かどうかでジャッジしなければ社会・市場・ゲームが縮小、最終的には崩壊してしまう可能性があるからです。
当たり前の話ですが、スポーツにおいて審判が情緒的に弱いチームを有利にするような判定をしたり、反則を認めるようなことをすればゲームは成立しなくなります。フェアではないからです。強いか弱いかは関係なくフェアなルールを守ってフェアにやること、それがゲームを成立させる要件です。
しかし、これが社会的な問題になると情緒的な面が顔を出してきます。審判が情緒的な意見を取り入れてルール(法律)を変えることを厭わなくなるのです。情緒=不公平ではありませんが、解雇規制にみられる雇用主と派遣労働者、借地借家法にみられる家主と借り手、在日特権にみられる朝鮮人だけの優遇など『フェアネス』を欠くルール(法律)はいまだ多数存在します。こういった問題は拗れ続けます。フェアでない法律をむりやり解釈しようすれば問題が発生し続けるのは当然です。
『フェアネス』を欠くジャッジは、根本的に「弱者」を「保護」することにはなりません。フェアでないジャッジやルールのゲームにおいてはプレイするインセンティブは消失します。プレイヤーが次々と去っていきます。強者が退場していけば、弱者はより弱い者に比べて相対的に『強者』になります。そうなった場合、弱者も退場していくでしょう。最終的には『弱者』は存在しなくなります。ゲームが『崩壊』するからです。
不公平なルールやジャッジは押し付けるものであってはなりません。ルールやジャッジは『フェアネス』のみを守るものであるべきです。その『フェアネス』こそが、社会・市場・ゲームを守り、そこに参加しようとするインセンティブを生みます。セーフティネットは「ゲームの外」に作るべきで、再度ゲームに参加するためのものであるべきです。
そもそも論ですが、私的な感情を入れずに『公平なルールを限りなく求めること』と、『公平を限りなく守ろうとジャッジすること』は、それ自体が一番難しいと思います。「公平はありえない」から出発し、「フェアじゃない」と思い、感じ、主張している人に耳を傾け、ルールやジャッジを『フェア』に近づけていかなければゲームの『続き』が存在しなくなることだけは間違いありません。
参考文献
- 作者: 山森亮
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2009/02/17
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