2009-08-29
ムダと一緒に捨てたもの ゆとりの価値を見直す
最近『ゆとり』のない人が増えてきていると思います。余裕があればすぐ負荷がかけられて、『ゆとり』のない状態に置かれます。余裕は無駄を発生させ経済的効率を下げることに他ならないといった考えもあるくらいです。とにかく『ゆとり』があると見られてはならない状況が世界を蔓延しています。本当にそれでいいのでしょうか。
消費者や納入先には「これ以上値引きはできません。もう瀕死です。」などという顔をしながら、銀行などには「大丈夫です。問題ありません」と余裕のない薄ら笑いをしなければなりません。日常でも『ゆとり』がありそうだと見なされると余計なものを引き受けざるを得なくなる可能性が高くなります。
『ゆとり』は、ムダの同義語とみなしがちです。しかし、休みや無駄はそれ自身がもつリフレッシュ効果や、新たなヒラメキをもたらしてくれることはご存知だと思います。この効果よりもムダとリスクを排除する方を優先するような風潮が閉塞感を産んでいるのではないでしょうか。
『とりあえず、休むことなく一生懸命がんばれ』
先が見えない状況下で、余裕のない仕事を続けることは心身共に疲弊します。『がんばれば何とかなる』と心に言い聞かせて必至に時間と労力をかけて生産して営業してまわる。本当にそのやり方で現状を打開する方向に向かっているかを確認することなしに突き進むことはかなり危険です。極限まで既存の手法を効率化した状態では現状を打開する可能性のある未開拓地に向けられる余裕など存在しません。その先に待っているものは何でしょうか。
『ゆとり教育』はこのような状態を憂いた結果だと思います。しかし、『ゆとり』は問題が発生し揺り戻されました。学生はいわば社会の余剰で生産されています。学生にゆとりをもたせて学ばせることは=社会が負担する分を増やすことにつながります。社会において余剰を生まない分野での『ゆとり』はジレンマを抱えています。個人的な『怠惰』と見られる危険性をはらんでいるからです。
いずれにせよ、自らの生産性を向上させ『ゆとり』を生み出し『ゆとり』を活用できる人にこそ『ゆとり』は与えられるべきものという点は皆一致していると思います。
環境は常に変化しています。既存の手法で最適と思われていることも、環境が変われば不適になることもあります。効率を追い求めるあまり逆にムダやリスクを生んでしまうということもあります。プランテーションの奴隷制度が崩壊したのは、技術の革新によって農奴のコストパフォーマンスを凌駕するという環境があったからといわれています。『ゆとり』を効率性の追求に再投資するのではなく、新しい技術や手法をムダと呼ばれる領域に投資しておけば、プランテーションの行く先を見据えて手を打てたかもしれません。
ムダを切り捨て、個々がその時代のその環境にのみ適応した「贅肉のない筋肉質」を目指した結果として、実は「飢餓に耐えられない」脆弱な体を作り上げてしまった気がしてなりません。
何事もバランスだと思います。バランスを失った天秤は倒れます。そうならないためにも『ゆとり』がある状況を許容する社会をつくっていく必要があると思います。『ゆとり』そのものを否定してはならないと思うのです。そちらの方が結局、長期的にみると幸せになる人が増えることになるのではないでしょうか。
今は劇的に世界を取り巻く環境が変化しています。ムダの概念も変化しているので定義することは困難です。このような時期だからこそ既存のモノから少し目を離して、新しいものを創出する『余裕』の価値を認めていく必要があると思うのです。
『ムダと一緒に捨てたもの』それは、未来への可能性なのかもしれません。
参考文献
世界一やさしい問題解決の授業―自分で考え、行動する力が身につく
- 作者: 渡辺健介,matsu(マツモト ナオコ)
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
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