2010-07-25
■[大学]『ハーバード白熱教室』の裏側:ハーバードの一般教養の授業をサンデルの講義を例にして説明してみる
ハーバード大学におけるマイケル・サンデル(Michael Sandel)の授業が、『ハーバード白熱教室』としてNHKで放映され*1、かなりの人気を集めて話題になっているようだ。これはすべて再放送を待つまでもなく、ウェブ上で観ることができる(ただし英語だが)。*2
ちょうどいいので、これを使って、ハーバードの学部向け一般教養の授業の作りを説明してみようと思う。色々誤解もあるようであるし、あの映像だけでは分からないこともある。
私自身は、サンデルの授業を履修したことはないのだが、大学院生のときに、一般教養の授業のTAやHead TAをかなりやったので(といってもサンデルの授業ではもちろんなく、私の専門の科学史やSTS関係の授業である)、ハーバードの一般教養の授業の仕組みはかなり分かっているほうだと思う。とくに、日本人のハーバードの学部生というのがほとんどいないわけであるし、私が説明するのもまったく場違いではあるまい。ただ、だいぶ前のことなので、とくに細かな点に関しては、もう記憶違いがあると思われる。その点はご容赦を。また、あくまで他の授業の裏側から推測したものであることも留意してほしい。
まず、ハーバードの一般教養の授業について。なにかにこのサンデルの授業が、ハーバードの哲学科の講義だという説明を見た覚えがあるのだが、とてつもない間違い。哲学専攻の学生にとってはどう見ても水準が低すぎるし、哲学科の学生があんなにいるわけがないではないか(一体どこに就職できるというのだろう)。サンデルの授業はハーバードの一般教養、Core CurriculumのなかのMoral Reasoningというカテゴリーの中の授業の一つである。これは今は、General EducationのなかのEthical Reasoningと名前が変っているのだが、放映されているものが録画されていたときにはまだCore Curriculumだったはずだ。現在の規則に即していうと、ハーバードでは、学部生は8つのカテゴリーのGeneral Educationのコースとして認定される授業をそれぞれ最低一つ履修しなければならない。*3したがって、サンデルの授業に出席しているのは、あらゆる分野の学生である。
なお、ハーバードにおける一つのコースとは、日本の大学の授業一つとはボリュームがまったく異なる。通常一つのコースには、週に二つぐらいの講義と、一回のディスカッションセクション(これについては後述)があり、ハーバードはセメスター制なので、それが半年間(実際にはもっと短いが)続く。学生は通常一学期の間に4つのコースを履修するが、意欲があれば5つ履修することもできる。
サンデルの授業のシラバスは、ウェブ上で見ることができる。*4これは、アメリカの授業の、簡潔に要点を絞って書かれたシラバスの典型的な例で、大学院セミナーなどは別として、学部の通常の授業では、これぐらい書いていないとシラバスとは言わない。これで授業の仕組みがだいたいわかる。ここで、とくに注意してほしい点は、サンデルの授業は講義だけで終了しないことだ。
サンデルの授業にはリーディング・アサインメントがある
これはアメリカの大学の授業なら、当然のことだ。あの講義に参加している学生は、講義の前にリーディング・アサインメントを読んだ上で発言しているのである。主なアサインメントは次の本:
- Aristotle, Politics
- Locke, Second Treatise of Government
- Kant, Grounding of the Metaphysics of Morals
- Mill, Utilitarianism
- Rawls, A Theory of Justice
これ以外に細かい文献がある。それらのリーディング・アサインメントは、ウェブ上で実は大部分読むことができる。上で言及したウェブサイトにはReadingのページがあって、そこではオンライン化できるものはすべてオンライン化しているようである*5。オンライン化できない、つまり著作権が切れていないのは、RawlsのTheory of Justiceだけのようで、これについてはGoogle Booksにリンクが張ってある。
シラバスにはこれらのオンラインの情報はないので、オンライン版のリーディングは、上のウェブサイトを作ったときに作成したもので、授業のときはなかったのだろうと思う。学生はこれらの文献を授業の前にかならず読まないといけないので、ハーバードの生協の3階にある教科書売り場で購入するのが基本だ。教科書売り場では、新刊と古本(つまり、前の学年の学生が授業のあとに売り払った本)があって、古本で安くすませることもできる。別にハーバードの学生でなくても買えるので、ハーバード・スクエアに行ったら、ここで学術書を安く買うことができるわけだ。
どうしても本を買いたくない、ということであれば、図書館で借りるしかない。教科書として指定されている本は、たいてい学部向け人文社会系の図書館であるLamont LibraryのCirculationの裏の棚に指定図書としておいてあって、一定時間だけ閲覧することができる。時間を超えると時間分だけ罰金を支払わねばならないという厳しさである。
大雑把に言ってサンデルの授業のリーディング・アサインメントは、ハーバードの授業としては、やさしめ、軽めで、多分、これが人気の理由の一つではないかと思う。これだけが人気の理由でないのはもちろんだが。
サンデルの授業にはディスカッション・セクションがある
サンデルの講義は大人数で、制限人数が1000人という珍しい授業だ。一般教養の授業でこの規模の授業は超人気科目で、ハーバードでもほとんどないはずである。私がいたときは、聖書についての授業が非常に人気が高く、やはり同じ場所、サンダース・シアターで開講されていた。科学史では、アラン・ブラントの授業が人気で、それもたしかサンダース・シアターで開講されていたと思う。それほど人気でない授業は数百人程度の収容能力のある、サイエンス・センターの地下の講義室などで開かれる。いずれにせよ、ハーバードの一般教養の授業でも、大人数講義は多い。とくに人気教授の授業には大勢の学生が履修する。
しかし、これらの授業は日本の大学のマスプロ的大教室での講義形式の一般教養の授業とは大きな違いがある。サンデルのようなインタラクティブなスタイルが一つの違いだが、もう一つはディスカッション・セクションの存在だ。これは履修者を小さなグループにわけ、それぞれを大学院生などからなるTF、ティーチング・フェロー(いわゆるTAだが、ハーバードではこの用語を使う)が担当し、毎週、少人数で討論するのである。つまり、サンデルの白熱教室の討論は、あの講義だけで終わらないのだ。リーディング・アサインメントを必ずよまなければならない理由の一つはこれで、読んでこないと討論に参加できず、読んでいないことがTFにばればれだからだ。さらにサンデルの授業では毎回(つまり毎週)ここでレスポンスペーパーを出さないといけないようだ。シラバスに書いてあるように、ディスカッション・セクションにおける討論への参加が成績の25%を占めるので、成績にダイレクトに影響する。
サンデルの授業では二本のペーパーが課せられる
シラバスによると、6−7ページのペーパーを2本かかねばならず、それぞれ成績の20%、つまり全体で40%となっている。A4でダブルスペースで、6−7ページというのは短いので、あまりヘビーなアサインメントではないが、ともかく講義だけではなく、文章を提出しなければならず、それが成績の大きな部分を占めるのである。
通常、アメリカの大学におけるペーパーは、日本のいわゆるレポートとちがって、学術的な形式を踏まえる。サンデルの授業でどういう基準をつかっているのか分からないのだが、たとえば、注や引用などの作法を踏まえ、きちんとした構成をしたペーパーでなければ、高評価は得られないはずだ。
サンデルの授業には多数のTFが存在する
ここでTFについて書いておこう。サンデルの授業は彼一人で行うのではなく、多数のTFと共同作業で運営しているのである。TFはかなり忙しく、とくにTFのリーダーはHead TFとよばれ、かなりの激務となる。シラバスにはHead TFの名前だけ書かれているように、まず最初にHead TFをプロフェッサーが見つけるのである。
TFは学生の人数に比例してTFの仕事を大学が提供することになる。履修者何人ごとにTF一人というのがあったはずだが、正確な数字はわすれた。だいたい一つのセクションは10名足らずだったと思うので、そのぐらいだろうか。
TFの仕事は以下の通りだ。まず、授業が始まる前から毎週一回ぐらい、TFとプロフェッサーのあつまるミーティングがあって、それに出席し、打ち合わせをする。そこでセクションで何をやるかを相談したり、学生の反応を報告したりなどするのである。授業によっては、リーディングについての解説を輪講形式で行ったりもしたと思う。
授業の準備段階でも色々な仕事があって、リーディング・アサインメントの手配、教室の手配だとか、授業によってはデモの手配だとか、セクションのわりふりだとか、あとはウェブサイトの構築だとか。
授業がはじまると、TFは講義には毎回出席し、場合によっては様々な手伝いをする。サンデルの講義中にマイクを持って走り回っているのはおそらくTFである。その他、配布物を渡したりだとか、授業前後のさまざまな雑用をするのはTFの仕事。
いうまでもなく、重要な仕事はディスカッションセクションで、そこで、授業の補足をする講義をしたり、学生の質問に答えたり、リーディング・アサインメントについて学生にしゃべらせたり、討論をリードしたりする。TFが授業に関して、学生に一番直接に接する存在なので、質問に答えたり、学生の進歩をモニターしたり、様々なアドバイスをしたりするわけである。
ペーパーの採点をするのも、基本的にはTFである。プロフェッサーが多少みることもありうるが、当然ながらあの人数全員の採点は不可能。通常は、担当するセクションの学生の提出物をみて、助言し、添削し、採点するのは、TFの仕事となる。ペーパーの採点というのはかなり難しいのだが、その訓練をここで積んでおくわけだ。セクション間で不公平にならないよう、採点基準について打ち合わせをするのはもちろんである。
そして、当然予測されるように期末試験の採点もTFの仕事だ。場合によっては採点だけではなく、試験問題の作成もTFとプロフェッサーの共同作業でおこなう。プロフェッサーのほうは毎年やっていると問題のネタが尽きるので、TFのフレッシュなアイデアを取り入れるわけである。期末試験の採点はTFでたいてい問題ごとに分担して行う。そして、成績を報告する、などの雑務もTFで行うわけだ。
期末試験の採点もペーパーと同じようにかなり大変である。ハーバードの学部の授業の試験は、基本的にブルーブックと呼ばれる小さな手帳みたいな閉じた冊子にぎっしりと文章を書きこんで提出する完全記述式である。それを読んで、厳密に成績をつけるのはたいへんな手間がかかる。採点したブルーブックはみな学生にわたすので、成績がおかしいとおもった学生は苦情を訴えることがありうる。なにしろアメリカの学生なので、その点は躊躇がない。
ちなみに、試験監督のほうは、私の記憶ではたしか、TFではなく、プロクターと呼ばれる人たちが行う。多分、この人達は寮のほうの関係者だと思うのだが、よくわからない。TFも試験に立ち会って、必要ならば質問に答えたりすることもある。全員ではなく、Head TFだけだったと思う。
TFの仕事は楽ではないが、逆にいえば、それなりの報酬がでるので、たしかTFを年に四つぐらいやれば(一つの授業について二つのセクションを担当することも可能である)、だいたい最低生活はできるので、コースワークを終えた大学院生は、それで生活することが多い。とくに人文社会系の大学院生の生活は、この仕事無くして不可能だ。同時に、TFの仕事は将来の教育のための準備・訓練という側面もあって、アメリカの大学の先生の教育能力が高い理由の一つである。なお、TFは大学院生ばかりではなく、学位取得後に職がないのでTFで生活していることもありうるようだ。
結論:著名教授の大人数講義と若手による少人数の討論の組み合わせがハーバードの一般教養教育
つまり、サンデルの授業というのは、あの講義だけではなく、大学院生を中心とした若手を多数動員した少人数のきめ細かい指導を並行して行っているのである。それによって、授業をうける学部生にとっても、授業料に見合った高い水準で、効果的な教育可能にし、同時に、若手に教育経験をつませ、さらに生活支援を実現しているわけだ。
そしてそのような授業を、一般教養科目としてすべての分野の学生がなんらかの形で幅広く履修しなければならない。それを通して、学生はたとえば、サンデルの授業で扱っているような倫理的推論を、単なる講義上の知識としてだけではなく、それについて読み、考え、討論し、文章にすることを通して、自分の教養の一部として行くのである。その過程で、読むこと、考えること、討論すること、文章を書くこと、などの基本的な学問的、あるいは学問以外でも重要な技能を磨いていくわけである。
*1:http://www.nhk.or.jp/harvard/
*2:http://www.justiceharvard.org/
*3:http://www.generaleducation.fas.harvard.edu/icb/icb.do?keyword=k37826&tabgroupid=icb.tabgroup87208
*4:http://athome.harvard.edu/programs/jmr/about.html
*5:http://www.justiceharvard.org/index.php?option=com_sectionex&view=category&id=5&Itemid=7