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天声人語

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2010年7月25日(日)付

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 山好きの作家新田次郎(にった・じろう)が、憧(あこが)れの地を初めて訪ねたのもこの時期だった。〈私は完全にスイスの風景に同化されたまま車窓によりかかっていた……突然、山と山の間に、緑の牧草地の続くかぎりの終端に、くっきり浮かぶ白銀の山々が見えた。はっとした。アルプスだなと思った〉▼半世紀ほど前の随筆である。「恋人に会った時の動揺」と作家に書かせた風景を、居ながらにして楽しめる観光列車は中高年の憧れだ。その旅の暗転である。「氷河特急」の脱線で多くの日本人が死傷した▼東のサンモリッツと西のツェルマット。二つのアルペンリゾートを結ぶ270キロの行程に、たっぷり8時間をかける。トンネルを抜けるたび、名峰や渓谷、ハイジがいそうな村など、違う「絵はがき」が車窓を流れるスイス自慢の走る展望台である▼乗客の半分近くが日本人だった。円高の夏、大人気の列車に三つのツアーが乗り合わせたのは偶然ではない。亡くなった兵庫県の女性(64)は夫との旅という。その時、夫婦の語らいは絶景か、お昼の郷土料理か。断ち切られた至福の時を思う▼高い鉄道技術を誇る、観光の国である。パノラマ列車の惨事を誰が予想できよう。夢にまで見た「恋人」との時間をひっくり返され、裏切られた思いの旅人もいるに違いない▼童話作家のアンデルセンは、「旅は精神を若返らせる泉」の言葉を残した。熟年の旅は気分一新だけでなく、人生を振り返る意味があろう。自分あてのご褒美が何事もなく届くよう、今はこれから発(た)つ方の旅路の平穏を祈りたい。

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