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[14098] 【習作】マリア様がよそみしてる(マリみて 祐麒逆行・TS)
Name: 元素記号Co◆44e71aad ID:6e257435
Date: 2010/07/28 20:57

【注意書き】
 この話はコバルト文庫・今野緒雪先生の「マリア様がみてる」「お釈迦様もみてる」両シリーズの二次創作となります。
 最新巻(マリみて・私の巣、釈迦みて・ウェットorドライ)までのネタバレを含みますのでご注意ください。
 雑誌コバルト掲載の短編については、短編集として発売されるまでは使わないのでご安心ください。
 また、二次創作という都合上、原作設定との矛盾(祐麒の性別など)、原作設定の再解釈(祐巳、祐麒周辺の人間関係など)が発生しますので諦めてください。
 特に「お釈迦様もみてる」の新刊が発売された場合、作中で大きな矛盾が発生する可能性があります。

 二次創作の中でも拒否反応の多そうな項目として、以下の要素を含みます。

・逆行(既刊・ハロー グッバイ時点から記憶を持ったまま過去に戻る)
・TS(祐麒が女性化、祐巳が男性化)
・改名(祐麒の性別反転に伴い、戸籍上の名前が「祐希」に変化)

 これらが我慢できないという方は、精神の平穏のために読まないことをお勧めします。

更新履歴
2009/11/19
投稿開始
2009/11/21
後書きを追加
2009/11/28
全話にて文化祭を学園祭に修正
2010/07/27
全話の誤字、脱字、表現の見直し
2010/08/28
その一の着替え部分を修正
(祐麒が花寺のミスコンに出場していないことが判明したため)

その一・たぶんお釈迦様もよそみしてる
 2009/11/19 投稿
その二・昔取った杵柄
 2009/11/20 投稿
その三・いつかきっと
 2009/11/21 投稿
 2009/11/22 誤字修正
その四・後悔しない選択
 2009/11/22 投稿
その五・過大評価
 2009/11/24 投稿
 2009/11/26 誤字修正
その六・契りを結んだ人
 2009/11/26 投稿
その七・性格の悪い友人たち
 2009/11/28 投稿
その八・薔薇と会った日
 2010/02/09 投稿
その九・悪事でなくとも千里を走る
 2010/02/10 投稿
その十・薔薇はつぼみより芳し
 2010/07/27 投稿
その十一・知らぬは本人ばかりなり
 2010/07/28 投稿



[14098] その一・たぶんお釈迦様もよそみしてる
Name: 元素記号Co◆44e71aad ID:6e257435
Date: 2010/07/28 20:55
 枕元で遠慮なく鳴り響く目覚まし時計を、布団に入ったまま手を伸ばして止める。中学時代からの付き合いだから、この時計もそろそろ六年選手である。
 いや、今日から六年目、と言うべきか。なにしろ今日は始業式。花寺学院高校三年生としての、初登校である。
 ま、昨日までと何が変わるってわけでもないけどね。
 入学式やその後の新入生向けオリエンテーションの準備で、春休み中もちょくちょく学校へ出ていた祐麒はひとりごちる。頼りないと自覚してはいるが、一応生徒会長なのだ。
 ベッドの上に体を起こし、ぐっと伸びをする。
 ……おかしい。
 自分のパジャマは薄い青色であって、間違ってもピンク色では無かったはずだ。
 寝ぼけているのだろうかと、軽く頭をかく。いやいやいやいや、やはりおかしい。髪の毛が肩甲骨あたりまで伸びているなんて、ありえない。
 混乱した頭で周囲を見回すと、灰色だったはずのカーテンがクリーム色になっていたり、毛布が花柄だったりと、ところどころが乙女ちっくになっている。まさか祐巳が何かいたずらでも仕掛けてきたのだろうか。
 その推測を裏付けるかのように、壁際に姉である祐巳の姿を見つけた。
「祐巳、何を朝っぱらから悪ふざけ……を……」
 呆れ半分の抗議の言葉を、最後まで続けることはできなかった。
 祐麒が口を開くと、壁際の祐巳も同時に口を開いた。
 試しに右手を上げてみると、壁際の祐巳は左手を上げた。いや、認めよう。さすがにもう、認めないわけにはいかない。だからこう言い換えるべきだろう。
 祐麒が右手を上げると、鏡の中の祐巳に良く似た少女は、左手を上げた。
 祐麒の口から乾いた笑いが漏れる。何だろう、何の冗談だろう、これは。漏れ出る笑いでさえ、慣れ親しんだ自分の声ではない。まるで声変わり前に戻ったかのように高い声だ。
 ゆっくりとベッドから立ち上がると、祐麒は自分の体を確認した。姉同様に控えめではあったが、確かに存在を主張する胸。そして、足りなくて不安になってくる股の間の感触。ついでにあちこちが細く、柔らかくなっている。
 間違いなく、女性の体だった。
 男子高校生的には女の子の体に興奮しなければおかしいのかもしれないが、鏡に写る姿はあまりにも姉にそっくりで、そういう感情を抱くよりも気まずさの方が先行する。
 そして祐麒は重大なことに気づく。できれば認めたくはないが、今の自分が女だというのなら、学校はどうすれば良いのだろうか。花寺学院は男子校なのだ。いや、それ以前に家族へはどう説明すれば良いのだろう。
 実際に体は女の子だし、顔はどう見ても祐巳だから、自分が祐麒だと信じてもらうことはできるだろうが……。
 ふと、一つの想像が頭をよぎる。自分が女になったのではなく、自分と祐巳の精神が入れ替わったのだとしたら。
 突拍子もないことを考えているのは分かっているが、朝起きたら女の子になっていた、というよりはありえるような気がした。
 試しにクローゼットを開けてみると、そこには予想どおり、リリアン女学園の深緑色をした制服がかかっていた。
「ふむ」
 祐麒は一つうなずく。
 つまりこれはきっと、俺があいつであいつが俺でな、転校生っぽい奴に違いない。祐巳に頭突きをかませば元通りに入れ替わる。そう信じたい。
 などと軽く現実逃避をしていた祐麒は、制服の胸ポケットからはみ出ている生徒手帳に気がついた。花寺ならばこれに紅か白のカバーをかけて、源平どちらの陣営かという身の証を立てることになる。もっとも、たまに祐麒のような例外もいるが。
 なんとなく生徒手帳を手にとった祐麒は、手帳の裏に書かれた名前を見て目を疑った。
 そこには祐麒が精一杯丁寧に文字を書くときと同じ筆跡で、こう書いてある。
『福沢祐希』
 これではまるで、福沢祐希という少女がこの部屋の主のようではないか。しかもその少女は自分と同じ音の名前で、自分と同じ筆跡をしている。
 ……まさか、いやそんな馬鹿な。
 夢だ、これは夢に違いない。ほっぺたをつねってみたが、普通に痛かった。あと男だった頃より柔らかくなっていた。
 起きてから二分足らずの間に、祐麒の問題処理能力は早くも煙を上げ始めていた。
 お釈迦様。いや、それともこの場合はマリア様、だろうか。俺、何か悪いことしましたか。
 残念ながらお釈迦様もマリア様も、祐麒の問いかけには答えてくれなかった。



【マリア様がよそみしてる ~その一・たぶんお釈迦様もよそみしてる~】



 時計を確認してみると幸いなことに、いつも祐巳が登校する時間まではかなりの余裕があった。
 早起きを心がけていたらしい福沢祐希に感謝しながら、祐麒は部屋の中を調べることにした。
 後ろめたさはあるけれど、背に腹は変えられない。まず祐麒が置かれている状況を把握する必要があった。
 部屋の本来の主である福沢祐希は、少女であることを除けば祐麒とほとんど同じ性格のようだった。机や本棚の整理の仕方が同じだし、趣味も似通っている。
 卒業アルバムを確認する限り、祐希は幼稚舎からのリリアン生であったようだ。花寺は男子校だから、妥当なところだろう。
 大きく違ったのはテニス関連の本が充実していたことだけれど、祐麒が野球部だったように、こちらの祐希はテニス部だった、ということだろう。
 ただ、テニスラケットやシューズといった、テニスをプレイするための道具はなかった。故障による引退。たぶん、そういうことだ。おそらく福沢祐希は、自分と同じ人間なのだから。
 いくつかの発見と納得。そして最後に、大きな問題が残った。
「それで、これは一体何の冗談なんだ」
 机の上に置いてあった、祐巳が使っていたのと同じリリアン女学園の学生鞄。その横にあった薄い冊子には、私立リリアン女学園入学案内と書かれていた。
 ページをめくって確認してみれば、入学までに用意する持ち物の横に、ペンでチェックが入れられている。用意したものにチェックを入れたのだと考えると、まるでこれからリリアンの高等部に進学するのだと言わんばかりだ。
 祐麒は壁にかけられたカレンダーを確認する。いい加減、驚くのも馬鹿らしくなってきた祐麒は、小さくため息をついた。
 カレンダーにプリントされた西暦は、二年前のものだった。今日の日付には赤マルで囲みがしてあって、上に小さく入学式、とメモされている。
 自分が女性であるという並行世界に飛ばされた。ついでに二年ほどタイムスリップして。
 祐麒は自分の置かれた状況に対して、最終的にそう結論を下した。
 原因は不明。ということは、元に戻るための方法も不明。
 この体の本来の持ち主である福沢祐希がどうなったかは分からないけれど、案外自分と入れ替わりで「福沢祐麒」の中に入っているのかもしれない。世界中で唯一、祐麒だけは彼女に心の底から同情しても許されるはずだ。強く生きて欲しい。自分も頑張るから。
 抵抗が無いわけでは無かったが、そんなことも言っていられず、祐麒はリリアンの制服に着替える。
 上着はともかく、スカートというものを身に着けるのは初めての祐麒だ。ズボンと同じようにジッパーが体の前方に来るように着てしまい、どうもしっくり来ないと首をひねったり、以前着たことのある十二単(もどき)とは全く異なるすーすーとした感覚に、なんとも居心地の悪い思いを覚えたりした。身に着けていたブラとショーツは、できるだけ視界に入れないよう努力したものである。
 しばらく、あるいは当分。考えたくないけれど悪ければ一生。祐麒は祐希として生活することになる。
 どれだけの期間になるか分からないが、自分のためにも、そして元に戻ったあとの福沢祐希のためにも、日常生活を守らなければいけない。入学式から学校を休むことなんて、できるわけが無かった。もちろん、祐希の中身が男の祐麒であると知られることなど、絶対にあってはならない。
 身支度をしていると髪の毛を結ぶゴムが無いことに気付いたが、そういえば祐巳は洗面所で結んでいたなと思い出す。
 朝ごはんも食べなければ、なんて思いながら部屋を出ると、そこに鏡があった。
 見慣れた自分の姿が目に入り、そこで祐麒はおかしいと気付く。我が家には廊下のど真ん中に姿見などないし、なにより今の体は祐希なのだ。では目の前にいる花寺の学生服を来た少年はまさか……。
「あ、おはよう」
 祐麒そっくりの少年が、笑顔を見せた。祐希の卒業アルバムに祐巳が一度も写っていなかったので、もしかしたらと思っていたが、やはりそういうことらしい。
「おはよう。祐巳」
 頭の中の混乱を悟られないように返事をしたつもりだったが、祐巳――と思われる祐麒のそっくりさん――は、顔をしかめた。もしや、名前が違うのだろうか。漢字が違う可能性はあっても、読みは同じだと勝手に思っていた。
「名前で呼ばないで、ってば。祐巳、なんて女の子っぽい名前で、どれだけからかわれてるか知ってるだろ」
 セーフ、だ。日常生活の破綻は、運良く回避された。これからはもう少し気をつけなければならない。
「ごめんごめん、お兄ちゃん」
 口に出してから、祐麒はミスに気付いた。しまった。もしかしたら、こっちの世界では祐希の方が姉だったかもしれない。気をつけようと思ったそばから、何をやっているのか。
 幸い、その心配は杞憂に終わった。
「ん、よし」
 祐巳は小さくうなずくと、そのまま階段を降りていく。
「あ、危なかった」
 ほんの数十秒の会話で、大きく神経を削られた祐麒だった。
 よくよく考えれば、巳年生まれの祐巳と、午年生まれの祐麒だったわけなので、名前が祐巳ならこっちが年下だということは分かる。けれど、祐麒はそこまで深く考えずにお兄ちゃんと呼んでしまっていた。
 抜けているところがあると自覚はしていたが、まさかここまでだったとは。うっかりと自分のことを俺、なんて言わないように気をつけないと。
 祐麒は口の中で小さく「私、私……」と呟きながら、階下の洗面所に向かうのだった。
 祐巳のことがあったので、まさか世界中の人間の性別が、自分の世界と逆転しているんじゃないかと怖いことを想像していたが、台所に立つ母は、祐麒の良く知る母さんと同じ人だった。
 良かった。アリスあたりならともかく、高田の女性版は見たくない。
 朝食をテーブルに並べる母さんにおはようと声をかけて、祐麒は洗面所に入る。
 顔を洗って歯を磨いて、髪の寝癖を梳かしつけて、タオルなどの小物が入っているタンスから髪留めゴムを取り出して、ちょっと停止。髪型はどうしようか。
 姉を真似てツインテールになるよう髪の毛を両手で持ち上げてみたが、あまりにも祐巳そのものだったので、やめる。結局、首の後ろをゴムでひとまとめに括っておとなしめのポニーテールにした。リボンもあったが、さすがにそれを使う気にはなれなかった。
 祐麒が洗面所から出ると、父、母、祐巳の三人が、そろって「おや?」という顔をした。
 どうやら、昨日までの祐希はツインテールだったようだ。
「高校生になったから、ちょっと変えてみようかなと思って」
 そう言い訳すると、なぜか三人の顔がふっと曇った。
 その反応に疑問を覚えたのは一瞬だけ。すぐに祐麒は理由に思い当たる。高校一年の四月と言うと、まだ野球の――祐希の場合はテニスの、か――ことを吹っ切れていない時期だ。そういう反応になるのもうなずける。
 祐麒は努めて明るい笑顔を作った。
「ほら、こっちの方が大人っぽいでしょ?」
「祐希の子だぬき顔で言われも、説得力がなあ」
 祐麒の軽口に最初に応えたのは、祐巳だった。性別や世界が変わっても、祐巳の良いところは少しも変わっていないらしい。
「祐巳、それは控えめに見ても自爆だと思うわ」
「二人ともそっくりだものなあ」
 童顔の母と、たぬき顔の父も続いた。
 食卓に明るい笑いが生まれる。二名ほど祐麒の知る風景とは性別が違うけれど、家族の空気は同じだった。
 祐麒は自分の席に座り、湯気を上げる朝食に手を合わせる。
「いただきまーす」
 こっちの世界でも、なんとかやっていけそうだ。
 そう思った。

<たぶんお釈迦様もよそみしてる・了>





[14098] その二・昔取った杵柄
Name: 元素記号Co◆44e71aad ID:6e257435
Date: 2010/07/27 00:47
 また入学式で、と見送る母さんにうなずきながら「いってきます」と返事をして、祐麒は家を出た。
 リリアン女学園への初登校となるわけだが、祐麒が道に迷うことは無かった。途中までは花寺学院と同じだし、元の世界では文化祭の手伝いで何度か通ったこともあるのだ。なによりも、そのものずばり「リリアン女学園前」というバス停があるので、迷いようが無い。
 バスの座席がどんどん深緑色の制服で埋まっていくのには少しうろたえたが、なんとか表情には出さずに済んだはずだ。
 入学式、と大きく筆書きされた看板が門の横に設置されている。ぞろぞろとバスから降りる生徒達の後ろについて、祐麒もまた学園の中へと入っていった。
 銀杏並木の間を歩く純真無垢なお嬢様たちの中に一人、元男子高校生が混じっているだなんて、きっとマリア様でも思うまい。というか、もしも祐麒の存在に気付くことがあったなら、ぜひとも元の世界に返して欲しい。
 くだらないことを考えながらも、祐麒は気を張っていた。
 背筋を伸ばす。お腹の力を抜かない。あごを引く。歩幅は大きくならないように。重心は体の中心から動かさない。空から垂らされた一本の糸で、つむじを引っ張られているイメージを常に持ち続けること。
 去年リリアンの文化祭に手伝いで参加したとき、祐麒はとりかえばや物語の主人公の片割れという大役を任された。男女の子どもを入れ替えるというややこしい設定を抜きにして分かりやすく言えば、平安貴族のお姫様役である。そのときに山百合会の面々から徹底的に叩き込まれた淑女作法を、できる限り実践しようとしている祐麒だった。
 歩くだけで精神的な疲労がどんどん溜まっていく。お嬢様というのは存外、大変なものらしい。
 前方、道が二股に分かれているところで、軽く渋滞が起こっているのに祐麒は気づいた。渋滞と言っても、ゆったり上品に歩いていた生徒達が、十秒ほど立ち止まってはまた歩き出すというだけなので、花寺の学食ほどの混雑ではない。
 祐麒はその渋滞の数メートル手前で立ち止まった。軽く視線を上向けると、こんもりと茂った人口の森の前に佇む、白いマリア像が目に入る。祐巳が何度か言っていたが、このマリア像の前を通るときは、お祈りをするのがリリアン女学園の決まりなのだそうだ。
 別に祐麒は、お祈りをしたくないから立ち止まったわけではない。福沢家はクリスマスも盆暮れ正月も全部やる、由緒正しいごった煮宗教だ。
 ただ、精神的には紛れもなく男である祐麒が、この女の園でマリア様に祈りを捧げて良いものか躊躇したのだった。
 もう少し即物的な理由として、お祈りの作法が分からなかったので、手本を見てから行こうと思った、というのもある。
 横を通り過ぎていく生徒を何人か見送った祐麒の背に、声がかけられた。
「お祈り、なさらないの?」
 思わず首だけで振り向きそうになったのを、なんとか堪える。淑女らしく、淑女らしく。祐麒は心の中で一、ニ、三と数えながら身体全体で声の相手へ向き直った。
「ごきげんよう」
「ご、ごきげんよう」
 内心の冷や汗を隠しながら、挨拶を返す。西洋のアンティーク人形のように整った顔立ちと、ゆるくウェーブのかかった柔らかそうな髪。祐麒は彼女のことを知っていた。
「ごめんなさい。驚かせてしまったかしら。なんだか困っているように見えたので、つい声をかけてしまったのよ」
 祐麒に声をかけてきたのは白薔薇さま、藤堂志摩子だった。いや、入学式のこの時点では、祐麒と同じ一般生徒か。
 怪しげな女言葉にならないよう、祐麒は言葉を選びながら口を開く。
「いいえ、ありがとうございます。ただちょっと、自分が場違いなところに居る気がしてしまっただけなんです」
 元の世界の祐巳と同じく、幼稚舎からリリアンに通っていた祐希が、お祈りの仕方を知らないわけがない。だったらこちらの理由の方が、本当は別の高校へと進学するはずだった祐希の言いそうな台詞であるはずだ。もちろん、全然関係ない嘘をでっち上げるというのも一つの手だったが、祐麒はそこまで器用ではない。
 祐麒の言葉を受けた藤堂さんは、優しいような、困ったような、複雑な微笑みを浮かべた。
「それじゃあ、一緒にお祈りしましょうか。私も少しだけ、場違いなんじゃないかと思っていたの」
 祐巳の話では、藤堂さんは敬虔なクリスチャンだったはずだ。場違いでなど、あるはずがない。たぶん、今の祐麒のように困っている人間を放っておけない性格なのだろう。
 マリア像の前まで先に歩いていった藤堂さんが、祐麒を待っている。祐麒は慌てて――ただしスカートが翻らないよう努めて丁寧に歩いて――藤堂さんの隣に並んだ。
 二人で一緒に、マリア様へ祈りを捧げる。
 手を合わせて目を閉じた祐麒の頭に、一つのプロフィールがよみがえった。そうだ、藤堂さんは小寓寺の……。
 体は女性なのに、意識は紛れもなく男の祐麒。実家がお寺なのに、敬虔なクリスチャンである藤堂さん。自分に責任はないけれど、後ろめたい。藤堂さんの複雑な表情の理由が、少しだけ分かった気がした。
 閉じていた目を開いて隣を見ると、ちょうど藤堂さんと視線が合った。どちらからともなく、微笑みがこぼれる。
 そのまま二人で並んで歩き出す。
 そこでようやく、自己紹介をしていないことに祐麒は思い当たる。こちらが一方的に相手を知っているので、うっかり名乗られる前に名前を呼んでしまうところだった。
「えっと……」
 福沢祐希です、これからよろしくと言いかけて、慌てて飲み込む。
 違う。藤堂さんは卒業アルバムに写っていたから、中等部からのリリアン生だ。祐希と同じクラスになったことがあるかは分からないけれど、親しくは無かったのだと思う。もしも親しかったのなら、祐希の髪型が変わっていることに一言くらいあるんじゃないだろうか。写真の中の祐希は、幼稚舎の頃からずっと同じ髪型だった。
 急に口ごもった祐麒に、藤堂さんが不思議そうな顔を見せる。これ以上は間が持たない。
「中等部からの持ち上がり、だよね? 名前は確か……」
 祐麒は名前が思い出せないふりをした。少し言葉遣いが乱れたけれど、これくらいなら許容範囲だ。
 藤堂さんが得心したようにうなずく。
「志摩子よ。藤堂志摩子」
 祐麒の狙い通り助け舟を出してくれたが、今度は藤堂さんが思案顔になる。
「福沢祐希」
 短く告げると、藤堂さんの顔に微笑みが戻る。これでおあいこだ。
「改めてよろしく、祐希さん」
「うん、こちらこそ。志摩子さん」
 そうだった、リリアンでは下の名前にさん付けで呼ぶのが一般的なのを忘れていた。祐麒は心の中の人名録を、藤堂さんから志摩子さんにこっそり修正した。
 第一体育館前の受付で、二人とも一年桃組であることを知って驚くのは、あと五分ほど先の話だった。



【マリア様がよそみしてる ~そのニ・昔取った杵柄~】



 入学式を終えて翌日。
 祐麒にとって一番の懸念事項は、始業前の休み時間に中等部時代の思い出話を振られることだった。幸い、髪型を変えていたおかげで、自然とそちらに話がずれてくれた。
 クラスの中にちらほらと存在した、外部受験組が話題の中心になってくれたのも大きい。心優しいリリアン生たちは、不慣れな彼女たちに学園での生活について教えることを使命の一つと考えているようだった。旧交を温めることよりも、積極的に新しい仲間へと話しかけることを選ぶ姿勢は、本来なら祐麒も見習わなければならないのだろう。
 とにかくも、祐麒は何とか初日の朝を乗り切った。担任の山村先生が教室に入ってきたとき、安心感で思わず笑みが浮かんでしまったほどだ。かつての生活で、これほど教師の来訪を喜んだことは無かった。
 新学期最初のホームルームにやることと言えば、自己紹介だ。
 ここでしっかり顔と名前を一致させられれば、当分は安泰と言える。相手だけが一方的に祐希を知っているという状況は、回避できるからだ。
 出席番号順に進む自己紹介を聞き逃さないようにしながら、ノートの隅に書いた座席表にメモをとる。
 祐麒自身の紹介を何も考えていないことに気付いたときには、既に二つ前の席に座っている志摩子さんまで順番が回ってしまっていた。
 気の利いたことを考える暇もなく、すぐに祐麒の番となった。立ち上がるときに音を立てないために、まず椅子を後ろへ引く。次に、できるだけ姿勢を前へ傾けないようにして、ゆっくりと立ち上がる。もう名前だけで良いかと祐麒は開き直った。
「福沢祐希です。福沢諭吉の福沢。しめすへんに右と書いて祐。……あと、希望の希で祐希、です。一年間よろしくお願いします」
 危うく麒麟の麒と言うところだった。軽くお辞儀をして、腰を下ろす。そのあとで、椅子をそっと前へ引いた。
 席についた祐麒は、誰かに見られている気がして、そちらへ目を向けた。たった今、自己紹介をしたところなのだから見られていて当然なのだが、注がれる視線の中にseeとlookの違いを感じたのだ。
 斜め前、将棋で言うなら桂馬が飛んだ位置。志摩子さんの右隣に座る、視線の主と目が合った。
 あの子の自己紹介はもう終わっていたなと、少女の名前を確かめるために祐麒はノートに視線を落とす。そう、桂さんだ。
 しかし、もう一度視線を上げたときには、桂さんは既に祐麒を見ていなかった。確かに、視線が合ったと思ったのだけれど……。
 祐麒の思考は、後ろの席に座っている少女の自己紹介が始まったところで中断された。今の祐麒は、クラスメイトの名前をただの一人も聞き逃すわけにはいかないのだから。
 自己紹介、学園生活の諸注意に心がけと、ホームルームは順調に進んだ。他のクラスの生徒が、身体測定の順番だと連絡しに来たとき、「げ」という言葉をどうにか飲み込んだ自分を、祐麒は褒めてやりたかった。
 山村先生はいったん話を切り上げると、生徒達に白ポンチョ――祐麒的にはてるてる坊主量産ポンチョ――に着替えるよう指示を出した。
 自分と変わらない年齢の女の子たちが着替えを始めたときはどこに目をやったものかと困惑した祐麒だったが、ありがたいことにそういう配慮はする必要がなかった。
 まず最初に体操着であるスパッツをはく。それからワンピースになっているセーラーを脱いで、頭からすっぽりと白ポンチョを被る。その中でシャツや下着を脱ぐので、素肌はほとんど外に出ない。
 女の子っていろいろ考えるものだなあ、などと感心しながら、祐麒もそれに倣う。ただ、白ポンチョの下でブラを外す前に、別の世界で同じような苦労をしているかもしれない祐希に向かって、心の中でごめんなさいと謝ることは忘れなかった。
 その後、身長とか体重とか胸囲とか、いろいろ測られたのだが、祐希の名誉のためにそれらの数字は忘れることにする。ただ一点、グラビアアイドルというものがいかに人外じみたプロポーションをしているか、ということだけを祐麒は身体測定の教訓とした。
 入学式を数に入れなければ初日ということで、祐麒たち一年生は午前中で放課となった。
 掃除の当番も明日からで良いらしく、今日は本当にこれで終わりとのことだ。ちなみに、祐麒に割り当てられた掃除場所は音楽室である。生徒手帳に印刷されている見取り図で確認してみたところ、桃組からは少々遠い。代わりに昇降口は近かったので、当番のときはそのまま帰れるよう鞄を持って行くことに決めた。
 そんなに時間が経ったという感覚は無かったのだが、手帳から顔を上げてみると、教室の人口密度はかなり低くなっていた。
 自分も帰ろうかと、祐麒は手帳をしまう。荷物の整理をしていると、背の高い少女が近寄ってきた。ついさっき自己紹介を聞いたはずだというのに、ノンフレームの眼鏡ばかりが印象に残っていて、名前が出てこない。しかし、放課後になって新しく増えたアイテムのおかげで、ぴんと来た。彼女の首から下げられているのは、なかなか高そうなカメラである。直接話したことはないが、元の世界で何度か顔を会わせていた。祐巳との会話でもちょくちょく名前が挙がっていたのを一緒に思い出す。
「蔦子さん?」
「正解。同じクラスになったのは初めてなのに、もう名前を覚えてくれているなんて嬉しいわ。祐希さん」
 そりゃあ、趣味が女子高生撮影の写真部エースというのはインパクトが強かったから。もちろん、今の時点でそれを指摘することはできないけれど。
「そちらこそ、私の名前をちゃんと覚えているじゃないですか」
「あらら、自覚が無いのね」
 蔦子さんが小さく呟いた。
 平凡な顔立ちだということはしっかりと自覚している。志摩子さんくらい美人なら、一発で名前を覚えられるのも分かるのだけれど。
「たぶん、祐希さんが自分で思っているよりは知名度があると思うわよ」
 そう言って、蔦子さんは笑う。しかし、その笑顔はすぐに引っ込んでしまった。
「うーん、こっちから寄ってきておいてなんだけど、今日はやめておく。ごきげんよう、また明日」
 くるりと背を向けた蔦子さんのセーラーカラーを、思わず掴む。
「ぐえっ」
 乙女らしからぬ声は聞かなかったことにした。喉のあたりを手でさすりながら振り向いた蔦子さんを、祐麒はじと目で見つめる。
「気になる」
「うん、私も同じことをやられたら気になると思う。ごめん。けど、呼び止めるなら他にも肩とか腕とか、掴むところがあるとも思う」
「ごめんなさい」
 もっともな言い分だったので、祐麒は素直に頭を下げる。女の子の体のどこを掴めば良いか分からなかったので、背を向けた拍子にふわりと浮き上がったセーラーカラーに手が伸びてしまったのだ。
 蔦子さんは鷹揚にうなずくと、セーラーのポケットから茶封筒を取り出した。
「聞いたことがあるかもしれないけど、私は写真を撮るのが趣味なのよ」
 聞いたことが無くても、首から下がっているカメラを見れば誰でも分かると思う。祐麒はうなずいて先を促す。そう切り出したからには、封筒の中身は写真なのだろう。
「主なモチーフは……」
「女の子」
「そう。この間までは女子中学生。昨日からは女子高生に宗旨替えしたところよ」
 はたしてそれを宗旨替えと言って良いものか、祐麒は甚だ疑問だった。
「で、お察しのとおり、この封筒の中にはあなたの写真が入っているの」
 やはり、そういうことらしい。けれど、今日はやめておく、というのはどういう意味だったのだろうか。
「先に謝っておくわ。……ごめんなさい。中を見て、不愉快だったら言って。ネガごと燃やすわ。約束する」
 眼鏡の奥の真剣な瞳に、祐麒はうなずくことしかできない。すっと蔦子さんの目が細められる。
「本当は最初からそうすれば良いんだろうけどね。なまじ出来が良かったものだから、私はこうして祐希さんの前に立っている」
 台詞とは裏腹に、蔦子さんの表情に自嘲の色は見られない。自分の撮った写真に責任を持っているからこそなのだろう。蔦子さんは茶封筒を両手で持ち直して、祐希に差し出した。
「そういうわけだから、受け取って」
「う、うん」
 祐麒もつられてかしこまり、両手で封筒を受け取った。話の流れからすると、この場で中を見た方が良いのだと思う。
 封筒の中には六、七枚の写真が入っていた。とりあえず一枚を取り出して確認する。
 祐麒は小さく息をのんだ。
 写っていたのは、テニスコートに立つ祐希だった。

   <昔取った杵柄・了>





[14098] その三・いつかきっと
Name: 元素記号Co◆44e71aad ID:6e257435
Date: 2010/07/27 00:47
 四角に区切られた緑のコート。
 サーブレシーブのために、低い姿勢でラケットを構えた少女が写っている。その真剣な瞳は、写真に切り取られた景色の向こうに立つ、対戦相手を見据えているのだと分かる。
 まばたきをする間に、少女の顎を伝う汗が流れ落ちていたとしても、祐麒は驚かなかっただろう。
 一瞬か、数分か。写真に目を奪われていたことに気付いた祐麒は、ゆっくりと顔を上げる。蔦子さんが祐麒を見ていた。その顔は、思いなしか満足そうだった。
「これ……」
「地区大会の個人決勝。応援へ行ったときに撮ったのよ」
 そう答える蔦子さんの声は硬い。確かに、これを祐希に見せるのは躊躇するだろう。なにしろ祐希は、もう競技としてのテニスをプレイすることは、できないのだから。
 出来が良ければ良いというものではない。さっきの表情は、自分の写真に力――迫力とか、魅力とか、そういうものがあることを確信したからだろう。けれど、蔦子さんの顔はすぐに無表情へと取って代わった。力があるからこそ、それは祐希を傷つけるものだと理解したのだ。
「ごめんなさい。やっぱりその写真は処分するわ」
 蔦子さんが祐麒に向かって手を伸ばす。その手から隠すように、祐麒は封筒と写真を胸にかき抱いた。小さく首を振る。
 二年前の四月、自分に対して野球をしていた時の写真を差し出す人がいたら、祐麒は間違いなく怒っただろう。もしかしたら写真を破り捨てたり、それを撮った人に手を上げたりしたかもしれない。
 けれど、今ならば違う。吹っ切ったわけではない。忘れたわけでもない。ただ、野球をしていた自分と、野球ができない自分に、折り合いをつけることを覚えた。今ならば、太陽で熱せられたグラウンドに、バッターを前にした緊張感に、思いを馳せることができる。
 だから、この写真を燃やすわけにはいかない。今は祐希にとって毒にしかならなくても、時間がこの写真を宝物に変える。
 祐麒はこっちの世界に来て初めて思った。今ここにいるのが自分で良かったと。
 写真を抱いたまま動きを止めた祐麒に、蔦子さんが心配そうな声をかける。
「祐希さん、大丈夫?」
 うなずきを返し、笑顔を作ってから、祐麒は前を向く。
「大丈夫。ねえ、蔦子さん。この写真、もらっても良いかな」
「もちろん。……けど、良いの?」
 蔦子さんが少し不安そうな顔をする。
「ありがとう。今はまだ辛いけど、ずっと辛いわけじゃないから」
 祐麒の言葉に、蔦子さんは眼鏡の奥の目を丸くした。
「祐希さんって、見た目よりも大人なのね」
 その一言に空気が緩んだのを感じる。重い話題は、ここまででおしまいだ。
「それってもしかして、私の外見が子どもっぽいと言いたいのかしら」
 ことさら僻みっぽく言うと、蔦子さんはけらけらと笑った。
「まさか。祐希さんはとても可愛いと、そう思っているだけですわ」
 わざとらしいお嬢様言葉は、狙ってやっているのが丸分かりだった。こういうのが女性の会話の間合いなのだろうか。
「私みたいな子だぬき顔を捕まえて、何を言っているのやら」
 軽口を叩きながらも、祐麒は写真を封筒に戻し、大事に鞄の中へしまった。
「そうだ」
 蔦子さんが、思い出したというように口を開く。
「私が言えた義理じゃないってのは分かってるけど、一応忠告。善意の慰め攻勢がかかるかも知れないから、注意しておくといいよ」
「善意の?」
 慰め攻勢ってどういうことだろうか。思考の海に沈もうとした祐麒は、がたんという物音に引き戻された。
 見てみれば、桂さんが帰り支度を終えて立ち上がったところだった。
「あ、桂さん。ごきげんよう」
 先手必勝とばかりに祐麒は挨拶をする。覚えた名前はどんどん使って、早く自分のものにしなければならない。
「……ごきげんよう」
 桂さんは低くつぶやくと、早足で教室を出て行った。
 祐麒の隣で、同じように桂さんを見送った蔦子さんは、うーんと唸った。
「杞憂だったというか、なんというか。祐希さんって結構大物だわ」
 言葉の意味が分からなくて、祐麒は首を傾げる。たぶん、顔の周りにはてなマークが浮かんでいただろう。
「気にしないで。また良い写真が撮れたら見せることもあると思う。じゃあ今度こそ、ごきげんよう。祐希さん」
「う、うん。ごきげんよう蔦子さん」
 蔦子さんは自分の席から鞄を取り上げると、またねという風にひらひらと手を振って教室から出て行った。
 気がついてみれば、教室に残っているのは祐麒を含めても五人といない。祐麒もまた、家路につくことにした。



【マリア様がよそみしてる ~その三・いつかきっと~】



「ただいまー」
 夕方近くになって、祐巳が学院から帰ってきた。花寺の入学式はリリアンよりも一日早く行われていたので、今日からもう通常授業なのだ。
「おかえりー」
 そろそろ夕ご飯だからと自室から下りてきていた祐麒は、座っていたソファーから体を起こして、リビングに入ってきた祐巳へ目を向ける。
 自分の性別もそうだが、ある意味それ以上に祐巳が兄であることに違和感がある。ビデオに映した自分を外から見ている感覚、とでも言えば良いのだろうか。ふとした言動が元の世界の自分と重なって、たまに驚く。
 祐巳は祐麒の隣にどさりと腰を降ろすと、うあー、なんて唸り声を上げてテーブルに突っ伏した。
「もうご飯らしいから、先に着替えてきたほうが良いと思うよ」
 制服が皺になるし。まあ、購買で焼きそばパンを手に入れようと思い立ちでもしたら、皺どころではすまない喧騒に巻き込まれるのだが。
「疲れている兄としてはもう少し優しい言葉が欲しい」
 祐巳がぼそぼそと呟く。どうやら同い年の妹である祐希に対して、格好をつけるという発想はないらしい。兄と弟の違いだろうか。元の世界で祐麒は、姉である祐巳に余裕ぶることの方が多かった気がする。
「疲れたって、何かあったの? 体力測定でマラソンとか」
「いや、ちょっと変わった先輩に目をつけられた。あと、聞いてた以上に派閥間の空気が悪い」
 目をつけられたというのは、たぶん柏木先輩だろう。祐巳は関所破りなんかしていないと思うのだが、どこで目に留まったのやら。というか、しっかりと祐巳に目をつけるあたり、あの人は本当にこのたぬき顔が好みなのかもしれない。……やめよう、冗談にならない。
「私の方は、そういう苦労が出てくるのって明日以降だしなあ。今日のところはがんばれ、としか」
 本当はすでに女言葉とか立ち居振る舞いとか、嫌になるほど苦労しているのだけれど、それを表に出すことはできない。自他共に認める大根役者である祐麒のアドバンテージは、女の子の中身が別世界の男子高校生だ、などとは想像すらしないという、世間の常識そのものである。
「ところで、派閥って何?」
 ふと、祐巳が源平どちらに所属したのか気になって尋ねてみる。運動部という柄ではないはずなので、たぶん平氏だろうとは思うけれど。
「体育会系と文化系。花寺だと源氏と平氏、って呼ばれてる」
 祐麒の質問に答えながら、祐巳はようやく机から体を起こした。胸ポケットから覗く生徒手帳には、紅のカバーも白のカバーもかかっていない。
「部活動に入る気ないって言ったら、なんか両方から弾かれた」
「えっ」
 予想外の台詞に、祐麒は驚きの声を上げた。自分も経験したことだからこそわかる。それは茨の道以外の何ものでもない。
「あんまり活動してない緩めの部活に、とりあえず籍を置くとかすれば良いんじゃないの?」
 祐巳にいらない苦労をさせるのは忍びなくて、祐麒はつい妥協案を提示してしまう。しかし、祐巳は首を振った。
「最初からそういうつもりで入部するのは、ずるいと思う」
 妙なところで律儀な祐巳に、祐麒は呆れながらも納得する。この兄は間違いなく、姉である祐巳と同じ思考回路をしている人間だ。
「それに緩いって言っても、それなりの時間を拘束されるのは間違いないと思うから」
「何か他にやりたいことがある、ってこと?」
 生徒会とか、と言いかけて、それは無いかと否定する。基本的に一般市民である福沢姉弟にとって、巻き込まれでも――例えば前任者の妹になるとか、前生徒会長が嫌がらせのごとく指名していくとか――しない限りは縁のない世界だ。こちらの祐巳も同じだろう。
「父さんの事務所で雑用アルバイトでもしようかと思って」
「ええっ?」
 再び予想外な返答だった。祐巳は少し照れたように笑う。
「興味があるから、今のうちに色々見ておこうと思って」
 姉だけでなく、兄というのも計り知れないものであるらしい。祐麒が高校一年のとき、明確な将来の指針となるようなものを思い描けていたかと考えると、否としか言えない。
「ご飯できたわよー」
 目を丸くして祐巳を見ていると、台所から母さんの声がかかった。
「やば、着替えてこなきゃ」
 慌てて立ち上がった祐巳は、どたどたと足音を鳴らして階段を駆け上がっていった。

 明日の準備を万端整えて、後は眠るだけ。そこでようやく、祐麒は鞄から茶封筒を取り出した。
 封筒の中から写真を抜き出して、一枚ずつ目を通す。
 スポーツ雑誌に載っているようなボールを打つ瞬間、というものは無いけれど、どれも良い出来だった。
 コートチェンジの休憩でベンチに座り、静かに集中している写真。取れなかったボールを見送ったのか、悔しそうな表情をした写真。おそらくは勝利の瞬間を捉えたのだろう、満面の笑みを浮かべた写真。
 蔦子さんはテニスのプレイを写したのではない。写したのは、ずっと先まで残しておきたいと、残さないのはもったいないと感じた祐希の姿、なのだ。
 真剣に写真を見つめていた祐麒は、ふと我に返る。傍から見たら、ナルシストが入っていて危ない絵面かもしれない。
 小さく笑って、祐麒は茶封筒を手に取った。
 時間が経っても消えないように、ボールペンを使って丁寧に文字を綴る。

『祐希へ
 二、三年経ったら中を見てくれ。それまでは、開封厳禁!
                       祐麒より』

 この体に入ってしまってから二日。元の世界に戻れる気配はまったくない。こっちに飛ばされる前兆も特に無かったので、明日いきなり戻っている可能性もあると言えばある。
 これを祐希が目にするのはいつになるのだろうか。そもそも、祐希が祐麒と入れ替わっているというのも憶測に過ぎないのだけれど。
 ……考えても仕方のないことか。それに、やらないよりは良いはずだ。
 封筒の中にしまうため、机の上に広げていた写真を集める。
 その内の一枚、試合を終えた祐希がチームメイトとハイタッチしている写真の中に、あるものを見つけた。さっきは祐希にばかり目がいっていたから気づかなかったが、喜びの表情で彼女を囲むチームメイトの中の一人は、間違いなく桂さんだった。
 どうしたものかと、祐麒は目を泳がせる。
 あのとき蔦子さんは結構大物と祐麒のことを評した。だが、まだ辛いと言ったその口で、かつてのチームメイトにあの態度では、むしろ図太いとか無神経とかいう評価の方があっている気がする祐麒だった。

   <いつかきっと・了>





[14098] その四・後悔しない選択
Name: 元素記号Co◆44e71aad ID:eb529912
Date: 2010/07/27 00:47
 お腹が減った。
 退屈な数学の授業を受けながら、祐麒は空腹に耐えていた。
 体と一緒に胃のサイズまで小さくなったのか、すぐに満腹になる代わり、お腹が減るのも早い。朝ご飯はちゃんと食べてきたのだが、三限目の休み時間には、既に胃袋が空腹を訴えはじめていた。
 眉尻が下がって情けない表情になっているだろうと自覚してはいるけれど、それくらいは見逃して欲しい。ミルクホールと呼ばれる購買に行けば何かしら買えることを分かっていながら、我慢しているのだ。何故かと言えば、祐希のためである。
 一応、財布の中に買い食いするくらいの余裕はある。けれど、問題となるのは別のことだ。祐希が元の世界に戻ってきたとき、体重が数キログラムも増えていました、では恨まれてしまうだろう。
 そういう風に、祐麒が自分に義務付けたことは間食制限以外にもいくつかある。例えば、授業のノートをできるだけしっかり残しておくこともその一つだ。
 自分で決めたこととはいえ、既に習った範囲の、しかも基礎知識レベルの授業だ。いまさら有理数や無理数の説明では、さすがに退屈である。日本史や現国なら教師ごとの個性が出やすいので、もう少し楽しむこともできると思うのだが。
 板書が一段落したところで、祐麒は少しだけ息抜きをすることにした。こっそりと別のノートを開き、昨日メモした座席表を見る。端から順に、顔と名前を確認する。自己紹介で受験組だと言っていた人の優先度は低いと言えば低いが、この際だから一緒に覚えてしまうことにした。
 みゆきさん、慶子さん、冴子さんと、頭の中で名前を呼んでいく。祐麒がまともに名前を覚えているのは、隣近所と志摩子さんを除けば、今のところ蔦子さんと桂さんくらいである。
 そう、桂さんへの対応も考えなければならないのだった。中等部時代の祐希のことを、良く知っているだろう相手。
 女性としての生活に慣れるだけでも手一杯だというのに、問題はそれ以外にも山積みなのだった。
 祐麒は小さくため息をつくと、座席表の書いてあるノートを閉じた。数学教師が板書を再開したので、ノートを取る作業に戻らなければならないのだった。



【マリア様がよそみしてる ~その四・後悔しない選択~】



 今日から一週間はクラブ活動の見学期間だと聞いてはいたが、祐麒はどの部活にも所属するつもりは無かった。
 しかし、放課後になると何人かの生徒が寄ってきて、祐麒に話しかけた。
 曰く、一緒にクラブ活動の見学にいかないか。曰く、陸上なら肘を使わないから大丈夫。曰く、運動部に入る気がないのなら日舞などはどうだろうか。
 蔦子さんの言葉の意味がわかった。善意の慰め攻勢。なるほど、こういうことか。
 祐麒は最初から一貫して部活動には入らないと主張している。しかし、それらの言葉は全国区の実力でありながら怪我で引退した悲劇の少女というフィルターを通すと、どれも痛ましい対応として変換されてしまうらしい。
 彼女たちの態度や口調を見れば、掛け値なしの善意で言ってくれていることは分かる。けれど、過去に同じく故障による引退を経験している祐麒は、放っておくこと、触れないことが最良の対応と言える時期があると知っている。そして、祐麒の過去に照らし合わせるなら、高校一年の四月はまさにそういう時期だったはずだ。
 ただ見学の誘いをしているだけなら、まだ良かった。けれど、他にも楽しいことはいくらでもあるとか、そういう誘い方は、やめて欲しかった。他などなかったのだ。祐麒が中学時代の大部分をつぎ込んだのは野球であって、他のもので代わりになるようなものではない。
 もしもここで対応しているのが祐希だったら、どうしただろう。放っておいてくれと叫んだだろうか。それとも、触れられたくない話題に付き合わされて、涙を流しただろうか。
 祐麒にはそのどちらもできない。テニスに対する感情は祐希のもので、祐麒が代弁できるものではない。
 いっそのこと、蔦子さんと一緒に写真部の見学に行くから、とでも言ってやろうかと思ったけれど、生憎と蔦子さんは掃除当番で教室にいなかった。彼女たちが諦めてくれるまで、祐麒は当たり障りの無い言葉で断り続けることしかできない。
「祐希さん」
 延々と行くの行かないのと繰り返していた祐麒たちは、横合いから声をかけられた。振り向いてみれば、ラケットケースを肩に提げた桂さんが立っていた。あまり穏やかとは言えない雰囲気を発する桂さんを見て、祐麒に話しかけていた生徒たちが一歩下がる。
「お邪魔してごめんなさい。私、少し祐希さんに話があるのですけれど、お借りしても良いかしら」
 桂さんは困ったような表情で笑う。
「え、ええ。どうぞ」
 祐麒を取り巻いていた中の一人が答える。主導権は、完全に桂さんのものだった。この場で最も祐希と親しい人間が誰かと言えば、同じ部活に所属していた桂さん以外にあり得ないのだから。
「行きましょう、祐希さん」
 困惑する祐麒の手を掴むと、桂さんは有無を言わさず教室から連れ出した。

 桂さんは無言で祐麒の手を引き続け、校舎の裏手に向かう渡り廊下でようやく解放してくれた。
 祐麒はどんな話があるのかと、桂さんを見る。話題によっては、難しいことになるかもしれないと身構えた。しかし桂さんもまた、祐麒の目を見つめたまま、動きを止めた。
 沈黙の時間はほんの少し。先に動いたのは桂さんだった。
「この辺りなら、滅多に人も来ないよ。二十分も時間を潰せば、あの人たちもそれぞれ行きたいクラブへ見学に行くと思う。……じゃあ」
 早口でまくしたてると、桂さんは祐麒の横を抜けて今来た道を戻ろうとした。助けてくれたのだと分かって、祐麒は口を開く。
「あ、あの、ありがとう」
「やめてよ、お礼なんか言わないで」
 桂さんは立ち止まって首を振る。
「昨日、蔦子さんの話しかけるタイミングがもう少し遅かったら、私も同じことをするところだった」
 祐麒から目をそらして、桂さんは言う。
「善意であれば気付かなくても許されるというものじゃないわ。だからお願い。お礼なんか、言わないで」
 教室で祐麒に話しかけていた少女たちは、触れられることすら嫌な話題があると分からなかった。蔦子さんは、そういうものがあると分かっていても、自分の目的のためにあえて踏み込んだ。そして桂さんは、分かってしまったからこれ以上祐希に踏み込めなくなった。
 ラケットケースを見れば分かる。桂さんは高等部でもテニスを続けるのだろう。それならば、桂さんはただそこにいるだけで、祐希にテニスを思い起こさせる存在になってしまう。だから離れる。必要以上に祐希の視界に入ってしまわないように。
 今日だって、祐麒が彼女たちに捕まらなければ、さっさとテニス部へ入部届けを出しに行っていたに違いない。
「でも、桂さんは私を教室から連れ出してくれた。私にとってはそっちの方が大事だよ。だって、そんなことをしても桂さんには何の得もないもの。ただ私が助かっただけ。だから、ありがとう」
 桂さんの目が涙で潤んだ。それを振り切るように、もう一度首を振って、桂さんは笑顔を作った。
「祐希さんが変わってなくて、安心した。こっちがお礼言わなきゃ。……ありがとう」
 なんだかお互いにお礼を言いあう流れになってしまって、二人はどちらからともなく笑った。
「じゃあ私、行くね。あと、そう、これだけは善意を押し付けさせて。いつでも私を頼ってくれて良い。私は今でも祐希さんの友達のつもりだから、ね」
 そう言うと、桂さんはラケットケースを抱え直して歩き出した。
 祐麒の横を通り過ぎるとき、少し大またになった桂さんのセーラーカラーが、ふわりと翻った。
 つられて振り返り、祐麒はそのままセーラーカラーを掴んだ。
「うげっ」
 昨日の蔦子さんと同じように、乙女らしからぬ声を上げる桂さん。あ、いや、祐麒は何も聞いていない。蛙か何かが鳴いたのだろう。
 祐麒は、心の中で祐希に謝ってから口を開いた。
「私だって、今も桂さんの友達のつもりだよ」
 桂さんは振り返らない。ただ、その耳が、どんどん赤くなっていった。
「馬鹿。……そういう不意打ち、やめてよ。もう、馬鹿」
 上ずった声でそう呟くと、桂さんはいきなり駆け出した。祐麒は廊下の向こうに遠ざかっていく背中を見送る。ぱたぱたと翻るスカートやセーラーカラーは、淑女からは程遠い。けれど、乙女としてはそれが正しいのかもしれなかった。
「あー、本当馬鹿みたいだ。何言ってるんだよ、もう」
 祐麒の顔もまた、真っ赤だった。

 数日後の昼休み。祐麒は桂さんと一緒にお弁当を食べていた。
 そこに、蔦子さんが弁当箱を片手に寄ってきた。
「ご一緒しても良い?」
「ええ、もちろん」
 答えたのは桂さん。祐麒もまた、うなずいた。
 蔦子さんは隣の席から椅子を引っ張ってくると、向かい合わせにくっつけられている机の横に腰を下ろした。
 しかし、弁当を広げるよりも先に、蔦子さんはポケットから一枚の写真を取り出す。
「いやあ、我ながらどうかと思うんだけど、またやっちゃった。この写真、どう?」
 そこには、困惑顔の祐希の手を引っ張って、ずんずんずんと歩いていく桂さんが写っていた。
「いつの間にこんなもの……」
「掃除を終わらせて戻ってきてたら、ちょうど二人が教室から出てきたところだったのよ」
 で、シャッターを切ったと。祐麒は桂さんと顔を見合わせる。はあ、とため息をついたのは同時だった。
 桂さんが顔を上げて、偉そうに口を開いた。
「まったくもう、こういうのは事務所を通してもらわないと困るわね。撮影料、払ってもらうわよ」
「ええー」
「もう一枚、焼き増ししてよね」
 軽くウインクする桂さんだった。蔦子さんがにっこりと笑い返す。
「もちろん、喜んで」

   <後悔しない選択・了>





[14098] その五・過大評価
Name: 元素記号Co◆44e71aad ID:04b03c8f
Date: 2010/07/27 00:48
 四月は、ただ毎日を乗り切るだけで精一杯だった。五月に入って、ようやく周りを見る余裕ができた。そして六月、祐麒はもしかしたらもう戻れないんじゃないか、と今さら不安に思い始めていた。
「どうしたの、祐希さん。ため息なんかついて」
 向かいに座る桂さんが聞いてきた。なんでも、今日のお弁当は何品か自分で料理した自信作とのこと。
「あ、えっと、昨日も一昨日も雨だったでしょう。明日も明後日もずっとそうなのかな、って思ったらつい」
 本当のことを言えるはずもなく、祐麒は天気の話でごまかす。
「そりゃあ、梅雨だからね。しばらくはこんな感じなんじゃない?」
「どうせ半月もしたら、今度は毎日晴ればかり、って嘆くことになるわよ」
 桂さんに続いて、からかうようなことを言ったのは、蔦子さん。最近のお昼ご飯は、この三人の面子で取ることが多い。
「分かってはいるんだけどね」
 そう、ものが梅雨なら明けないわけはない。けれど、異世界に迷い込んだ場合、その内戻れるという保障はどこにもないのだった。
 祐麒はもう一度ため息をつく。瞬間、パシャリとシャッターを切る音が鳴った。
「蔦子さん、私の憂鬱そうな表情なんて撮って面白い?」
 食事中なのにカメラを手放さないのはどうなのかという突っ込みは、随分前に諦めた。蔦子さんはそれこそ、授業中以外は常にと言って良いほどカメラを携帯している。
 祐麒の皮肉に少しも堪えた風もなく、蔦子さんは笑う。
「面白いわよ。祐希さんの素の表情って貴重だもの」
「貴重?」
「あ、それ分かる」
 祐麒本人が疑問符を浮かべたのに対し、桂さんは貴重という発言に同意した。
「高校生になってからだけど、祐希さんってすごく頑張ってる感じがする」
「が、頑張ってる?」
 さらにわけが分からない。たしかに女らしく振舞おうと四苦八苦してはいたが、まさか外から見るとばればれだったのだろうか。
 蔦子さんがにやにや笑って解説を始めた。
「そうだね。例えば、志摩子さんとか、紅薔薇のつぼみである小笠原祥子さまとか、あの二人は根っからのお嬢様。動作の一つ一つが優雅で上品。分かる?」
「それは分かる」
 祐麒はうなずく。自分のように淑女らしく振舞おうとするのではなく、全ての動作に育ちの良さが染み付いているのだ。
「でも、いかなリリアンと言えど、そういう人ばかりじゃないわけよ。私とか、桂さんとかみたいに。私たちは必要に応じてお嬢様なふりをできる、っていうだけ。そりゃあ、普通の高校に通ってる人たちよりは長く、上手く猫を被ってられるかもしれないけどね」
「否定はしませんけど、それはちょっと失礼だと思いますわ。蔦子さん」
 桂さんが抗議の声を上げた。わざわざ丁寧な口調で言ったのは、ただの嫌みだろう。
 蔦子さんはごめんごめん、と軽く言って、話を続けた。
「祐希さんもどちらかというと私たちより。でも決定的に違うところがある。私たちは作ってるけど、祐希さんは律してる」
 律してる。祐麒は口の中で蔦子さんの言葉を繰り返した。
「歩き方、立ち方、動作の端々に気を使っている。祐希さんはいろんなものの理想をちゃんと持ってて、それに近づくことをいつも自分に課しているように見える。しいて言うなら、紅薔薇さまに近いかもね」
「ろ、紅薔薇さまに? 蔦子さん、眼鏡の度を強くした方が良いのと違うかな」
 蔦子さんの過大評価に、祐麒はうろたえた。単純に女らしくしようとしているだけで、三薔薇さまの一人に近づけるというのなら、リリアン生全員がそうするだろう。
 しかし、祐麒の否定の言葉とは裏腹に、桂さんはうんうんとうなずいている。
「さすがは写真部のエース。いい所を見てる」
「任せなさい。でも、律しているじゃあ、硬すぎると思ってたのよ。頑張ってる、か。単純だけど、祐希さんにはその方が合ってるわ。やるじゃない桂さん」
 二人は顔を見合わせて笑いあっている。話の主である祐麒は置いてけぼりだ。
「そういうの、ほめ殺しって言うんだよ。知ってた?」
 祐麒が情けない表情で呟くと、二人はさらにおかしそうに笑ったのだった。



【マリア様がよそみしてる ~その五・過大評価~】



 音楽室の掃除を終えた祐麒は、掃除日誌の返却を買って出た。部活動にも委員会にも所属していない祐麒は、放課後の時間の使い方に割と余裕があった。今日は図書館に行って、料理の本でも借りてくることにしようか。
 母さんが最近祐希がご飯の準備を手伝ってくれない、と寂しそうにしていたのを思い出す。姉である祐巳も、心得程度ではあるが料理を母さんから習っていた。きっと祐希もそうだったのだろう。もっとも、今すぐに手伝ったらすぐにぼろを出してしまうので、この計画はもう少し調理実習で腕を磨いてからにした方が良さそうだ。
 それにしても……。
 祐麒は心の中で自嘲する。随分と女の子のふりが板についてきてしまった。最近では、ふとした瞬間に心の中でまで「私」で考え事をしている自分に驚くこともある。
「あら」
 職員室へと向かう階段を下りていると、踊り場で大荷物を抱えた志摩子さんに会った。
「ごきげんよう、祐希さん」
「志摩子さん。ごきげんよう。薔薇の館に持っていくの?」
 五月のマリア祭以降、志摩子さんは山百合会の手伝いに借り出されることが多くなった。まだ白薔薇さまと姉妹になったという話は聞かないが、きっとその内ロザリオの授受を行うのだろう。
「いいえ、これは職員室まで。今日は環境整備委員の仕事なの」
 志摩子さんはやわらかく微笑んでそう答えた。山百合会に委員会、二足のわらじを履いて、両方の仕事をこなす志摩子さんだが、忙しそうな印象は受けない。蔦子さん言うところの、根っからのお嬢様気質のせいで、そういった苦労を表に出すことをよしとしていないのかもしれない。
「じゃあ、半分持つよ。私も掃除日誌を職員室に持っていくところだから」
 祐麒はそう言うと、志摩子さんの持つダンボールの上に重ねられたプラスチックのパネルをひょいと抱え上げた。
 元男の子としては、志摩子さんにだけ荷物を持たせて、隣を歩くという選択肢はありえない。
 志摩子さんは驚いたように目を丸くしたあと、元通りに微笑んだ
「ごめんなさい。ありがとう」
「良いって、良いって。目的地は同じなんだし。ところで、これって何に使う物?」
 祐麒は階段を下りながら、腕に抱えた白いパネルを目で示す。
「ああ、それは花壇に咲いている花や、木の名前を書くのに使うのよ」
「あ、なるほど」
 言われてみれば、公園なんかで目にするものと同じだ。
 他愛も無い話をしながら歩いていると、ふと志摩子さんが呟いた。
「祐希さんは」
「え?」
「祐希さんは聞かないのね」
 目的語が抜けていて、祐麒には何のことだか分からない。首をかしげる祐麒を見て、志摩子さんは小さく笑った。
「気にしないで、私が過剰に意識しているだけだわ」
 気にするなと言われると気になるのが人情である。目的地と、パネルの用途は聞いたけれど、他に何か聞くことがあっただろうか。
 何を聞けば良いのか考えている祐麒に、志摩子さんの方から質問をしてきた。
「祐希さんは入学式のことを覚えているかしら」
 入学式と志摩子さん。そのキーワードで思い出されるのは、マリア像の前での出来事。
「場違い?」
 短く聞くと、志摩子さんはうなずいた。
「今でも、そう思ってる?」
 どきりとした。
 場違いである自分。違う世界で、性別の異なる自分として暮らす時間。常に意識していたはずなのに、最近それが薄れてきている。
「ちょっと、忘れかけてたかもしれない。本当はずっと場違いなままなのに」
「……そう、私と同じね」
 志摩子さんが呟いた。
「え? 志摩子さんの場所は薔薇の館じゃないの」
 その言葉に含まれた寂しそうな響きを受けて、祐麒はぽろりと言ってしまった。志摩子さんと言うと、山百合会の白薔薇さまというイメージがあったせいだ。
 志摩子さんは呆気に取られたという表情で祐麒を見る。
「そう、祐希さんにはそう見えていたの。それじゃあ、何も聞かないのも当たり前ね」
「それ。誰かに何か聞かれたの?」
「何で誰の妹でもないのに薔薇の館へ出向いているのかって、ね」
 今度は祐麒が呆気に取られる番だった。花寺の生徒会室は、入れ代わり立ち代わり誰かが訪ねて来ていたので、そういうことには気が回らなかった。
「薔薇さまとその姉妹じゃないと生徒会の仕事をしちゃいけないってことは無いと思うけど」
 なにしろ生徒会なのだ。生徒であるなら誰にでも参加資格があるのではないだろうか。
 そんなことを話している間に、二人は職員室についた。祐麒がプラスチックパネルを志摩子さんに返すと、お礼を言われた。
「ありがとう。祐希さんのおかげで、随分軽くなったわ」
「これくらいのことなら、いつでも言って。力仕事くらいしか手伝えないかもしれないけど」
 祐麒が言うと、志摩子さんは笑顔で首を振る。
「祐希さんは、もっと自覚した方が良いわ」
「それ、前に蔦子さんにも言われた。そんなに頼りないかな、私」
 これでも一応、元男の子なのだけれど。
 そうじゃなくて、と志摩子さんはもう一度首を振った。
「祐希さんは、自分で思っているよりもっと素敵な人だってことよ」
 志摩子さんは、祐麒にそう言い置くと、失礼しますと職員室の中に入っていった。
 後に残されたのは、志摩子さんの言葉の意味をはかりかねて、頭を悩ませる祐麒だけだった。

   <過大評価・了>




[14098] その六・契りを結んだ人
Name: 元素記号Co◆44e71aad ID:4d91be71
Date: 2010/07/27 00:49
「志摩子!」
 声と同時に教室に飛び込んできたのは白薔薇さまだった。休み時間もそろそろ終わるというタイミングで現れた闖入者に、クラス中の視線が集中する。
 白薔薇さまはさっと教室に目を走らせただけで目的の人物を見つけたらしく、そちらへ駆け寄っていった。祐麒の視線の先で、志摩子さんは驚いた表情で固まっている。
 志摩子さんの手を掴んだ白薔薇さまは、とても良いいたずらを思いついた子どものような笑顔で口を開いた。
「おいで」
「ろ、白薔薇さま。あの……」
「行くよ、ほら」
 何か言いかけた志摩子さんを遮って、白薔薇さまは入って来たときと同じくらいの勢いで教室から駆け出していった。もちろん、志摩子さんの手を引っ張ったまま。
 白薔薇さまの登場から退場まで、三十秒とかかっていなかっただろう。嵐のように、というのはああいうことを言うのだと、祐麒は深く納得した。
 目の前で起こった鮮やかな誘拐劇に止められていた教室の時間が、ようやく動き始めた。最初はすぐ隣の人との声をひそめた会話だったのだろうが、それはさざ波のように教室全体へ広がっていく。
 その会話に混ざることなく、一人で頭の中を整理していた祐麒は、唐突に肩を叩かれた。
「ちょっと、私たちがいない間に何があったわけ?」
 振り向いた先にいたのは、たった今ミルクホールから戻ってきたのだろう、桂さんと蔦子さんだった。ちなみに祐麒は、お菓子の誘惑から体を守るために同行を辞退していたのである。
「ええっと……」
 祐麒はなんと言ったものかと思案する。志摩子さんが誘拐された。誘拐犯は白薔薇さま。起こった事実はそれだけだ。けれど、白薔薇さまのあの笑顔と、志摩子さんの縋るような瞳は、言葉で伝えられるようなものではない。そして、それを伝えられないなら、何が起こったかを正確に理解することはできないように、祐麒には思えた。
「蔦子さん風に言うなら、今年一番のシャッターチャンスを見逃したって感じかな」
 そう言うと、蔦子さんは「それは残念」とでも言いたそうな表情で、肩をすくめた。
 一方、桂さんはそんな情報では納得してくれない。
「何かとんでもないことがあったのは、雰囲気で分かるの。その中身が知りたいんじゃない」
「そうだなあ。たぶん、志摩子さんが次の授業をサボるか遅刻する、ってことかな」
「はあ?」
 さらに混乱した表情をする桂さんに、祐麒は苦笑する。詳しいことはその内、校内新聞であるリリアンかわら版にでも載るのではないだろうか。
 きっと今頃、あの二人はロザリオの授受を行っているはずだから。



【マリア様がよそみしてる ~その六・契りを結んだ人~】



「うーん」
 夕ご飯を食べ終えた後、祐麒は自室で一人、ベッドの上で頭を悩ませている。
 夏休みごろから少しずつ考えてはいたが、たぶんその前に戻れるだろうと現実から逃げていた。けれど、今日の志摩子さんと白薔薇さまの件を見て、そろそろ真剣に考えなくてはいけないと、そう思ったのだ。
 たぶん、この世界は祐麒と祐巳の役割が逆になっている。
 確信に近い思いを抱いたのは、五月のことだ。マリア祭の前だったか後だったか、祐巳が肩口を五針も縫う怪我をした。幸い、腱が切れるようなこともなかったし、こちらの祐巳は男なので痕が残ってもそこまで大事になるものではない。まあ、あの時は両親と一緒になって本気で怒ったけれど。
 問題は、元の世界で祐麒もまた、同じ怪我をしているということだ。人がいないタイミングを見計らって押入れのがらくたBOXを探ってみたら、案の定ものすごく見覚えのある風呂敷包みが出てきた。それを持ち出せば祐巳も怪我の原因を隠すのを諦めて、両親の機嫌がもう少し早く直ったかもしれないけれど、さすがにできなかった。武士の情けという奴だ。祐麒自身、元の世界では家族に隠しておきたい過去だったのである。
 とにかく、本来なら祐麒がやっていたはずの生徒総会での出し物を、祐巳がやった。怪我もしたということは、物置に閉じ込められたところまで一緒だったのだろう。夏休みには合宿だと言って、数日間学校へ泊まり込んでもいた。
 おそらく、祐巳は柏木先輩の烏帽子子になっている。
 だとしたら祐希はその内、祥子さんの妹になるはずだったんじゃないだろうか。
 祐麒には、姉である祐巳以外の人物が祥子さんの妹になっているところなど、想像もできない。けれど、こちらの世界に祐巳はいない。代わりに収まるのが祐希であるという仮定は、とてももっともらしい気がした。兄である祐巳は祐麒の代わりを立派にこなしているようなのも根拠の一つと言える。
 だからと言って、姉の祐巳の代わりが祐麒に務まるかと考えると、どうしても否と言いたくなる。
 祐巳は祥子さんの妹として山百合会に関わるようになって、大きく成長した。姉がどんどん先に行ってしまうような気がして、焦ったこともある。けれどそれ以上に、祐巳がいたからこそ山百合会が変わった部分もあるはずなのだ。
 人と人の出会いには、そういう力がある。
『おいで』
 志摩子さんにそう言って笑った白薔薇さまの顔を、祐麒は思い出す。
 マリア祭などの学校行事で、遠目に見ることのあった白薔薇さまは、いつも心ここにあらずという顔をしていた。少なくとも、元の世界の小笠原邸で出会ったときとは、雰囲気が全然違った。その理由が、今日分かった。
 白薔薇さまは、志摩子さんという妹を得て初めて、あの白薔薇さまになったのだ。
 それはきっと祥子さんもそうだろうし、祐巳の妹になった瞳子ちゃんもそうだろう。
 とんでもなく鈍いくせに、自然体のままで一番大事なところだけは外さない、そんな姉だからこそ出来たことが、いくらでもあるはずだった。
 祐麒にそれが出来るのだろうか。少なくとも、結果や過程の幾つかを知ってしまっている祐麒は、自然体ではいられない。
「祐希ー、次お風呂に入っちゃいな」
 どんどん、とノックの音と一緒に、祐巳の声が飛び込んできた。いかな兄といえど、年頃の妹の部屋にいきなり踏み込んだりはしない。姉の方の祐巳は、祐麒の着替え中にいきなり入ってきては悲鳴を上げていたことが何度かあったけれど。
 祐麒は「はーい」と返事をして、ついでに兄に質問をぶつけることにした。
 ベッドから飛び降りると、出口に駆け寄ってドアを開ける。廊下を歩いていた祐巳の後姿に声をかけた。
「お兄ちゃん、聞いても良い?」
「なんだよ」
「たしか花寺にも姉妹制度みたいなのがあるんだよね」
 祐麒の言葉に祐巳はうなずいた。花寺にあるのは烏帽子制度だ。どちらも、上級生が下級生を指導するという点ではほとんど変わらない。
「例えば、祐巳のお姉さま……じゃなくて烏帽子親に、もっと相応しい烏帽子子がいたとするじゃない」
「うん」
 さらにうなずいた祐巳だったが、口の中でぼそぼそと「あの人と本当の意味で釣り合いの取れる人なんているかなあ」と呟いているのが聞こえた。その点には深く同意しておく。
「でも、その烏帽子子の人は転校か何かでいなくなっちゃったの。その代わりをお兄ちゃんが務めることになったら、どうする?」
「頑張る」
 あまりにもあっさりと、祐巳は言った。
「気に食わないところもあるけど、なんだかんだ言ってあの人のこと尊敬してるし。その烏帽子子の人はもういないんだろ。少なくとも烏帽子親は、俺を次の烏帽子子にって選んでくれたんだから、相応しいって胸を張れるまで頑張るよ」
 途中から、耳をふさいで逃げ出したくなった祐麒だった。祐麒にそっくりのその顔で、柏木先輩のことをあまり褒めて欲しくない。恥ずかしいとか、そういう感情は持ち合わせていないのだろうか、この兄は。
 けれど、ちょっと背中を押された気がした。
「うん、ありがとう。参考になった。お兄ちゃんの烏帽子親の人にもよろしく言っておいて」
「な、なんで俺に烏帽子親がいるって知ってるんだよ」
 さっき思いっきり「あの人」って特定の人物を思い浮かべていた祐巳がうろたえた。結局、姉と変わらずどこか抜けている兄だった。
「そんなことより、祐希も誰かに妹になれって言われたのか? 難しそうな人に」
 心配そうな顔で聞いてくる祐巳に、祐麒は笑顔で答える。
「まだ決まったわけじゃないけどね。ちょっと真面目に考えてみる」
「……そうか。頑張れよ」
 祐巳はわざわざ祐麒の隣に寄ってきて、ぽんぽんと頭を撫でてから部屋に入っていった。
 そう、経緯は良く知らないけれど、祐巳が祥子さんの妹になったのは、文化祭だったはずだ。祐麒にはあともう少しだけ、考える時間が残されていた。

   <契りを結んだ人・了>





[14098] その七・性格の悪い友人たち
Name: 元素記号Co◆44e71aad ID:0a4e3c4d
Date: 2010/07/27 00:49
 マリア像の前で目を閉じ、手を合わせる。
 最初こそ違和感のあったこの時間も、半年近く経った今ではさすがに慣れてしまった。祐麒は今日も心の中で呟く。
(どうかマリア様、そろそろわた……じゃない、俺を元の世界に戻してください)
 マリア様が実在するのかどうかは分からないけれど、何らかの超常的な力が働いてこの状況にいるのは確かである。別段信心深いというわけではない祐麒だったが、お祈りをする時間は自然と長くなる。
 かすかに空気が揺らいで、隣に人の立つ気配がした。
 待たせてしまったかと、祐麒は慌てて目を開ける。マリア像の前から中々動かない祐麒に業を煮やしたのだろう。
 そのまま校舎へと歩き出した祐麒は、背後から呼び止められた。
「お待ちなさい」
 凛とした声は高圧的なわけではなく、人の上に立つ者が自然と持つことになる張りがあった。
 祐麒が体を緊張させたのは、一瞬だけ。声に怒りの色は含まれていなかった。淑女らしく、身体全体で振り返る。
「さ……」
 声の主を目に入れたと同時に、祐麒の体は凍りついた。紅薔薇のつぼみがそこに立っていた。祥子さんと言いかけた喉は、運の良いことに体と一緒に凍ってくれた。上級生だから、祥子さまと呼ばなければならないのだった。
「ご、ごきげんよう。祥子さま」
 うっかりと名前を呼んでしまったけれど、祥子さまは有名人である。初対面の一般生徒に名前を呼ばれたことを気にもせず、さらりと微笑んだ。
「ごきげんよう。ちょっと持っていてくれる?」
 自然な動作で差し出された、祥子さまの鞄を受け取ってしまう。祐麒にはなんで鞄を渡されたのか訳が分からない。
「あなた。タイが曲がっていてよ」
 固まったままの祐麒の胸元に、祥子さまの手が伸びる。布の擦れる音と共にタイがほどかれ、結びなおされる。
 キュ、と音を立てて結ばれたタイは、祐麒が毎朝結んでいるのと同じものだとは思えないほど綺麗な形をしていた。
「身だしなみは、いつもきちんとね。マリア様が見ていらっしゃるわよ」
 祥子さまは祐麒から鞄を取り戻すと、もう一度「ごきげんよう」と言って校舎へと歩いていった。
 その背中に向かって、祐麒はなんとか声を絞り出した。
「あ、ありがとうございます。ごきげん、よう……」
 たぶんもう聞こえていないだろうお礼と挨拶を口にした祐麒は、マリア像をゆるゆると見上げた。
「見てくれていたら、こんなことにはなってないと思うんだけどなぁ」



【マリア様がよそみしてる ~その七・性格の悪い友人たち~】



「なるほど、そういうこと」
 重々しくうなずいた桂さんは、弁当箱の上にお箸を置いてから、人差し指をぴんと立てた。
「つまり祐希さんは、憧れの祥子さまの前で恥をかいて落ち込んでいる、と」
「どう聞いてたらそうなるのか、私には分からないよ」
 昼休み、本日は珍しく桂さんと二人での昼食である。蔦子さんはチャイムが鳴ると同時に、慌ただしく教室を飛び出して行った。何か用事があるのだろう。
「え、だってタイが曲がっていたことに気づかず、それを紅薔薇のつぼみに指摘された上、お手を煩わせてタイを結びなおさせてしまったわけでしょ?」
 今日は朝からなんだかぼーっとしてたけどどうしたの、と桂さんに尋ねられて、今朝あったことを説明した祐麒だった。確かに、桂さんが復唱したことに関しては間違っていない。
「そこじゃなくて。憧れの祥子さま、の部分に対して言ったつもりなんだけど」
 姉の祐巳は高等部入学時からの祥子さまファンだったが、祐麒は別にそこまでは行っていない。祐巳の姉である人として尊敬はしているが、それ以上ではないのだ。
「自覚なしだったの? 祐希さん、行事のときはいつも祥子さまを目で追っかけてるじゃない。この間廊下ですれ違ったときも、振り返って後姿を見送っていたし」
「なっ」
 桂さんの指摘に、祐麒はうろたえた。慌てて反論する。
「いや、それは違うってば。祥子さまって、蔦子さん言うところの真正のお嬢様じゃない。歩き方とか、すごく綺麗だから、参考にしたくてつい見てることが多いだけで」
 祐麒の言い分を最後まで聞いた桂さんは、チェシャ猫のように口をゆがめて笑った。
「普通、そういうのを憧れていると言うのよ」
「うぐ……」
 お見事な切り返しだった。祐麒は純粋にお手本を見るつもりでいるのだが、他の人にはそう取られてしまうだろう。
「でもまあ、そんなに深く気にすることないんじゃない?」
「一応聞くけど、なんで?」
「だって相手はリリアン女学園のスターよ。スターは素人のことなんか、いちいち覚えてやしないわよ」
 スターと素人。
 確かに、普通に考えればそのとおりだろう。けれど、祐麒は知っている。素人の中の素人、ミス凡人であったはずの姉は、なぜかそのスターの妹になってしまったのだということを。
「そうそう、祥子さまと言えば、聞いた?」
「聞いたって、何を」
「志摩子さんの話」
「志摩子さんの話?」
 最近あった話題になりそうな志摩子さんの話というと、白薔薇さまの妹になったことくらいではないだろうか。
「祐希さんは、白薔薇さまが志摩子さんを教室から連れ出したところ、見てたんだよね」
 桂さんの言葉に、こくりとうなずく。
「でも実はそれよりも前に、祥子さまが妹にならないかって志摩子さんに声をかけていた、という話なのよ」
「ええっ?」
 思わず声を上げた祐麒だった。もう少しタイミングが悪かったら、桂さんの顔はご飯粒だらけになっていただろう。
「お姉さまから聞いたことだから、確かな話よ」
 桂さんの姉はテニス部の先輩で、クラスは二年松組。祥子さまと同じだ。確かに信頼できるルートの情報だった。
 祐麒は頭の中で白薔薇さまと志摩子さんを並べてみた。その後で、白薔薇さまを祥子さまに置き換える。
「……しっくりこない」
 もう一度白薔薇さまを志摩子さんの隣に連れ戻した祐麒だった。やはり、こちらの方がしっくり来る。
「あのねえ、そういう話じゃないでしょう」
「でも、志摩子さんが紅薔薇のつぼみの妹になってるところは想像できないよ」
「じゃあ、祐希さんは誰だったらしっくりくるわけ」
「そりゃあ」
 祥子さまの隣で能天気に笑っている、姉の姿を思い浮かべる。うん、これ以外の組み合わせは考えられない。
「ゆ」
「ゆ?」
「ゆ……ゆっくり考えてみないと、分からない、かな」
 危うく祐巳と言いそうになって、かなり苦しく言い逃れる。桂さんは盛大にため息をつくと、お箸を持ち直した。
「まあ、なんでも良いけどね。私たちからしたら雲の上のお話、ってことよ」
 そう言うと、桂さんはお箸をミートボールに突き刺した。
 それを見ながら、祐麒はぼんやりと考える。でもたぶん、この話はこれだけで終わってくれない。どういう経緯を辿ってかは分からないが、祐麒はもう一度祥子さまの前に立つことになるのだろう。

「祐希さん、お時間良いかしら」
 放課後、音楽室の掃除を終えて廊下に出た祐希は、蔦子さんに声をかけられた。
「あれ、蔦子さんは教室の掃除当番じゃなかったっけ。もう終わったの?」
「ええ、もちろん。祐希さんに用事があったから、少し早足で来たけどね。このまま帰るつもりだったでしょう?」
「うん、まあ」
 蔦子さんの視線の先には、祐希の学生鞄がある。音楽室は教室から遠いので、掃除当番のときはそのまま帰ることにしているのだ。
 同じ掃除当番の三人が祐希に近寄ってきて、鞄と一緒に持っていた掃除日誌を取り上げた。
「祐希さん、日誌は私たちが職員室に返しておきますから、ゆっくりお話してくださいな」
「あ、ありがとう」
「お気になさらないで。いつもは祐希さんばかりにお任せしてしまっているのですもの。たまには私たちがやらないと、罰が当たってしまうわ」
「まあ、それを言うなら天罰が下るじゃないかしら」
「あら、そう簡単に天罰は下るものではありませんわ。いつでも見守ってくださっているからこそ、恥じることのないように生活しないといけないのよ」
 三人は口々にしゃべり合った後、声をそろえて「ごきげんよう」と微笑み、職員室の方へと歩き去っていった。
 それを見送った祐麒は、蔦子さんに改めて声をかける。
「ああいう会話って、やっぱりリリアンならではだよね」
「まあ普通は罰が当たると天罰が下るの違いについてなんか気にしないわね。というか、私には良く違いが分からない」
 蔦子さんも祐希と同じく幼稚舎からのリリアン生のはずなのだが、生来の気質がそうさせるのか、発想の仕方が外からやってきた祐麒に近い。おかげで今では、桂さんに並んで話しやすい友人となっている。
「っと、そういう話をしに来たわけじゃないのよ。今日はちょっと、祐希さんの喜ぶようなものを持ってきたつもり」
 そう言うと、蔦子さんは二枚の写真を祐麒に差し出した。
「写真?」
 それが何を写したものなのかを理解した瞬間、祐麒は動きを止めた。
「こ、これ……」
 思い出した。そう、祐麒はこの写真とまったく同じ構図の写真を、見たことがある。祐巳が祥子さまの妹になった年の学園祭、その写真部展示で大きなパネルになって飾られていた写真と、同じものだ。
 祐麒の中で、情報が一本の線に繋がった。一般人である祐巳と、紅薔薇のつぼみである祥子さまの接点は、まさにこれだったのだ。
「ふっふっふ。私には、それを祐希さんに引き渡す準備がある。二つほど、条件を飲んでもらうけどね」
 蔦子さんがものすごく悪い顔で笑う。はまり過ぎていて、ちょっと怖い。
「条件、というと」
「一つ目。この写真を学園祭の写真部展示コーナーにパネルで飾らせること」
 やはり、それが条件になるらしい。祐麒は写真に目を落としたまま、次の言葉を促す。
「もう一つ。祥子さまがパネル展示に同意してくれるよう、説得工作を手伝うこと」
「は?」
「祐希さんが来てくれた方が、話がスムーズに進む気がするのよね」
「本気で言ってるの? 私が断る可能性とか考えようよ」
 祐麒が言うと、蔦子さんは意外そうな表情をした。
「あれ、じゃあこの写真いらないの?」
「……もしかして、蔦子さんも私が祥子さまに憧れてるって思ってるクチ?」
 そう尋ねてみると、さらに蔦子さんは不思議そうな表情をした。違うの、とでも言わんばかりだ。
「祥子さまは尊敬してる。けど、それは紅薔薇のつぼみとして頑張っていることとか、完璧に淑女らしい振る舞いのお手本としてであって、そういうのじゃない」
「たぶん桂さんあたりにも同じ言い訳をしたんだと思うけど、私は突っ込ませてもらう。そういうのを憧れって言うのよ」
「か、桂さんと同じこと言わないでよ」
 蔦子さんは目を細めて笑った。
「なんだ、もう言われてるんじゃない。認めなさいよ」
 祐麒は写真を持ったまま「うー」と唸る。蔦子さんはますます楽しそうに笑う。
「分かった、分かった。百歩譲って、祐希さんは祥子さまを尊敬しているだけだと認めよう」
 祐麒の睨み付け攻撃が効いたのか、蔦子さんは何度かうなずいた。
「それじゃあ、友人として個人的にお願い。さすがの蔦子さんでも薔薇の館に一人で行くのは怖いから、付き合ってよ。お礼にその写真を上げるから」
「……蔦子さんって性格悪いと思う」
「祐希さんはとても素直で可愛いと思うわ」
 結局、祐麒は蔦子さんに付き合って薔薇の館へ行くことに同意した。なんだかんだ言っても、祐麒は蔦子さんのことを良い友人だと思っているので、頼まれると嫌とは言えないのである。
「あ、万が一祥子さまが駄目って言ったら、残念だけどその写真はネガごと廃棄するから、上げられないの。そのときはごめんね」
「だから、私はこの写真自体は別にいらないってば」
 祐麒の抗議に対して、蔦子さんはにんまり笑いながら「はいはい」とうなずくだけだった。

   <性格の悪い友人たち・了>





[14098] その八・薔薇と会った日
Name: 元素記号Co◆44e71aad ID:0e0eab5a
Date: 2010/07/27 00:52
 祐麒たちはまず二年松組を訪ねてみたが、祥子さまは既に教室を出た後だった。薔薇の館へ向かうために校舎を出たところで、返し忘れていた写真を蔦子さんに渡す。
「そういえば、その写真いつの間に現像したの? 今朝あったばかりのことなのに」
 返すついでに尋ねると、蔦子さんは胸を張って答えた。
「そりゃあ、お昼休みに特急で焼いたに決まっているじゃない。撮った瞬間に分かることがあるのよ。これは良い写真、ってね。だから一刻も早く現像したかったの」
 少しばかり格好をつけて笑った蔦子さんだったけれど、お腹がぐうと鳴ったのであまり決まってはいない。特急現像の代償は、蔦子さんのお昼ご飯を食べる時間だったわけだ。
 それにしても、なんで薔薇の館は外にあるのだろう。祐麒はふとした疑問を覚える。
 祐巳は「誰にでも親しまれる山百合会」というのを目標に掲げていたはずだけれど、そもそも立地が悪すぎる。薔薇の館が完全に校舎から切り離されているおかげで、山百合会に用事のある人でなければ、薔薇の館に近づく必要がないのだ。これでは、薔薇の館の敷居が高くなるばかりである。怖いもの知らずの蔦子さんでさえ、一人で訪ねるのを躊躇するくらいなのだ。
 実際、ようやく中庭の隅にある薔薇の館の前に到着した二人だったが、中に入る踏ん切りがつかずに入り口で立ち止まってしまった。
 祐麒は一応、学園祭の準備などで何度か入ったことがあるけれど、それでもアウェーということにかわりは無い。それに、祐希としては初めて訪ねる場所である。先に立って踏み込むようなことはできず、今回の訪問の主役である蔦子さんの半歩後ろで待機するだけだ。
 蔦子さんは大きく深呼吸して、覚悟を決めたようだった。その右手が入り口の扉にかけられようとしたその時、狙いすましたようなタイミングで声がした。
「薔薇の館に、何かご用?」
 同時にびくりと肩を震わせて、二人は振り向いた。そこにはいつの間にやってきたのか、穏やかに微笑む志摩子さんが立っていた。
「ごめんなさい。驚かせるつもりは無かったのだけれど」
 祐麒たちの過敏な反応に、志摩子さんは申し訳なさそうな顔をする。祐麒たちも別に悪いことをしていたわけではないが、慣れない場所に顔を出すときは、やはり緊張してしまう。
 蔦子さんはすぐに気を取り直したのか、志摩子さんに向かって笑顔を見せる。
「私たち、紅薔薇のつぼみに用事があってきたのだけれど、取り次いでもらっても良いかしら」
「あら、祥子さまに? だったら中にいらっしゃるはずよ。今日は学園祭についての会議をする予定だから」
 そう言うと、祐麒たちの横を抜けた志摩子さんはあっさりと入り口のドアを開けて、中に踏み込む。白薔薇のつぼみとなった志摩子さんは、名実共に薔薇の館の住人なのだった。
 そして、祐麒たちに向かって手招きをする。
「どうぞ、お上がりになって」
 祐麒と蔦子さんは、一度顔を見合わせてから、扉の内側へ歩を進めた。

 木造の急な階段は、一段登る度にぎっぎっと軋る。祐麒は少し足を速めて志摩子さんに近づき声をかけた。
「勝手に私たちを中に入れて大丈夫?」
 祐麒たちは部外者だ。白薔薇のつぼみとはいえ、一年生である志摩子さんの一存で自分たちを招き入れてしまって良かったのだろうか。咎められたときに責任を取ることになるのは、志摩子さんなのだ。
「あら祐希さん、自分で言ったことを忘れたの? リリアンの生徒はみんな、山百合会の一員なのよ。いつでも遊びにいらして」
 志摩子さんは一度言葉を切ると、小さく笑った。
「本当に忙しいときに来たら、この前までの私みたいにお手伝いすることになるかもしれないけれど」
 冗談を言う志摩子さんとは、珍しいものを見てしまった。祐麒からすると、志摩子さんにはどうしても生真面目なイメージがあったのだ。
「お手伝いかー。うん、手が足りないときは、声をかけてね。体力はある方だし」
 むん、と力こぶを作ってみせる祐麒。男だったころとは比べるべくも無いが、引退したとは言え祐希も元運動部だ。それなりに筋肉もついている。
 いつだったか、姉の肩を揉んだときは、がちがちに凝り固まっていた。女の子しかいないからこそ、力仕事を出来る人間が多くて困ることはないはずだ。
 志摩子さんと祐麒の後ろを歩く形になっていた蔦子さんが、ははあと声を上げた。
「祐希さん、志摩子さんと仲が良かったのねえ」
 蔦子さんはふむふむとうなずいている。祐麒の意外な交友関係に思いをめぐらせているのかもしれない。
「横暴ですわ。お姉さまのいじわる!」
 階段を登り切ったとき、正面にあるビスケットっぽい形の扉の向こうから声がした。部屋の外まで聞こえてくるとは、結構な大声だ。
「あ、良かった。祥子さま、いらっしゃるみたい」
 志摩子さんが呟く。
 聞き覚えがあると思ったけれど、どうやら声の主は祥子さまだったらしい。冗談を言う志摩子さんもそうだが、いじわる、と声を荒げる祥子さまというのも、祐麒のイメージの外である。
 男嫌いで、高いところと乗り物が苦手で、ちょっと偏食気味でと、いろいろ弱い部分を持っているのは知っていたけれど、こういう子どもっぽい発言をする人とは思っていなかった。誰にでも、身内にだけ見せる表情というのがあるものだ。
「わかりました。今すぐここに連れてくれば良いのでしょう」
 部屋の中の口論は続いているようだが、聞こえてくるのは祥子さまの声ばかりだ。随分と感情的になっているらしい。
 志摩子さんはそんな祥子さまの様子に慣れているのか、涼しい顔のままビスケット扉を開いた。
 同時に、部屋の中から人が飛び出してきた。ちょうど取っ手に手をかけようとしたところで扉が開いたために、バランスを崩してしまったらしい。
 志摩子さんは扉の陰に立っている。蔦子さんは祐麒の後ろにいた。あ、と思ったときにはもうその人は祐麒の目の前にいた。
「きゃっ」
「うわっ」
 予想できていれば踏ん張りも効いただろうけれど、不意を打たれてはどうすることもできない。祐麒はバランスを崩して後ろに倒れこんだ。



【マリア様がよそみしてる ~その八・薔薇と会った日~】



「ちょっと、大丈夫」
「あらら、祥子の五十キロに潰されちゃったの。悲惨……」
 部屋の中からいくつかの声が飛んでくる。自失していたのは一瞬だけで、祐麒はすぐに気を取り直した。お尻を打ったのか、少し痛い。こんなことなら、花寺で受けた武道の授業中に、もう少し真面目に受身を練習しておけば良かった。
「ごめんなさい。あなた、大丈夫? 潰れていない?」
 間近で祥子さまの声がした。というか、祐麒の上にのしかかるような感じで倒れこんだのだから、当たり前だ。
「うああっ!」
 目の前数センチにあった祥子さまの顔に驚いて、祐麒は尻餅をついた体勢のままで素早く後ずさった。
「だ、大丈夫です。はい、何も問題ありません」
 安心できるところまで距離をとってから、祐麒は飛び起きた。壊れた人形のようにがくがくと頭を振ってうなずく。倒れこんだときに重さと一緒に感じた柔らかいものはやっぱり……いや、何も感じていない。祐麒は精神の平穏のために無かったことにした。
 挙動不審ではあるが元気そうな祐麒の様子を見て安心したのか、祥子さまは優雅に微笑んだ。
「そう、良かった。本当にごめんなさいね」
 祥子さまはいたって自然に歩み寄ってきて、祐麒のスカートの埃を払うようにぽんぽんと叩いた。いきなりの再接近に、祐麒の体が固まる。ほとんど、正面から抱きつかれたような体勢なのである。
 そして、祥子さまは祐麒にだけ聞こえるような小さな声で問いかけた。
「ときにあなた、一年生ね。お姉さまはいて?」
 何故ここで姉が出てくるのかは分からないけれど、この内緒話を終えない限り祥子さまが離れてくれないことだけは分かった。
「は、い、いませんけれど」
 同じく、祥子さまにだけ聞こえるような声で答える。ここで言う姉とは、もちろん祐巳のことではなく、グラン・スールのことだろう。そもそも、こちらの世界の祐巳は姉ではなく兄である。
「結構。一緒に来て」
 何が結構なのかは分からないが、祥子さまは一つうなずくと、祐麒の手を掴んで部屋の入り口へ誘導した。
 部屋の中から五人分の視線が飛んでくる。何が始まるのかという目を向けられても、それは祐麒にも分からない。たぶん、今この場にいるメンバーの中で、最も状況を把握できていないのは他ならぬ祐麒だろう。次点は同率で蔦子さん、と言いたいところだが、彼女なら少ない情報からいろいろなことを読み取っていそうな気もする。
「お姉さま、先ほどの約束を果たさせてもらいますわ」
 毅然とした表情で、祥子さまが口を開いた。
「あなた、自己紹介なさい」
 促され、訳が分からないながらも祐麒は名乗る。
「一年桃組の福沢祐希、です」
「フクザワユウキさん。漢字でどう書くの?」
 正面に座る紅薔薇さまの問いにも素直に答える。とりあえずの区切りをつけて、蔦子さんに場を譲らなければならない。
「福沢諭吉の福沢。しめすへんに右で祐。それから希望の希、です」
 テストなどで何度も名前を書いているからか、桃組での自己紹介のように麒麟の麒と言いかけることもなかった。
 祐希であることに随分慣れてしまったのだなと、少し複雑な気分の祐麒に構うことなく、室内と祥子さまのやりとりは続いている。それを横目で見ながら、祐麒はこの話がどこに落ち着くのかとぼんやり考えてみる。まさか、という思いはある。けれど同時に、そんな馬鹿なという意識がその考えを否定する。
 しかし、そのまさかは現実になった。
 祥子さまが、宣言する。
「私、小笠原祥子は、この福沢祐希を妹にしますわ」
 薔薇の館から音が消えたように感じた。その静寂が無かったら、祐麒は「はあ?」と大声を上げるところだったろう。口を開いたら何かが壊れると確信してしまうような沈黙。それを破ったのは、祥子さまの姉である紅薔薇さまだった。
「立ち話で済ませられる話では無いわ。中にお入りなさい。志摩子と、後ろのお客さまも」
 紅薔薇さまが小さくため息をついたように見えたのは、祐麒の気のせいだろうか。

「どうぞ」
 薔薇さまファミリーに蔦子さんと祐麒をプラスして、合計九人の大所帯となった薔薇の館。テーブルについた祐麒たちに紅茶を出してくれたのは、長い髪を二本の三つ編みにした島津由乃さんだった。
「ミルクとお砂糖は?」
 そう問いかけて笑う顔はとてもかわいらしいけれど、祐麒はそれが特大の猫だと知っている。遊園地で味わったコーヒーカップの恐怖は忘れていない。
「いえ、結構です。ありがとうございます」
 甘いほうが好みではあるけれど、何も入れなくても飲める。こういう細かいところであっても、数が積もれば大量の糖分になるのだ。間食制限は未だ続行中である。
 テーブルの向かい側に座るのは紅薔薇さま。その両隣には白薔薇さまと黄薔薇さま。この二人は成り行きを見守るというよりもむしろ、楽しむような面持ちでこちらを見ている。さらに、テーブルの右手側には志摩子さんが座っている。黄薔薇のつぼみである令さまは、流しの前に椅子を出して座っている。この件については静観する構えのようだ。隣の空席には祐麒たちに紅茶を配っている由乃さんが座るのだろう。
 そして、祐麒の両隣には祥子さまと蔦子さんが居る。この配置だと、まるで自分がこれからのお話のメイン人物のようだ。いや実際、先ほどの祥子さまの宣言が本気だとしたらメイン中のメインではあるのだけれど。
 由乃さんがお茶を配り終わって令さまの隣に座る。仕切りなおすように、紅薔薇さまがこほんと咳払いをした。
「さて、どういうことか説明してもらいましょうか」
「どうもこうもありませんわ。祐希を私の妹にします」
 先ほどと同じことを祥子さまが繰り返す。そこに口を挟んだのは、白薔薇さまだ。
「祥子の言い分はさっき聞いた。でも私としては、祐希ちゃんの考えを聞きたいね。私には状況がつかめてなくて困っているように見えるのだけれど」
 ご名答。見事な観察眼、と言いたいところだが、祐巳ほどでは無くともすぐ顔に出る性質だということは理解している。顔にでかでかと「何この状況」と書いてあったのだろう。
「問い質すようなことをしてごめんなさいね、祐希ちゃん。もちろん誰かの妹となることに何の資格も必要ないけれど、それが祥子の妹ということになると、姉としても薔薇の館の仲間としても、私たちは気にせずにいられないの」
 わかってくれるわね、と紅薔薇さまが祐麒の目を見る。
 それは理解できる。祐麒がわからないのは、自分が突然祥子さまの妹にされかけている理由の方だ。
 無理やり理由を考えてみろと言われれば、今朝の一件で祐麒に一目ぼれした祥子さまが、どこの馬の骨とも分からない女生徒を妹にすると薔薇の館で宣言し、たしなめられているところに当の本人である祐麒が登場、なんていうリアリティの無い想像しか出てこない。
 いや、例えば元の世界の姉と祥子さまなら、相性が良すぎてそういうこともあったのかもしれないが、祐巳ならざるこの身としては、その可能性はありえないと断言できる。
「あの……」
「あなたは黙っていらっしゃい。私に任せておけば良いの」
 質問しようと口を開けば、祥子さまに止められた。任せてと言われても、何を任せているのかわからないのだから、困ってしまう。
 ちらりと視線を送ると、蔦子さんが小さくうなずいた。その目が「貸し一よ」と言っているように見えたけれど、きっと気のせいだ。
「よろしいでしょうか」
 蔦子さんがすっと手を上げて発言した。
 祐麒を挟んだ向こうからの伏兵には、さすがの祥子さまも反応できなかったようだ。
「あなたは……武嶋蔦子さんね。何かしら」
「見知り置いてくださっていたようで光栄です」
 蔦子さんがぺこりと頭を下げた。
「祐希ちゃんならともかく、あなたのことを知らない人はそういないのではないかしら。写真部のエースさん」
 黄薔薇さまの台詞に、そりゃそうだと内心でうなずく祐麒。そんな祐麒を、由乃さんが意味ありげな目で見てきた。祐希のことを知っているのだろうか。もしかしたら中等部のころに同じクラスになったことがあるのかもしれない。家に帰ったらアルバムで確認しておこう。
 こほん、と一つ咳払いをして照れを払った蔦子さんが、改めて口を開く。
「同席を許されたということで贅沢を言わせて貰いたいのですが、私には話が全然見えません。よろしければ、ことの経緯を説明していただけないでしょうか」
「そうね、もっともだわ」
 うなずいた紅薔薇さまが、顛末を語る。
 すぐ近くに迫った学園祭での山百合会の出し物、シンデレラのこと。シンデレラ役をするはずの祥子さまが、今日になってからやりたくないと言い出したこと。王子役としてはミスターリリアンの令さまではなく、隣の花寺学院から生徒会長を客演として呼んでいるということ。途中、祥子さまが何度か口を挟んでいたが、大枠としてはそういうことらしかった。
「男の人が苦手だから、なんていう理由で今さら役を降りられては困るのよ」
「男嫌い……ですか」
 口に出して呟いてはみたが、もちろん祐麒はそのこと知っていた。だが、疑問も残る。花寺の生徒会長と言えば、当然のことながら柏木先輩だ。祥子さまの従兄弟で、元の世界では結局解消となったらしいが、今のところは許婚でもある。
 祐麒からしてみると、この二人は決して仲が悪いようには見えなかった。お互いの良いところも悪いところもそれなりに理解していて、男女の仲では無かったにしても「男嫌い」の範疇には入っていなかったと思うのだ。
 難しい顔で考え込んでしまった祐麒だったが、もう一つ大きな疑問点が残っていることに気づいた。いや、志摩子さんが気づかせてくれた。
「お話は分かりましたけれど、それと祐希さんが祥子さまの妹になることと、どういった関わりがあるのでしょうか?」
「さて、どうしてだろうね」
 韜晦するように言ったのは、志摩子さんの姉である白薔薇さまだ。その言葉に反応した祥子さまが、紅薔薇さまを鋭い目で見て口を開く。
「お姉さまが私の言うことに全く取り合わず、妹も作れない人の話を聞く気は無い、なんて言うからですわ」
「だからって、部屋を出てそこにいたからという理由で妹にするのはおかしいんじゃない? わらしべ長者じゃあるまいし」
 絶句した祐麒をしり目に、白薔薇さまがやれやれという表情で首を振った。
 祐麒も同じ思いである。そんな馬鹿な話ってあるだろうか。……いや、祐麒は柏木先輩に似たようなことをされていた。初めて話をしたそのときに、生徒手帳に花押を書かれていたのだ。祥子さまの場合は今朝の出来事というワンクッションがあるだけ、ましなのかもしれない。
「祐希さんと祥子さまが先ほど初めて会った、とは限らないと思うのですけれど」
 喧々囂々とやり合っていた薔薇さまたちと祥子さまの間に待ったをかけたのは、またも志摩子さんだった。蔦子さんや祐麒ではなかなか口を挟めないところにすっと切り込む様は、とても頼りになる。
「どういうことかしら?」
 一歩引いた視点にいるのか、比較的落ち着いていた黄薔薇さまが志摩子さんに問いかける。
「祐希さんたちは、祥子さまを訪ねて薔薇の館にいらっしゃったんです。以前から知り合いだったのではないかしら」
 そうなの? という感じの視線が三薔薇さまから集中する。
「はい、証拠もここに」
 場が静まったところで、待ってましたとばかりに蔦子さんが今朝の写真を机の上に置いた。いつの間にポケットから取り出していたのか。というか、以前からも何もそれが初の邂逅なわけで、この場では余計に話をややこしくするだけだと思うのだけど、そこのところどうなんだろうか、蔦子さん。あとで問い詰めなければならない。
「へえ、これは」
 蔦子さんの正面に座っていた白薔薇さまが写真を取り上げて、しげしげと眺める。そのまま写真は回覧されて、あらあらだの良く撮れているじゃないだのと好き勝手な感想を言われる。部屋の隅で静観していた令さまと由乃さんまで、どれどれと覗きに来る始末だった。
 しかし祥子さまは、一度写真を見たあと、眉の間に少しだけ皺を寄せていた。この顔はまさか、と思う祐麒。そして祥子さまは口の中だけで小さく呟いた。けれど、隣に座っている祐麒は聞き逃さなかった。祥子さまは「いつ会ったかしら」と、確かにそう言った。
 さらに祥子さまは表情を改めると、その舌の根も乾かないうちに、その写真を根拠として祐麒との姉妹関係を認めるよう説得を始めた。
 頭にかっと血が上ったのを、祐麒は自覚した。
 それは、無しだ。
 柏木先輩もほとんど初対面で、同意すら確認されなかったけれど、それでもおそらくは、恐れることなく生徒会長に噛み付いてきた変わり者、あるいは面白い奴として認識した上で、祐麒を烏帽子子に選んだのだ。
 けれど祥子さまが今やろうとしていることは、そうじゃない。誰でも良いのだ、とにかくシンデレラから降りることができるのならば。
 祥子さまがこんなことをする人だとは、思わなかった。もしかしたらこれと似たような状況で妹にされてしまったのかも知れない祐巳を思うと、その後の楽しそうな姉を知っているだけに腹が立った。そして祐麒と入れ替わらなければ、祐希もまたこの立場にいたのだろうと思うと、やり切れなかった。
「分かったわ。百歩譲って、祥子と祐希ちゃんを姉妹だとしましょう」
 紅薔薇さまが静かに言う。
「それでは……」
「でも、シンデレラ役を降りることは許しません」
 勢い込んで言葉を続けようとした祥子さまの言葉がさえぎられる。
「そんな、話が違いますわ!」
「いいえ、私は祥子の言い分を聞くと言っただけ。そして言い分を聞いた上で、男嫌いであるということは、シンデレラ役を降りるに足る理由とは言えない。祥子には学園祭でシンデレラをやってもらうわ」
「くっ」
 完全に言い負かされて席を立った祥子さまを、紅薔薇さまが呼び止めた。
「お待ちなさい」
「……なんでしょうか」
「もう一度聞くわ。祐希ちゃんはあなたの何?」
 祥子さまはすっと背筋を伸ばして、答えた。
「祐希は私の妹です。まだロザリオは渡していませんけれど、お望みなら今この場で授受しても構いません」
 それはたぶん祥子さまなりのけじめ、なのだろう。要求を蹴られたからといって、一度宣言したことを反故にしたりはしない。だが、そういう問題ではないのだ。福沢祐希という個人を認識していないのだったら、そんな潔さはいっそうこちらをみじめにさせるだけだ。
「そう、良かったわ。もしも前言を撤回するようだったら、あなたと姉妹の縁を切らなければいけないところだった。でもどちらにしろ、今の祥子には妹を持つ資格はないわね」
 ついさっき、祐麒に向かって妹になるために資格は要らないと言った紅薔薇さまは、祥子さまに姉の資格がないと言う。
 紅薔薇さまが祐麒を見る。その目が申し訳なさそうな色をしているのを見て、頭が冷えた。
「祐希ちゃん。祥子の申し込み、受けてくれるかしら」
 その声は、確認ですらなかった。だから祐麒も、すでに紅薔薇さまに予想されているだろう答えを迷い無く返すことができた。
「お断りします」
 紅薔薇さまはでしょうね、とうなずく。
「なぜ、と聞く権利が私にはあるはずよね」
 隣から抑えた声がした。立ち上がった祥子さまが、祐麒を見下ろしている。
「ないわよ」
 ぴしゃりと言い切ったのは、紅薔薇さまだった。
「祥子。あなた、さっきから祐希ちゃんがすごく怒っていたのに気づいていて?」
 そう口にした紅薔薇さまの方こそ、怒っているように見えた。声を荒げているわけでもないのに、祐麒にはそう思えた。
 隣に立っている祥子さまが、ぐっと気圧された。
「姉妹というのが一体何なのか、もう一度良く考えてみなさい」
 紅薔薇さまが言葉を切ると、室内に再び沈黙が落ちる。
「……頭を、冷やしてきます」
 ぽつりと呟いた祥子さまは、失礼しますと言い置いて、部屋から出て行ってしまった。
 さすがに、こんな展開は予想もしていなかった。祐麒はただ、蔦子さんの付き添いでやってきただけだったのに。
 今さらになって、祐麒の心を後悔の念が襲う。断るにしても、もっと穏便なやり方があったはずだ。学園祭を前にしたこの時期に、なぜ山百合会の結束に亀裂をいれるような馬鹿な真似をしてしまったのだろうか。
「祐希ちゃん」
 声をかけられて、いつの間にか俯いてしまっていた顔を上げる。
「あなたが気に病むことは何もないわ。おかしなことに巻き込んでしまって、ごめんなさいね」
 そう言って、紅薔薇さまは頭を下げた。
「そんな、そんなことありません。お顔を上げてください、紅薔薇さま。私の方こそ、こんな事態になってしまって……」
 気まずい空気を打ち払うように、明るい声を上げたのは白薔薇さまだった。
「ま、過ぎたことは仕方ない。それをどうにかするのが山百合会よ。それより、祥子に何か用事があったんじゃないの? 私たちでも対応できることかな」
 本来は蔦子さんが話を進めるのが筋なのだろうが、祐麒も当事者の一人ではある。祐麒はその気遣いにありがたくすがらせてもらった。
「実は、先ほどの写真を、学園祭で写真部の展示に使う許可をいただきに来たんです」
 続きは任せた、という視線を蔦子さんに送る。
「ええ。ですから私たちの用事は祥子さまでないと駄目なんです。機会を……改めてももう無理かもしれませんが、今日のところは失礼します」
 蔦子さんがぺこりと頭を下げたので、祐麒もそれに倣う。
 そうだ。祐麒のせいで、蔦子さんの写真が展示される目もなくなってしまったのだ。祐巳の代わりをするどころか、逆のことばかりしてしまっている気がする。
 祐麒たちが席から立つと、紅薔薇さまが声をかけてきた。
「今の時期なら誰かしらいるはずだから、いつでも訪ねて来て大丈夫よ。それから、祐希ちゃん。こんなことを言うのは図々しいと分かっているのだけど……」
 紅薔薇さまはそこで一度言葉を切った。
「できれば、祥子を嫌いにならないであげてちょうだい」
 祥子さまを嫌いになる。
 その言葉に、祐麒はゆっくりと目を閉じた。
 祐巳と共に過ごした祥子さまを知っている。
 花寺の学園祭、パンダの着ぐるみで誰だか分からないはずの祐巳を、遠目から見分けたことを知っている。苦手なはずの高いところから、ためらわずに駆け下りて、祐巳のもとへ走ったことを知っている。
 たとえ出会いが今のようにひどいものだったのだとしても、その後の二人の関係を、祐麒は知っているのだ。
 祐麒は閉じたときと同じように、ゆっくりと目を開いた。
「嫌いになんて、なれるはずがありませんよ」
「……そう、ありがとう」
 祐麒の返答に、紅薔薇さまは優しく微笑んだ。

   <薔薇と会った日・了>





[14098] その九・悪事でなくとも千里を走る
Name: 元素記号Co◆44e71aad ID:b9262b42
Date: 2010/07/27 00:50
 女の子の情報網は恐ろしい。祐麒はしみじみとそれを感じていた。
 いや、まさか昨日の放課後にあった出来事が、翌日の昼には高等部全体レベルで噂になるとは思わなかった。以前、柏木さんの烏帽子子として同じような立場になったときは、生徒総会でわざわざお披露目をしたくらいだったというのに。
 どこから漏れたのだか分からないけれど、祐麒が祥子さまの申し出を断ったことは、完全に知られていた。休み時間ごとに増える廊下の野次馬たちから、ちらちらと視線を感じる。さすがに昼休みはご飯を優先したのか、三限目の休み時間ほどの人数はいないけれど。
 まったく、噂に尾ひれがついて志摩子さん並の美少女ということにでもなっていてくれれば、祐麒が噂の人であるとは分からなかったものを。
「認識が甘い」
 昼休みに入ってからこぼした愚痴は、蔦子さんにばっさりと切り捨てられた。
「上級生はともかくとして、中等部から持ち上がりの一年生なら知ってる人もいるわよ。噂好きとか、運動部系の人とかなら特にね」
 福沢祐希という名前から元テニス部というところまで思い出せる人なら、生え始めていた尾ひれはそこで元に戻るのだ。とりあえず、外見に関してだけは。
「ああ……そういうことか。それで内容の尾ひれだけが大きく成長したわけね」
 げっそりとした表情で、祐麒はため息をつく。
「脱力してる場合じゃないわよ。たぶん、昼休みを利用して新聞部が来るわ。根掘り葉掘り聞かれたく無かったら、早く逃げないと」
 横から祐麒の腕を引っ張って立ち上がらせたのは、桂さんである。リリアンかわら版の愛読者でもある桂さんだからこそ、その取材攻勢の恐ろしさを分かっているのだろう。
「逃げるって言っても、どこに」
「ミルクホール以外ならどこでも良いわよ。あそこはたぶん張られてる」
「いっそ薔薇の館に逃げこめば良いんじゃない? とりあえず事情を知ってる人しかいないわけだし。それに薔薇さまがたなら、無責任に放り出すようなこともしないでしょ」
 蔦子さんは机に置いてあった祐麒のお弁当箱を素早く押し付けてくる。桂さんは大胆な発案をしたあと、先に入り口の方へと歩いていって廊下の様子を確認している。友人たちの見事なチームワークに、祐麒は頭が下がる思いだった。
 教室の前方の入り口に立つ桂さんが、振り向いて後ろ側の入り口を示した。そちらから出ろ、ということなのだろう。つまり、ちょっとばかり行動を起こすのが遅かったわけだ。
 指示に従って教室を出たところで、声をかけられた。
「あら、蔦子さんちょうど良いところに」
 桂さんがあわあわしている前の入り口をスルーして、こちらへと歩み寄ってくるポニーテールの上級生。新聞部部長にしてリリアンかわら版の編集長でもある、築山三奈子さまだ。
 写真部と新聞部の部室は隣同士。誰とも知らない人間に取り次ぎを頼むよりは、面識のある蔦子さんの方が声をかけやすかったのだろう。後ろから出るようにという桂さんの指示は、残念ながら無駄になってしまった。
 三奈子さまにとって不運なこととしては、蔦子さんがご近所付き合いよりも友情を優先したことだろう。
 祐麒よりも身長の高い蔦子さんは、そ知らぬ顔で祐麒と三奈子さまとの間に立つように動いた。三奈子さまは二年生と言っても新聞部。祐希の顔を把握している可能性は十分あった。
「これは三奈子さま。何かご用ですか」
「ええ、福沢祐希さんに取り次いでもらえるかしら」
「祐希さんですか。少々お待ちください」
 そう答えると、蔦子さんは教室の方へ振り向く。そして、演劇部顔負けのさりげなさで、隣に立っていた祐麒に声をかけた。
「あ、ヒデヨさんは先に行ってて良いわよ。すぐ追いかけるから」
 さすがに、ヒデヨさんって誰とは聞き返さなかった。ここで下手を打ったのでは、逃がそうとしてくれた蔦子さんと桂さんに申し訳が立たない。声が裏返らないように注意しながら、分かったと答えて、祐麒は一年桃組から離れた。
 ヒデヨという名前が福沢諭吉からスタートした、お札がらみの連想であるとようやく思い当たったのは、中庭を横断している途中のことだった。



【マリア様がよそみしてる ~その九・悪事でなくとも千里を走る~】



 桂さんのアドバイスに従って薔薇の館に来てみたは良いけれど、昼休みでも役員の方々は顔を出しているものなのだろうか。そもそも、二階の会議室にいたら、一階の扉をノックしても気づいてもらえないとも思う。
 というか、もしも中にいるのが祥子さまだけだったりしたら、非常に気まずい。
 やっぱり、薔薇の館はやめておこう。
 以前桂さんに人があまり来ないと教えてもらった講堂の裏にでも行こうかと考えていた祐麒の背に、声がかけられた。
「あら、祐希ちゃん」
 声の主は紅薔薇さまその人である。いきなり登場した大物に、祐麒はなんとか背筋を伸ばして「ごきげんよう」と言うことができた。
「ごきげんよう。祥子に会いに来たの?」
「昨日の今日で何故そういう予想が立つのかまったく分かりません」
 少しばかり眉間に皺が寄ってしまっただろうか。紅薔薇さまは、そんな祐麒を見てくすくすと上品に笑った。
「冗談よ。それじゃあ、どうして?」
 こうなってしまったら、今さら薔薇の館に用事などないとは言えない。中庭の一角であるこの場所には、それ以外の用事では通りかかる機会などないのだ。
「新聞部からかくまって貰おうかと思っただけです。ご迷惑なら、他の場所を探します」
「あらあら、そういうことなの。ええ、大歓迎よ。一緒にお昼を食べましょう」
 噂の広まりは三年生の耳まで届いているのか、紅薔薇さまはあっさりと了承すると、祐麒の先に立って薔薇の館の中へ入っていった。
 後を追う形で祐麒もついていく。紅薔薇さまはすでにぎしぎしと音を立てながら階段を登っているところだった。やはり、基本的には会議室が腰を落ち着ける場所らしい。ポットやカップが用意してある部屋だから、当然か。
「呼び鈴とか、つけないんですか?」
 ふと疑問に思ったことを聞いてみる。どういうことかしら、とばかりに紅薔薇さまが振り向いた。
「薔薇さまがたは会議室にいることが多いと思うのですけれど、それだと来客があったときに分からないのでは無いかと思いまして」
 紅薔薇さまは得心したようにうなずく。
「そうね、あった方が便利かもしれない。入り口から声をかけても返事が無かったら、入りづらいでしょうし……」
 でも呼び鈴となると電気系統をいじらないといけないわね、なんて紅薔薇さまは呟いている。ちょっとした雑談のつもりだった祐麒としては、そこまで真剣に考えなくても、と思ってしまう。
「さあ、どうぞ」
 会議室へ通されて、椅子を勧められる。大人しく腰掛けると、紅薔薇さまが飲み物は何が良いかと聞いてきた。
「あ、お茶なら私がいれますから」
「良いのよ、祐希ちゃんはお客さまなんだから、座っていてちょうだい」
 結局押し切られてしまって、祐麒はお茶を用意する紅薔薇さまの後ろ姿を眺めることになった。こんなところを紅薔薇さまのファンに見られたら、八つ裂きにされてしまうかもしれない。
 紅薔薇さまのお茶をいれる手際にはよどみがない。よくよく考えてみれば、紅薔薇さまにだってつぼみの妹だった時期はあるはずで、その頃はこうやって毎日お茶を用意していたのだろう。慣れた風なのも当たり前だった。
「お砂糖はいらないのだったわね」
 そう言いながら、紅薔薇さまは祐麒の前にカップを置いた。
「良く覚えていらっしゃいますね」
 昨日たまたま訪ねてきただけの祐麒の好みを、紅薔薇さまがきっちりと覚えていることに驚きを覚える。
「そりゃあ、注目していたもの。祥子の妹になるかもしれない子なんだから」
 紅薔薇さまは祐麒の隣に腰を下ろしながら笑う。
「……ご期待には添えませんでしたけれど」
 祐麒は若干の後ろめたさを持って応えた。昨日の出来事は、まだ記憶に鮮烈な印象を残している。劇が中止になるということはないと思うが、祥子さまのモチベーションが戻るまで、本来なら要らなかった時間をとられることになるだろう。
「私のせいで、余計なお手間をかけさせることになってしまいました」
「祐希ちゃんのせいじゃないわよ。昨日も言ったけれど、あなたが気に病む理由なんて一つもない」
 それでも、だ。
 祐麒は元の世界の学園祭で見たシンデレラの出来や、蔦子さんの写真パネルを思い出してしまう。
「納得いっていない、という顔ね。分かったわ。それじゃあお願いしたいことがあるのだけど、聞いてくれるかしら」
「はい、なんでも言ってください」
 祐麒は頼みごとの内容も聞かずにうなずく。
「実は、今の山百合会は例年よりも人手が足りていないのよ」
 紅薔薇さまはそう切り出した。
 この時期の山百合会のフルメンバーは、本来ならば九人。三薔薇さまとそのつぼみ、さらにその妹となるはずなのだ。しかし、白薔薇のつぼみは妹を持てない一年生の志摩子さんで、紅薔薇のつぼみである祥子さまの妹は不在。
 実際、志摩子さんが以前から山百合会の手伝いをしていたのも、今回とほとんど同じ理由だったのだそうだ。
「令のように部活動が忙しくて、台詞の多い役はできないという人もいるしね」
 だから、と紅薔薇さまは祐麒を見た。
「祐希ちゃんには、シンデレラの劇と、学園祭までの細かい雑用なんかを手伝って欲しいのよ。拘束時間が長くなってしまうから、もちろん断ってくれても構わないわ」
 雑用でもなんでも良い。祐麒のせいで起こったマイナスを取り戻し、学園祭を成功させる一助となれるのなら、考えるまでもなかった。
「分かりました。微力ではありますけれど、お手伝いさせていただきます」
 そう答えて、ふと疑問が浮かぶ。
「でも、良いのですか? 他の薔薇さまがたに確認を取らずにこんなことを決めてしまっても」
 特に、祥子さまは納得しないのではないだろうか。
「大丈夫。人手が足りないのは確かなのだし。それに昨日から、こうした方が良いと思っていたの。実は、あなたたちが帰った後で、祥子以外のメンバーには根回しを済ませていたのよ? 祐希ちゃんが承知したら、山百合会のお手伝いをしてもらう、って」
 いたずらっぽい笑顔を浮かべる紅薔薇さまに、祐麒は困惑する。
「なぜ、ですか」
「だって、私の妹はあなたがなぜ断ったのか、まだ理解できていなかったみたいだもの。それなら、祐希ちゃんと祥子はしばらく同じ場所にいた方が良い。」
 紅薔薇さまは、少しだけ表情を真剣なものに変えた。
「きっと、あなたにとっても、祥子にとってもプラスになるわ。そうでしょう?」
 その言葉で、祐麒は紅薔薇さまの思惑を、半ば理解できた気がした。
 紅薔薇さまは昨日、確かに祥子さまのことを怒っていた。けれどそれは、祥子さまのことを高く評価していたからこそだ。あなたがその程度のはずはない、と。
 要は、祥子さまを鍛えようとしているのだ、紅薔薇さまは、たぶん。
 だから祥子さまにとってプラス、というのは分かる。では、祐麒にとっても、というのはどういう意味だろう。
 首を傾げる祐麒の思考を見抜いたのか、紅薔薇さまはくすくすと笑う。
「あら、分からないかしら? 祥子がちゃんとあなたのことを見てくれるなら、二人は晴れて姉妹になれるじゃない」
 ……紅茶を口に含んでいなくて良かった。タイミングが悪ければ、ものすごくはしたない状況になっていただろう。
「ちょ、ちょっと待ってください。どうしてそうなるんですか」
「だって祐希ちゃん、祥子のことがすごーく好きでしょう」
「そっ」
 そんなことはない、とは言えなかった。
 つい昨日、まさにこの会議室で「嫌いになれるはずがない」と言い切ってしまったのだ。良く考えなくても、それでは好きだと言っているのと変わらない。
 祐麒の顔にどんどんと血が上ってくる。昨日と違い怒りからではなく、羞恥によって。
 顔を真っ赤にした祐麒を、面白そうに眺めながら、紅薔薇さまは自分の弁当箱を開いた。
「さあ、そろそろご飯を食べてしまわないと、お昼休みが終わってしまうわ。せっかくいれたお茶が冷める前に、いただいてしまいましょう」
 おそらくは助け舟なのだろうその言葉を受けて、祐麒もまた弁当箱の蓋を開く。
「あ、そうそう。新聞部から逃げるのだったら、いつでも薔薇の館を使ってくれて良いわよ。こちらにも責任があるのだし」
 その台詞に含まれた微かな笑いの成分を聞き逃さなかったことを、祐麒は喜んで良いのかどうかわからない。気づかなければ紅薔薇さまに傾倒するきっかけとなったかもしれないが、気づいてしまった以上、それはない。
 柏木先輩といい、紅薔薇さまといい、もしかして生徒会長になると性格が悪くなったりするんだろうか。いや、祐麒自身も一年生徒会長を務めたが、そんなことは無かったはずだ。
「……情報を流したの、紅薔薇さまですね」
「あら、ばれちゃった」
 紅薔薇さまは本当に楽しそうに笑う。
 薔薇の館という密室で行われた祥子さまとのやりとりが、どこからどうやって漏れたのかと思っていたが、なんのことはない。噂の発生源は祐麒の隣に座っていた。
 考えてみれば、紅薔薇さまはお昼休みにわざわざ薔薇の館へ出向いたというのに、仕事があるようにも見えない。
 もしかしたら今頃、祥子さま以外の山百合会メンバーは、人通りの少ないところに祐麒が逃げ込んでこないかと張り込んでいるのかもしれない。紅薔薇さまの待つ薔薇の館へ祐麒を誘導するために。
「ごめんなさいね。でもさっきまでの話も掛け値なしの本音よ。それとも、嫌になっちゃったかしら」
 笑いを収めた紅薔薇さまが、祐麒の顔を見る。
「いえ、一度お約束したことを反故にするつもりはありません。私自身、学園祭を成功させるために何かしたいと思っていたのは本当ですし。ただ、一つだけ聞かせてください」
「何かしら」
「どうしてそこまでするのですか?」
 紅薔薇さまは短く思案して、答えを返す。
「祥子の態度に怒ったからよ。失望とかじゃなくて、ね」
 怒るのは、相手を評価しているから。先ほど自分が紅薔薇さまに対して感じたことを、紅薔薇さまもまた祐麒に感じたというのだろうか。
「他にも例えば、あそこまでされてもまだ祥子を一途に思ってくれるような子だったりしても同じことをしたかもしれないわね。祐希ちゃんもある意味一途だけど」
 あの状況で祥子さまの境遇に対してフォローに回ってしまうような能天気な人間など……約一名心当たりが浮かんでしまった祐麒だった。
「大切なのは、あなたが祥子を好きだということよ。昨日、妹になるのに資格はいらないと言ったけれど、あえて言うならそれが唯一の資格よ」
 納得できたかしら、という視線を紅薔薇さまから送られる。
 いろいろ反論したいこともあったけれど、きっと照れているとからかわれるのが落ちだろう。
「良く分かりました。紅薔薇さまが溢れんばかりに姉の資格を持っておられるということが」
「あら、当然でしょう。私は祥子のお姉さまなのだから」
 ほんの一ミリの照れもなく返されてしまった。
 完全に降参である。柏木先輩と同様、紅薔薇さまにもまったく太刀打ちできる気がしなかった。
「さ、お弁当を食べてしまいましょう。放課後は誰かを迎えに行かせるから、教室にいてちょうだいね」
「教室はちょっと……。掃除当番があるので、放課後すぐだといないと思います。それに、新聞部のかたもいらっしゃいますし」
 祐麒の言葉に、紅薔薇さまはうなずいた。
「確かにそうね。担当の掃除場所はどこになるの? そちらに行くように言っておくわ」
 掃除が終わったら祐麒の方から出向くつもりだったのだけれど、紅薔薇さまにその発想はまったく無いようだった。
 紅薔薇さまと押し問答をして勝てるとも思えなかった祐麒は、おとなしく掃除の場所が音楽室であることを伝えたのだった。


   <悪事でなくとも千里を走る・了>





[14098] その十・薔薇はつぼみより芳し
Name: 元素記号Co◆44e71aad ID:d45509c0
Date: 2010/07/27 00:40
 放課後。紅薔薇さまに待っているよう念を押されてしまったので、祐麒は掃除の終わった音楽室の椅子に一人で座っていた。
 迎えの人とすれ違いになっては悪いので、日誌については用事があるからと同じ当番グループのクラスメイトに頼んである。昨日とあわせて二日続けてのお願いになってしまったが、快く引き受けてもらえた。
 ことあるごとに思うのだけれど、リリアン生はこんなに「良い人」ばかりで大丈夫なのだろうか。もちろん蔦子さんとか紅薔薇さまみたいな例外もいる。そうでなくとも、もっと仲良くなれば良い人以外の面も見えてくるのかもしれない。でも、どうなのだろう。祐麒はクラスメイトに頼みごとをして、断られた覚えが一度もなかった。
「ごめんなさい、祐希さん。待たせしてしまったかしら」
 埒も無いことを考えていたところに、声をかけられた。振り向いてみれば、入り口から顔を覗かせているのは志摩子さんだった。
 同じクラスである志摩子さんなら、ホームルームが長引いたりしても時間がずれることはそうそう無い。当番区域の中では簡単な部類に入る音楽室を掃除していた祐麒が待つ形になったのは当然だろう。それに、志摩子さんは教室へ一度戻って、鞄を取ってきているはずだ。
「ううん、全然待ってない。わざわざ迎えに来てもらって悪いくらい」
 そう答えながら、祐麒は椅子を引いて立ち上がった。
 志摩子さんと並んで、まだ人気の多い廊下を歩いていると、ちらちらと視線を感じる。ほとんどは白薔薇のつぼみである志摩子さんに向いているのだと思うが、中には紅薔薇のつぼみをふった人間である自分へのものが混じっているのかもしれない。
「昨日言っていたことが本当になってしまったわね」
 笑いを含んだ声で、志摩子さんが言う。人手が足りなかったら、自分のように手伝わされるかも、と話していたのは、つい昨日のことだ。
「言われてみれば……うん、学園祭までしっかりサポートするから任せておいてよ」
「サポート? 紅薔薇さまはシンデレラに出てもらうとおっしゃっていたけれど」
 え、嘘、本当に? 思わず目を丸くしてしまった祐麒だった。手伝うとは言ったけれど、それは大道具作りや書類整理といった裏方仕事のつもりだったのだ。
 けれど、思い出してみれば祐巳も姉役で出ていたのだし、キャストが埋まりきっていないのかもしれない。
「確か、誰がやるか決まっていなかったはずだから、祐希さんは姉Bをやることになるんじゃないかしら」
 志摩子さんが思案するような顔をしながら言う。祐麒たちが帰ってから紅薔薇さまが行ったという、根回し会議のことを思い出しているのだろう。
「脇役とは言え、私みたいなのが山百合会主催の劇に出ていたら、いろんな人から恨みを買いそうなんだけど」
「そんなことは無いと思うわよ。舞踏会のシーンではダンス部のかたにも協力してもらうのだし、衣装や大道具も自分たちだけで用意するわけではないのよ」
 苦笑する志摩子さんだけれど、祐麒はそこまで楽観的にもなれない。リリアンかわら版なんかを読んでいればわかるが、山百合会の面々の人気というのは本当にすごいものなのだ。
 そうでなくては、ただ姉妹の申し込みを断ったというだけの話が、ここまで噂になることもないはずだった。
 ふと、祐麒は柏木先輩の烏帽子子になったばかりの頃を思い出す。断れば不遜と思われ、受けいれれば格が違うと言われるわけだ。桂さん言うところの「素人」という奴も、なかなか難しいものであるらしい。



【マリア様がよそみしてる ~その十・薔薇はつぼみより芳し~】



 志摩子さんに連れられてきたのは、昨日に引き続いて薔薇の館である。今日はダンス部と合同で舞踏会のシーンを練習する予定ということだが、その前に祐麒が正式にお手伝いとして加わることを、山百合会の面々に通しておく、のだそうだ。
 紅薔薇さまの言葉を信じるなら、根回しはすでに済んでいるはずなので、これはつまり祥子さまと祐麒のための場、ということだろう。
 案の定、祐麒たちが会議室に顔を出したとき、驚いた顔をしたのは祥子さまだけだった。祐麒に視線を向けると、きゅっと眉を寄せる。……怒っている、のだろうか。祐麒にはよくわからない。
「ああ、来てくれたのね。さっき話していた学園祭までのヘルプ要員として手伝ってくれる、福沢祐希ちゃんよ」
「よろしくお願いします」
 扉をくぐるなり話を振られてしまったが、祐麒はとりあえずぺこりと頭を下げた。
「こちらのメンバー紹介は……別にいらないかしら?」
 紅薔薇さまの言葉に、祐麒はこくりと頷く。流石にリリアンで半年以上の時を過ごしていれば、山百合会メンバーの顔と名前くらいは知っている。個々のパーソナリティについては、手伝いをしている内にだんだん分かってくるだろう。
「どういうことですか、お姉さま」
 硬い声で問い質したのは、祥子さまだ。食って掛かる、というほどではないが、ぴりぴりとした雰囲気で紅薔薇さまに視線を向けている。
「あら、先ほどまでの説明で分からなかったかしら。配役も埋まっていないし、当日までの人手も足りないしで、弱っていたのよ」
 ぐっ、と言葉に詰まる祥子さま。何しろ、人手が足りない一因は、祥子さまが妹を持っていないことにあるのだ。もう一人の原因である、一年生を妹にした白薔薇さまはそ知らぬ顔をしているけれど。
 一瞬言葉を失った祥子さまだったが、気を取り直して身を乗り出す。
「人選のことを言っているんです」
「祐希ちゃんは委員会にも部活動にも所属していないから、学園祭までの時間に余裕があるのよ」
 ねえ、という風に祐麒へ視線を向ける紅薔薇さま。
「あ、はい。クラスの企画も展示だけなので、放課後まで準備が食い込むことは少ないと思います」
 また、部活動などの集まりがある場合はそちらを優先して良いと、ホームルームで決まっているので、山百合会の手伝いをするということを実行委員に説明すれば、準備も免除されるはずである。
 肯定を返した祐麒だったが、自分がどこの団体にも所属していないと、いつの間に調べたのだろうかと疑問に思ってしまう。紅薔薇さまと面識を持ったのは昨日が初めてのはずだ。
 ふと、疑問の答えに心当たりを見つけて、祐麒は隣に立つ志摩子さんに視線を送る。予想通り、志摩子さんが小さく頷いた。どうやら祐麒と同じクラスである志摩子さんから聞き出した、ということらしい。
 表面的な疑問について、全て合理的な答えを返されてしまい、祥子さまは二の句がつげなくなっている。
 もちろん、最も問題となるはずの「なぜ祐麒なのか」については全く解決していないのだけれど。
 その問いに対する答えを、紅薔薇さまは用意していたようだ。
「理由としてはもう一つ。祥子に機会を上げようと思ったのよ」
「機会?」
 ぴくりと、祥子さまは眉を上げて反応する。
「あなたの相手役が花寺の生徒会長だと隠していたのは、少しばかり卑怯だったと認めるそうよ」
 それまで口を挟まず聞き役に徹していた黄薔薇さまが、笑いながら言う。
「そうね、だまし討ちのような形になったのは悪かったと思っているわ。ごめんなさい」
 す、と紅薔薇さまが頭を下げる。
 そうすると、祥子さまは少し焦ったような表情になる。男嫌いだからやりたくない、という自分の主張が我がままであるということも、一応は自覚しているのだろう。しかし、機会をくれるというなら、それを掴まない手もないということなのか、すぐに表情を改める。
「さて、それで、機会の内容なのだけれど……」
 紅薔薇さまが何事も無かったように話を続ける。それを良い笑顔で聞いているのは、白薔薇さまと黄薔薇さまの二人だけだ。祐麒を含めた他のメンバーは少々困惑顔である。三薔薇さまだけで、その機会とやらを決めていたらしい。
「学園祭までに、祐希ちゃんと本当の姉妹になってみせなさい。それができれば、祥子はシンデレラをやらなくても良いわ」
「はっ?」
 思わず声が出ていた。はしたない、と言うなかれ。祐麒ほど大きくはなかったが、祥子さまだって同じように声を上げていたのだ。
 しかし、そこは流石に祥子さまである。思案を一瞬で終わらせ、顔を上げる。
「分かりました。それを果たせれば、私はシンデレラをやらなくても良いのですね」
「ええ、二言はないわ」
 しっかりと紅薔薇さまの言質をとった祥子さまの目は、やる気という光で溢れている。
 あざとい、と思いつつも、祐麒は薔薇さまたちの上手さに舌を巻く思いであった。これで、祐麒がロザリオを受け取るまで、祥子さまは真面目に練習するしかない。祐麒を妹に出来ればやらなくても良いということは、その逆もまた真なのだから。
「あの……」
 おずおずと手を挙げたのは、成り行きを見守っていた志摩子さんだ。
 それに気づいた白薔薇さまが、声をかける。
「なんだい、志摩子」
「祐希さんと姉妹になって、祥子さまがシンデレラ役を降りられた場合、誰が代役をするのですか?」
 壁際で、黄薔薇のつぼみと由乃さんがうんうんと頷いている。もともと、黄薔薇のつぼみが部活動で忙しいために、台詞の多い役に立てない、という話でもあったはずだ。
 目をにいっ、と細めて、白薔薇さまが笑う。
「そりゃあ、姉の穴を埋めるのは妹の役目でしょう。だから、その場合は祐希ちゃんにシンデレラをやってもらう」
「……そう来ましたか」
 祐麒は呟く。
 紅薔薇さまは、祐麒が祥子さまに対して悪感情を持っていないことを知っている。ならば、情にほだされた祐麒がロザリオを受け取ってしまうことを見越しておくのは、当然と言えるだろう。
「分かりました。私もこれ以上、紅薔薇のつぼみのファンを敵に回したくはありません。絶対、ロザリオは受け取りません」
 絶対、に力を込めて言う。
 山百合会主催の劇、主役は紅薔薇のつぼみ、という触れ込みだったのに、いざ本番を見てみれば子ダヌキがそこに立っていました、というのではブーイングものだろう。
 面白くなってきたわ、と目を輝かせる黄薔薇さま。くつくつと笑って、真意が見えない白薔薇さま。黄薔薇のつぼみと由乃さんは苦笑気味で、志摩子さんは祐麒を気遣うように視線を送ってくる。
 そんなときに、ぱんぱん、と手を叩いて場を収めたのは、紅薔薇さまである。
「さ、それじゃあ顔合わせも済んだことだし、ダンスの練習に行くわよ。あまり待たせては、ダンス部のかたに悪いわ」
 それぞれに了解の返事をして、山百合会の面々がぞろぞろと会議室を出て行く。
 祐麒もそれに続こうとしたところで、祥子さまに呼び止められた。自然、祐麒と祥子さまの二人だけが部屋の中に残る形となる。
「あの、なんでしょうか」
 世の中には、ただ立っているだけで絵になる、というか独特の雰囲気を作り出せる人がいる。柏木先輩なんかがそうだし、今祐麒の前に立っている祥子さまもそうだ。
 綺麗に伸ばされた背筋と、まっすぐな視線。祐麒は気圧されるような形になって、たじろぐ。
「今日は、怒ってはいないのね」
 祥子さまは静かにそう言った。確認するかのようなその台詞に、祐麒はうなずく。
「はい、怒っていません」
 元々、売り言葉にすぐ買い言葉を返してしまう性格ではある。後になって良く考えてみれば、もっと他に言い方があったのではないかと思ったことだって、一度や二度ではない。けれどそれはやり方や言い方の問題であって、怒ったことそのものを後悔したことは、ほとんどない。
 昨日の一件だって同じである。誰でも良い、というような気持ちで、姉や祐希を選んで欲しくなかったのは本当だ。
 しかし、紅薔薇さまが用意した機会は、祥子さまだけでなく、祐麒にもまた、考えるだけの余裕をくれた。もしもこの賭けが、祐麒が元いた世界でも行われていたとしたら。祐麒は、姉である祐巳がシンデレラではなく姉Bとして舞台に立っていたことを知っている。
 祐巳は、誰でも良いからと押し付けられそうになったロザリオを受け取りはしなかった、ということになる。そして、どうにか祐巳と姉妹になろうと祥子さまがあれこれと頭を悩ませる中で、ちゃんと「祐巳」と触れ合う時間を持つことができたはずだ。
 それなら、良い。
 祐麒は、そういう風に自分の中にあったわだかまりと決着をつけた。だからもう、昨日のように怒ってはいない。
「……そう」
 祥子さまは、小さく息を吐き出した。それから、また視線を上げて、祐麒を見る。
「一つだけ、言っておきたかったのよ。……絶対、あなたにロザリオを受け取らせてみせるわ、祐希」
 強い、言葉だ。
 祐麒の中に、受け取らないという確固たる理由がなければ、思わず分かりましたと頷いてしまいたくなるくらい。その強い意志が、柏木先輩と踊るのが嫌だから、というところから来ているのは、ちょっと格好悪いけれど。
 それはそれとして、だ。
 怒っていないにしても、祐麒は祥子さまのロザリオを受け取るつもりは、さらさら無かった。もちろん、さっき言ったとおり、紅薔薇のつぼみのファンが落胆するのを見たくない、ということもある。けれどそれ以上に、紅薔薇さまがお昼に言っていたとおり、なぜ祐麒が怒ったか、祥子さまは、きっとまだ分かってはいないから。
 だから祐麒は、かつて花寺で何度となくそうしたように、笑ってみせた。いくつもの無理難題を笑い飛ばして、どうにかこうにか乗り越えてきた。いかに祥子さまが絶対の自信を持っていたって、ロザリオを受け取らないくらい、きっと朝飯前だ。
「素人の意地ってものを、お見せしますよ」
「は、素人?」
 リリアン女学園のスターの一人である祥子さまは、祐麒の口から脈絡無く出てきた素人という言葉に困惑顔を返した。一般人とか小市民、と言った方が良かっただろうかと、祐麒は少しずれたことを考えていた。


   <薔薇はつぼみより芳し・了>





[14098] その十一・知らぬは本人ばかりなり
Name: 元素記号Co◆44e71aad ID:d45509c0
Date: 2010/07/28 21:24
 祐麒は決して頭が悪いわけではない。
 抜群に成績が優秀、とはお世辞にも言えないが、花寺でもテストの成績は常に中の上をキープしていた。今となっては、既に一度習ったことのある範囲を、しかもいつか戻ってくる祐希のためにと、非常に細かいノートを取るようにしているため、上の下まで食い込むことも珍しくない。悪く言えば、そこまでやってトップクラスの成績を取れない程度、という見方もできる。
 とにかく、頭は悪くないのだ。だから、祐麒がそのことに思い至らなかったのは、単純に女の子としての経験が足りないからであって、別に自分が迂闊だったというわけではない。と、そう主張したいところである。
「祐希さん。山百合会の劇をお手伝いすることになったというのは、本当ですか?」
「シンデレラをなさるのでしょう? 祐希さんも舞台にお立ちになるの?」
「ダンスのお相手は黄薔薇のつぼみだとお聞きしましたわ」
 祐麒が目を白黒させている間に、周りが勝手に盛り上がって、きゃーなどと華々しい声が上がる。
 女の子は噂好きなのだった。それもとんでもなく。
 まだ朝のホームルーム前だと言うのに、昨日の放課後、ダンス練習で令さまと踊ったことが、もう噂になっている。
 それこそ、昨日のように「紅薔薇さまからの姉妹の申し込みを断った」なんていうネガティブな話題ならば、クラスメイトだからこそそっとしておいてくれたりもするが、こういう明るい話題であるなら、遠慮する必要など無い、というわけだ。
 社交ダンスなど、何年も前に入門書を読んで少しかじった程度の祐麒である。皆が騒いでいる令さまの足を何度もふんづけた、ということは、秘密にしておいた方がいいだろう。
 対応に困った祐麒は、クラスの中でほぼ唯一、事情を把握している二人――つまりは桂さんと蔦子さんだ――に助けを求めて視線を送った。
 が、しかし。
 蔦子さんは無理よ、という風に肩をすくめ、桂さんはそういう話なら自分も聞きたいとでも言わんばかりににやにやしている。二人とも淑女失格だ、などと祐麒は心の中で失礼なことを考えた。
 とにかく、二人は新聞部の時と違って実害が無いと判断したらしい。薄情な友人たちの助け舟を期待できない以上は、自力でどうにかしなければならない。
 しかし、こういう状況では、祐麒が何か一言口を開くたびに、きゃー、別のことを言おうとすれば、うわあ、と聴衆のノリが良すぎるために話が横道に逸れてしまうだろう。そしてたぶん、祐麒が言っていないことまで尾ひれがついて広まっていくに違いない。
 噂の伝達速度を甘く見ていたが故に、今となっては必要以上に噂と、それを広める女の子達を警戒している祐麒だった。
 机の周りにわらわらと寄ってきていたクラスメイトから距離をとるように、すっと席から立ち上がる。祐希の体は姉の祐巳と同じで背が高いとは言えない。そのため、少しでも堂々と見えるように、祐麒は背筋をまっすぐに伸ばした。
「申し訳ありませんけれど……」
 祐麒が丁寧な言葉遣いを心がけて口を開くと、一言も聞き逃すまいと、クラスメイトが静かになる。
「劇についての詳細は、当日まで秘密だそうです。どうしても知りたい方は、三薔薇さまのどなたかに直接交渉なされば、もしかしたら教えてもらえるかも知れないですよ?」
 そう言って、祐麒はにっこりと笑ってやった。
 別に口止めなんてされていないけれど、そう言っておけばこれ以上の追究は回避できるだろう。それに、三薔薇さまに直接話しかけるなんて恐れ多いからこそ、自分に聞こうという感じだと思うから、薔薇さまがたに迷惑がかかることもないはずだ、というのが祐麒の計算である。
 秘密と三薔薇さま、二つ(いや四つか)の言葉の力で、それ以上を聞けなくなっているクラスメイトたちから、祐麒は出来る限りしとやかに歩いて距離をとり、教室から逃げ出した。ホームルームが始まるまで、トイレにでも隠れているつもりだった。
 それにしても、と祐麒は思う。三年生で生徒会長とはいえ、なぜ同じ高校生に対して恐れ多い、なんて感情を持てるのか、不思議な祐麒だった。似たようなことを以前に感じたことがあると思い当たり、自分の烏帽子親であった柏木先輩の顔を思い出した。
 なるほど、リリアンにおいて、山百合会の面々は「光の君」と同じようなネームバリューを持つわけだ。花寺に入学したばかりの自分が祐希としてリリアンに通うことになっていたら、もしかすると薔薇さまという制度に対して、もっと批判的になっていたかもしれない。
 今の祐麒は、姉である祐巳の口から聞いて、山百合会の面々がリリアンのためにどれだけ尽力したかを知っている。わずかな接点ではあるが、前の世界での経験から、薔薇さまと呼ばれる面々が「本物」であることも知っている。しかし、それを知らないままに、薔薇さま、薔薇さまとただ慕われているところだけを見れば、柏木先輩のときと同じように「あんた達はそんなに偉いのか」と思ってしまっていたに違いない。
 案外、リリアンにいるのが祐麒でなく祐希だったら、薔薇さま達の面白がるような態度で意固地になってしまい、賭け自体が不成立だったかもしれない。
 そう考えると、少しばかりおかしな気分になる祐麒だった。



【マリア様がよそみしてる ~その十一・知らぬは本人ばかりなり~】



 午前の授業が終わるなり、祐麒はお弁当箱を抱えて教室を逃げ出した。抜け出す前に桂さんへ目配せをすると、「分かってる」とでも言いたげなうなずきが返って来た。
 クラスメイトのおもちゃになるのは放置でも、新聞部に売ることはしない、ということらしい。それは蔦子さんも同様らしく、彼女達のフォローの線引きがどこにあるのか、祐麒にはいまいち分からなかった。
 さて、新聞部から隠れてご飯を食べる、と言っても、そうそう都合よく人目を避けて腰を落ち着けられる場所があるわけではない。昨日は運良く紅薔薇さまが――おそらくは祐麒に会うという目的があって――薔薇の館にやって来たが、普通はそうそうお昼の内に片付けなければならない仕事もないだろう。何しろ、花寺の生徒会室と違って薔薇の館は遠い。お昼ごはんを食べるためだけにわざわざ出向くとしたら、事前の約束は必須であるように思われた。
 こんなことなら、何か部活動に入っておけば良かっただろうかと、祐麒は思う。そうすれば、こういう状況に陥ったとき、部室で食べるという手段があったはずだった。もちろん、四月の時点ではこんな状況を予測できるはずも無かったし、すぐ戻れると楽観的に考えていたから、迂闊に部活動へ所属して、祐希の学校生活に対する選択肢を狭めるようなことをするつもりも無かったわけだが。
「祐希さん」
 そんなことを考えながら廊下を歩いていたものだから、突然背後からかけられた声に、祐麒は必要以上に驚いた。びくりと肩をふるわせて、振り返る。
 被っている猫の大きさで言うなら、リリアンのトップは祐麒だろう。何しろ元は男である。だが、女性、という限定条件をつけるなら、祐麒は声の主をトップに上げる。
「由乃さん?」
 語尾を上げての祐麒の問いかけに、由乃さんはたおやかな微笑みを浮かべた。青信号ノンストップでゴーゴーな、勢いのある由乃さんを知っている祐麒でさえ、なんだかどきどきとしてしまう。
「お昼、ご一緒に食べません? 新聞部のかたが来ない場所、心当たりがあるのですけど」
 そう言って、由乃さんはちゃらりと薔薇の館の鍵を示したのだった。

 ぎしぎしと音を鳴らして階段を登る。つい数日前まで、薔薇の館とは何の縁も無かったはずなのに、こんなに通いつめることになるとは、少しばかり不思議な感じである。
 祐麒はちらりと横目で由乃さんを見やる。わざわざ祐麒のクラスに近い廊下まで出向いて、お昼を誘いに来たのだ。何か用事があるのだろうと思っていたのだが、ここに来るまで話したことと言えば、本当に他愛の無い世間話(例えば、授業の進度がクラスごとにどれくらい違うかとか)くらいである。
 大きなビスケットにも見える木製のドアをくぐり、少し慣れてきた感のある会議室に入る。テーブルにお互いのお弁当箱を置いたところで、由乃さんがくるりと振り向いた。
「紅茶で良いかしら? コーヒーもあるけど、インスタントになるわよ」
 先ほどまでと違って、少しくだけた言い回しなのは、薔薇の館という自分のテリトリーに入ったからだろうか。
「あ、うん。紅茶が良いかな。あと、出来ればカップとかお茶葉の場所を教えてもらいたいんだけど」
 手伝いに来ることになれば、祐麒がお茶を入れる場面もあるだろう。そのときになって慌てる羽目になるよりも、今のうちに覚えておきたい。三薔薇さまや祥子さま、令さまに尋ねるよりも、同じ一年生である由乃さんに聞く方が気楽である。
 何より、祐麒は紅茶などという洒落た飲み物を元の世界では滅多に飲まなかったので、手順が良く分からないのである。花寺の生徒会で「お茶」と言えば、もっぱら緑茶のことを指すのだった。
 祐麒のお願いに、由乃さんはにこりと笑って応えてくれた。
「それじゃあ、一緒に用意しましょうか。まず、電気ポットがこちら。茶葉はこの棚に、お砂糖とミルクはその隣。カップとソーサーは……」
 細々と説明しながらお茶の準備をはじめる由乃さんの隣で、祐麒は一つ一つ備品の場所を頭に入れていった。

「へー、ティーポットのための一杯、か。でも、人数分よりも一さじ多く、って渋くなるんじゃない?」
 お茶の準備も滞りなく終わり、祐麒たちはお弁当箱を開いて昼食を食べ始めた。
 そんな中で、祐麒が話題に出したのは、由乃さんがスプーンで三杯の茶葉で紅茶を作っていたことに対する疑問だった。
 それに対する回答が、先ほどの「ティーポットのための一杯」というわけだ。
「そうね。だから人数分しか入れない、という人も多いみたいよ。でも、山百合会にはそういうのを気にする人がいたから、わざわざ一回り小さめのスプーンを用意したの」
 くすくすと、由乃さんは楽しそうに笑う。それはまた、乙女チックな人もいたものである。これも女子校ならではかと、祐麒もつられて笑った。なんともアリスが好きそうな話だ。
「そういえば……」
 祐麒はふと、先ほど薔薇の館へ来たときの疑問を思い出した。
「どうして、私と昼食を食べようと?」
「幾つか理由があるけれど、一つは恩返し、かな」
 かわいらしく首をかしげて、由乃さんは言う。
「恩返し?」
 元の世界まで合わせても、由乃さんからそんなことをされる心当たりはない。祐麒は顔中にハテナマークを浮かべてしまう。
「たぶん、新聞部に追いかけられて、苦労しているだろうと思ったから。ノートを見せてもらったお礼にね」
 ノートを見せてもらう、という言葉に、祐麒はぴくりと反応してしまう。最近、たまに忘れていることがあって愕然とするが、この体はもともと祐希のものである。高等部進学以前に、祐希と由乃さんに交友があったとしても、祐麒はそれを知らない。
「諭吉ノートの福沢さんって、祐希さんのことでしょ?」
「ゆ、諭吉ノート?」
 先ほどから鸚鵡返しばかりの祐麒である。その諭吉ノートというのは一体なんなのか。
「あれ、違った? このノートなんだけど」
 そう言うと、由乃さんは手元の小物入れから、何枚かのコピー紙を取り出して見せてくれた。
「あ……、私のだ」
 それは確かに、祐麒のノートだった。リリアンの授業を受けていない祐希のために、板書されなかった応用問題を解くための小技や、テスト時のポイントなどまでとってあるものだ。
 しかし、祐麒のノートのコピーを、なぜ由乃さんが持っているのだろうか。中身は紛れも無く高校に入ってからの授業内容である。
「一学期の中間テストあたりから、テニス部を中心に出回っていたわよ? とても分かりやすいノートがある、って」
「中間テスト……。あ、桂さんか」
 ノートをコピーさせて欲しい、とテスト前に頼み込んできた人物のことを、祐麒は思い出した。部活の人たちと集まって勉強をするのだということを、桂さんは少し言いづらそうにしていたことも一緒に思い出す。
 たぶん、そのときに広まったのだろう。今でも、テスト前には桂さんを含めて何人かのクラスメイトにノートを貸している祐麒である。たぶん桂さん達も、他のクラスにまで出回っている、というのは把握していないに違いない。
「福沢、という人のノートらしい。そういう噂があって、誰が言い始めたのか知らないけど、今では『諭吉ノート』って呼ばれてるわ」
 由乃さんはコピー用紙をまた小物入れに戻して、申し訳無さそうに笑う。
「もしかしたら、と思ってはいたんだけど、本人の許可を取って無かったのね。ごめんなさい」
「あはは。驚きはしたけど、別に良いよ。おかげで、今日は助けて貰えたし。ありがとう、由乃さん」
「……祐希さんは、良い人ね」
「え、そうかな。私から見ると、リリアンの生徒はみんな良い人ばっかりだと思うけど」
 いつぞやも思ったことだが、男子校などというある意味では無法地帯とも言える場所にいた身としては、あまりに良い人ばかりで不安になるくらいなのだ。自分もその良い人の一員である、と言われるのは、どうにか溶け込めているとほっとする反面、溶け込めているのもそれはそれでどうか、という複雑な気分でもある。
 そんなこんなで、祐希としてはほとんど話したことのない由乃さんとのやり取りも和やかに進み、お弁当も残すところ三分の一くらい、といった時のことだった。
 階下から、ぎっぎっと階段を軋ませて登ってくる足音が聞こえてきた。
 祐麒と由乃さんは、不思議そうに顔を見合わせる。
 お弁当と同じで、お昼休みの残りもあと三分の一くらいだ。もちろん、早く食べようと思えばいくらでも豪快に食べることの出来る祐麒だが、祐希の体でそれをすることは憚られたため、最近では一緒に食べる人のスピードに合わせて、「女の子のお食事」を修行中の身である。
 休み時間が残り少なくなった今の時点で、わざわざ薔薇の館に来てまでする仕事があったのかと、祐麒は由乃さんを見たのだ。だが、反応を見る限りではそういうこともないらしい。
 果たして、足音の主はビスケット扉の向こうで止まり、かちゃり、と軽い音を立てて会議室の中へ入ってきた。
「ようやく見つけたわよ、祐希」
 その意外な人物の登場に、祐麒と由乃さんは、揃って口を開いた。
「祥子さま」


   <知らぬは本人ばかりなり・了>





[14098] 後書き(随時更新)
Name: 元素記号Co◆44e71aad ID:6e257435
Date: 2010/07/28 21:08
【お願いとお礼】
「言いたいことは創作物の中で語りなさい」
 という方は読まないことを推奨。
 本編で言及されていない裏設定とかを書くつもりは全くないのでご安心ください。
 また、このお話を読んでくださっている方、感想を書いてくださった方、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございます。


【各回の後書き(次話投稿時に更新)】

その一・たぶんお釈迦様もよそみしてる
 祐麒の受難開始。
 既刊「リトル ホラーズ」を読まれた方は分かるかと思いますが、原作の方でああいう話をやってくれました。おかげで、突拍子も無い設定で話を書く勇気が湧いた次第です。
 いただいた感想の中で「他のキャラクターもTSしてると良いな」ということを書かれている方がいらっしゃいましたが、最初の注意書きにもあるとおり、TSしているのは祐麒と祐巳の二人だけです。
 原作との相違点が増えすぎると、破綻させずにお話をまとめることができなくなりますので、ご了承ください。
 福沢姉妹でなく、福沢兄妹として設定しましたのも、同様の理由からです。祐巳ファンの皆様、ごめんなさい。

その二・昔取った杵柄
 一日一本更新ペースで行ける所まで。ストックが無くなったら更新頻度が下がります。
 原作開始時点に追いつけるのはまだまだ先のようです。
 志摩子さんを登場させるに当たり「片手だけつないで」を読み直したのですが、おかげで桂さんの座席がすんなり決まりました。
 感想で「祐麒メインのSSが少ないので期待」と書いてくださった方がいらっしゃいましたが、はたしてこれを祐麒メインと言って良いのでしょうか。ちょっと不安です。

その三・いつかきっと
 設定や口調確認のために既刊を読み直しています。
 今年度中は出番が無いはずの、瞳子関連のお話ばかり読んでしまうのはなぜなのでしょうか。
 そうそう。いただいた感想のほとんどが桂さんがらみで、なんだか目頭が熱くなりました。
 冷静に数えてみれば十行も出ていないのに「目立っている」と言って貰えるなんて。桂さん……。

その四・後悔しない選択
 ここまでで導入編は終了です。
 とりあえず祐麒(祐希)というキャラクターについて説明しなければ始まらないので、そのためのお話でした。
 いただいた感想の「並薔薇さまが見てる」がちょっと面白かったので、桂さん視点の番外でも書こうかと思いプロットを立てましたが、しっくりこなかったので没に。
 何かネタが浮かんだら書くかもしれません。

その五・過大評価
 いわゆる繋ぎのお話です。ハンバーグで言うならパン粉です。もう一つ、卵なお話を挟んで、本編一巻の時間軸に突入ということになります。
 ただ、ハンバーグと言いながら用意されているのは牛でも合い挽きでもなく、鶏肉なので「それつくねと違う?」という感じのゲテモノなSSですが、笑って許してください。
 せっかく料理に例えたので、ここで簡単な「マリア様がよそみしてる」のレシピを公開しておきます。
1.乙女回路を起動する(重要)
2.限りなく一人称に近い三人称一元視点で書く。
3.地の文で名前を出すときは敬称(さん、さまなど)をつける。
4.改行、約物(三点リーダ、疑問符など)の使い方を出版物に合わせる。
5.使い勝手の良いネタ(2chネタ、ポルナレフ、頭冷やそうかなど)を使用しない。
6.暴走して祐麒が「乙女そのもの」になっていないか確認する。
 ね、簡単でしょう。

その六・契りを結んだ人
 予告どおり、卵な話をお届けします。志摩子さんと白薔薇さまについては「いとしき歳月(後編)」に収録されている「片手だけつないで」を読み直して補完していただければ幸いです。
 祐麒が深く関わらない、あるいは関わってもほとんど流れが変わらない原作話についてはこれからもさくっとスルーいたしますので、ご了承ください。
 あと乙女回路の作り方ですが、少女漫画や少女小説を読んでいたらいつのまにか形成されていました。マリみて読者にコバルトからお勧めするなら「クララ白書(氷室冴子先生)」「丘の家のミッキー(久美沙織先生)」あたりが良いかと思います。


その七・性格の悪い友人たち
 まず最初に、随分と間が開いてしまいました。申し訳ないです。
 ようやく原作開始のお話でしたが、開始したまま放置という酷い事態になっていました。
 一巻部分のプロットを考えていたはずなのに、気がついたら来年の学園祭について考察していた不思議。

その八・薔薇と会った日
 マリみて既刊の中で最も完成度の高いお話が何か、と考えるとき、私は一巻である「マリア様がみてる」を選びます。
 キャラクターの設定が定まりきっていない部分があるのも確かですけれど、その構成の上手さには舌を巻きます。
 そんなわけで、本当は原作沿いで展開させたかったお話です。でも祐麒の性格を考えたらこうなってしまいました。

その九・悪事でなくとも千里を走る
 人の噂も七十五日と言いますが、七十五日どころか二倍近い百五十日ほども投稿に間が開いてしまいました。
 その間にマリみてが一冊、釈迦みてが二冊も新刊出ています。ちょっと海外にいたので、釈迦みての最新刊はまだ読めておりません。
 再開するに際して、全体的に表現などを見直してみました。あまり変わっていませんが。
 HIDEP◆53e3f5ebさん、誤字報告ありがとうございます。せっかく見直したのに見落としているところでした。

その十・薔薇はつぼみより芳し
 祥子さまの出番が少なくて、ちょっとまずいかな、と思っています。祐麒と祥子さまの関係づくりを、ちゃんと書かないといけませんね。
 最新刊を読みました。柏木さん視点の短編、危うく爆死するところでした。柏木さんの心情をしっかり書かれてしまうと、妄想の余地がなくなってしまいますしね。
 とりあえず、今回は想定と大きく離れることは無かったのでセーフです。いざとなったら「ここの柏木さんはこういう人です」と開き直るかも知れませんが。それはそれとして、シスコンの祐麒がかわいいです。
 また、SS再開を待っていて下さった方が予想以上に多くて、嬉しかったです。読んでくださった方、感想を書いてくださった方、ありがとうございます。
 


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