「ウソ作文とかウソ日記」を書かせる試みがある雑誌に載っていた。それによるとウソは想像力を働かすのだそうだ。言語道断である。私は道徳的なことをいいたいのではない。国語なのだから、最低でも次のような意味の区別はしておくべきである。

「ウソ作文」は、「もしも作文」という思考実験や「フィクション」と、確実に違うものだ。

まず、ウソというのは、真実のことが他にきちんと現実内にあり、それを偽って語ることである。ところが、フィクションというのは、はじめから真実は現実にはない。あたかも現実であるかのように言葉で仮構することであり、真実を偽るという動機はそこにはない。

また、「もしも作文」の場合には、あくまでも「もしも〜ならば」という仮定であり、それはウソでも真実でもない。エルンスト・マッハによってはじめられたと言われている思考実験である。

虚偽と仮構・仮定は明らかに違うのである。

教育者なら、大人がウソをついたらどうなるか少しでも考えてみればよい。ウソは、まず、社会的に通用しない。断罪され、場合によっては犯罪にすらなり、あらゆるものを失うことになる。ウソはおそらく言語の発生と同時にあるものだが、それゆえにこそ、私たちは、いつの時代も努力して真実を求めてきたのだ。それが文章を書くということだ。

そうでなくても、現実内において、事実や真実の同定は難しいのである。どうして、こんな安易な手法が子どもの作文だからと許されてしまうのだろう。

教育者ぶるつもりは私にはないが、もう少し見識が欲しい。