インパク参加 (タイトル)写楽・十返舎一九説の根拠 インパク参加
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 初登山手習方帖「写楽凧・謎文の場面」
 初登山手習方帖は、文、画ともに十返舎一九の筆になるもので、寛政八年、榎本吉兵衛版として刊行され、当時流行した心学書といわれる訓話的な話の内容をもった本であり、この本は、社会思想社の教養文庫による翻刻版が出版され、すでに小池正胤氏により注釈が加えられています。

 この凧繪が描かれた七、八丁のページは、以前から多くの研究者より、十返舎一九が残した、写楽足跡の「メッセージ」ではないかの声も多くありながら、何故か長松が相撲を見たいといいだす次のページまでも含め、総合的に検証を行った研究者がなかったようであります。 今回これらの文章を通読することにより、非常に重要な意味が込められていることが判明しました。

 文章の大部分が変体仮名を含む平仮名文であり、句頭点、句読点もなく、登場人物には、芝居の役どころの名称がはめ込まれており、意味不明の単語が多く困難な作業でありましたが、物語の筋とは無関係に漢字をはめこみ、推考を重ねた結果以下のような文章となりました。

書 名著 者所蔵機関
初登山手習方帖十返舎一九東京都立中央図書館

本史料は所蔵機関のご好意により抜粋掲載の許諾を受けております。

初登山手習方帖中の7ページ〜8ページにおける写楽凧と奴凧・達磨・掛け合いの場面

原文の読みと判読文(七〜八丁)

原文(七丁)判読文
原文(七丁)判読文
それよりかへりそれより帰り
なさりしことなさりしこと
がけにしばいをがけに芝居を
なんでもかでも何でもかでも
みせたもふ見せ給ふ てうまつを 長松を
やくしゃみな役者皆 かいてかいて書いて書いて
こどももちや子供持ち耶 かきのめす書きめす
そびにてしばらく蘇日にて「暫く」 御くふう御工夫
のたこがぶうぶうとのタコがぶうぶうと きやうげんは 狂言は
うなりだせば唸りだせば なんだやら何だやら
うけハだいり受けは内裏 わからず判らず
さま めったむせうにめった無性に
だるまさまは達磨様は てうまつを長松を
ひげがにた髭が似た うれしがら嬉しがら
とてなまずとて鯰 するばかりのするばかりの
ぼうずの坊主の おもいつき也 思いつき也
やくいつ役 いつ どふたなんだのごうてきどうだ何だの強的
たいこのたい この わからずてんちがいけん判らず てん違い乾
せかいは 世界は こんのあいだをぬけしは坤の間を抜けしは
どふしたどふした さてこそたまなきすでつさてこそ弾なき 素鉄
ものやらものやら ぽうおともぶうぶういも鉄砲 音もぶうぶう芋
さつはりさつはり たこのうなりはさてもくさタコの唸りはさても草
わから判ら ぞうしこんなこんなし内くうが双子 こんな仕打ちくうが
ずこんなず こんな からでつぽうはいざしらず空鉄砲はいざしらず
しばいの芝居の わがてうにてはまたとふたつ我が長にては またと二つ
当ろふはずは当たろう筈は たまのるいもなきうそ八百の 玉の類もなき 嘘八百の
なけれどもなけれども でほうだいやみにてっぽう出放題闇に鉄砲
そこがてんそこが 天 あたりはずれはただ御けん当たり外れは 只御見
じんさまの神様の ぶつの御ひゃうばんをたねがしまと物の御評判を 種子島と
じんつうにて 神通にて ホヽあやまってもふすホヽ 訛って申す

奴凧と達磨との掛合の場面

原文通りの読み判読文の読み
だるまハ ころころと ころげて達磨は ころころと 転げて
カタリとい ふかげを騙りと言う蔭を
きっかけに むっくと おきてきっかけに むっくと起きて
なにやつだ エヽ といふなに奴だ エヽ と言う
おいらもたこ ならきさま もたこおいらもタコなら 貴様もタコ
あはせ てふたたこ みたこ たこハテあわせて 二タコ 三タコ タコ ハテ
じぐちでも なんでもない とであった地口でもなんでもない 事であった
よなアよなア
なんの 事は ねへ こんぴら何の事はねえ 金比羅
さまへはいっ た様へ入った
どろ ぼうが かなしばりと泥棒が 金縛りと
いふもんだ言うもんだ

 前項(1)の判読文をふまえ、本研究では文章中脈絡がなく論理の成立しない意味不明の言葉を「キーワード」と考え、物語の筋とは無関係に推考を重ね解釈を加えた結果、以下のような意味をもつ文章となりました。

謎文の解読キーワード

原 文判読語語 意
やそび耶蘇日休 日
しばらくのたこ暫のタコ食わせ者の市川鰕蔵
うけハだいりさま受けハ内裏様市川鰕蔵の相手歌麿
だるまさま達磨様身代半減を受け再起した蔦屋
てんじんさま 天神様十返舎一九のこと
じんつうにて神通にて自分の力(一九の知恵のこと)
てうまつ 長松商売人の蔦屋重三郎
たまなきすでつぽう弾なき素鉄砲徒手空拳
いもたこの芋タコの自嘲的に自分のことを表現
わがてうにては我が長にては自分の目上ではあるが
ふたつたまのるいもなき二つ玉の類もなき男らしくない(睾丸などのない)

初登山(謎文・語りの場面 七丁)

判読文の読み解 釈
それより帰りがけに芝居を見せ給う前頁よりの導入部である。
役者皆子ども持ち、耶蘇日にて暫くのタコが、ぶうぶうと唸りだせばこの耶蘇日とは、(「耶蘇教・キリスト教の休日」)つまり五月五日の休日を指していると考えられ、一九の造語と思われる。 休日であるのに、客足の悪さを、鰕蔵が愚痴った様子であろう。
受けハ内裏様 達磨様は、髭が似たとて鯰坊主の役鰕蔵の愚痴を聞きながら、話相手をする歌麿と、のらりくらりしながら相づちを打つ蔦屋の様子と思える。「内裏様はお公家様、お公家様は麿、即ち歌麿」
いったいこの世界は どうしたものやらさっぱり判らず、こんな芝居の当たろう筈はなけれども、そこが天神様の神通にて客の入りも悪いこのような芝居の世界を、自分の知恵と力で改革して見せよう。

初登山(謎文・語りの場面 八丁)

判読文の読み解 釈
なさりしこと 何でもかでも長松を 書いて書いて書きのめす重三郎がしたことを、すべて書いてしまうと宣言している。
ご工夫狂言は何だやら判らずこの、ご工夫狂言とは重三郎の意図、策謀を知らず。
めった無性に長松を 嬉しがらするばかりの 思い付き也身代半減を受けて経済的に苦しい、重三郎だけに利益を与える自分の案であったと悔やんでいる。
どうだ何だの 強的分からず てん違いその重三郎は、約束について言を左右し、始めの言葉とは、天と地ほどに違っていた。
乾坤の間を抜けしは、さてこそ弾なき素鉄砲乾坤一擲などのように、思案の末、重大な決心をもっての意味であり、
その決心は徒手空拳の自分であるが、
音もぶうぶう芋凧の唸りはさても 草双子続膝栗毛五編の巻末に「一九生酉ノ年也、故ニ酉ノ町ノ唐ノ芋熊手ノ形ヲ用ユ」とあり
自分を芋タコと表現し、その恨みはこの草双子と宣言している。
こんな仕打ち食うが、空鉄砲はいざ知らず空約束はまだいいとして、「こんな仕打ち」とは自分を侮辱した仕打ちを意味している。
我が長にては 二つ玉の類もなき 嘘八百の出放題自分の目上の人間(年長者)ではあるが、嘘八百をいう男らしくない人間である。
闇に鉄砲、当り外れはただ、御見物の御評判を種子島と商売というものは闇夜に鉄砲を撃つようなもので、当たることも当たらないこともあり、
それはお客様の評判次第である。「種子島と足るがしまの語呂合わせ」
ホヽ 訛って申す色々理屈をつけて胡麻化してしまった。

奴凧と達磨との掛合の場面

判読文の読み解 釈
達磨は、ころころと転げて、騙りと言う蔭を達磨」に象徴される重三郎が、身代半減をうけて起きあがったのを風刺しており、
カタリという音に引っかけて言外の意味を「騙り」と、自分に対する仕打ちを当てこすっている。言う蔭をとは、「蔭口」と解釈できる。
きっかけに むっくと起きて、なに奴だエヽと言うこの文は絵の中の情景描写であり特別な意味はない。
おいらもタコなら貴様もタコ 併せて二タコ 三タコ タコ「凧」と「蛸」の語呂合わせである「蛸」は、その形からくるいかゞわしさを表現する意味、
旨い食わせるもの.食わせもの、共食いをする蛸、何れにしても蛸部屋.蛸配当など
あまり良い意味に使われていない。奴凧が指している「タコ」とは重三郎と鰕蔵、そして自分である。」
はて地口でも、なんでもない事であったよなア「達磨」である重三郎に対して、単なる語呂合わせでないと同意を求めている。
何の事はねえ 金比羅様へ入った泥棒が金縛りというもんだ。自縄自縛の意味であり、自分の立場では表だって言えない、若しくはできないの意味である。

 初登山・写楽凧謎文の総括(7〜8丁)

 この文章の内容を以上のように意味づけをしてみると、それなりに起承転結があり、浄瑠璃の語り口のような表現にも思え、これら文の解釈には、人それぞれ感性の違いもあるが、私が受けた文中の印象は、市川鰕蔵や蔦屋重三郎と十返舎一九の間に、写楽の繪をめぐり確執があったと判断されます。

 写楽に関する資料としては、初登山手習帖7〜8丁目の頁・写楽凧謎文の場面が有名ですが、私は次の頁である9〜10頁の場面を含め写楽の研究には非常に重要な資料と考えています。 この頁には、長松が相撲が見たいと言いだすくだりがあって、「大童山」とおぼしき名前もでてきて、この中では、仲の悪い絵師同士の競作を、犬と猿の相撲に見立て、モデルである大童山を行司として「勝負は人の手の内にあり」と狂歌を引用し皮肉っています。

書 名著 者所蔵機関
初登山手習方帖十返舎一九東京都立中央図書館

本史料は所蔵機関のご好意により抜粋掲載の許諾を受けております。

初登山手習方帖中の9ページ〜10ページにおける天神様と長松が相撲観戦の場面

原文の読みと判読文(九〜十丁)

原文(九丁 上)判読文
原文(九丁 下)判読文
ちょうまつはだんだんつき長松はだんだん つき
とかくてんじんさまととかく天神様と
あがりがしてこれからは上がりがして これからは
てゃまつばかりではでハ長松ばかりでハ
すもうがみたいつれて相撲が見たい 連れて さみしいから寂しいから
いって見せてくんねへ行って見せてくんねえ又しらたゆう又白太夫
ヨウてんじんさんヨウ天神さん おんともおん供
つれていかねへとおらァ連れて行かねへと俺らァするする
こんどから二十五日に今度から二十五日に  
おそなへもおみきもお供えもお神酒も そうだそうだまんそうだそうだ真
あげはしねへよと上げはしねへよと なかのぼうを中の棒を
まいにちのことなれば毎日の事なれば みぎのほうへ右の方へ
いまはとんだこころ今はとんだ心 ぐっとひねれぐっとひねれ
やすだてしていろいろ易立てして 色々 ひねれひねれ
なことをねだりな事をねだり   
かけけれどもてんかけけれども 天 このすもふこの相撲
じんさまはおはら神様はお腹 よりまつより松
もおたてなされずもお立てなされず わうとむめ王と梅
そんならこいこいとそんならこいこいと わうが王が
すぐにすもふへすぐに相撲へ 三だんめの三段目の
つれゆきたもふ連れて行き給ふ つかミやいがつかミ合いが
しかしすもふはしかし相撲は おもしろかつた面白かった
なんだかおなじ何だか同じ   
ことばかりして事ばかりして てんじんさん天神さん
さっぱりセうさっぱり勝 かたくまにのせて肩車に乗せて
ぶはつかずおも負はつかず 面 くんねへよねっからくんねへよ根っから
しろく白く よく見へないよく見えない
もなんともも何とも   
なきすもふなき相撲   
原文(十丁 上)判読文
原文(十丁 下)判読文
なれどもなれども
ふきやてうかしの葺屋町河岸の
このてうこの長
すもふもおもしろ相撲も面白
まつがこども松が子供 かったかった
ごころより心よりこれよりハだいどうこれよりハ大童
見れば見れば だんがぎゃうじで山が行司で
このうへもこの上もさるといぬの猿と犬の
なきおもしなき面すもふが相撲が
ろきことに白き事に おもしろい面白い
おもいて思いて   
よねん余念 かちもすまい勝ちもすまい
なくけんなく見 まけもすまいの負けもすまいの
ぶつして物して でくのぼう木偶の棒
いるいる しゃうぶハひとの勝負は人の
    てのうちにあり手の内にあり
けんぶつハ見物ハといふきゃうかにと言う狂歌に
なんの何の でたやつだ出たやつだ
ことハない事ハないこんなことこんな事
にんぎゃう人形よりなにもより何も
てうのど町の土 かくこと書くこと
ようぼし用干し なし無し
というもんと言うもん   
 カタカタカタカタ
   カッタリカッタリ
   どっこいどっこい
   どっこいどっこい

初登山手習方帖による相撲の場面

重要部分の読み解 釈
この相撲より松王と梅王が三段目の掴み合いが面白かった。芝居の人物松王と梅王に擬しながら仲の悪い絵師仲間の掴み合いによる腕力沙汰を冷やかしている。
葺屋町河岸の相撲も面白かったこの葺屋町河岸近辺は芝居町であり、この辺りで相撲の興行が行われた事実はなく、相撲という勝負と対比させた絵師同士の勝負、即ち競作を意味している。
これよりハ大童山が行司で猿と犬の相撲が面白い常々から腕自慢の絵師達が描いた大童山の浮世絵が、その出来映えで腕前を評価するという意味である。
木偶の棒勝負は人の手の内にあり挿し絵の相撲を取っている人形の棒のように、所詮勝負は他人が決めることである。

  初登山・相撲場面の総括(9〜10丁)

 初登山の相撲場面における研究から得られた結論は、大童山をモデルとした浮世絵の競作が行われており、以前に葺屋町でも競作が行われたことを暗示しています。 猿と犬の仲に喩えられる程絵師同士は仲が悪かったことで、腕力沙汰もあったのではないかと思わせる記述であります。

 初登山(7〜10丁)までの研究を通じて得られた結論

 (1)初登山が刊行された時点での一九は、歌舞伎役者の蝦蔵や蔦屋重三郎に対し非常に悪感情を持っており、その理由は彼等を侮蔑的な意味をもつ(タコ)という言葉で呼んでいる点にあります。この関係は一方的なものではなく相互的な悪い関係であったともの思えます。

 (2)写楽の絵は絵師同士の競作として描かれた可能性が強く、この競作の第一回は端午の節句に葺屋町において開催され、2回目は大童山の土俵入りがあった11月本所の会向院で開催されたと見られます。

 (3)絵師同士はお互いに個性も強く自分の腕に自信があり、工房説による共同製作は成立しないと思え、それであるからこそ功名心を煽る競作などが計画されたと考えられます。  

  次の話には、歌舞伎演目の「花都廓縄張」を暗示するごとく吉原の話が続いており、これらの文章には、一九や重三郎、歌麿の、寛政六年旧暦五月から七年初頭にかけての行動に関する寓意が込められていると考えられ、とくに、役者皆子供もち耶蘇日にて、の表現は明らかに、写楽が描き始めた五月五日の端午の節句と思えます。

 その場所は、歌舞伎年表から推測すると、木挽町の河原崎座であり、話相手の鰕蔵は、恋女房染分手綱の竹村定之進の装束であったと考えられ、鰕蔵は年間の給金こそ七百両と、瀬川菊之丞や岩井半四郎達の九百両、沢村宗十郎の八百両に比べ少ないが、人気度も役者番付の最上位に評価され、歌舞伎界に大きな影響を与える重鎮でもあり、写楽の第一作は、この竹村定之進であったのは間違いありません。

 しかしその後、彼は自分達の大首繪をみて、重三郎に対し強硬に販売の中止を申し入れたであろうと思え、この初登山の解読結果から印象として推測できたことは、十返舎一九が写楽であった可能性が充分に考えられます。


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