(2) ユリウス・クルト
(1870〜1945頃) (Julius Kurth)による著作・写楽「Shsrku」は明治四十三年(1910年)、彼の母国であるドイツミュンヘンで出版されたが、彼はすでに1907年に歌麿(Utamaro) を出版し、当時のジャポニズムの時流にのって、浮世絵研究家としてのみならず、日本文化の紹介や研究者として世界的にも著名な学者の一人となっている。 彼の著書の言葉を借りると、「過去の芸術における一人の偉人に迫るには、---たとえいかに才気に満ち、そして興味を引かれる対象であったとしても--もっぱら美的見地からのみ評価するだけではもはや十分ではないということを、今では我々はきわめて正確にわかっている。多くの芸術的評価を歴史的事実の確固たる骨格の中に入れなければ、確かなことは得られない。」といっている。 (ユリウス・クルト著・写楽)
(3) 櫓・又は歌舞伎櫓とは (やぐら・かぶきやぐら)
芝居や相撲などの興行元を示す称号であり、本来は興行演目などの幟を掲げるための櫓を示す言葉であったが、これが転じて興行元を指す言葉となった。
(4) 歌舞伎堂 艶鏡とは (かぶきどう えんきょう)
この艶鏡説を唱えたのはクルトただ一人であり、彼の説によると斎藤十郎兵衛が写楽として活躍の後、その後歌舞伎堂艶鏡として雅号を変えて浮世絵を描いたとされているが、この説を支持する人間は他にいない。
(5) 斎藤 十郎兵衛とは (さいとう じゅうろべい)
弘化元年(1844)年、時代考証家・斎藤月岑により増補浮世絵類考の中で、写楽・天明寛政年中の人、俗称・斎藤十郎兵衛 江戸八丁堀に住す、阿波侯の能役者也 号・東州斎と記載されており、この記述が基となって写楽・斎藤十郎兵衛説が誕生することになる。 また月岑は写楽と同時代の絵師、栄松斎長喜の聞き書きとして注を加えており、近年では浮世絵研究家の「内田千鶴子」女史により「猿楽分限帖」の中に斎藤十郎兵衛の名前を発見、実在の人物として再確認をしている。 その後平成11年埼玉県内の法光寺という寺の過去帖に斎藤十郎兵衛の名前が発見されているが、すでに斎藤家は絶えているため仏は合葬されており、過去に墓が存在したものとしてこの説が改めて脚光を浴びることになった。
(6) 池田 満寿夫 (いけだ ますお)
池田満寿夫氏は中村此蔵・写楽説を唱え、後に此蔵と十返舎一九との合作説に転向、映画監督・彫刻家・版画家・陶芸作家・芥川賞作家・など多彩な才能を持つ活動的な芸術家であったが、平成9年 心不全のため急逝。 享年・63歳
(7) 合作説とは (がっさくせつ)
合作説には版元蔦屋工房の絵師集団による合作説や、中村此蔵と十返舎一九の合作説などがあるが、注目すべきは、故・池田満寿夫氏により、中村此蔵の絵が、他の大首絵と比較してまったく画風の違いが発見されたことである。 此蔵の絵における画風の違いを池田氏は、此蔵の自画像と捉え、此蔵・写楽説を展開するが、その後此蔵の着物の紋から、一九の文字の謎を解き、中村此蔵と十返舎一九合作説を展開する。
(8) 斎藤 月岑 (さいとう げつしん)
(1804〜1878) 江戸神田雉子町の町名主で著述家、武江年表や増補浮世絵類考など他にも多くの著作があり、江戸時代を代表する時代考証家として有名であるが、写楽・斎藤十郎兵衛説の根拠となる書き込みは、ケンブリッジ大学の所蔵になる彼の原本にはないといわれており、この書きこみには写楽阿波の能役者斎藤十郎兵衛説は栄松斎長喜からの聞き書きとあるが、この書きこみが誰によってなされたかは不明である。
(9) 栄松斎 長喜 (えいしょうさい ちょうき)
写楽と同時代の浮世絵師であり、作品の美人画・高島ひさの持っている団扇の絵柄が、写楽が描いた肴屋五郎兵衛になっている事から特に有名であり、当然 長喜 は写楽と面識があったと考えられている。
(10) 大目付 (おおめつけ)
幕府行政の職名で筆頭老中の支配下にあり、監察的役割をもっていた。
(11) 御小姓組番士 (おこしょうぐみ ばんし)
将軍直属の武士であり、特に老中の子弟が選ばれ将軍の下で秘書的な役割を務め、人物評価の意味もあり、将来の昇進に大きく影響する時代でもある。
(12) 遺跡 (いせき)
先祖からの身分名や扶持などを指す。
(13) 西城御書院 (にししろごしょいん)
江戸城西側の書院(江戸城の場所)
(14) 叙任 (じょにん)
官名に叙せられること。
(15) 小普請支配 (こぶしんしはい)
旗本の役職名・老中の下で江戸城は勿論のこと幕府管轄下の建築物について小規模の普請・営繕を統括し、指揮を行う立場で禄高は三千石程度であった。
(16) 人相書き (にんそうがき)
写真のなかったこの時代、目撃者から犯罪者の人物像を聞き取り、特徴などを強調した大首絵風の絵にして高札などに貼り出し、民衆からの情報を収集したと考えられるが、現存する人相書きとは、ほとんどが人物の風体や顔の特徴などを列記したものであり、人物画としての人相書きを実証するものとしては残存するものが少なく、唯一、西郷隆盛の人相画なるものが確認されているが後世の贋作と見る人が多い。
(17) 武江年表 (ぶこうねんぴょう)
斎藤月岑
(19) 浮世絵類考 (うきよえるいこう)
大田南畝の選による浮世絵師の伝記を集約した基本的な文献であり、その後これが写本され山東京伝・笹屋邦教・式亭三馬・斎藤月岑・渓斎英泉・曳尾庵らによる追考・補記を加えたものが、現在市販されている追補浮世絵類考である。
(20) 十辺舎 一九 (じっぺんしゃ いっく)
(1765〜1831) 江戸後期の戯作者で滑稽本を得意とし、本名を重田貞一(しげた さだかず)と称して、下級武士の出身であり駿府生れ。 旗本・小田切土佐守の用人として仕え、後に小田切家を離れ戯作者として文筆生活を送るが、代表作・「東海道中膝栗毛」によって時代の寵児となった。
(22) 子供や (こどもや)
別名・陰間茶屋。娼婦の吉原と並ぶ男娼専門の店。