July 28, 2010
今、はまっているブログ
最近毎日のようにチェックしているブログがいくつかある。
ひとつは元W☆INGの代表である茨城さんの
Invitation to WING
そして元アルシオン代表のロッシー小川氏の
そして渕さんの「酔々ブルース」である。
http://pure-city.jp/fuchi/
渕さんは最近自分で書いた小説をアップしはじめた。
正直最初は読む気がせず「また小説か…他のネタ、たまに面白いこと書くのに…」
と他のネタを期待しては、小説を読まず、閉じていた。
が、ふっとした弾みで読んでみたら、これが何というか不思議な面白さ。
で今のところ全部読んでいる。
主人公のモデルは渕さん自身だと思うが
そのままではなく、大分いじってある。
この主人公は現役を引退した元レスラーであり、
現プータローである。
渕さん自身、現役引退後はプータローになるつもりなのか、
将来に対する不安が書かせている小説なのか、その辺はわからない。
私自身、渕さんとの思い出は沢山ある。
プロレスファンの高校生の頃に知り合ったのだが、
私に食事をご馳走してくれた最初のレスラーだった。
当時、全日本プロレスには道場がなく、
合宿所は目白にあった。
あれは東京体育館で行われた、インタータッグ選手権試合。
ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田VSディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー戦が
終わったあと。「メシでも行くか」と誘ってくれた。
合宿所の近くの中華料理屋に入り「麻婆豆腐丼と餃子でいいか?」と聞いてきた渕さん。
私は当然「はい」と答え、ご馳走になった。
「一宿一飯の恩義」という言葉があるが、その時のことは一生忘れない。
亡くなった園田さんも一緒だった。
「出世したらもっといいものをご馳走してやるからな」と言った若手時代の渕さん。
その時失礼にも「全日本の若手って給料どのぐらい貰ってるんですか?」と聞いた。
渕さんは「ウーン…3万円ぐらいかな」と答え、園田さんは「それなら俺は1万円ぐらいかな」
と答えてくれたのが懐かしい。
その後、大学生の頃、我々ファンクラブが主催して「ジャンボ鶴田コンサート」を
何度かやったが、砧に移った合宿所で鶴田さんと一緒に練習するため何度も合宿所にいっては
よく泊めてももらった。
当時渕さんはドラムを練習していたのだが、鶴田さんと渕さんに連れられて
赤坂の溜池にあった「JOY」というクラブによく行ったのものだ。
取材をしてお金を貰うようになってからの思い出として
米国修行中の渕さんの取材に行った時のことが懐かしい。
メシの話ばかりで申し訳ないが、渕さんはノースカロライナ州シャーロットのトレーラーハウスに
独りで住んでいた。隣人はリック・ハリス。後にWWEにもいったブラック・バートである。
「家庭訪問取材」にいったわけだが、渕さんは自炊で、玉子焼とご飯、そして味噌汁をご馳走してくれた。
「まだ出世してないんで悪いなぁ」と渕さん。
そして試合の取材。
「俺、渕さんこそ鶴田さんの最高のパートナーって記事にしたいんですよ」というと
渕さんはクビ覚悟でバックドロップを使ってくれた。
当時渕さんはヒールで、当時は「ヒールは派手な技を使わない」という暗黙の掟みたいなのがあった。
ブッカーはドリー・ファンクJR。
試合後「渕さん、やばくなかったですか?」と言うと
「俺も月刊プロレスに載ると思って、クビ覚悟で使ったんだけど、怒られると思っていた中、
ドリーが良かったって褒めてくれたよ」との言葉。我ながら責任を感じた。
で、渕さんが乗っていたオンボロ車。ジョージア州サバンナの会場からシャーロットに豪雨の中帰る
途中、ワイパーが故障してしまった。
車を止めて、雨が弱くなると走り出し、強くなるとまた止めて…通常3時間の道のり、倍以上かかった。
これも忘れえぬ思い出。
私の結婚式にも馳せ参じてくれた渕さん。
その後も全日本プロレスに行く度によく話をした。
もうひとつ懐かしいのは渕さんが馬場元子さんの指令で
故三沢光晴さんを連れて米マット視察にきた時のこと。
理由は覚えていないが、そのちょっと前に私が元子さんを怒らせてしまったという状況下、
ダラスに来た渕さんは電話をくれた。
「元子さんには内緒だよ」と言いながら食事に誘ってくれた。
「どっかいいステーキハウスはないか?」との渕さん。
私は「オールド・サンフランシスコ・ステーキハウス」に渕さんと三沢選手を連れていった。
その時、渕さんが「三沢は馬場家の御曹司だから」とさかんに言っていたことが今も耳に残っている。
三沢選手は「やめて下さいよ」と苦笑していた。
思い出はまだまだ、沢山すぎるほどある…。
そんな中、渕さんの書いた小説にはまっている私がいる。
ひとつは元W☆INGの代表である茨城さんの
Invitation to WING
そして元アルシオン代表のロッシー小川氏の
そして渕さんの「酔々ブルース」である。
http://pure-city.jp/fuchi/
渕さんは最近自分で書いた小説をアップしはじめた。
正直最初は読む気がせず「また小説か…他のネタ、たまに面白いこと書くのに…」
と他のネタを期待しては、小説を読まず、閉じていた。
が、ふっとした弾みで読んでみたら、これが何というか不思議な面白さ。
で今のところ全部読んでいる。
主人公のモデルは渕さん自身だと思うが
そのままではなく、大分いじってある。
この主人公は現役を引退した元レスラーであり、
現プータローである。
渕さん自身、現役引退後はプータローになるつもりなのか、
将来に対する不安が書かせている小説なのか、その辺はわからない。
私自身、渕さんとの思い出は沢山ある。
プロレスファンの高校生の頃に知り合ったのだが、
私に食事をご馳走してくれた最初のレスラーだった。
当時、全日本プロレスには道場がなく、
合宿所は目白にあった。
あれは東京体育館で行われた、インタータッグ選手権試合。
ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田VSディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー戦が
終わったあと。「メシでも行くか」と誘ってくれた。
合宿所の近くの中華料理屋に入り「麻婆豆腐丼と餃子でいいか?」と聞いてきた渕さん。
私は当然「はい」と答え、ご馳走になった。
「一宿一飯の恩義」という言葉があるが、その時のことは一生忘れない。
亡くなった園田さんも一緒だった。
「出世したらもっといいものをご馳走してやるからな」と言った若手時代の渕さん。
その時失礼にも「全日本の若手って給料どのぐらい貰ってるんですか?」と聞いた。
渕さんは「ウーン…3万円ぐらいかな」と答え、園田さんは「それなら俺は1万円ぐらいかな」
と答えてくれたのが懐かしい。
その後、大学生の頃、我々ファンクラブが主催して「ジャンボ鶴田コンサート」を
何度かやったが、砧に移った合宿所で鶴田さんと一緒に練習するため何度も合宿所にいっては
よく泊めてももらった。
当時渕さんはドラムを練習していたのだが、鶴田さんと渕さんに連れられて
赤坂の溜池にあった「JOY」というクラブによく行ったのものだ。
取材をしてお金を貰うようになってからの思い出として
米国修行中の渕さんの取材に行った時のことが懐かしい。
メシの話ばかりで申し訳ないが、渕さんはノースカロライナ州シャーロットのトレーラーハウスに
独りで住んでいた。隣人はリック・ハリス。後にWWEにもいったブラック・バートである。
「家庭訪問取材」にいったわけだが、渕さんは自炊で、玉子焼とご飯、そして味噌汁をご馳走してくれた。
「まだ出世してないんで悪いなぁ」と渕さん。
そして試合の取材。
「俺、渕さんこそ鶴田さんの最高のパートナーって記事にしたいんですよ」というと
渕さんはクビ覚悟でバックドロップを使ってくれた。
当時渕さんはヒールで、当時は「ヒールは派手な技を使わない」という暗黙の掟みたいなのがあった。
ブッカーはドリー・ファンクJR。
試合後「渕さん、やばくなかったですか?」と言うと
「俺も月刊プロレスに載ると思って、クビ覚悟で使ったんだけど、怒られると思っていた中、
ドリーが良かったって褒めてくれたよ」との言葉。我ながら責任を感じた。
で、渕さんが乗っていたオンボロ車。ジョージア州サバンナの会場からシャーロットに豪雨の中帰る
途中、ワイパーが故障してしまった。
車を止めて、雨が弱くなると走り出し、強くなるとまた止めて…通常3時間の道のり、倍以上かかった。
これも忘れえぬ思い出。
私の結婚式にも馳せ参じてくれた渕さん。
その後も全日本プロレスに行く度によく話をした。
もうひとつ懐かしいのは渕さんが馬場元子さんの指令で
故三沢光晴さんを連れて米マット視察にきた時のこと。
理由は覚えていないが、そのちょっと前に私が元子さんを怒らせてしまったという状況下、
ダラスに来た渕さんは電話をくれた。
「元子さんには内緒だよ」と言いながら食事に誘ってくれた。
「どっかいいステーキハウスはないか?」との渕さん。
私は「オールド・サンフランシスコ・ステーキハウス」に渕さんと三沢選手を連れていった。
その時、渕さんが「三沢は馬場家の御曹司だから」とさかんに言っていたことが今も耳に残っている。
三沢選手は「やめて下さいよ」と苦笑していた。
思い出はまだまだ、沢山すぎるほどある…。
そんな中、渕さんの書いた小説にはまっている私がいる。