歴史は、フランク・ロイド・ライトの『自伝』のように、当事者によって隠蔽され、書き換えられることもあるが、後世の人によって解釈され、改竄・捏造されることもある。本書が扱う「写楽誰それ説」もその一例であろう。
著者によれば、そもそも「写楽は誰（歌麿、応挙、北斎、蔦谷重三郎）？」は、戦後の問いにすぎない。東洲斎写楽は、斎藤月岑の『増補・浮世絵類考』に書かれているように、阿波藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛に間違いない、と著者は断ずる。
そもそも、この問いが巻き起こったのは、ドイツの浮世絵研究者・クルトが、斎藤月岑の書に拠りながら1910年に書いた『SHARAKU』に関して、江戸歌舞伎に関する無知・誤解に由来する瑕疵が戦後、指摘されたことに由来する。そのため、『増補・浮世絵類考』に即して、写楽を阿波藩の斎藤十郎兵衛としたクルトの言説まで疑われた。これが、戦後の写楽論争の出発点であった。
そこで、著者はもっとも信頼できる斎藤月岑の『増補・浮世絵類考』に立ち戻り、改めて写楽の原像に迫る。というのも、月岑は江戸の「草分け名主」すなわち家康入府以前からの名主の家に生まれ、父親は名主として草紙の検閲や『江戸名所図会』の編集に携わり、自身も学級肌で江戸市井の故事来歴に通暁していたからである。
この書には、著者の言う「３点セット」すなわち写楽の�‖�称（斎藤十郎兵衛）、��居住地（江戸八丁堀）、��身分（阿波藩お抱えの能役者）が記載されている。ここでは「阿波藩お抱えの能役者」が武士階級に属すること、すなわちプロの芸術家・演芸家やスポーツ選手（お抱え力士）は、現在は学歴に関係なく専門職に分類されるが、江戸期には出自に関わりなく武士となることに注目しよう。
そもそも近世の史料は扱いにくい。この書の元本『浮世絵考証』は、寛政年間に大田南畝によって書かれ、山東京伝が考証を追加し、南畝がそれを合本したもの（これが岩波文庫版『浮世絵類考』だが、写楽の本名・身分は記載されていない）に、天保14年に写楽「３点セット」を増補したものである（それが後に筆写されるなかで、さらに書入れがなされ、テクストはさまざまなヴァリアントを生みながら増殖する）。
こうして錯綜した史料に、著者は「雅」−「俗」図式で挑む（井上俊『遊び社会学』は、デュルケームの「聖−俗」図式を修正した「聖−俗−遊」の三元論だったが、「雅」という項はない）。すなわち、斎藤十郎兵衛（＝写楽）はお抱え能役者だったが、「能」は「武士」の嗜む＜雅＞に属する。
これに対して、写楽（＝斎藤十郎兵衛）が描いた「歌舞伎」の「役者絵（浮世絵）」は「町人」の＜俗＞に属する。つまり、幕末期以降、西洋人によって評価され、現在は日本の正統的・伝統的文化とみなされる歌舞伎も浮世絵も、江戸期は俗なるサブカルチャーである。
したがって、武士である斎藤十郎兵衛が、寛政年間（＜雅＞＜俗＞の峻別にこだわり、＜俗＞を排除しようとした松平定信の改革期）に役者絵を描いたことが公表されれば、藩主・阿波侯にも災禍が及びかねない。そこで、写楽「３点セット」は寛政期の『浮世絵類考』には書かれておらず、『増補・浮世絵類考』（天保14年＝十郎兵衛の死後25年）に初めて「時効」となって公表された。
また、それに先立つ『江戸方角分』（文政元年＝十郎兵衛の死亡年）では、写楽の項に画号と浮世絵師を示す合印、死亡を示す印のみ記され、通号・実名そして身分は空欄となっている。しかし、そこには「３点セット」の１つ、「江戸八丁堀居住」が示されていた（その近隣に定信の下屋敷＝現在の築地市場がある）。著者はこの『江戸方角分』（これは現在でいえば居住地別の紳士録である）における文字通りの「空白」に、写楽の「江戸人としての実像」を透視する。
そして、「俗」−「雅」図式による江戸文芸理解をすすめることによって、「未熟な近代主義的近世理解から成熟した近代主義的近世理解へ」の転換を主張する。われわれは所詮、近世を近代主義的にしか理解できないが、可能なかぎり江戸期の図式に沿って「成熟した近代主義的理解」に努める必要がある、という。
歴史教育にしても然り。徳川綱吉の「生類憐みの令」は、日本の歴史教科書に載っているように「ペット愛護令」ではなく、庶民に対する「子捨て禁止令」である。綱吉は、貧困から捨てられる子どもを「憐れ」み、子捨てをする親を「弾圧」したのである。
というのも、間引き・堕胎が人口調整のための意図的殺人であるのに対して、「子捨て」は昨今、話題の「赤ちゃんポスト」同様、貧困などから育てられない子どもを他人に育てもらうことを前提にしている。
少なくとも仙台藩の『赤子養育方留全』によれば、幕末期、仙台城下に捨てられた子どもは、いずれも助けてくれそうな家（飢饉の救済にあたった大店の軒先など）を選んで、人通りは絶えたが見つけやすい時間帯に捨てられている。
そして、仙台藩は、凶作時の捨て子を防ぐために農民に養育費を出していたから、南部藩の農民が仙台領に子どもを捨てに来たという（沢山美果子「堕胎・間引きから捨子まで：出生をめぐる生命観の変容」落合恵美子編『徳川日本のライフコース：歴史人口学との対話』ミネルヴァ書房）。
著者によれば、そもそも「写楽は誰（歌麿、応挙、北斎、蔦谷重三郎）？」は、戦後の問いにすぎない。東洲斎写楽は、斎藤月岑の『増補・浮世絵類考』に書かれているように、阿波藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛に間違いない、と著者は断ずる。
そもそも、この問いが巻き起こったのは、ドイツの浮世絵研究者・クルトが、斎藤月岑の書に拠りながら1910年に書いた『SHARAKU』に関して、江戸歌舞伎に関する無知・誤解に由来する瑕疵が戦後、指摘されたことに由来する。そのため、『増補・浮世絵類考』に即して、写楽を阿波藩の斎藤十郎兵衛としたクルトの言説まで疑われた。これが、戦後の写楽論争の出発点であった。
そこで、著者はもっとも信頼できる斎藤月岑の『増補・浮世絵類考』に立ち戻り、改めて写楽の原像に迫る。というのも、月岑は江戸の「草分け名主」すなわち家康入府以前からの名主の家に生まれ、父親は名主として草紙の検閲や『江戸名所図会』の編集に携わり、自身も学級肌で江戸市井の故事来歴に通暁していたからである。
この書には、著者の言う「３点セット」すなわち写楽の�‖�称（斎藤十郎兵衛）、��居住地（江戸八丁堀）、��身分（阿波藩お抱えの能役者）が記載されている。ここでは「阿波藩お抱えの能役者」が武士階級に属すること、すなわちプロの芸術家・演芸家やスポーツ選手（お抱え力士）は、現在は学歴に関係なく専門職に分類されるが、江戸期には出自に関わりなく武士となることに注目しよう。
そもそも近世の史料は扱いにくい。この書の元本『浮世絵考証』は、寛政年間に大田南畝によって書かれ、山東京伝が考証を追加し、南畝がそれを合本したもの（これが岩波文庫版『浮世絵類考』だが、写楽の本名・身分は記載されていない）に、天保14年に写楽「３点セット」を増補したものである（それが後に筆写されるなかで、さらに書入れがなされ、テクストはさまざまなヴァリアントを生みながら増殖する）。
こうして錯綜した史料に、著者は「雅」−「俗」図式で挑む（井上俊『遊び社会学』は、デュルケームの「聖−俗」図式を修正した「聖−俗−遊」の三元論だったが、「雅」という項はない）。すなわち、斎藤十郎兵衛（＝写楽）はお抱え能役者だったが、「能」は「武士」の嗜む＜雅＞に属する。
これに対して、写楽（＝斎藤十郎兵衛）が描いた「歌舞伎」の「役者絵（浮世絵）」は「町人」の＜俗＞に属する。つまり、幕末期以降、西洋人によって評価され、現在は日本の正統的・伝統的文化とみなされる歌舞伎も浮世絵も、江戸期は俗なるサブカルチャーである。
したがって、武士である斎藤十郎兵衛が、寛政年間（＜雅＞＜俗＞の峻別にこだわり、＜俗＞を排除しようとした松平定信の改革期）に役者絵を描いたことが公表されれば、藩主・阿波侯にも災禍が及びかねない。そこで、写楽「３点セット」は寛政期の『浮世絵類考』には書かれておらず、『増補・浮世絵類考』（天保14年＝十郎兵衛の死後25年）に初めて「時効」となって公表された。
また、それに先立つ『江戸方角分』（文政元年＝十郎兵衛の死亡年）では、写楽の項に画号と浮世絵師を示す合印、死亡を示す印のみ記され、通号・実名そして身分は空欄となっている。しかし、そこには「３点セット」の１つ、「江戸八丁堀居住」が示されていた（その近隣に定信の下屋敷＝現在の築地市場がある）。著者はこの『江戸方角分』（これは現在でいえば居住地別の紳士録である）における文字通りの「空白」に、写楽の「江戸人としての実像」を透視する。
そして、「俗」−「雅」図式による江戸文芸理解をすすめることによって、「未熟な近代主義的近世理解から成熟した近代主義的近世理解へ」の転換を主張する。われわれは所詮、近世を近代主義的にしか理解できないが、可能なかぎり江戸期の図式に沿って「成熟した近代主義的理解」に努める必要がある、という。
歴史教育にしても然り。徳川綱吉の「生類憐みの令」は、日本の歴史教科書に載っているように「ペット愛護令」ではなく、庶民に対する「子捨て禁止令」である。綱吉は、貧困から捨てられる子どもを「憐れ」み、子捨てをする親を「弾圧」したのである。
というのも、間引き・堕胎が人口調整のための意図的殺人であるのに対して、「子捨て」は昨今、話題の「赤ちゃんポスト」同様、貧困などから育てられない子どもを他人に育てもらうことを前提にしている。
少なくとも仙台藩の『赤子養育方留全』によれば、幕末期、仙台城下に捨てられた子どもは、いずれも助けてくれそうな家（飢饉の救済にあたった大店の軒先など）を選んで、人通りは絶えたが見つけやすい時間帯に捨てられている。
そして、仙台藩は、凶作時の捨て子を防ぐために農民に養育費を出していたから、南部藩の農民が仙台領に子どもを捨てに来たという（沢山美果子「堕胎・間引きから捨子まで：出生をめぐる生命観の変容」落合恵美子編『徳川日本のライフコース：歴史人口学との対話』ミネルヴァ書房）。