写楽はオランダ人だった!

写楽、東洲斎写楽はいったい誰なんだ?
寛政年間にわずか10カ月だけ作品を発表してプッツリと姿を消した。謎の絵師だ。
ある人は言う写楽は「能役者・斎藤十郎兵衛」である。またある人はあの
「円山応挙」である。
いや「十辺舎一九」である、歌舞伎役者「中村此蔵」であると・・・。
写楽別人説は20−30ある。
あぁ、分からない。
写楽はいったい誰なんだ。
ズバリ!写楽は写楽である。だが、写楽は日本人ではない。
絵を見ればすぐ分かるあの”バタ臭さ”。当時の日本人発想ではない。
すると、当時日本に入国を許されていたのはオランダ人だけだ。
ズバリ!シャーロックというオランダ人で油絵の心得もある人。
シャーロックを漢字で書けば写楽になる。外国からの日本に来て日本語を学ぶ人は
自分の名前を漢字に置き換えたがる。
ほら、W杯サッカー代表のサントス選手は三都主
と名乗るように。
家康の砲術顧問ヤン・ヨーステンは八代洲と表記された東京駅八重洲として今も残る。
東洲斎は文字通り東から日本という島(州)にきたシャーロック(写楽)。
東洲斎写楽=ヒガシノシマニキタ シャロック=と言うことになる。
写楽、あれだけの作品を残しながらその版木が見つからないのはシャーロック(写楽)が
短い日本での勤務を終えて帰国した時に持ち帰った。
これで、わずか10カ月だけ旋風のようにブームを起こして消えたわけが説明がつく。
また、写楽の役者絵の役者の名前に非常に誤字が多い。オランダから短期に日本に来ていた
外国人にすればよく書きこめたといっていいだろう。
一般に絵師は教養がなかったので
誤字が多いと説明する向きもあるが、これは絵師に対する侮辱以外の何物でもない。
当時、オランダ人は江戸城を表敬訪問、将軍にも謁見、献上品を奉ったり踊りを披露したりまたは
絵師(画家)は絵画を描かされたりした。この江戸に来た時に版元の蔦屋と出会い、遊び心で描いたもの。
ネタ元は美術史家・中島節子さん。1985−1986年に雑誌「藝術公論」に発表したもの。
(「藝術公論」は隔月に日本美術出版から発行されている)。

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