ハウスクリーニング
2006年4月23日O.A.

これを聴かなきゃ往生できんのじゃ〜!ご長寿の穴スペシャル



■もう一度聞きたいあの落語(担当:サードメン高橋)
■幻の甲子園と憧れの洪太山選手(担当:ほたるゲンジ桐畑)
■子供のころに読んだ催眠術の本(担当:クワバタオハラくわばた)
■私が見た東京オリンピック(担当:ヒットマン河野)




70歳女性 小林澄子さんの穴
もう一度聞きたいあの落語
五十数年モノの穴です。
私の祖父は大の落語好きで、レコードを何枚も所有していました。
その祖父のコレクションの中に、もう一度聞きたい噺があります。
それは、先代の三遊亭金馬師匠による「うそつき村」という落語です。
私が覚えているこの話は、ある村でうそつき大会が開催され、一人一人嘘をついていきます。
いろいろな嘘が披露された後、最後の参加者の番になります。
彼は「私は今まで嘘をついたことがありません」と言い放ち、見事優勝するというオチでした。
私はこの噺がとても好きだったのですが、そのレコードは戦災で焼けて、聞くことができなくなってしまいました。
この噺をもう一度聞きたいと思っているのですが、ラジオ、テレビで見かけたことはありません。
若い頃、何度も楽しんだ思い出の噺をもう一度聞くことはできないでしょうか?
これをお聞きの方、元落語家の伊集院さん、このレコードについてご存知の方は教えてください。
解明編(担当:サードメン高橋)
ビクターから発売されている『三代目・三遊亭金馬』というCDに「うそつき村」そのものが収録されているという情報があり、CDを聴いてみるとオチが違う。
続いてLPレコード盤の「うそつき村」の録音が送られてくるが、オチは上記のCDと同じ。
サードメン高橋のとっておきのコネクションである、楽ちゃん家こと三遊亭楽太郎師匠のお屋敷にサードメン高橋と何故か伊集院光が訪問。落語音源のコレクターでコレクションを収納するためにワンルームマンションを借りていた。その四千数百の音源から先代の三遊亭金馬師匠の「うそつき村」をお借りして聴いてみるとオチはやはり上のCDと同じものだった。伊集院さんは滝のような冷や汗をかいていた。
もう1つ戦前に出回っていたSPレコード盤がある、SPレコードコレクターの岡田さんに聞いてみては?という情報から岡田さんに連絡。昭和9年に「うそつき村」が発売されていることが分かり、岡田さんがそのレコードを持っていることも分かった。借りてきたSPレコードを聴いてみるとCDの物とも穴の物とも違うオチだった。
立川談春さんから古い落語レコードの収集・研究に関しては間違いなく日本一の都家歌六師匠にご相談されては?との情報があったが、実は都家歌六師匠が持っているSPレコードのコレクションは先ほどの岡田さんと共有していることが分かる。
三代目・三遊亭金馬師匠のCDの監修・構成をしたレコーディングエンジニアで落語研究家の草柳俊一さんにお話を聞くのはいかがでしょう?という情報から草柳俊一さんにお話を聞くと『SPレコードは録音時間がA面3分、B面3分と非常に短いのでA面で一区切りないといけないのでオチではなくて途中の盛り上がりの可能性がある、SPレコードは自主制作の物があったとしても不思議ではない』。
四代目・三遊亭金馬師匠にお話を伺うと『うそつき村のオチはどこで切ってもオチになるようになっている』ということからSPレコードに収まるようにいろいろなバリエーションの「うそつき村」のオチの中からA面とB面に収録して自主制作で販売。
そうするとこの依頼主のおじいちゃんは相当レアなSPレコードを持っていてA面の完結している小噺を聞いて覚えていた。
(解明)


81歳男性 今野忠雄さんの穴
幻の甲子園と憧れの洪太山選手
64年モノの穴です。
当時、私は日本統治下の台湾で暮らしており台北工業中等学校で今で言う高校野球をやっていました。
台北工業もかなり強かったのですが、最大のライバルは嘉義農林という学校でなかなか勝つことができませんでした。
特に自分がレギュラーになってからの昭和16年の夏、16年秋、17年春の予選大会といずれも嘉義農林に僅差で破れ悔しい思いをしました。
そして、17年の夏の甲子園予選、再び台北工業は準決勝で嘉義農林と対戦しました。
延長16回、3番関口のホームランで嘉義農林を破り、勢いづいた私たちは決勝も勝ち、夢だった甲子園に行くことができました。
その青春時代、ライバルだった嘉義農林に忘れられない選手がいます。
それはキャッチャーで3番を打っていた洪太山選手です。
彼のコンパクトで美しいバッティングホームは80歳を越えた今なお私の目に焼きついています。
戦争が終わり私は日本に引き上げました。
当時の嘉義農林の選手も既に亡くなられた方が多いという話を聞きます。
もし、夢が叶うのなら最高のライバルだった洪太山選手とあの当時の試合の思い出話をしたいと思っています。
洪太山選手は今も元気なのでしょうか?
解明編(担当:ほたるゲンジ桐畑)
朝日新聞社主催の全国高校野球選手権が昨年の夏で88回。昭和16年から20年の間は戦争の影響で開催されていない。実は昭和16年の春・夏、17年の春は甲子園の予選はやったけど戦局の悪化で甲子園大会が中止。17年の夏も予選が始まり、予選の途中で従来の朝日新聞社主催の甲子園大会の中止と文部省主催の甲子園大会が決まる。この大会は朝日新聞主催の大会にはカウントされていない。
池田プロデューサーがこの穴を簡単に解決できそうだと判断した理由に今野さんが洪太山選手の電話番号を知っていることにあった。今から10年ほど前に当時の嘉義農林のエースだったササダさんに会って嘉義農林野球部OB名簿を貰った。ほたるゲンジ桐畑がいきなり電話してみたが何度掛けてもコールはしても誰も出ない。
今度は名簿に載っている嘉義農林の日本人OBの方に洪太山選手の消息を教えてもらおうと思って日本在住OB会長などいたるところに電話を掛けてみたが、残念ながらお亡くなりになっていて有力な情報が得られなかった。
今野さんによると嘉義農林を取り上げたテレビ番組に洪太山選手出ていたという情報。お借りしたテープを見ると1992年にテレビ東京製作の『台湾高砂族の甲子園』という番組だった。この番組を見て分かったことは1992年の段階ではお元気だったということ。
他にも今野さんによると10年以上前に台湾の中等学校野球部について徹底的に調べて本を書いてるという青年からインタビューを受けた記憶がある。その人は台湾に行って洪太山選手にもインタビューをしたいと言っていた。その方とはその後連絡がなくて本も持っていない。
当時のチームメートに当たって今野さんが覚えていること以外の情報を探ることに。4番でエースでキャプテンの菊池さんは昭和19年に鹿児島から沖縄にく途中に戦死、レフトのフジヨシさんとショートの柳沢さんは卒業後フィリピンで戦死、監督も沖縄海戦で戦死、ファーストのタケダさん、セカンドの野田さんは台湾から引き上げ以降消息不明。キャッチャーのオオワさんとは連絡が取れず。サードの田中さんはご病気で既に他界。しかし、3番でセンターを守っていた関口清治さんとは連絡が取れる。しかも関口さんは1982年〜83年に近鉄の監督を務めていた。関口さんによると洪太山選手のことと3日間で延べ40回を戦った嘉義農林戦で捕れそうなセンターフライをエラーでサヨナラ負けをしたことは覚えていないが、翌年の嘉義農林戦で打った決勝ホームランは覚えている。
関口さんが一人だけ当時の嘉義農林の選手を知っている。台湾から引き上げた後、同じ社会人チームでプレイして毎日オリオンズに入団、近鉄バファローズで一緒にプレイをしたり関口さんが監督時代には近鉄のスカウトにも抜擢した今久留主功選手。しかし、昨年死去。
基本に立ち返ってYahoo! JAPANで洪太山を検索すると1件だけホームページ自費出版図書館という自費出版の書物を貸し出すサイトで西脇良朋さんが書かれた『台湾中等學校野球史』 に洪太山選手の記述があることを発見して借りる手続きをした。本を待っている間、な〜んとなくGoogleで検索したらめちゃくちゃ出てきた。ただ、検索で出てきたホームページは中国語で読めないのでTBSラジオで中国語を操り、元・北京支局で勤務経験がある武田一顕記者にこのホームページを訳してもらうと『1959年に現役引退を表明したときに台湾の野球史上最強の4番打者である、という称号を受けた。国際試合では安打製造機と呼ばれた。台湾のベーブ・ルースと呼ばれた』と書いてあることが分かった。
我々の番組(伊集院さん)には一人強力なコネクションがある。以前やった世界のプロ野球スペシャル〜台湾編〜でお世話になった戸部良也さんに洪太山選手について知ってることはないか電話で聞いてみると『1度ね洪さんのご自宅へお伺いしてお会いしてます』という衝撃的な情報。当時の電話番号を教えてもらう。どころが、戸部さんが教えてくれた電話番号というのが最初に出てきた嘉義農林野球部OB名簿に載っている電話番号と全く同じでした。
もう1回戸部さんに泣きついて洪太山選手の当時の自宅の住所と家の外観を聞き出す。ここでほたるゲンジ桐畑が一大決心、とある提案を池田プロデューサーにする。その提案とは「一か八か情報を頼りに台湾に行くしかない!」。ここで問題が…いつもなら一番問題になるのは番組予算に関してだが、これはこの番組のスポンサー『日本アジア航空』さんが全面バックアップ。問題は他の番組もスペシャルウィークで忙しく音声さんがいないということ。そこで池田プロデューサーがとんでもない方法で解決しました…。
出発当日の朝、集合場所に現れたのは音声スタッフの伊集院光さん。池田プロデューサーは担当する他の番組で放送事故があって始末書を書くためにお留守番。2人で洪太山選手のご自宅のある高雄(カオシャン)市へ向かい現地コーディネーターのカクさんと共に自宅を探すとそれらしき建物を発見。呼び鈴を押しても応答がなく、音声スタッフから見ると「生活観がなくて誰も住んでいなくて売り家になった状態に見える」。コーディネーターのカクさんも一生懸命に近所の人に聞き込みを続けてくれて5〜6年ぐらい前に引っ越していることが分かった。ほたるゲンジ桐畑の落ち込みようが尋常じゃなかった。
ここまでのところをTBSに来ている今野さんにスタジオに入ってもらい報告。
ここからは伊集院さんが仕切りでほたるゲンジ桐畑も知らない台湾から帰ったあとの出来事について説明を始めます。ここで番組に協力してくれている武田記者がスタジオに登場。中国特派員時代のコネクションを使って北京、香港、台湾、台北にいろいろ聞いて日本にある台北経済文化代表処というところ(台湾は大使館が持てないのでその機能をしている場所)から台湾外務省(中華民国外交部)に連絡してもらったところ分かったのは洪ジニンさんという方の連絡先。この洪ジニンさんという方が洪太山選手の甥っ子の方と連絡が取れました。そして甥っ子さんと連絡が取れて洪太山選手と連絡が取れました。取材と当時の資料を集めて作った再現テープを放送。元・TBSアナウンサー石川顕アナの実況で延長16回、関口さんの決勝ホームランで嘉義農林を下した台北工業 対 嘉義農林の試合の模様を再現したテープでした。『3番・洪太山くん』というウグイス嬢のコール、球場に響く洪太山コールに迎えられ、洪太山選手がTBSラジオのスタジオに入場し二人は熱い抱擁。
(解明)


72歳男性 R.N.寺尾上雲さんの穴
子供のころに読んだ催眠術の本
六十数年モノの穴です。
小学校に入学した当時、親に頼み込んで買ってもらった本を探しています。
その本のタイトルは確か「催眠術指南書」のような名前でした。
忍術を使いたいと思っていた幼い日の私は、似たようなことができるのではないかと思って、この本を買ってもらいました。
この本は一冊が7ミリぐらいの厚さで全六巻、たしか箱に入っていました。
漢字ばかりの本でしたが、子供時代の私はがんばって読みました。
たしかその本には、毎日の食事をはじめ、日常の些細な行動に関する規制が書かれており、私は3巻ぐらいまで読み進んだところで挫折してしまいました。
私が読むのを止めた以降の部分にはどんなことが書かれていたのでしょうか?
この本についてご存知の方は、些細なことでも良いので教えてください。
解明編(担当:クワバタオハラくわばた)
六十数年モノの穴ということなのですが、時代的なことを考えるとこの穴の本は当時を代表する催眠術の団体である『帝国神秘会』が出していた本ではないでしょうか?という情報から調べたところ帝国神秘会は当時最も有名だった催眠術の団体で一般の人向けに催眠術のやり方を教える催眠術本を何冊も出している団体だった。この帝国神秘会に連絡を取ろうと思い調べたところ既に解散していて存在していなかった。
そんな中、催眠術の歴史について詳しい横浜国立大学の一柳廣孝教授に聞けばなにか分かると思います、という有力情報が届く。一柳教授によると『帝国神秘会は田宮馨さんという人を中心に主に大正時代に広く活躍していた催眠術に関する団体。催眠術によっていろんな病気を治せるとアピールし、催眠術そのものの治療的な価値はいろんなところで認められていてその意味では怪しい団体というわけではない。帝国神秘会は珍しく戦後まで残り、田宮さん自身は昭和30年代辺りまでは活動していた』。
この穴の本も帝国神秘会が出した本の可能性も十分にありそうなので田宮馨さんについて調べたところ『テレビとかでも催眠術を行ってて、当時の日本を代表する催眠術の大家(たいか)』と言われていた。そこで国会図書館へ行って"田宮馨"の名前で検索すると田宮馨さんの本は何冊も所蔵されているが6巻揃いで箱入りという条件にピッタリの催眠術の本が無い。
ただ、『心理学の本を多く取り扱っている神保町の古書店「東陽堂書店」にそれらしき本がありました。それは帝国神秘会という団体が出していた「催眠術教授書」という本です。穴の情報の通り6巻揃いで箱に入っていました。この本ではないでしょうか?』という大きな情報が届く。早速、東陽堂書店に行って本を買ってきました。本代8000円は伊集院さんの名前で領収書を切ってます。
依頼主の寺尾さんの記憶と一致する部分も多く、箱に入った6巻組みの催眠術本、66年前の昭和15年発行で時代的にも一致、帝国神秘会から出ていて田宮馨さんが書いている、『催眠術指南書のような名前』に対して「催眠術教授書」という名前。これに間違いないと思いクワバタオハラくわばたが本を読んで確認。3巻にニワトリを眠らせる方法や犬や猫に催眠術をかける方法が載っていた。寺尾さんは『4巻以降に映画館で前に座ってる人に念を送って振り向かせる』という方法があったけど出来なかったと言っていたが、この方法も5巻に載っていた。
この本の全体的な内容はまず1巻は普通催眠術("いろはにほへと"の中の1文字だけ言えなくなる)、2巻は応用催眠術(不眠症の対処法、禁煙・禁酒の催眠療法の使用、心理の身体への影響)、3巻は特殊催眠術(大勢の人にかける催眠術、動物にかける催眠術、瞬間的に術をかける方法)、4巻は催眠術史(催眠術の歴史、自画自賛のまとめ)、5巻は心力波及術(催眠術を超えた超能力に関すること)、6巻は会員の心得と注意。4巻以降は催眠術の歴史とか心得とかなので多分読んでて寺尾さんも途中で飽きちゃった(?)。寺尾さんがこの本を読んだのは小学校に入ったばっかりで田宮馨さんの催眠術のテクニックをマスターするには小さすぎた。
寺尾さんが気になっているのが「この本を全てマスターしたらどうなっていたか?」というのを調べるために田宮馨さんのお弟子さんのキクチマサルさんを見つけた。キクチさんにお会いして田宮馨さんの催眠術の真相に迫る。『クワバタオハラくわばたを催眠術で笑わせる』という催眠術にチャレンジ。目をつぶったクワバタオハラくわばたには「なんばグランド花月で落語をやっている桂ざこば師匠」の画が思い浮かんで爆笑して催眠術は成功(?)。伊集院さんは催眠術師に細川ふみえちゃんにされて横にいた友達が『嘘に決まってんだろう!』と言っておっぱいをギュッと握ったら伊集院さんは泣きながら家に帰った。しかも催眠術師に『この建物を出たら急に解けます』と言われていて泣きながらバーッと階段下りてって外出た途端にポカ〜ンっていう経験をしている。この本は寺尾さんに贈ります。
(解明)


59歳女性 弘子さんの穴
私が見た東京オリンピック
42年モノの穴です。
先日、アテネオリンピックのニュースの中で子供たちに競技場の入場券を無料で配っているという話題がありました。
それを聞いて、私も42年前のある出来事を思い出しました。
それは1964年に開かれた、東京オリンピックに関することです。
当時、高校生だった私も今年のアテネの子供たちと同じように、入場券をもらい、オリンピックを観戦した記憶があります。
学校の制服のまま、三沢競技場でサッカーの試合を見たのですが、私はサッカーにまったく興味がなく、他の競技の方が良かったと思いながら観戦したのを覚えています。
そこでこの入場券についてですが、私はずっと学校で配られたものだと思っていたのですが、私と同じ学校に通っていた夫は知らないと言います。
当時、一番仲が良かった友達にも聞いてみたのですが、彼女にもそんなことは知らないと言われてしまいました。
いったい、私はどこから入場券を手に入れたのでしょうか?
入場券を配っていたというのは私の記憶違いなのでしょうか?
もしかすると私が見たのはオリンピックとは別の試合だったのでしょうか?
この件についてなにかご存知の方は教えてください。
解明編(担当:ヒットマン河野)
あと一息なんだけど情報は多いけど肝心な情報が足りない。今んとこ分かっている状況は当時、弘子さんは神奈川県の緑ヶ丘高校に通っていたのですが、誰と見に行ったか、どこからチケットを貰ったかは全く覚えてない。
弘子さんがおっしゃるような状況で東京オリンピックを見に行ったという人からの情報が沢山届いているので学校が連れてってくれることはあり得る。緑ヶ丘高校の生徒が見に行ったという情報が無い。そしてチケットを貰っていたのは当時、小学生や中学生だったという人もいて必ずしも高校生だけだとは限らない。
弘子さんの当時の先生にお話を聞くことができた。先生によると「覚えてない。配った記憶がない」。ただ「絶対配ってない」と言える自信がない。現在資料を集め中。今回ここで欲しい情報は弘子さんが当時、通っていた高校の周辺の学校に勤められていた先生とか『ウチはそれ配ったよ』という人。クラス全員じゃないけどクラスで何人かが見に行ける、という可能性もある?。
(継続)




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