昨日までの、大鵬の樹立した記録と肩を並べることを狙っていた白鵬の相撲と、十四日目の名古屋場所の優勝を決めた相撲と、どこが違うのかといわれても、これこれこうだと即座に答えることは実に難しい。
しかし、白鵬の内心を探れば、明らかに違っていた。しかも、それが明らかな形で見えた。その差はこういう形で表現に出たのだと思う。これまでに、白鵬の相撲には、時に信じ難いような、うかつなものがまじることがあった。そんな失敗を見せるたびに、白鵬はまたこんな失敗をしでかしてしまったと考えるのか、照れたような独自の表情を見せた。
だが、今場所に入って、大鵬の記録が視野の中側に入ったころから、そうした失敗が全く見られないようになって来ることに気づいた。
といえば、こんなことに、気づかずにはいられない。今場所調子が上がってきたと思えるころから、白鵬の相撲が次々に長くなってきたような気がするのだ。無論、私はこの道の職業の人ではないから、ストップウオッチを握りしめて記録をとっているわけではない。ただの印象を述べているのだが、その印象からして、なぜこんな手間暇をかけるのだといいたくなる相撲が増えたように思える。
そして、もし、この印象が当たっているものなら、その謎を解く鍵はひとつしかない。志として、覚悟として、できる限り負ける相撲を取らないと決めたのではなかろうか。
もちろん、人間のすることだから、高い理想を掲げても、現実が、その道を忠実に追いかけてきてくれるとは限らない。
その現実との食い違いを、白鵬はどうするつもりなのか。私はひどく目立つ強さと巧みさの巧緻きわまる配合はこの辺から出てきているのではないかと思う。
いずれにせよ、白鵬は辛苦の試練に満ち満ちた旅の一歩を踏み出したのだ。われわれは無事を願う祈りとともに、彼の旅路を見守ろうではないか。 (作家)
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