Q:2回目のタッチダウンの時も、コマンド送信は中村さんだったのですか。
中村:そうです。私の担当時間帯でした。ジンクスですね。
杉浦:通信系の故障に備えて私も相模原に詰めていました。
Q:その時はまだ杉浦さんの出番ではなかったわけですね。その後が大変なことになるわけですが。
杉浦:そうです。2回目のタッチダウン成功後の2005年12月8日に通信が途絶して、緊急に「はやぶさを見つける手助けをしてほしい」と電話がありました。
「こういうソフトを作ってくれ」と相談を受けて、その日はチームメンバーと2人で徹夜して救出運用のためのソフトウエアを書きました。このソフトは12月中に運用の結果を受けて何度も手直しして使いました。川口先生は「絶対見つかる」と言っていました。通信が途絶した探査機の復旧が困難であることは当然ご承知だったと思いますが、確信を持っておられましたね。最初から再度運用に復帰することを前提に色々な話を進めていましたから。
Q:コマンドを送る側として、探査機からの返事がない状況はどんなものなんでしょうか。
NECネッツエスアイ 川田 淳
川田:私たちは、火星探査機の「のぞみ」でも、長期間返事が返ってこない状況での運用を経験していますから、まあ慣れていたといっていいと思います。本当はそんなことはあっちゃいけないのですけれど。アンテナの先には「はやぶさ」が必ずいる。返事がないだけだ、と、あまり悲観はしていませんでした。
杉浦:川口先生に「見つからないはずがない」と言われていたので、余計な不安を抱くことなく復旧運用に専念できたと思います。だからあまり緊急事態だと思わないようにしました。
松岡:探査機が低温で壊れていなければ、いつかは太陽電池に光が当たって絶対に返事を返してくると私も思っていました。
中村:ここでも、なにかあるときは自分が当番という法則が発動しまして、12月の通信途絶の時も、1月の復活の時も自分が当番でした。2006年1月23日、受信電波を分析する装置の画面に、小さな電波のピークが立ったんです。帰ってきたという思いでした。
杉浦:通信復活の時、私は改修工事の用件があって、たまたま臼田に行っていました。臼田局の担当の方がずっと画面を見ていました。するとノイズにまぎれるかのような小さなピークが、ぴっと立ったんです。「これかな」「これだよね」といった会話をしたのを今も良く覚えています。
NECネッツエスアイ 中村 陽介
中村:本音を言いますとね、みんな確信は持っていたわけですけれど、それでも私は「奇跡だな」と思いました。
松岡:確かに「絶対に返事をしてくる」と考える一方で、心の中のどこかには、「もう通信が途切れて終わりになっちゃうのかな」という思いも正直ありました。相模原の運用チームのみんなが諦めなかった、というのが大きいと思いますよ。諦めない姿勢が「はやぶさ」の復活を呼び込んだんです。
杉浦:通信が復活したといっても、最初は30分ほどの周期の間でほんの数分だけ通信が出来るといった状況だったので、色々苦労をしました。最初は1ビット通信です。「はやぶさ」にはキャリアのレベルを2段階に変化させる機能が付いていて、それを使った1ビット通信で、向こうの様子を把握し、徐々に立て直していきました。
松岡:先ほどもお話しましたが、当初は12月初旬にはイトカワを出発して、2007年に帰還する予定でしたが、この通信途絶の時点で帰還のタイミングを逃してしまったので、「帰還軌道は「はやぶさ」が見つかってから考えよう」と思っていました。見つかって状況が分かってからでないと、どこがどう壊れているか分からないので、帰還軌道の計画も立たないのです。「見つかると、またつらい日々がはじまるなあ」などとも感じていたのですが(笑)、「はやぶさ」が見つかり、リスタートになりました。